【日本史】GHQに焚書された書籍 (532レス)
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54: 09/13(金)18:06:08.32 AAS
二代目オランダ商館長フランソワ・カロン
バタヴィア総督のちフランス東インド会社の総督
外部リンク:en.m.wikipedia.org

Caron began as a cook's mate[6] on board the Dutch ship Schiedam bound for Japan, where he arrived at Hirado in 1619. He transferred off the ship (either legitimately or via desertion) and began working in Hirado, becoming a full factory assistant in 1626. He quickly developed an aptitude for the Japanese language, and became involved with a local woman (the daughter of Eguchi Jzaemon) with whom he had six children.[6] In 1627 he served as interpreter on a VOC mission to the shogunal capital of Edo, the first of many diplomatic trips he would make.[6]
On 9 April 1633, Caron was promoted to senior merchant, making him the second ranking Company official in Japan. In 1636, the new VOC Director-General Philip Lucasz, wishing to learn about the territories he was charged with overseeing, sent a list of 31 questions about Japan which Caron was charged with answering. Caron's answers formed the outline for his work Beschrijvinghe van het machtigh coninckrijcke Jappan (\"Description of the Mighty Kingdom of Japan\"), published as an appendix to a corporate history in 1645 and as an independent book in 1661. This was one of the first reports to introduce Japan in any detail to a European audience and was widely read, receiving translations into German, French, and English.[7]
Caron was a gifted diplomat and was important to Dutch efforts to ingratiate themselves with the Shogunate at whose mercy their trade operated. In 1636, on another mission to Edo, Caron presented a magnificent copper lantern (which was installed and still stands at Nikk?? T??sh??-g?? shrine) as a gift to secure the release of the hostage Pieter Nuyts, who as VOC ambassador to Japan had instigated a diplomatic incident so severe it forced the shutdown of Hirado for several years.[7][8]
134: 09/23(月)22:28:45.32 AAS
不勉強なだけかもしれないが現代日本人でも知ってる人少なそうなのにヘレン・ケラーの母ちゃん何で知ってるの
146
(1): 09/25(水)21:44:30.32 AAS
p122(五)海防につとめる

この後幕府はなお鎖国の方針を変えず、もっぱら心を海防に注ぎ、高島四郎太夫・江川太郎左衛門らを用いて新式の兵器戦術を研究させた。
高島四郎太夫、号は秋帆、長崎に住んで、以前から西洋流の兵学並びに砲術を研究していた。天保十二年五月幕府に召されて、一日武蔵野で練兵を行い、団体教練を展開し、またオランダ人から伝習した得意の砲術を試みてその技を称賛され、与力格に登用され、この時からその砲術を伊豆の代官江川太郎左衛門や旗本曽根金三郎に伝習した。秋帆はその後も用いられて慶応二年没した。
秋帆の門弟、江川太郎左衛門は代々伊豆の代官である。名は英龍、号は坦庵、砲術に達してる上、算数測景の学に通じ、天保十二年伊豆の韮山において初めて鉄砲を鋳造し出した。その反射炉は伊豆の北条から南半里の中村鳴瀧に今も残っている。同十三年には砲術教授のため教場を開いたが例えば佐久間象山・川路聖謨・木戸孝允・橋本左内皆その門から出た人である。
十四年抜きん出られて幕府の鉄砲方兼務を命じられた。後に嘉永六年ペリーが来航するや、幕命によって武蔵・相模・安房・上総下総の巡検を行い、品川砲台などを築いたが、今も台場の一部は残っている。
こうして諸国の大名にも海防・攘夷に尽くす者は多かったが、とりわけ水戸の徳川斉昭は藤田東湖を登用して藩政を改革し、天保十二年には弘道館を水戸に建て、礼楽・射御・算数を始め砲術も医術も藩士に授け、忠孝の道をすすめて、士気をはげまし、また国内寺院の巨鐘を集めて大砲を鋳、鉄砲隊を組織して兵制を西洋の式とする。のち安政二年に至って、水戸の東方約二里那珂川口にある湊付近の吾妻台に反射炉を築き、ペリーが来るのに及び大砲七十四門を献上して、当時の人を驚かしたことがある。
斉昭は率先して攘夷論を唱えて盛んに天下の人心を鼓舞した人である。斉昭の攘夷論は水戸学から発展している。水戸では国学と漢学を一つにして国体を宣揚しようとする藤田幽谷がいた。藤田東湖(彪タケキ)は幽谷の子であり、水戸学を発展させた人。その回天詩史の始めに「奉神州之道」と書き出しているが、これが弘道館教育の根本精神で、斉昭の精神でもあった。斉昭の「海防愚存」には「我が神国だけ鎖国の考えを守り」と言っているように、畢竟水戸学は「神国思想」を中心としているもので、この立場から斉昭が唱えた攘夷論は力強かった。
284: ブログ転載 10/10(木)19:23:10.32 AAS
大政奉還を提唱した一人。中野方蔵。
江藤新平のWikipedia
「安政5年(1858年)に京都に遊学していた同藩の副島種臣が公家・大原重徳に王政復古を建言し、万延元年(1860年)に大橋訥庵の塾と江戸の昌平黌で学ぶ中野方蔵が江藤と大木に手紙で大政奉還を唱える等、幕末の尊王攘夷運動が活発となり文久2年(1862年)1月に坂下門事件で中野が獄中死すると、同年6月27日に同志の大木喬任が脱藩の旅費を工面し、京都へ脱藩[7]。長州藩邸で桂小五郎(後の木戸孝允)を訪ね、姉小路公知らの知遇を得た。」
画像リンク[jpeg]:i.imgur.com
410: 11/03(日)00:40:55.32 AAS
>>205
小笠原壱岐守の小倉城の戦いはここにもあるけど、手紙では幕府優勢に見えるがボロ負けだったんだな。
444: ブログ転載 11/11(月)17:03:14.32 AAS
(三)朝鮮の施政

