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【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/
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735: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2022/10/15(土) 19:32:23.08 ID:Hjkxb0g/0 亀島について触れておく。 亀島の徳大寺石を中心とする景は、京都二条城二の丸庭園の亀島に似ている。 亀がグイッと頭をもたげた姿を写したものなのである。 だからこれを亀頭石という。 https://garden-guide.jp/spot.php?i=koishikawa ここの一番下から三番目の写真が亀島を正面から撮ったものである。 亀頭石は徳大寺左兵衛にちなんで徳大寺石と呼ばれている。 二条城の亀島は、石橋を渡して人が入れるようにし、そのため松を植えていない。 馬鹿みたいな話である。 後楽園の方は、徳大寺石の両端の石が貧弱で、亀島らしいどっしりとした趣きがない。 石組みは組み直されたものだろう。 二条城二の丸庭園には亀島も鶴島もある。 この「庭園ガイド」というサイトは素晴らしい。 https://garden-guide.jp/spot.php?i=nijo-castle 庭園の写真の四枚目に亀島を正面から撮ったものがある。 亀頭石は徳大寺石のようにのっぺりとしておらず、こちらの方が趣きがある。 二条城二の丸庭園には護岸石組みがきちんと残されている。 しかし、池の周囲は芝生を大きく取り、西洋庭園風に改造されている。 もともとは奥に大きなに築山があり、もっと立体的な景観であった。 サイトのページの真ん中ぐらいに、二段落としの滝石組の写真がある。 このページの解説にあるように、今の滝は明治以降の改修によるものである。 小堀遠州作庭の当時は後ろにある垂直に立てた薄い石に上から水が落ちていた。 ということは、滝の背後に高い築山があり、膨大な量の石で滝石組みが作られていた のである。この築山は今はなく、後ろに竹垣が見える。 築山を取り払ってしまった結果、庭園は西洋の公園のような平明なものになったが、 本来は巨岩大石を並べた築山を背景とする重厚感のある庭だった。 滝石組みの周囲は松山であったはずである。 現在は松が黒松で大人しいのもつまらない。野趣のある赤松を植えるべきであった。 足立美術館には赤松が多く使われている。松の赤い肌が美しい。 https://www.kankou-shimane.com/pickup/2901.html 石の色からしても二条城庭園は赤松の方が似合う。 本来はそうでなかったかと思われる。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/735
736: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2022/10/15(土) 19:35:51.92 ID:Hjkxb0g/0 [中の島(蓬莱島)について] 今の小石川後楽園では、誰も中の島(蓬莱島)には興味をもつまい。 大木の生えたただの小山のようになっているからである。 しかし、本来の中の島の石組みは10メートルほどの高さがあり、そこからさらに木が天に 伸びていた。奇怪な尖塔のような姿だったと思われる。 大きさも今の蓬莱島より一回り大きかった。 しかし、現状からして、それらの石組みは崩壊し撤去されたと見るほかはない。 石を高く組んだ構造であったため、地震で崩壊した可能性がある。 桂昌院の御成りの翌年(元禄16年)の地震は大きく、滝石組みや滝への給水設備が壊れた。 このときに蓬莱島の石組みも崩れたとされている。 後楽紀事も、「中の地震」で崩れたと明記している。 中の地震とは元禄16年の地震のことである。 一方、原因は地震ではなく、桂昌院の御成りのときに撤去されたのかも知れない。 御成りは地震の一年前であるからほぼ同時期である。 地震でいろいろ壊れたので、中の島の崩壊も地震が原因とされているが、御成りのときの 破壊と一緒くたにされている可能性も無いではない。 桂昌院は先端恐怖症というか、尖ったものやゴツゴツしたものに恐怖を覚える症状が あった様子である。※ 御成りにあたって奇岩怪石を取り除かせたというのも、道を歩きやするためだけでなく、 奇怪な形の岩や威圧感のある巨石などを怖がったためかも知れない。 桂昌院の御成りのときに撤去されたのは石や岩だけではない。尖ったものも撤去された。 例えば文昌堂(八卦堂)の屋根飾りである。 お堂や塔の屋根のてっぺんには相輪(そうりん)という金具が付けられるのが普通である。 金属の輪が幾重にも重なり、その先は剣のように尖っている。 文昌堂の屋根にも法輪が付けられており、しかも先端の剣型の部分が中国風で長かった。 これが駄目だということになった。 それで宝珠(ほうじゅ)という金色の丸い珠に取替えさせられたのである。 (そういえば水戸の八卦堂の屋根飾りも宝珠である)。 お堂の屋根飾りなど歩行の安全に全く関係がない。にもかかわらず法輪を宝珠に取り替えた というのは、尖ったものを怖がる神経症的な症状があったとしか考えられない。 尖ったものを怖がる以外に、岩が人の顔に見えたり怪物に見えるような症状があったのかも 知れない。通行の邪魔にならなくても、奇怪な形の岩などは取りのけられたのではないか。 蓬莱島もその姿があまりに奇怪なため、桂昌院の気分を害するかも知れないということで 撤去された・・・、そう考えたら余りにも飛躍した想像になるであろうか。 ※桂昌院だけでなく綱吉も神経過敏で、雷を怖がること尋常でなかった。 また綱吉の治世中に彗星が二度現れた(元禄2年と元禄12年)。一回目は14日間、二回目は 10日間見えていたという。その間、綱吉は精神の平衡を失った。自分の政(まつりごと)の 誤りを天が怒っているのではないかと脅え、家臣に相談したりしたという。 中の島の様子は『後楽紀事』に記述されている。 「大泉水のうち、長橋の西に在り。人々これを蓬莱島といふ。(中略)島に入りて かたはらにて見れば、ひむろ、きゃらぼく、びゃくしんやうのもの繁茂して、石の ひまひまには岩かさなり、苔さへむして侍りければ、何の形とも分らず。」。 「ひむろ」とはサワラの一種である。ヒバのような木である。 「きゃらぼく」はイチイの変種である。幹が直立せず、横に広がる。 「びゃくしん」は桧(ひのき)の一種である。 どれも常緑針葉樹であり、枝打ちしなければ枝葉が猛烈に繁茂する。 古来日本では松や杉などの葉が枯れない木をめでる風習があった。 中の島には、中国風の常磐木を植えたのである。 ところで、この中の島の描写は、「島に入りてかたはらにて見れば」(島に入って 近くでみれば)とあるのだから、実際に舟で島に渡っての実見談であろう。 この部分は、鵜飼信興がその目で見たことを書いているのである。 そのときの島の様子は、「石のひまひまには岩かさなり、苔さへむして侍りければ」と あるのだから、現在のように石が片付けられ木と草の生えた小山のような状態では なかったようである。崩れた大石の間に岩が重なり、苔むしていたという。 そこに上記の常緑針葉樹が生えていた。島になっているので他の植物の浸食がなく、 植生が保たれていたのである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/736
