【日本史】GHQに焚書された書籍 (532レス)
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172: 09/28(土)22:18:32.85 AAS
p140学習参考
(1)挿絵解説
「洋学者集会す」の絵は大槻文彦蔵、芝蘭堂元会図によったものである。大槻玄沢が寛政六年閏十一月十一日が、西紀一七九四年一月一日に当たるので、門弟知友を集めて祝意を表している光景である。この時から玄沢が没する文政十年までこれが続いた。この頃はこれを新元会といい、俗に和蘭正月と言っていた。この図では集まった者二十九名、右向こうに椅子にかけて洋服を着ているのは玄沢で、すべてに洋式が多分に入り込んでいる。
「ペリー横浜に上陸す」の絵は、松平子爵蔵の絵図によったもの。子爵は旧津山候の家である。この絵はペリーが第二回に来た時の光景で、彼は安政元年正月十六日浦賀の近海小柴冲に来た。
この時から横浜村を会見場所として数回の談判をしたのであるが、図は二月十日横浜会見所へ米使上陸の所で、九隻の軍艦に乗って来たのであるが、今度は二十七隻のボートに乗りかえて上陸した。そのボートも図中には見える。
陸上には約五百名の米国水兵が捧銃をしている。応接所は右に見えるが、これは今の横浜税関の辺りで、向こうの丘は神奈川台、この時の衛兵つまり固(カタメ)は松代・小倉の両藩で、図の左方に六文銭の旗印があるのは松平藩真田美濃守である。小倉藩は北方にいたが図には出ていない。浦賀の御用船も海中に出ている。こうして三月三日には和親条約十二ヶ条が帰結される。
「新見正興らアメリカ合衆国において観兵式に臨む」絵はニューヨーク絵入り新聞(一八〇六年六月三十日発行)からとったもの。外国奉行新見正興・村垣範正ら八十一名が米国差し回しのポータハン号に乗って浦賀を出発し、ワシントンについたのであるが、これはニューヨーク市で観兵式にのぞんでいるところ。ユニオン広場では歓迎のために義勇兵が観兵式をしているし、こちらには四人連の日本使節の姿も見える。向こうの日章旗は使節一行の旅館メトロポリタンホテルに立っているので、手前には軍楽隊もいる。到るところ非常な歓迎を受けて帰ったことがわかる。本文中にもこの事は書いておいた。
229: 10/03(木)21:40:47.85 AAS
p16 学習参考
(1)挿絵解説
「長篠の戦」は徳川伯爵家(旧田安家)に伝わる襖絵の一部を写したもの。川を挿(さしはさ)んで対抗して居(お)り、左が徳川方で家康の部将本多平八郎忠勝、柵の中で鹿角形の兜をかぶって指揮している。柵の前で金の釣鐘を旗印とし騎馬する人は大久保次右衛門忠世(弟)で、揚羽蝶の旗印を指し騎馬するのは大久保七郎右衛門忠世(兄)で共に小銃隊を指揮している。三千挺の小銃を使ったのはこの時である。
右が武田方でそのなやんでいる様がよくわかる。馬だけがいて、その右に、蝶羽根を背負っているのは武田の部将山懸三郎兵衛昌景で、その上で保呂を背負う騎者は武田である。この新しい武器は、この後にいかなる影響をもたらすであろうか。考えてみなければならない。
「北野で大茶の湯を催す」絵は京都市の熊谷直行(鳩居堂)所蔵の北野大茶会図屏風によったもので、本文の中にこの事実は書いておいた。天正十三年十月一日、京都の北野の松原で、八百以上の茶席を設け、都会田舎の風流の志がある者を召し寄せて、士民と楽を共にした時の光景である。秀吉の豪放も十分にあらわれている。場所は北野神社を中心とした一里四方で、左方には同神社の鳥居も見えている。会期は遠国の者のために十日間に延期した。右頁上部の茶席が秀吉ので、自ら所有の茶器などを出し、何人にも思い思いの茶席をつくらせたが、中でも中央下に見える日傘の茶席、左下松の木に瓢箪を吊るした茶席などは、秀吉に賞されて、諸役免除の恩典をこうむったといわれる。
(2)指導要領
