【日本史】GHQに焚書された書籍 (532レス)
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83: 09/15(日)13:01:32.67 AAS
p65 第三十八 産業・学問の発達 元禄時代の文芸
学習目的
江戸時代の初期、綱吉頃に至るまでの産業ならびに学問の発達について本末式に学習し、併せて元禄時代の文芸を知らせ、当代文化の発展状態を会得させる。
学習事項
(一)交通・産業の発達
省10
253: 10/05(土)22:46:33.67 AAS
他に、パークスのWikipedia見ると、慶喜処分案や江戸無血開城に影響を与えた。
明治4年、岩倉具視らと会見し、薩摩藩など諸藩の政府への不満の増大やそれに対処するための御親兵設置・廃藩置県について話し合った。
など、維新に大きな影響を与えている。
そしてアイヌ墓地盗掘事件に関わってる。
アイヌ人の骨研究してどうするのエゲレスキモイ
「このような経緯から児玉作左衛門らは事件の背景について、イギリスの学者(おそらく進化論の擁護者であったT・H・ハックスリー)の要請のもと、イギリス政府がパークスにアイヌ人骨の入手を命じたと推測している。」
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
265: 10/06(日)11:22:37.67 AAS
p180 学習参考
(1)挿絵解説
「琉球の使臣は上京の途につく」の絵は明治神宮外苑聖徳記念絵画館画題考証図五姓田芳柳筆からとったもの、琉球は江戸時代において、事実上は島津氏に属し、形式上は支那に属していたが、明治四年鹿児島県に属させた。明治五年九月琉球王尚泰は、王子尚健や使臣を遣わせて土産物を献上し、新政を賀するべく上京の途につかせた。図はこの時首里城の門を出るところである。使節一行は明治天皇に拝謁を賜り、詔して尚泰を藩主とし、華族に列せられ、邸宅を東京麹町九段に賜り、またかつて米・仏・蘭と結んだ条約は移して我が国の外務省の所管とされた。
明治八年には明治の元号を承らせ、それ以来清国への進貢を禁じ、封冊を受けることも厳禁した。十二年には藩を廃止して沖縄県を置き、尚泰に上京を命じ、県知事をおいて統治させた。清国は不平を抱いて紛議を起こしたが、ちょうどその時来朝中の米国前大統領グランド将軍の調停で事なきを得たが、しかし精神的には日清戦争後までは両属を続けていたようである。
(2)指導要領
古老の話も聞いた方がよい。地図による学習も大切である。現在と関係させて取り扱うことも必要である。「明治維新の発展生活はどのような態度で外に向かってはたらいたか」ということを中心として学習した方がよい。
この教材をよく吟味すると、国家的発展ということが、人道への貢献ということになっている。すなわち国家的発展と国際生活との発展が一致している。これが理想的な生活であることに注意する。
幕末外国に促されて開国した我が国の状態と、この教材に現れているかのように、外国を促す立場とは余程の非常な差がある。それだけ発展が早かったことにも注意したい。
この教材は外国と関係しているから、ロシア・支那・朝鮮などの事情をわからせ、これらが我が国にどんな態度をとったかということ、我が国はまたこれらにどんな態度をとったのかをわからせ、それぞれを批判的に学習しなければならない。
関係人物については簡潔にして要領を得るよう会得させ、それらを総合して流れている日本本位の発展ということを把促させる。
285: ブログ転載 10/10(木)19:45:57.67 AAS
p195 第四十八 立憲政体の確立
学習目的
明治天皇はあまねく人材を挙げ、世論をとる大方針を御誓文に示しなさり、以来内治が整うにつれて、一般の政治思想も次第に進んだので、帝国憲法・皇室典範は発布され、帝国議会も開かれて短日月の間に立憲政体の擁立を見るに至った次第をわからせ、政治的発展を中心として学習をする。
学習事項
(一)公議世論の採用
省5
371: ブログ転載 10/25(金)17:09:47.67 AAS
そのようにありますならば、つまり、治部右衛門の一身の不行き届きと申しますものに落着致します形勢になってゆき、かつ結局は中傷はその間に行われますようこの内情も推測し難く。
いかにも同人(御郡代)は御熟知の通り、飄悍第一の気性でございますので、公領の民を使って他邦の支配を望み、あれこれ徒党を招き協議致しますのは、完全に国を売るという賊となり、満足されませんものと聞きます。
鈴木は言う。中西亀勇太は決して悪巧みのある者ではなく、無二の治部右衛門仲間でございます。郡代の為には身命をも惜しみ申しません様子を言い張り、既に小倉出張の折、天草の庄屋どもはことさらの他、嫌い避けました。兵糧方をも務め、その時二千五百両程莫大な出金なども差し出します者でございますと言う。
任三も同様に中西を引き抜きます者でございます事、永い往復も致しますけれども、余計な言葉は省き申します。中西は疑いようがない。奸佞に相違なくこれを見込み申します。中西は一途に公領の民であろう事を懇願致し、しきりに吉田という仲間を論じ、そのように勢いに激しくなります様子に噂されます事。
僕は言う。小山清四郎と申します者は、一同日田〔※大分県〕に連行されます様子にお話しをうかがいます。吉田・藤田の輩は同士でございましょうか。
鈴木は言う。完全に吉田の輩とは別事です。
旧年天草にて小寺幸兵衛へ酒宴の席で、誰とは名指し申しませんけれども、郡中にてどうあっても三、二人は天誅を加えません。それならば叶い難い人物がいます。我輩は微力につき小寺の輩の力を借りません。それならば行うのは難しいなど雑談致しますとの事。