737: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2022/10/15(土) 19:36:37.57 ID:Hjkxb0g/0 後楽紀事には他にも中の島の記述がある。 「大泉水のうち、長橋の西に在り。人々これを蓬莱島といふ。弁財天の祠をたてり。 この島ことに絶景なり。瀧ありて高く掛かれり。みな人奇異の見物なりとて驚かざる ものなし。(中略)是も大地震に崩れたれば、みな地中にしづめり、亀の腮の石のみ残りて、 今鼻まかり岩といふ。」。 前段は滝があるとしているのだから、鵜飼信興が想像で書いているのである。 後段が今の話である。ここで「亀の腮の石のみ残りて」というのが分からない。 腮(あぎと)とは、顎とかエラのことである。徳大寺石は亀の頭の部分である。 この顎の部分の石ということは、徳大寺石の土台になっていた石のことなのだろうか。 おそらく、鵜飼信興が徳大寺石のことを「腮の石」と言っているのである。 亀頭石は直立させるので、正面から見た場合、見えるのは喉とか顎の部分になる。 だから腮の石と言ったのである。それが斜めになっているので、人々が「鼻まかり石」 (鼻曲がり石)と呼んだのだろう。 [ 鶴亀蓬莱庭園について ] 頼房(徳大寺左兵衛、家光)作庭した当初の小石川後楽園は、鶴亀蓬莱庭園である。 鶴亀蓬莱庭園とは、池泉式であると枯山水であるとを問わず、大きな蓬莱島があり、従と して小さな鶴島・亀島が並ぶ庭園をいう。 ただ「鶴亀庭園」と言うだけの場合もある。それでも蓬莱島(山)があるのが前提である。 上述の南禅寺金地院庭園は昔から「鶴亀の庭」と呼ばれる。 鶴島・亀島に蓬莱島はセットであり必須であるが、これに滝石組みがつく場合も多い。 池泉庭園の場合は池の端や奥に滝石組みがあり、そこから滝水が落ちて流路を通って池に 流れ込む。枯山水の庭の場合は滝をかたどった石組みを築くのである。 蓬莱島とは、古代中国で渤海の東方海上にあると信じられていた仙境の島である。 決して人が上陸することはできない。近づくことすらできない。 人が船で近づくと霧に隠れて見えなくなってしまう。 無理に近づくと船が押し戻される。あるいはどんなに船が進んでも島は遠く離れていく。 そうかと思うと前にあった島が後ろに見え、さらに水中に見えたりする。 稀に近づくことができると、そこは神仙の世界で、大きな無数の松が生えている。 仙人たちがその上に座っている。また、仙人たちは小さな雲に乗って飛行する。 仙人たちは切り立った岩山の上の方まで飛んでいく。 地上には小間使いの童子たちが遊んでいる。地上はどこも真っ白な砂である。 島には鳥や獣もいるが、それらもすべて純白である。 中国人の伝統的なイメージでは、蓬莱島とはそうしたものであった。 蓬莱島とは山でもある。池の無い庭では蓬莱山をイメージするものを置いた。 それは築山であり、石であり、石塔であり、灯籠である。刈り込んだ樹木でもよい。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/737
738: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2022/10/15(土) 19:37:20.20 ID:Hjkxb0g/0 大徳寺瑞峯院の独座庭は近代作庭家の作品だが、波立つ海の中の蓬莱島をあらわしている。 https://serai.jp/tour/385616 入門用にこういう庭があってもよいだろう。 座禅をするための庭だと思えば砂紋などはどうでもよい。 この写真の何枚か下に妙心寺退蔵院「元信の庭」の写真。蓬莱島の石組みがある。 狩野元信は室町時代の絵師である。1476年生まれで、足利九代将軍義尚に仕えた。 (義尚は足利義政と日野富子の次男である。先に将軍後継と決まっていた義視と対立し、 応仁の乱のきっかけとなった将軍)。 日本画の代表的な流派である狩野派の始祖・狩野正信の長男で、狩野派の画風を完成させ、 室町時代から明治まで続く狩野派の基礎を作り上げた人物である。 元信は単なる絵師ではなく、妙心寺二十五世大休宗休に帰依し、禅を学んでいた。 このような関係から作庭を委ねられたらしい。 この庭は、元信が自分の山水画を実際の庭に仕立てたものだといわれる。 室町期の枯山水庭園には、水墨山水画の構図や表現手法を取り入れたものが少なくない。 例えば大徳寺・大仙院の庭などである。 山水画の名人が庭を仕立てたらどうなるか、妙心寺の僧たちは興味津々で作庭を見守った はずである。 元信の庭ならやはりこのサイトの写真がいい。 https://garden-guide.jp/spot.php?i=taizoin 庭を図解した白黒写真を見ると、一番左端に自然石の石橋がある。 橋があっても人間は仙境へは渡れないのであるが、人間世界とは違う世界だということを 示すために橋が置かれているのである。本来は橋など無い。 この橋の右手にいくつかの大石が並び、これが蓬莱連山である。 蓬莱山の手前に山々が並んでいるのである。蓬莱山は蓬莱連山の彼方に聳えている。 蓬莱山の右手は枯滝の石組みである。縦縞の岸壁を現す石が見事である。 枯滝の手前、大きな石が平たく並べられているのが亀島である。 海を挟んで亀島と向き合うように鶴首石が置かれているのが鶴島である。 まことに忠実に蓬莱神仙の世界を具体化した鶴亀蓬莱島枯山水庭園である。 ただし、鶴島はほぼ遺跡化してしまっている。 本来は最小でも亀島と同じ大きさがあったはずである。 ここでも大きな方丈を建てたために庭を削ることになり、鶴島は鶴首石と羽石が一個ある だけである。手前のつくばい(手水)がもう一つの羽石なのではないかと言われている。 この写真で庭の構図が分かりにくいのは、写真の角度が悪いのである。 ほんとうは、写真右端中央あたりの礼拝石のあたりから撮らないといけない。 しかし、写真を撮るにも方丈の縁側から外には出てはならないらしい。 別のサイト http://www.taizoin.com/highlights/motonobu-no-niwa.html ここには元信の庭を正面から撮った写真が何枚かある。 改めて見て思うが、この庭は修行僧たちが座禅をするための庭であるような気がする。 座りやすそうな石が多いし、左右の石橋も実用であるように見える。 今は庭の背後に広葉常緑樹がたくさん植えられているが、実際に庭が座禅修行の場であった ときに植えられていたのは松だと思う。 樹下に平たい大石がいくつも置かれ、樹木は少なく閑散としていたと思う。 ついでに、小石川後楽園とほぼ同時代の鶴亀蓬莱島池泉式庭園を一つあげておこう。 蓮華寺庭園である。 https://garden-guide.jp/spot.php?i=rengeji この庭が作られたのは1668年である。 一方光圀により小石川後楽園が完成されたと推定される時期は1667年。 時期は同時期といってよい。 純粋な鶴亀蓬莱島庭園であり、庭の木がかなり大きく、かつ繁茂している。 小さな庭園だが、雰囲気が当初の小石川後楽園と似ているかも知れない。 とくに内庭などはこんな感じだったのかと思う。 (ただし、内庭の池でもこの5倍はあるだろう)。 なお、小石川後楽園の内庭は書院庭園である。 書院のすぐ脇にある庭園を書院庭園という。 書院庭園で有名なものに銀閣寺(慈照寺)庭園がある。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/738