尋小国史で学んだことを思い出させて、その急所をつかんで、巧みにこれに体系をつけていくことが必要である。従って全体的総合的な作業を工夫させるのがよい。
ただここに特に力を入れていくのは「信長秀吉の勤王精神」とか「信長秀吉の民政」というような項目である。
要は時代相や時代精神をわからせ国内が統一されねばならなかった次第を、不可不的に考察させるのがよいと思う。
特にこの教材は近世中に入れたり、中世に入れたりする所で、ともかくも、現代生活に関係あることが多い所であるから、その点に注意して取り扱うのがよい。例えば統一的な社会とか、皇室中心の道徳とか、田制や枡のこととか、多く現代生活の理解に資することができる。
省1
257: 10/06(日)00:42:16.85 AAS
慶喜は肉好きで小松帯刀からもらった豚肉がおいしくてもっと欲しいと頼んで小松が肉を探し求めている手紙があった。
それで薩摩藩士からつけられたあだ名は、豚好きの一橋様で豚一って、慶喜をバカにしてそうなあだ名。
将軍になる前からみんな仲良し
354: ブログ転載 10/18(金)18:06:37.85 AAS
p239
開戦と共に、我が国から欧米諸国に連絡をした。するとイギリス・ドイツ・イタリー・アメリカ・オランダ・スペイン・ポルトガル・デンマルク・スウェーデン・ノルウェーは局外中立を声明し、ロシア・フランス・オーストリアは公然と中立を布告しなけれども、事実上これを守る意思であると返事をしたのであった。
今や我が国は清国と戦って大勝したので、諸外国の予想を裏切ることはおびただしいものがあった。
(2)遼東半島の還付
明治二十八年四月十七日下関条約が調印されると、その二十三日には、露・独・仏の三国政府は、各東京駐在の公使に命じて遼東半島の還付を勧告した。
この三国が干渉した原動力はロシアの南下政策にあることは言うまでもない。彼は朝鮮に至るまでも野心を抱いていたのであるから、今日本の勢力が朝鮮に確立し、遼東半島を日本が領有することになって東洋平和が成り立てば、ロシアの野心は完全に水泡に帰すわけであったから、彼はフランスと同盟していたのを幸いに、これと謀り、またしきりに支那に勢力を拡張する野心を持っていたドイツをも誘い、ついに三国干渉の挙に出たのである。
三国公使は形式上別々に我が国に勧告書を送ってきたのであるが、その説くところは全く同一の主旨で、文面の表では友誼上の好意的勧告ということであるが、事実上から見れば完全に威嚇したものであった。例えば「貴国は弱く我が国は強い、もし戦を交えるに至るなら貴国は必ず敗(やぶ)れるだろう」というような文句もあった。これは外務省の注意によって削除したと伝えられており、また例えばロシアはウラジオに陸兵を駐屯させ、海上からは太平洋艦隊をもって我が国に驚異を与えていた。
これは無論我が国の屈辱ではあったが、当時の形勢上、怨みを呑んで、三国の提議を受け容れ、五月五日をもって遼東半島を還付し、五月八日批准交換を終え、十日には明治天皇が義憤に燃える国民に対して次のような詔を下しなさった。
367: ブログ転載 10/24(木)06:34:57.85 AAS
この度幸い英国アドミラル(官名)〔※提督〕がアジア洲中で交代いたしましたので、ついでなので龍敦政府にて評議を立て、あらかじめ長州償金三百万元の事柄は、幕府から御渡しになられます内容で御約定ゆえ、即刻御渡し方これありたく、もしただ今御弁償になられ難くありますならば、もはやこちらには願い申しませんので、その替わり一千八百六十八年(卯年霜月)正月元日、開港が実行されるはずの兵庫港を、今年から開港の御免許をいただき申したくあります。
かつ、これまで日本国中様々な擾乱が起こりました。始まりは皆公武御合体、これが無いゆえの事でございますので、この度は是非、 朝廷から条約御免許の 勅書を幕府に御受け取りになられ、その内容をあまねく天下の列藩その他山民までも御布告になり、国中一同、仲良く親しみ合いの上、互いに永く親睦を結び申したくあります。