この事柄は小寺幸兵衛は中西亀勇太に参上し、福連木御林の樫山は今回は御払いになりますようにお聞きします。これによって薩州で一山ことごとく皆買い入れます事柄は行われがたい。しかし都合に応じて残らず買い入れますことが良いかもまた、推測し難くあります。
薩州国用槍柄にいたします件で意見を述べます。
372(1): ブログ転載 10/25(金)17:10:00.67 AAS
※同人=同じ志を持つ者。
※飄悍(ひょうかん)=すばやい上に荒々しく強いこと。
※頼談=江戸時代、蔵屋敷出入りの町人が秋の回米を担保として諸藩から借金を依頼されること。
※奸佞=心が曲がっていて悪賢く、人にこびへつらうこと。
※日田には江戸時代キリシタン関係で牢屋があった。進撃の巨人の作者はキリシタンが盛んな土地出身なんだな。
※福連木官山は天草地方の福連木地区の樫木の天然林
外部リンク:kotobank.jp
447: 11/11(月)20:04:21.67 AAS
デニソンは大正3年に死ぬまで顧問だったから、日米関係の悪化には関係ないのかな
>>261
明治初期の1円が現代の2万円の価値なら、お雇い外国人は月給500〜600円、多い人で1000円以上。
岩倉具視月給600円三条実美月給800円
500: ブログ転載 11/19(火)18:52:06.67 AAS
p331
学習参考
(1)挿絵解説
「皇太子英国ロンドン市の歓迎会に望みなさる」絵は御写真によったもので、大正十年五月ロンドン市のギルドホールすなわち公会堂で、皇太子がロンドン市の歓迎会におのぞみなされた時の光景である。殿下は御椅子を立ちなさり、演壇の端までお進みになり、片手脇に御帽子をはさみ、片手には答辞を持ちなさる。この時から会衆に御演説になるのであるが、その御態度は実に立派なものであったともれうかがう。殿下の後に椅子に寄ってロンドン市長夫妻がいる。右方前列に御椅子にかけなさる四人の右から、コンノート殿下、ヨーク殿下、閑院宮殿下、英国皇太子殿下であり、ロンドン市長の左に起立するのは駐英大使林権助男、その後ろが供奉長珍田伯、その後ろの右が奈良東宮武官長である。式場は荘厳なもので、日英親善の気分が濃厚なものであった。なお二荒芳徳・沢田節蔵著皇太子御外遊記によれば、当時の御模様がよくわかる。
「パリの講和会議」は当時の写真によったもの。大正七年十一月十一日休戦の条約が成立し、大正八年一月から二十七ヶ国の代表六十七名が、フランスのパリ西方ヴェルサイユに会し、大正八年六月二十八日講和条約は調印された。
この間総会議というものは、大正八年一月十八日に第一回を開き、その時から六回を開いただけで、あとは部分会議であった。この写真はその総会議中のものである。室はルイ十四世王宮内の時計の間で図の最も左に立っているのは米ウィルソン、その隣が英のロイドジョージ、ウィルソンと相対するのが仏のクレマンソー、その後方背の高いのが英外相バルフォア、図の中央より少し右手前に椅子に寄るのはイタリアのソンニノ、その向こうに椅子に寄ってこちらを見るのは我が国の西園寺公、その後に牧野全権、その隣に松井全権、ソンソニの前に立つのはイタリアのオルランド、ソンソニの右手前にカバンをもって立っているのはブオッシュ元帥である。
524: ブログ転載 11/24(日)14:14:58.67 AAS
p347
文化一般から見れば、明治十年頃までの旧習一洗、二十年頃までの西洋心酔、二十七年頃までの国粋保存、明治三十七、八年頃までの国民自覚期を経て、三十七八年以後は道徳は退廃して西洋文化の弊害も見えてきたが、この時に当たってオイケンやベルグソンの理想道徳が高唱されるなど、見まぐるしいばかりの歴史の文はあれど、結局は驚異的な発展を遂げている。
大正の時代に入っては、憲政は普通選挙にまで及んだ。大正十年五月五日は普選の交付された日である。外交はますますその舞台が広まり、世界大戦に際してはドイツと国交を絶ち、世界の五大強国として講和会議に列し、皇太子は外遊され、ワシントン会議に加わり、人類平和のために力を尽くすこととなり、国民の責任は重さを加えて来た。大正時代の外交はまさに明治時代を継承して花の開いた時である。
文化方面もまた明治を継承したが、欧州大戦以来、我が国民の思想はとかく動揺をまぬかれなかったが、ちょうど大正十二年九月一日には関東代地震が起こり、死者十数万、負傷者十万人、被害百億円以上にも上り、国家の損害ははかりしることができないものがある。ここにおいて大正天皇は特にその年十一月十日に国民精神作興に関する詔書を下し、「最近は学術はますます開け、人智は日に進む。しかしながら浮華放縦の習わしが次第にきざし、軽兆脆激の風もまた生じる。今に及んで時弊をあらためなかったら、あるいは先祖の遺業を失墜させることを恐れる。今次の災禍ははなはだ大きくて、文化の紹復、国力の新興は、皆国民の精神に期待するのはなおさらだ。」とおっしゃりなさり、「浮華放縦をしりぞけて、質実剛健におもむき、軽兆脆激を矯正して醇厚中正に帰す」とねんごろに諭しなさる。まことにおそれ多いことである。こうして大正時代はその大所高所から見るならば、守成紹述の精神から、国民的自覚心が発揚し、転回進歩の気運が出て来た時である。いわば明治時代の文化に反省を加え、何らかの転回進歩を図るべきことに気運が動きかけた時である。まことにその機を得た傾向といわれねばなるまい。
※浮華=うわべは華やかで、実質の乏しいこと。
※軽兆=言動が軽はずみなこと。脆激は不明
※紹復=前人の事業を再興する。
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