739: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2022/10/15(土) 19:38:40.24 ID:Hjkxb0g/0 [蓬莱島(中の島)の実体] 小石川後楽園が作られた当初の中の島(蓬莱島)の形状は、世に類のない独特のもので あるが、あえていえば智積院の庭の築山が似ているかも知れない。 智積院の庭 https://garden-guide.jp/spot.php?i=chisyakuin 無数の石とサツキの刈り込みで出来た築山が特徴である。 池の中にある島のように見えるが、背後は地面につながっており、築山である。 中国の廬山(ろざん)を模したものという。 廬山とは江西省北部にある長江の南にある山で、諸峰が絶壁をなして聳え立つ。 多くの名士が隠棲し、李白や蘇武など有名な詩人が訪れた。 水墨画の素材になっていることが多い。これらは江南山水画という独立のジャンルになった。 霧の中に聳える岩山を墨の濃淡だけで描いた絵は誰もが見たことがあるはずである。 智積院は、もともとは秀吉が愛児鶴松の菩提を弔うために建てた祥雲寺という寺であった。 関ヶ原役の直後、京に入った徳川勢によって接収され、後に真言宗の玄宥僧正に与えられた。 玄宥は真言宗の根来寺の僧であり、塔頭智積院の坊主(住職)であった。 根来衆は僧兵一万を雍し、雑賀衆とともに最後まで秀吉の支配に抵抗した。 そのため豊臣軍の焼き討ちにあい、僧たちは離散していた。 家康としては根来寺の僧たちに報いなければならなかった。 玄宥僧正は本山の高野山に避難したが、智積院の僧たちは京都に出て暮らしていた。 この僧たちに最初は豊国廟の神宮寺などの施設を与え、後に隣接する祥雲寺の土地建物を 全て与えた。こうして祥雲寺が智積院になったのである。 なお、智積院の名宝「長谷川等伯障壁画」は祥雲寺の壁に描かれたものである。 祥雲寺が破壊されることなく、そのままそっくり智積院になったことで残ったのである。 智積院庭園は「利休好みの庭」といわれ、祥雲寺の時代にすでにあったという。 その後改修が重ねられ、延宝2年(1674年)7代目住職・運敞(うんしょう)のときに 現在の庭園が完成したとされる。 一方、光圀が頼房の作った後園を改修し、それが完成した時期は不明だが、内庭に彰考館を 建てた時期に完成したはずである(上述)。 そうだとすると、小石川後楽園の完成時期は寛文12年(1672)頃である。 智積院庭園と小石川後楽園の完成時期はほぼ同時ということになる。 小石川後楽園の庭と智積院の庭には完成時期以外にもいろいろと共通点がある。 まず、桃山時代の庭園の特徴である、自然の地形を生かした林泉庭園であることである。 小石川後楽園は、徳大寺左兵衛が元々の地形を生かし、できるだけ木も切らないようにして 作庭した。自然の沼があったところを泉水にし、周囲の崖地に石を積んで仙境のようにした。 一方、智積院の庭は東方の自然傾斜地の下に池を穿って作られている。 池に接する築山であるが、これは傾斜地であるからこそ出来た築山である。 後ろが傾斜地であり、山の斜面のようになっているからこそ、大きな築山を作っても 自然に見えるのである。斜面の一部のように見え、どっしりとした感じを与える。 これが後ろが平らな地面になっていたら、いかにも人工的に盛り上げた感じになる。 もっと小さく緩やかな築山にするしかなかっただろう。 次に池であるが、智積院のある東山南端のあたりは京瓦の産地である。 これは粘土が採れる土地ということであり、瓦の他にも京焼の産地として有名である。 日本一といわれる砥石も採れた(今は法律や条令の改正で採取できなくなったらしい)。 東山南端の山麓は白い粘土に覆われており、地面を掘れば粘土である。 だから池を作るのも簡単なのである。 粘土ばかりの池は白く濁る。智積院の庭も濁っており、これが千年待っても水が澄まない という揚子江を現すのに好適だったのである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/739
740: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2022/10/15(土) 19:39:06.17 ID:Hjkxb0g/0 つぎに座観式庭園であること。座観式とは、一定の場所に座って眺める庭園を言う。 観賞式庭園ともいい、苑路を巡る回遊式庭園に対置されるものである。 まず、智積院庭園が座観式であるのはいうまでもない。 大書院の座敷から眺めるようになっている。 昔は書院も講堂もこんなに大きくはなく、池はこれほど間近ではなかったはずである。 書院から遠く廬山を仰ぐつもりで築山を眺めたのである。 では小石川後楽園はどうか。 残念ながら、小石川後楽園が座観式庭園であったなどという人は一人もいない。 作庭された当初から小石川後楽園の庭は回遊式であったということになっている。 それは、最も権威ある資料である鵜飼信興の書いた「後楽紀事」がそのように書いている からである。この資料に基づき庭園研究家・重森三玲はその著書「後楽園史」において、 (徳大寺左兵衛は)低地を修景して園路を設け松原、馬場はじめ京都の大井川や清水など 古来の和歌の原点である京都付近の名勝を題材にした景色をとりいれ、多様な植栽を工夫 したといえる。こうした基本的な地割や意匠は既に完成しており、江戸初期に作られた、 いわゆる池泉回遊式の初期の大名庭園であり、その後の大名庭園作庭の範になったと考え られる。」としている。 しかし、時代的にそれはあり得ないと思われる。 この時代の庭というのは、書院や茶屋などの定点箇所から庭を眺める座観式に決まっていた。 風景は蓬莱島に鶴島亀島を添え、他に景観を足すにしても滝石組み程度のものであった。 分かりやすく言うと、蓬莱神仙思想にもとづく仙境を作り出し、そこを周囲から眺めると いう発想だったのである。勿論庭の周辺に松やモミジ(楓など)・椿などを植え、景観を 楽しむということはあっただろう。しかし、苑路を作って庭の景観の中を観賞して歩くなど といった発想はまだなかったのである。 後楽紀事はあったとするのであるが、それは著者の想像であり、創作であると考える。 後楽紀事がいかに重要な文献であろうとも、著者は創設当時の庭園を見ていない。 鵜飼信興は後楽紀事を書いたのは、作庭から100年近く経ってからのことである。 後楽紀事に絶対の信を置くことは出来ないと思うのである。 さらに、回遊式庭園と縮景庭園は深く関係する。 縮景とは、名所名勝の景色を庭園の中に写し、あるいはそのように見立てたものである。 そのような多様な景色を作り出すために、重森三玲によれば「松原、馬場はじめ京都の 大井川や清水など古来の和歌の原点である京都付近の名勝を題材にした景色をとりいれ、 多様な植栽を工夫」することになるのである。 そしてそれらは苑路に沿って展開される。それらの景観は苑路に沿って用意され、苑路を 歩むごとに目の前に次々に現れてくるのである。 小石川後楽園は、作られた時にはこのような庭であったとするのが一般の理解なのである。 これに対してはもはや論評は不要であろう。十分に論じたつもりである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/740
741: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2022/10/15(土) 19:39:33.70 ID:Hjkxb0g/0 後楽園が座観式であったと言っても、一カ所だけから見る庭ではなかった。 茶屋がいくつかあり、そこで休めるようになっていた。 ここが厳密な座観式庭園である竜安寺方丈南庭などとは異なる点である。 茶屋はただの休憩所ではなく、観賞ポイントであった。 とするなら、鑑賞ポイントを巡って歩くのだから回遊式と言えるではないかとの批判も あろう。たしかに、ここから先は、「回遊式」とは何かという言葉の意義をめぐっての 議論になりかねない。 まず、小石川後楽園にはどのような観賞ポイントがあったかを明かにしよう。 最初に挙げられるのは清水観音堂の舞台だろう。 舞台ができるまでは、千手観音を安置した観音堂があるだけだった。 しかしその時代から最重要の観賞ポイントであったと考える。 理由は、観音堂から下の景色は観音浄土からの眺めであり、庭園中最高の眺望だからで ある。ただ休憩所のような建物はなかった。 それは、そこが観音浄土であるから、人間が座って茶を飲むような施設を設ける余地は 無かったというだけのことである。 それなら何故光圀は舞台を作ってそこで茶を喫したかということになるが、その時代には 懸け造りで舞台を作るのが流行ったのである。 例えば家光は慶安3年(1650)に長谷寺の舞台を寄進している。 