【日本史】GHQに焚書された書籍 (542レス)
前次1-
抽出解除 レス栞

78: 2024/09/14(土)17:27:28.20 AAS
p63学習参考

(1)挿絵解説

「踏絵」は東京帝室博物館所蔵のひとつ、もとは長崎奉行所で使ったものによったのである。踏絵は寛永の初めに、長崎奉行水野守信が考え出したもので、初めは絵画であったが、後には木製となり銅製となった。木製は銅製よりも二、三寸大きいのが多い。
また木製板の中央に耶蘇関係を示した小図の銅板を嵌(は)め込んだのも多い。銅製には長方形のと楕円形のとあり、図面は聖母の他、キリストが十字架に刑された状など一様ではない。
挿絵の踏絵は真鍮製で、長さ六寸二分、幅四寸五分、厚さ七分七厘のもので、だいぶん使用したと見えて摩滅したところがある。
「長崎港の出島」は東京美術学校所蔵の当代の古い油絵によったもの、出島は、寛永十一年長崎の商人二十五人に命じて、海岸を埋め立てて扇形四千坪ばかりの土地に、四十四件の家を建てさせ、十三年に出来たので、南蛮人をここに置き、家賃をとって25名で分配した。寛永十八年には、南蛮人を追い払って、オランダ人を平戸の商館からここに移した。
石橋によって長崎の町と連絡しているが、番所があって奉行所の許可がなければ通行はできない。
456: ブログ転載 2024/11/13(水)23:00:49.20 AAS
p289
(2)産業の進歩

農業の方面でも明治四年海外留学生を米国に派遣し、米人技師を雇用し、駒場農事試験場を開設し、明治十年駒場農学校を起こし、この前後から各地に農学校が漸次設置され、明治十四年勧農局が拡張されて農商務省となるや、従来の保護政策を廃止して民間の自由発達に委ねた。明治三十二年には耕地整理法がしかれ、産額の増加、品質の改良は著しくなった。例えばアメリカでは明治十年頃には二千五百万石であったものが、大正元年には五千万石、昭和五年頃は内地及び殖民地合わせて八千四百万石というに至った。
工業の方面は全く幼稚であった。明治新政府は四年官営主義のもとに模範工場を設立し、工部大学を設け、その他あらゆる方法によって保護奨励を行った。しかしこの政府の積極的保護の産業政策は明治十三年の工業払い下げ規則の発布、同十四年の農商務省の設置を画期として、消極的保護政策に転向し、もってその発達を望んだ。我が国工業発展の跡を回顧するため、参考として左表を掲げる。

↓表
外部リンク:dl.ndl.go.jp
前次1-
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル

ぬこの手 ぬこTOP 2.411s*