【日本史】GHQに焚書された書籍 (542レス)
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99: 2024/09/19(木)17:15:28.78 AAS
p85
吉宗が江戸本丸に入って将軍となったのは年三十三の時であるから、白石の補佐を必要としない年齢でもあったが、しかし根本的に白石と吉宗とは、性質や主義が違っていた。
吉宗は白石を「文飾の者」と言って斥けた。なるほど白石は京都主義の礼文政治を取り入れて礼文国を建設するところに目的があった。いわゆる文治主義の人であった。
吉宗は闊達にして賢明、簡素を旨とし実用の上に立脚する幕府主義であったから、白石の政治が繁文辱礼なものに映ったらしい。
従って吉宗が立つと共に白石は退けられ、室鳩巣が用いられた。吉宗は実用の学を重んじ、鳩巣に命じて六諭衍義を日本語訳させて平易な教訓書とし、享保七年これを江戸市域八百以上の寺子屋に配って児童の教科書とさせた。
六諭とは清の康?X帝の勅語に、

※漢文
父母に孝順にせよ、年長を尊敬せよ、郷里に和睦せよ、子孫を教訓せよ、各々暮らしに満足せよ、悪事をしてはならない。

とあるのをいい、蠡城范なる者、これが衍義をつくり、物徂徠がこれを漢文に直したのを今、鳩巣が国文に直し、しかもそれを省略しているから六諭衍義大意というのである。
吉宗はまた江戸の町医者小川笙船という者が、施薬院を設けて貧民を救済するならばきっと仁政の一端となるだろうと建白したのを受け容れて、小石川後薬園のわきに養生所を開き、貧民に施療させ、衣食をも官給した。
省5
159: 2024/09/27(金)13:24:42.78 AAS
p132
忠邦改令ののち三年、弘化元年オランダは国書及び宝物を持って長崎に来て、将軍家治の時天明二年<皇紀二四四二-西紀一七八二>イギリスのワットが蒸気機関を改良して成功し、家斉の時文化四年(皇紀二四六七-西紀一八〇七)フルトンが汽船を発明し、遠い国々へも自由に往来することができる、とうてい鎖国が行われない事情をねんごろに忠告した。
しかし幕府はなお「好意の程は感謝するが、祖宗歴世の法はたやすく変えることもできない」と答えてこれに従わず、いよいよ海防を厳にすることとした。

(四)アメリカ合衆国及びロシアの使節来朝す

その後、英・米・仏などの外国船の出没はいよいよ頻繁を加え、海防攘夷の論はいよいよ盛んとなり、幕府は嘉永三年五月に、奇説を唱え人心を動かすような言論を慎まなければならないと命令している。
それにもかかわらず弘仁元年と四年とに開国の事を忠告したオランダ人は弘化五年三度英・米諸国に通商の許可を迫ろうとするたくらみがある事を報告し、同五年八月にはカピタンからも国王の意を伝えて「アメリカから近々使者に命じて通商互市を願うところがあるはずだ。もしこれを拒むならば必ず騒乱を生じるだろう」と告げ、また別に、米国が欧州に放った「日本に命じて鎖国の法を解かせよ」との通牒も上がった。果たして孝明天皇の嘉永六年米使ペリーの来朝となって来た。
米国が日本の開国を促そうとする理由はおおよそ二つの重大な理由があった。その一は米国が西紀一八八四年つまり弘化元年に米清条約を締結したので、その途中において石炭補給などの必要が起こった事で、他の一つは太平洋方面の捕鯨が発達したために避難港が欲しかったことである。
ここにおいて米国政府は弘化三年提督ビットルを我が国に派遣したが、拒むところとなり、次いで漂民受領のために長崎に来ていたグリン中佐が帰国するや、盛んに日本開国の説を唱え、かつ兵力を動かせば容易に成功するはずの事を論じた。

※カピタン=オランダ商館長
235: 2024/10/04(金)18:41:30.78 AAS
p166
(※原文漢文)
詔 天を主宰する神、天乙に則り実行して位に登る。天子の命令をうけてもって元を改める。
まことに聖代の典型、そして万世の標準である。
朕はその徳に当たらないといっても、幸いに祖宗の霊祇を頼みにし、鴻緒を継承し、自ら重要な政務に親しむ。
すなわち元を改めるのは国内の万民と共に、古いものを改めて新しく始め、一新すると望む。
それは慶応四年を改めて明治元年となす。
今後以後、旧制を改易し、一世一元をもって永式となす。主者は施行せよ。

歴史において、改元された場合には、必ず新しい年号を生かして古い年号は捨てることになっている。明治の場合は「慶応四年を改めて明治元年とす」だから、言うまでもなく慶応四年はなくなってしまう。
明治という年号は江戸時代に一度撰定したが採用されなかった。周易の文「聖人南面して天下に聴き明るさに向かって治める」ということからとったもの。時代の理想はここにあらわれている。
省5
317: 2024/10/13(日)17:58:43.78 AAS
西周と一緒にオランダ留学した幕臣津田真道
//ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E7%9C%9F%E9%81%93
「藩籍を脱して苦学したが、安政4年(1857年)蕃書調所に雇用されて、文久2年(1862年)には西周とオランダに留学しライデン大学のシモン・フィッセリング(ドイツ語版)に学ぶ。オランダ留学中の1864年(元治元年)にライデンのフリーメイソンリーの「ラ・ベルトゥ・ロッジ・ナンバー7」に入会している[1]。4年後に帰国する。その講義録を慶応2年(1866年)に『泰西国法論』と題して訳出する。これは日本初の西洋法学の紹介となる。その後、幕府陸軍の騎兵差図役頭取を経て、目付に就任。大政奉還に際しては徳川家中心の憲法案を構想した(『日本国総制度』[2])」
538: 2024/12/30(月)07:34:58.78 AAS
ユダヤ人の手法
ユダヤ人は、その倒そうとする、破ろうとする、弱めようとする国々に対しては、その国々の事情に応じて、その国々の内部に、分裂を導き、不和を起こし、喧嘩を発生させることを目的として直接もしくは間接的に働きかける。あえて働きかけないまでも、思想の動きを、このような方向に導く。
その機会はいくらでもある。あるいは社会の上流と下層とを背反させる。政府と民間とを対立させる。資本と労働とを反目させる。という風に、思想を一方に傾かせることを主とする。和合を無視して争闘のための争闘を吹聴して、思想を変更させることは、ユダヤ得意の手段である。
ユダヤは蔭になり日向になって、常に一方的宣伝に力点を置いている。人生の真の必要は、適度な調和にあって、一方的偏向にあるのではないのだが、それでは話がはずまない。人間の好奇心に投じない。人間はある場合には、極端を喜ぶものであり、誇張を好むものであり、真面目ぶってさかんに説明すると、自然と論争がわいて一種の人気を呼ぶに至ることもある。ユダヤの宣伝法は、いつもこの流儀である。
『『国際秘密力とフリー・メーソンリー』解説 : 敵国政府の背後を暴露す』,昭和18.
外部リンク:dl.ndl.go.jp
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