何故舞台を作るのが流行ったかというと、舞台を観音浄土と捉えるようになったからである。 長谷寺の本尊は十一面観音であり、舞台はそれが観音浄土を現しているのである。 室生寺にも舞台があるが、本尊は如意輪観音であり、舞台が浄土であることは同じである。 山道を登った頂上よりも、崖の上に懸け造りで作った舞台の方がより浄土を実感させた のであろう。時代の風潮というしかない。 その他、観賞ポイントとしては、久八屋(くはちや)のところにも茶屋はあった。 丸屋という茶屋もあった。 涵徳亭は、その元になる硝子御茶屋(びいどろおちゃや)というのが当初からあった。 (涵徳亭という名がつけられたのは享保年間である)。 硝子御茶屋は大泉水との間に築山をきずき、あえて大泉水が見えないようにしてあった。 大泉水が見えないということは大泉水側から見えないということである。 大泉水側から建物が見えると興醒めになるというような理由もあったのかも知れない。 (硝子御茶屋が何やら秘密めいた会合に用いられた施設であった可能性もある)。 とにかく、このように茶屋がいくつかあるということは、そこの間を移動するということで あり、回遊式と言えるではないかという意見もあるだろう。 この点、私は回遊式というためには快適な苑路が必要であり、さらに苑路に沿って各地の 縮景が容易されていなければならないと考える。そして歩くことによって次々に景観が 変わることが必要であると考える。 当初の小石川後楽園の道は苑路と呼べるようなものではなかった。ただの通路である。 自然の凹凸がそのままにされ、曲がりくねり、さらに岩や大木の間を縫って歩く道である。 道も細く、移動のための小道にすぎなかった。 このような道を移動しながら景色を観賞する余裕はなかったし、つぎつぎと展開していく 景色も用意されてはいなかった。 座観式の観賞点がいくつかある庭というに過ぎなかったのである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/741
742: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2022/10/15(土) 19:49:59.73 ID:Hjkxb0g/0 小石川後楽園が回遊式になったのは、おそらく桂昌院の御成りのときである。 苑路を作るために大きな石が軒並み撤去され、平坦な道が作られた。 その後、頼豊による改修のときに苑路が隅々まで整備された。 頼豊によって小石川後楽園は池泉式回遊庭園として完成されたのである。 同様の庭は他にもある。初期の岡山後楽園である。 池の周囲に苑路はなく、周囲の高台になったところや傾斜地に小道があった。 その道をたどって茶屋などに移動したのである。 岡山後楽園が回遊式といえる庭になったのは、三代継政(つぐまさ)が12年の歳月をかけて 園内中央に唯心山を築いてからのことである。 栗林園もそうだが、江戸時代初期には観賞ポイントがいくつかあっても、それを一日で回る というようなことはなされていなかったと想像する。 つまり、回遊ということはなされていなかった。 一カ所だけでは厭きるので、今日はあそこに行こうとか、夏で暑いときはあそこの茶屋が 涼しくてよいとか、秋の紅葉はあそこから観賞しようとか、そうした利用の仕方だった のではないか。 なお、座観式だからといっていっさい庭園内に入ることはできないわけではない。 その点は昔の方が融通が利いた。 座観式の典型である天竜寺の曹源池庭園などでも、滝石組みの近くまで行き、奥を 覗いたりはできたのである。今は池を挟んで講堂側からしか見ることはできないが、戦後 しばらくの間までは橋を渡ってあちら側に行くことができた。 滝石組みの中に入って鯉魚石まで間近で観賞することもできた。 近くで見なければあの滝石組みの凄さは分からないと言われていた。 しかし、かなり危険なことであった。昔は拝観者が怪我をしても寺の責任を問うような ことはなかったので、寺も自由にさせていたのである。 智積院庭園も、築山の裏の方から池の縁を歩けるようにはなっている。 目立たないが、苑路(通路)のようなものが無いわけではない。 ただ一般客の立ち入りが禁止になっているだけである。 考えてみれば、庭園を管理する必要はあるのだから、人間が入れない庭などあるわけがない。 それなりに人が通行できるようにはなっているはずである。 座観式の庭は庭園の景を犠牲にしてまで道は作らないが、そうであっても植え込みの裏など に小道があったとしても不思議ではない。 初期の岡山後楽園も栗林園もそのような小道がついていたし、茶屋などに行くにはそうした 道が利用されていた。木々の間を辿り、岩の隙間を縫うような道である。 小石川後楽園ももちろんそうであった。 これらの庭園は景観優先であり、人が移動することは二の次三の次だったのである。 そもそも中国の神仙思想にもとづき、人の入れない仙境に見立てて作庭されるのであるから、 それが当然である。深山幽谷の趣きのある庭に歩きやすい苑路などがついていたら、却って そぐわないのである。 最後に、光圀は、得仁堂、文昌堂などを建て、そこを巡る苑路を作ったが、そこは庭園だと 思ってはいなかったはずである。光圀は内庭の方に彰考館の書院や書庫を建てたが、あちらも 当然ながら庭園の施設だとは思っていなかった。 どちらも庭園の隅の斜面になった土地を利用しただけのことである。 西湖の堤も作ったが、あれも人は通さなかったのではなかろうか)。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/742
743: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2022/10/15(土) 19:50:52.02 ID:Hjkxb0g/0 小石川後楽園が回遊式になったのは、おそらく桂昌院の御成りのときである。 苑路を作るために大きな石が軒並み撤去され、平坦な道が作られた。 共通点の第三は、須弥山(しゅみせん)をかたどった築山ないし島があることである。 須弥山とは、仏教で世界の中心にあると考えられている山である。 須弥山を解説するのは困難である。ウィキの「須弥山」の箇所を読んでいただくしかない。 そこにある絵図などの写真を見ることは必須だろう。 簡単な解説ならこのサイトにもある。絵が分かりやすい。 https://yasurakaan.com/shingonshyu/shyumisen/ 須弥山の中腹の四方には四天王の住む都があり、眷属たちがその周辺に住む。 山頂の?利(とうり)天には帝釈天の住む城がある。 帝釈天は天帝帝釈ともいい、四天王を配下として須弥山を守る。 帝釈天の像は、白象にまたがり、独古を持ち、鎧を身につけて中国の武将のような姿を していることが多い。?利天にある帝釈天の城は善見城という。 以上を前提に、まず智積院庭園について検討しよう。 この庭のどこに須弥山をかたどったものがあるのか。 それは池の向こうの築山である。 今一度上記サイトを見ていただきたい。 https://garden-guide.jp/spot.php?i=chisyakuin 築山の上に石塔がある。 これが帝釈天の善見城なのである。 この築山は昔はもっと高かったかも知れない。下の方にはより多くの大きな石が組み上げ られていただろう。サツキはもっと大きく、四角く剪定して壁のようにしてあった。 それによって切り立った断崖が表現されていたのである。 今は一面の最近は丸い刈り込みしかなく、デザイン変更されたようである。 庭師がこの築山が須弥山だということを意識しなくなったのかも知れない。 ところで、池の向こうの築山は蓬莱山のはずであった。 それが何故須弥山なのか、疑問に思われる向きもあるかも知れない。 結論から言うと、鶴亀蓬莱庭園というのは一つの型であり、型というのは守られればそれで いいのである。型を守った上で、別の趣向を持ち込むことは可能であり、自由である。 智積院庭園では、池の向こうの築山は蓬莱山であるが、しかしその姿は須弥山である。 蓬莱山と見る人は見ればよいし、須弥山に見えるのであればそのように見ればよい。 なお、智積院庭園には鶴島亀島が無いが、おそらく池が狭くなり撤去されたのだろう。 とにかく書院や講堂が大きく、ぎりぎりまで庭に寄っている。 これでは池もかなり埋め立てられているはずである。 本来は最低でもあと10メートルは奥行きがあっただろう。 その証拠に、舟入石を置く場所がなく、縁側の近くに置いて穴を穿ち、手水鉢になっている。 本来は池の左右に鶴島亀島が並び、その手前に舟入石が半分水に浸かって置かれたはずである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/743