かつまたこの度はこれまで税則が不規則の件々を改正致したくあります。
右の三ヶ条をもってアドミラール〔※提督〕が神奈川に参りましたところ、ミニストル(官名)〔※公使〕パークスは、その時函館におりましたので、早速函館に参り右の内容を申し述べましたところ、ミニストル〔※公使〕は直ちに横浜に帰り、すぐさま各国のミニストル〔※公使〕に相談が有り、幕府の官吏に掛け合いに及ばせましたところ、将軍様はじめ御老中総じて御留守中でありましたので、万事左右の返答を致し難い旨につき、すぐさま摂海に廻り幕吏と応接いたしましたところ、三百万元の償金は一度には渡し難い、先に半金を御渡しになられるつもり、兵庫の事柄は明後年の期限でありますので、その時に開き申すはずのわけでありましたので、それならば残金はいつ頃御渡しなられますかと尋ねましたところ、いつとも定め難くあります旨、かつ万事 朝廷の御聞(開イ)これがないのでは困り入ります件を告げ知らされましたので、こちらも何とも致し方ない。
それならばこちらから朝廷に奏聞いたすつもりだと申し述べ、即刻京都に連書を差し上げましたところ、朝廷から御返書の内容では、条約などの事柄に関しては 朝廷は万事御承知はなく、御免許遊ばされた覚えもこれはない。
378: ブログ転載 10/27(日)23:28:53.85 AAS
そのように二人から申し出ますので、このほどこの勅書は真 勅ではないとの事柄を、証拠を例に挙げ告げ知らせました。諸方面もこれがありますので、よんどころない各国の集議にも行きます道理でございます。
もちろん薩長へ参ります事柄も差し止めます。このまま直ちに江戸海へ帰るつもりです。
二度の集会は大君〔※将軍〕の威権を削りますなどの論は、勅書の真贋の論から事が起きました。一時の論でありますので、決して大君〔※将軍〕のためにならないことを相談をする、などの暴策を企むようですけれども、これではなく、この件はそのように心にとどめておいてくれますようにとの事。
フルベッキは英国女王から英人居留の者、普段から法を作るときの正不正の監察を頼むことがありますとの事。
フルベッキは言う。もし、ここでは双方完全に権を取り合いますといっても、初めの一念は止め難いものです。この期をぬかしこっそり出帆致し、薩長には必ず参るつもりと考えます。
摂海の遅速はあらかじめ推測し難くございますけれども、必ず明くる年の期限には、メリケンを始め各国参るはずでございます。この期限は決して一通りではない。
皇国の御大難事でございますので、ここに完全にフルベッキと領事館マンゴンの二人の論争にくじけ、引き続きメリケン水師提督に参って出会い、薩人の権謀は十分に運びませんのでと聞きます。
長崎にお出での最中の形勢とは大きく事情は変動致しますので、ガラナーダ出帆の時期になり書き記し、直ちにこのまま中松助作に託します。多忙に書き記し御推覧に入れます。ざっと目を通してください。以上。
六月十一日
荘村助右衛門
省3
399: 11/01(金)15:34:52.85 AAS
p287
〔慶応元丑年 開成所において横浜新聞紙を写し取り差し上げます控え〕
日本新聞第十三号
西暦一千八百六十五年十二月一日すなわち慶応元年乙丑十月十四日横浜刊行
去月二十七日すなわち我が国の十月十日英船プリンセス、ロヤール、ペロリニス仏船ドブレイ、キンサン、オランダ船ソウトマン以上五艘は、兵庫港から当港に帰帆したことにより各国在留人へ左の回覧文書を出した。
○
神奈川在留英国コンシュル館において
一千八百六十五年十一月二十七日我が国の十月十日
英国勅使全権大臣日本在留ミニストル〔※公使〕 ハルリース、パルケス君より左の内容を申し越されたのにおいて、当港在留英国人一同へ及び通達するものである。
コンシュル マルキュス、ソロウェルス
省11
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