天皇の考えは深慮だ、併合の始めに当たって、詔を下し、前韓国皇帝を昌徳宮李王、前々韓皇帝を徳寿宮李太王、皇太子を王世子、李及び李熹を公とし、いずれも待つのに皇族の礼をもってし、殿下の敬称を用いさせなさり、さらに皇室令をもって朝鮮貴族令を発布させ、朝鮮貴族には五爵を定め、我が国の華族の礼遇を賜った。また大赦を行い、減租を断行して有終の成果を全うされた。
この時から韓国を改めて朝鮮と称し、これを十三道に分け、新たに朝鮮総督府を置いて、一切の政務を治めさせたのであるが、その初代の総督は寺内正毅で、国材一千七百万円を支出して十三道に分け、各方面の資金に充てさせ、内政を改めて産業をすすめ、半島の開発は年と共に進んだ。合併の後、これに力を尽くした総理大臣李完用を暗殺させようとして傷つけた者がいたりしたけれども、大体においては次第に朝鮮民の理解を得て、内容的にも合併の成果を挙げることとなり、我が国は一千三百万の新しく戸籍に登録された同胞を得て、面積において一万四千方里の増加を見たのである。
487: ブログ転載 11/18(月)14:44:03.32 AAS
p320
この会議において、猛烈な支那の妨害を排除して、我が国は膠洲湾及びドイツが山東省において有した、一切の権利を得た。
またウィルソン並びに英国のスマッツ将軍によって提唱された国際連盟案は最も論議の中心となり、紆余曲折を経て、全規約二十六条が可決された。我が国の主席全権西園寺公望もこの人支持者であったが、我が国はこの時、人種差別撤廃すなわち人種平等主義を連盟規約中に明記しようと提唱し、過半数の賛成を得たが、全会一致の同意を得ることができなかったので、ついに否決となったから、我が国の全権はこれを後日に保留して終わった。
我が国が占領した旧ドイツ領の南洋諸島は、この時国際連盟から我が国に統治の委任をした。
委任統治というのは、その主権がどこにあるのか明らかでない。これはスマッツ将軍の独創に出たもので、各国が義務として旧ドイツ領を引き受けることにすれば、賠償金を成功させることができるというので、欧米の政治家は一も二もなく賛成したものである。

(四)皇太子欧洲を巡遊しなさる

大正十年三月三日皇太子裕仁親王は、閑院宮載仁親王・伯爵珍田捨己他十六名をお伴いになられて、欧洲巡遊のため万里の御旅程におのぼりなさった。これは御父君の厚い思し召しによったもので、各国の元首を訪問して親交を重ね、諸国の学芸、産業の実際から、大戦後の社会の状態を親しく視察しなさり、あっぱれ未来の帝王としての御修養のためであったろう。実に皇太子の世界御巡遊は、かつてない盛事で、国を挙げて慶福の至誠をあらわし、半年の長旅、御つつがなかれと神祈りに祈るところがあった。御召艦香取・供奉艦鹿島は、堂々横浜を出発して、艦列が次第に視界を没し去ったとき、御見送り終えた逓相野田卯太郎は、汽艇で岩壁に引き返し、御召艦を港外に遠く見送りつつ、「乃公が子供時代は、世界といえば唐・天竺としか知らない者が多く、たまに黒船が来たと言って大騒ぎをしたものだが、わずか五六十年の間に、東宮御渡欧という御盛事を拝し、国威の発場を今さら痛切に感じた。特に殿下が甲板上に立たれた御英姿は、将来日東海国の元首として、我が国の誇りでなければならない」と言って次のように詠んだ。

空晴れて 東風に御艦の 錦旗かな

もしかするとこれは野田逓相一人の感じではなかったろう。
498: ブログ転載 11/19(火)14:16:29.32 AAS
>>439
トロツキーはウクライナ南部のユダヤ系の富農に生まれる。
外部リンク:ja.m.wikipedia.org

レーニンの母であるマリア・アレクサンドロヴナ・ブランクは裕福なドイツ・スウェーデン系の母と、ユダヤ系ロシア人の父との間に生まれ、彼女の父はキリスト教に改宗し、医師として働いていた。
外部リンク:ja.m.wikipedia.org

しかし、ユダヤ人は母がユダヤ人でないとユダヤ人になれないし、医師の祖父はキリスト教に改宗しているのでユダヤ人ではありません。誰が何と言おうがユダヤ人ではありません。
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