744: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2022/10/15(土) 19:51:42.45 ID:Hjkxb0g/0 では、小石川後楽園の中の島(蓬莱島)はどうか。 この点、元々の島の姿からすれば須弥山としか言いようがない。 須弥山とは、仏画などでは曼荼羅のような幾何学的な模様であらわされているが、機能を 含めて描くとあのようになるのであって、本来は笠が開かない松茸のような形をしている。 松茸よりもエリンギのような形といった方が分かりやすいかも知れない。 小石川後楽園の中の島の姿はアニメ映画のラピュタに出てくるような形状であった。 水面から五メートルほどの高さまでは大石が組み上げられ、そこからさらに尖塔のように 数メートルの高さの石が組まれていた。 その頂上付近から水が噴き出し、滝になって流れ落ちていた。 須弥山では甘露の法雨という甘い水が降ってきてそこに住む者たちの喉を潤す。そのため 誰も何も食べないでも生きていけるのである。 この様子を現すためには本当は霧のような水が噴き出すのがよいのだが、当時はそんな ことはできない。だから滝だったのである。 しかし風の強い日など、風に吹き散らされる滝水は甘露の雨のように見えただろう。 石の間に中国風の常緑樹が植えられ、それらが枝葉を拡げていた。 遠くから見ると下半分は巨石の塊であり、上半分は茂りに茂った常緑樹の塊であった。 常緑樹は大きく枝を拡げているため、上半分の方が大きく見え、キノコのようであった。 これを見て「みな人奇異の見物なりとて驚かざるものなし。」という有様だった。 そのことは上に書いた。 中の島(蓬莱島)だけでなく、亀島も鶴島も規格外に大きなものだったと思われる。 (念のため、亀島はかめじま、鶴島はつるじま、と濁って読むのが正しい)。 亀島の大きさは、亀頭石である徳大寺石の大きさからも想像がつく。 亀島と鶴島はセットであるから、鶴島も大きなものだったろう。 さらに、鶴首石や島に植えられた松は、堂々として重厚感に溢れたものであった。 庭園全体に伊豆の御用山から運ばれた石が無数に使われていた。 中国の廬山のような、岩山と渓谷からなる仙境の雰囲気を目指した庭だったのだろう。 植栽は太古の昔からの山林を利用し、なるべく大木も切らず庭園に利用したというところ から考えても、今日の私たちが考える庭園とはまるで違うものだった。 以上から何が言いたいかというと、築造当初の小石川後楽園の庭は、江戸中期の大名庭園 とはまるで違う庭園だったということである。 大泉水を琵琶湖に見立て、その向こうに唐崎の松がある。もしそういうものだとしたら、 その手前の蓬莱島が高さ10メートルもある奇怪な形の島であるわけがい。 頼房が作った当初の庭は、大名庭園などとは次元の違う庭だったのである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/744
745: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2022/10/15(土) 19:53:44.76 ID:Hjkxb0g/0 そしてこの庭園を光圀はほとんど変えなかった。 後楽紀事にある。 「一木を伐り一石をうこかしたまふ事はなかりけるとこそ。明遺臣舜水に命ぜられて、 御園の名をえらばせられし時に、(中略)後楽園と名付けられて、御屋形より御園への 唐門にも右の三字を書して扁額となせり。得仁堂、文昌堂、円月橋の類は、義公上の 御経営なり。すべて威公上のあそばされたる御事を、少しなりともあらためたまはず。 されどことにより改めさせたまふこともありしかど、是はまたもとのごとくに成べき ことなり。一木なりとも枯たるは御本意なき御事とて、年々御植かへは有之候得ども、 大木を伐らせらるる事は、かってこれなかりけるとそ。松は別て御当家へいはれある ことなれば、一枝をも伐らせたまはざりけり。」。 光圀は受け継いだ庭の「一木を切ることもなければ一石を動かしたこともない」という。 「得仁堂、文昌堂、円月橋の類は、義公(光圀)が造営したものであるが、(これらは 新たに付け加えたものであって)、威公(頼房)のなさったことは少しも変えることは なかった。」。「とはいえ、事によっては改めることもあったが、それらはみな時間が 経てば元のとおりになるものばかりであった。」。 「一本の木であっても枯れてしまったものがあれば、威公の御本意に反するだろうと、 毎年植え替えをしていた。しかし大木を切ったことはかつて一度もない。」。 松は別けて(わけても)御当家に因縁の深い木であるから(もともと松平姓だから)、 木を切らないどころか枝一本も切らせはしなかった。」というのである。 だから、光圀が新たに加えた徳仁堂などの造営物以外は、庭園はいっさい頼房時代その ままの状態であったことになる。 にもかかわらず、後楽紀事は最初から大名庭園であったかのように書くのである。 これが分からない。 たしかに鵜飼信興が後楽紀事を書いたのは頼豊による改造が行われた後である。 目の前にあるのは、各地の名所名勝の景を並べた縮景庭園である。 歩きやすい苑路も整備されている。まごうことなき大名庭園なのである。 鵜飼信興がそれ以外知らないのだとしたら、最初からそうだったと思っても仕方ないの かも知れない。 例えば「後楽紀事」は琉球山(屏風岩の後ろの小山)について、「白きつつじの木余多 (あまた)植ゑたる山なり。」と記述している。 築山にツツジを一面に植え、いっせいに咲かせて花に埋もれた山にするのは、江戸中期の 大名庭園によくある様式である。 こういったものは他にいくらでもある。熊本の水前寺成趣園、高松の栗林園、岡山の後楽園 などである。上述した岡山後楽園の唯心山は色とりどりのツツジを植えて華やかである。 しかし、もちろん最初からそうであったわけではない。 そもそも唯心山自体が後から作られたものである。 小石川後楽園の琉球山は真っ白なツツジの山にしたというのだから、おそらく富士山の景 なのであろう。こうした遊び心は江戸中期以降のもので、頼房の時代には無いものである。 江戸時代初期の庭には園芸種の草木は植えられることはなかった。 さらにツツジが庭に使われるようになるのは江戸中期以降である。 こんなツツジの山を見て、鵜飼信興はこれが最初から有ったものだと思ったのだろうか。 もしそうならかなり無邪気な人物である。たしかに鵜飼信興は庭園史などは知らなかった かも知れないが、いくら何でもそこまでものを知らない人物ではあるまい。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/745
746: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2022/10/15(土) 19:55:48.55 ID:Hjkxb0g/0 例えば得仁堂について、後楽紀事には「その後享保中、讃州岩清尾の八幡となる。八幡堂と 称す、額はやめらる。」とある。 頼豊が光圀の安置した伯夷・叔斉の像を讃岐岩清尾神社の八幡像に取り替え、「八幡堂」と 改名、「得仁堂」と書かれた額は取り外されたというのである。 この「八幡堂」は、文政9年(1827)に八代斉脩が八幡像のために宮を新設し伯夷・叔斉の 像を戻したので、それ以降再び「得仁堂」と呼ばれるようになった。 後楽紀事が書かれた時にはまだ八幡堂のままだったのである。 こういうこともしっかり書いてある。 事実は詳細と言っていいレベルできちんと書いてある。 にもかかわらず、琉球山についてはいっさい経緯を書かない。 最初から白いツツジの山であったようにしか書いていないのである。 頼豊が琉球山を富士山の形に削り、一面に白いツツジを植えたのを知らないはずはなかろう。 頼豊が庭園を弄ったのはせいぜい後楽紀事出版の6年ほど前までで、白いツツジ山が作られ たのも20年以上前ということはない。そんなものが作られれば当然人の話題になるはずで あり、小石川の藩邸に住んでいた鵜飼信興がこれを知らないはずはないのである。 それなのに頼豊がやったことであるとはハッキリ書かない。 こういうところがおかしい。 (なお、栗林公園の飛来峰の頂には白い石で築かれた石組みがある。珪化木(けいかぼく) という植物の化石なのだそうである。わざわざこのような石を使ったのは富士の高嶺の雪を 現すためという。これをやったのは勿論頼豊である)。 では何故後楽紀事には、小石川後楽園は造営当初から縮景庭園であり、回遊式の庭園で あるかのように書かれているのか。 おそらく、造園の当初は回遊式ではなかったと書けば、頼豊による庭の改造を全面的に 認めることになるからだろう。 大泉水を琵琶湖に見立てたり、庭のあちこちを京都の風景に見立てたりするようなことは なかったと書けば、今の庭園は威公様や義公様ご苦心の御庭ではないということになる。 言っておくが、庭の様式など変わってもよいのである。 多くの大名の庭園は、作られた当初は江戸初期の鶴亀蓬莱庭園の形式であった。 しかし、そのほとんどがいつのまにかありきたりの大名庭園になった。 岡山の後楽園も、讃岐の栗林園もそうである。これは避けられない変化であった。 だから本来からすれば、小石川後楽園の庭が大名庭園になっても何ら問題はないのである。 しかしながら、小石川後楽園では一つだけ他の大名とは違う事情があった。 その改造が徐々にではなく一挙になされ、かつ殿様でない人物によってなされたことである。 もちろん頼豊は息子の宗堯(水戸藩第四代藩主)の名で命令を出していた。 しかし、頼豊が宗堯に代わり藩主のようにふるまっていたことは誰もが知るところである。 後楽園は藩祖である頼房公が作り、二代光圀公が完成させた庭である。 これを養子としてやってきた殿様の父親が好き放題に改造してしまった。 このことは水戸藩の家臣たちにとっては屈辱であった。 屈辱として忍ぶ家臣ばかりではなく、それを容認した重臣たちに対する批判も沸き起こった のではないか。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/746
747: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2022/10/15(土) 19:57:20.22 ID:Hjkxb0g/0 上述のとおり、後楽紀事の出版は享保21年(1736)である。 その前年に頼豊が亡くなっている。 頼豊の息子である宗堯は享保15年(1730)に急死したのであるから、この時から頼豊は 水戸家への出入りをしなくなったはずである。 つまり、頼豊が水戸家とのかかわりを断ってから6年、頼豊が死んでから1年経った後に 後楽紀事は出版されたのである。 本の出版と頼豊の死を関係づければ、いろいろな動きが見えてくる。 頼豊が死んで一年後に出版されたということは、頼豊が死んですぐに本の執筆が始められ たということである。(或いは頼豊が病に倒れた時から書き始められたかも知れない。 水戸家と高松松平家は親戚であるから頼豊の病勢はすぐに分かる)。 しかも本が書かれたのは鵜飼信興の自発によるとは思われない。 藩の殿様たちが出てきて、誰がどうしたというようなことを詳しく書くのは、当時は憚られ たのである。書くにしても家中全体の許諾ないし黙諾が必要であった。 本を書けば藩の人間だけが読むとは限らない。どうしても藩内の事情を外の人間が知る ことになる。それがいいか悪いかを判断するのは著者ではないのである。 後楽紀事が出版された以上、許諾があったのは勿論であるが、許諾どころではなかろう。 藩首脳部の指示によるものではなかろうか。 おそらく頼豊の行為を見過ごした藩(藩邸)の重臣たちに対する批判が根強くあり、重臣らが これを気にして鎮静をはかったのだろう。 そのためには、今の庭園をある程度は肯定しなければならない。 そこで、第一に頼豊の改造は庭園の見晴らしをよくするためのものだったとする。 庭は太古からの自然の地形を利用したもので、大木も切らずに庭園に取り込んだ。 それらが繁茂して見晴らしが悪くなったのでこれを切った。 700本も切ったので庭園の景観が一変した。 しかし、とにもかくにも木が伸び放題だったので、手入れとして始めたのが切っ掛けで あったとしたのである。こうした事情だと重臣たちが止めなかったのはやむを得なかった ということになる。 第二に、庭園の大木をおおかた切って見晴らしがよくなったが、そこで現れた景は 頼房公時代に作られたものだとすることである。 琵琶湖や唐崎の松、清水寺の滝や舞台、大堰川や(小倉山)の紅葉などは頼房公らが 作られたものであり、そのまま現在に伝えられているのだとするのである。 頼房公時代の景観まで変えられれば、これは庭園の破壊ということになろうが、そうでは なく、昔の景観が大木の陰から現れたように書いたのである。 第三に、頼豊の改造の前に桂昌院の御成りに伴う改造があったことを思い出させる、 あるいは周知させることである。 老婆が安全に歩けるよう、大きな石や岩が軒並み撤去され、池の周囲に平坦な苑路が 作られた。取り除けられた石や岩が桜の馬場などの広場に山と積まれたというのである。 これは30年以上も昔のことであり、今の重臣たちには責任がないことである。 要するに、石や岩はほとんど無くなったがそれは御成りのためである。 大木は切られたが、それは園内の見晴らしをよくするためだったとしたのである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/747
748: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2022/10/15(土) 19:58:24.26 ID:Hjkxb0g/0 以上、後楽紀事はいろいろな時代のエピソードが整理されずに書かれているので、ただ 事実を羅列しただけのように見えるが、整理してみると、結局は頼豊の改造によっては さほど庭園は変わっていない、むしろ昔に戻ったかのように書かれているのである。 こんな本を書けと命ぜられて、鵜飼信興はおおいに苦しんだと思われる。 目の前の庭園の景はほぼ全て頼豊が作ったもの、あるいは見立てを決めたものである。 それを知りつつも、現在の庭園を否定することはできない。 頼房の時代にこうした縮景庭園を造ったということはあり得ないのだが、仮にそれを 知っていたとしても、おくびにも出さなかった。 結局、今の景観が頼房公や家光公の苦心でできたように書いたのである。 しかし、さすがに学者らしく集められたエピソードは嘘ではない。 事実を書きながら、根本のところで大嘘を書いた本なのである。 嘘というのは当たらないかも知れない。鵜飼信興は「神話」を作ったのである。 それは水戸藩のメンツと重臣たちの責任逃れのためであった。 頼豊に藩祖の頼房公以来の庭園を改変されたということは水戸藩士にとって屈辱である。 頼房・光圀の丹精こめた庭園が目の前で壊されていく。それを指を咥えて見ていたという のでは単なる屈辱では済まない。 特に藩主にものを言える立場の重臣たちは何をしていたのかということになる。 そうした非難を何とかしてかわしたい。 とすれば、今の庭園を肯定するしかない。 頼豊による改変はほとんど無視し、頼房公の作られた庭園そのままと受け止めるのである。 改変はされたが、基本的には変わっていないと捉えるのである。 後楽紀事は、そうした理解普及のために書かれた本である。 ここまで書いてきて、新たな資料に出会った。 「東京都における文化財庭園の保存活用計画(小石川後楽園)」という文書によれば、 田村剛著・「後楽園史」に以下のような記述があるという。 「松平頼豊による改変により景が一変してからは、改変前の景を知る者の拝見が禁止された」 というのである。(原典等詳細は不明である)。 庭園の以前の景観を知る者は、改修後の庭園には入れないようにしたというのであるから、 江戸藩邸内で改修が大いに話題になっていたのだろう。 勿論批判も多く、それに対して高松松平系の家臣たちが敏感に反応したようである。 その結果、改修について話題にするのも憚られるようになった。 さらには改修前の庭園を見た者が改修後の庭園を見ることが禁止されたのである。 あそこがああなった、こうなったなどという話をすれば、頼豊がどれほどに庭園を破壊して しまったか明白になってしまうからである。 このような状態とすれば、鵜飼信興が後楽紀事に改修前の庭園の様子を書けるわけがない。 しかし、小石川後楽園について書く以上、改修前の庭について書かないわけにもいかない。 とすれば、改修前改修後のも、庭はほとんど変わらないように書くしかないのである。 もちろん滝が壊れたり中の島が崩れたりはした。しかしそれは地震によるのであるから仕方の ないことである。こうした自然の経緯についてはしっかり書いてある。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/748
749: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2022/10/15(土) 19:58:49.82 ID:Hjkxb0g/0 また、上記「後楽園史」によれば、頼豊の改修により園内に畑が作られ、大根、蕪などが 栽培されていたという。また水車楼のそばに果樹が植えられた。 さらに、丸屋は耕作の際に休憩する御茶屋とされていたほか、亀や鯉、鴨、鶴等の生き物を 飼育していたという記述があるという。 頼豊はこういう庭が好きだったようである。 大泉水は琵琶湖であるとし、そこに行くまでの中山道の木曽路や、京都やその周辺の名所を 写した庭園にしたのは誰かといえば、それは間違いなく頼豊である。 これは上に繰り返し述べてきたところである。 だが、日本の史学は文献主義であり、もっとも権威のある文献である後楽紀事が、頼房の 庭園作成時にすでに縮景庭園であるとし、回遊式庭園であったとする以上、それに異論を 唱える学者などいない。 上述のように、日本庭園史の研究者である重森三玲という人など、小石川後楽園を 「諸大名の大庭園中、最も早く完成した大名庭園」と規定している。 後楽紀事の記述を前提にする限り、当然そうした位置づけになるだろう。 これ以外の説は成立しないのである。 とにもかくにも文献は重要であり、文献があればそちらが重視される。 文献に反するようなことを書いても無駄である。 であるから、ここに書いたことは一笑に付していただきたい。 忘れていただいて結構である。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/749
750: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2022/10/17(月) 08:26:16.48 ID:I1eV0Zpd0 ここまで書いてきて閑話休題。 しかし、水戸藩の侍たちもだらしがない。 御成りのときに庭園を大改造するような必要があったのか。 手を加えずにおくことはできたのではないか。 幕府からは勿論事前に御成奉行が来て「ああせい、こうせい」と指図する。 はじめて御成りを迎える大名は御成御殿というものを新築する。 その御殿建設にあたっては奉行が三人派遣され逐一指図を受けることになっていた。 小石川後楽園への御成りのときは御成御殿は建てられなかったが、その分庭園の改造を 要求されたわけである。奉行たちが庭園を隅々まで見て細かく指示したのだろう。 しかし、家光公ご苦心の庭という一言で排除できたはずである。 「大猷院様(大猷院とは家光の廟書の名称である)お骨折りの御庭」と言うだけである。 それだけで奉行たちは命令を引っ込めざるを得なくなるはずである。 あちらはどうせ庭園などに興味はない。 奥仕えの女中たちの暇つぶしである。庭園などチラと覗けばそれでいいのである。 硝子御茶屋などで大ご馳走になっただけだろう。 それにしても何故奉行たちの言うがままに石を撤去し、庭園を破壊してしまったのか。 改造に応じるにしても、そこそこに済ますことは出来なかったのか。 御成奉行の指示とはいえ、ここまでやってしまうのは尋常でない。 こうなったのは、当時の水戸藩江戸屋敷の方にも原因があったと見るべきである。 結論から言えば、江戸藩邸は高松松平家に支配されてしまっていたのである。 桂昌院の御成りは元禄15年(1702)である。 その時の藩主は第三代綱條であった。光圀の兄である高松松平藩主頼重の次男である。 光圀が水戸德川家の血統を長男である兄頼重の系統に戻すため、綱條を養子にした。 将来自分の跡目を継がせることにしたのである。 光圀の養子となった綱條は、約20年後の元禄3年(1690)、光圀の隠居にともない、35歳で 水戸藩主となる。桂昌院の御成りがあったのは、その12年後で綱條47歳。 その二年前に光圀は亡くなっている。 光圀は隠居してからも水戸藩の政治には目を光らせ、決して養子の綱條や重臣たちの勝手には させていなかった様子である。 しかし死の数年前から胃の不調に苦しみ、さらに亡くなって2年も経てばもはや忘れられた 存在であった。ここに至って藩内はようやく綱條の天下になった。 綱條の天下というより、より正確には綱條に付いてきた元高松松平家の家臣たちの天下と なったのである。従来の水戸系の重臣たちの地位はそのままだったろうが、光圀という バックが無いために綱條に対する影響力を失った。 一方、高松松平家から付いて来た家臣だちは綱條の側近グループを形成し、江戸藩邸の政治を 仕切り始めた。小石川藩邸における綱條の側近たちを誰それと特定することはできないが、 間違いなくこうした高松松平家系の家臣たちがいたはずである。 時あたかも側近政治が盛況の時代だった。当時を「側用人の時代」という学者もいる。 (綱吉における柳沢吉保、家宣における間部詮房を想起されたい)。 重臣でなく、殿様の側にいるお気に入りの家臣が政治を動かす時代だった。 綱條の側近たちは、水戸家の庭園などには思い入れも何もない。 庭園を守ろうなどとは考えず、幕府の奉行たちの言うことをホイホイ聞いてしまった。 御成奉行に必要以上に迎合し、庭園を大きく破壊してしまったのである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/750
751: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2022/10/17(月) 08:29:01.81 ID:I1eV0Zpd0 その後高松松平家から宗堯が養子に入り、成長して四代藩主の地位に就いた。 そうなってからは、さらに高松松平家系の家臣たちの力が強くなった。 この家臣たちによって水戸家は乗っ取られたようになったのである。 そうでないと、頼豊などという、自藩の家老たちにも相手にされていない政治手腕の無い 殿様が強権をふるうなど不可能であろう。 頼豊はまるで水戸藩主のようだったというのは、当時の文献が一様に伝えるところである。 ただし、頼豊がここまで堂々とやり切ったのには本質的な理由がある。 頼豊は光圀のことなど問題にもしていなかったのである。 それは何故かといえば自分たちは頼房の長男の血統だからである。 自分たちの方が由緒正しい血統であり、本来水戸家の藩主であるべき血筋なのである。 高松松平家は水戸家の支藩(分家)というが、実際はこちらが本家なのである。 光圀が水戸家を継いだのは間違いであり、朱子学的にはあってはならないことである。 それは光圀本人が認めている。 間違いを認め、反省した光圀本人の手で、水戸家は本来あるべき姿に戻ったのである。 頼豊はそのように考えていたので、水戸家の政治に自分が口を出すことを当然と思っていた。 光圀が取り立てた重臣などに自分の息子が抑えつけられ、指図されるなど到底我慢ならない ことであった。光圀は何かの間違いで二代目藩主となっていたのだから、その影響力は早急に 取り除かねばならない。従来の重臣たちを遠ざけ、自分たちで藩政を独占した。 光圀の残した後楽園なども目障りである。 少なくとも、そのままにしておく必要はないと思ったのだろう。 上で水戸藩士もだらしがないと言ったが、実際に水戸藩士の立場だったらどうだろう。 誰も何も出来ないかも知れない。 頼豊の改造のときは、頼豊が木が多すぎるとか大きすぎると言ったのだろう。 木など後から伸びてくる。藩士たちは剪定だけと思ったのかも知れない。 工事が始まったらもはやそれまでである。やり出したら止まるものではない。 庭園改造だけでなく、一から十までこれだった。 従来の藩邸重臣などには相談もせず、いきなりやってしまう。やった後に説明もない。 宗堯の生母を高松から呼び寄せるため御殿を建てたときもそうだった。 いきなり普請が始まり立派な御殿が完成した。何だろうと思っていると、生母が移って きて、高松から連れてきたお付きの女中たちと贅沢三昧の暮らしを始めた。 何も知らない従来の藩邸の住人たちにとっては、降って湧いたようなことであった。 実際のところ、頼豊や高松松平系の家臣の暴走を止めるには宗堯を殺すしかなかった。 しかしその時には庭園は一変していた。 後楽紀事が書かれた理由を一つ足しておく。 宗堯の死について、水戸家中だけでなく世間でもいろいろ取りざたされたのではないか。 これを払拭する必要があったのかも知れない。 頼豊公はたいした改造はしていない。水戸の藩士たちは改造のことなど気にしていないと いうことを世に表明したかったのかも知れない。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/751
752: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2022/10/17(月) 08:33:52.82 ID:I1eV0Zpd0 [ 現在の後楽園について ] 中の島(蓬莱島)は見るも無惨である。 土を盛って木を植え、周囲を多少石で囲っただけである。 亀島などは徳大寺石を立てたところまではいいが、他にまともな石が一つもない。 残土置き場のようである。 竹生島などは庭師の仕事が雑すぎて、眺めていると心が荒んでくるようだ。 涵徳亭の庭に置かれた石はただ投げ出されただけのようであり、そもそも品のない石ばかり で見るに堪えない。全体に日本庭園の格調が感じられない。 おそらく、庭園を管理しているのは日本庭園専門の庭師ではないのだろう。 都庁の役人も造園会社も、普通の公園を管理している人たちなのだと思われる。 日本庭園が公園化され、半分西洋庭園のようになるのは仕方がないことである。 苑路が普通の道路のようになり、泉水の縁がセメントで固められてもやむを得ない。 しかし、泉水の中までは人は入らないのだから部分的には本物の景観を作らないといけない。 涵徳亭の庭なども本気でつくらなければならない部分である。 京都などの、本物の石組みを築ける造園会社を使わなければ駄目だと思う。 その他、近代的・西欧的公園との関係でいうと、田圃のようなところにアヤメを一面に 咲かせるようなことは本来日本人のしなかったことである。 ああしたものは、広大な敷地一面にチューリップやラベンダーを咲かせる感覚に近い。 昔も菖蒲田のようなものは作ったが、今のようなものではなかった。 (兼六園も曲水のところにカキツバタの群生があるが、昭和51年に有料化してからやり過ぎ である。昭和44年に園内から離れたところに梅林を作っている。あれも不要であった。 水戸の偕楽園には梅林や竹林があるが、もともとは戦時の軍糧にするためのものだった。 そもそも偕楽園は公園であって、日本庭園とはいえない)。 ともかく、広いところを一面の花畑にするというのは、田舎の市町村でもいくらでも作れる 景観であるから田舎でやればよい。 アジサイを数百・数千本植えた寺が観光名所になっているが、ああしたものもまともな感覚の 人間ならしないはずである。 田舎の寺でやっている分にはかまわないが、それは日本庭園とは何の関係もないことである。 花を咲かせるにしても万事控えめがよい。日本庭園には抑制が必要である。 侘びや寂び、枯淡の境地に通ずるものがなければならない。 何よりも大切なものは品格である。 不要なものを削ぎ、削ぎに削いだ結果ごく単純な美が残る。それが品格を生むのである。 馬鹿げた風景を作り出してはならない。 修学院離宮の庭 https://kyotofukoh.jp/report461.html 後水尾天皇の作庭。1596年に生まれ1680年まで長命した天皇で、徳川頼房とほぼ同時代の 人である(頼房は1603年に生まれ、1661年に死亡)。 この二人の人生は、60年近く重なっている。 後水尾天皇は庭に造詣が深く、修学院離宮の他にいくつもの庭を手がけている。 小石川後楽園が出来たときは、すぐにその絵図(設計図)を取り寄せ、これは名園なりと 感嘆されたという。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/752
753: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2022/10/22(土) 07:30:07.22 ID:RXHRGJxE0 庭園長々と書き込んですいませんでした。これで終わりです。 皆さんの書き込みを邪魔してしまったかも知れない。 どうぞ自由に書き込んで下さい。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/753
754: 名無しさん@お腹いっぱい。 [] 2022/12/21(水) 12:23:53.19 ID:U2p/KSb90 水戸藩主・徳川斉昭がペリー殺害を計画…攘夷など示す書簡16点、倉敷で発見 書簡が見つかった江戸末期から塩田開発で栄えた旧野崎家住宅には、約10万点の史料が保管されている。 見つかった書簡は、斉昭が幕府の海防参与の職にあった1853~55年頃に書かれたとみられる。 「夷人(いじん)焼殺ノ件」と朱書きされ、黒船で江戸の手前まで乗り付けたペリーら米の使節を「墨夷(ぼくい)」と呼び、抹殺する案を詳細に書き付けている。 書簡で斉昭は「仕掛けをした屋敷に入れてしまえば一度に焼き殺せるのではないか」「江戸城内の大広間で上官らに 酒をたっぷりと飲ませて頭をはね(中略)品川の辺りに待機したものには狼煙(のろし)を上げて知らせる。船中に 残ったものも残さず切り捨てられる」といった計画を記している。調査した県立博物館の横山定副館長は「腹心の 東湖に率直な意見を述べており、一貫した攘夷思想を唱えた斉昭らしさが、うかがえる印象的な書簡で、貴重な 発見だろう」と話している。 https://news.yahoo.co.jp/articles/172e1d3eda022c45ee7aa54d98528a104c11ac17 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/754
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