[過去ログ] 【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
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735: 2022/10/15(土)19:32 ID:Hjkxb0g/0(4/18) AAS
亀島について触れておく。
亀島の徳大寺石を中心とする景は、京都二条城二の丸庭園の亀島に似ている。
亀がグイッと頭をもたげた姿を写したものなのである。
だからこれを亀頭石という。
外部リンク[php]:garden-guide.jp
ここの一番下から三番目の写真が亀島を正面から撮ったものである。
亀頭石は徳大寺左兵衛にちなんで徳大寺石と呼ばれている。
二条城の亀島は、石橋を渡して人が入れるようにし、そのため松を植えていない。
馬鹿みたいな話である。
後楽園の方は、徳大寺石の両端の石が貧弱で、亀島らしいどっしりとした趣きがない。
省22
736: 2022/10/15(土)19:35 ID:Hjkxb0g/0(5/18) AAS
[中の島(蓬莱島)について]
今の小石川後楽園では、誰も中の島(蓬莱島)には興味をもつまい。
大木の生えたただの小山のようになっているからである。
しかし、本来の中の島の石組みは10メートルほどの高さがあり、そこからさらに木が天に
伸びていた。奇怪な尖塔のような姿だったと思われる。
大きさも今の蓬莱島より一回り大きかった。
しかし、現状からして、それらの石組みは崩壊し撤去されたと見るほかはない。
石を高く組んだ構造であったため、地震で崩壊した可能性がある。
桂昌院の御成りの翌年(元禄16年)の地震は大きく、滝石組みや滝への給水設備が壊れた。
このときに蓬莱島の石組みも崩れたとされている。
省46
737: 2022/10/15(土)19:36 ID:Hjkxb0g/0(6/18) AAS
後楽紀事には他にも中の島の記述がある。
「大泉水のうち、長橋の西に在り。人々これを蓬莱島といふ。弁財天の祠をたてり。
この島ことに絶景なり。瀧ありて高く掛かれり。みな人奇異の見物なりとて驚かざる
ものなし。(中略)是も大地震に崩れたれば、みな地中にしづめり、亀の腮の石のみ残りて、
今鼻まかり岩といふ。」。
前段は滝があるとしているのだから、鵜飼信興が想像で書いているのである。
後段が今の話である。ここで「亀の腮の石のみ残りて」というのが分からない。
腮(あぎと)とは、顎とかエラのことである。徳大寺石は亀の頭の部分である。
この顎の部分の石ということは、徳大寺石の土台になっていた石のことなのだろうか。
おそらく、鵜飼信興が徳大寺石のことを「腮の石」と言っているのである。
省25
738: 2022/10/15(土)19:37 ID:Hjkxb0g/0(7/18) AAS
大徳寺瑞峯院の独座庭は近代作庭家の作品だが、波立つ海の中の蓬莱島をあらわしている。
外部リンク:serai.jp
入門用にこういう庭があってもよいだろう。
座禅をするための庭だと思えば砂紋などはどうでもよい。
この写真の何枚か下に妙心寺退蔵院「元信の庭」の写真。蓬莱島の石組みがある。
狩野元信は室町時代の絵師である。1476年生まれで、足利九代将軍義尚に仕えた。
(義尚は足利義政と日野富子の次男である。先に将軍後継と決まっていた義視と対立し、
応仁の乱のきっかけとなった将軍)。
日本画の代表的な流派である狩野派の始祖・狩野正信の長男で、狩野派の画風を完成させ、
室町時代から明治まで続く狩野派の基礎を作り上げた人物である。
省46
739: 2022/10/15(土)19:38 ID:Hjkxb0g/0(8/18) AAS
[蓬莱島(中の島)の実体]
小石川後楽園が作られた当初の中の島(蓬莱島)の形状は、世に類のない独特のもので
あるが、あえていえば智積院の庭の築山が似ているかも知れない。
智積院の庭
外部リンク[php]:garden-guide.jp
無数の石とサツキの刈り込みで出来た築山が特徴である。
池の中にある島のように見えるが、背後は地面につながっており、築山である。
中国の廬山(ろざん)を模したものという。
廬山とは江西省北部にある長江の南にある山で、諸峰が絶壁をなして聳え立つ。
多くの名士が隠棲し、李白や蘇武など有名な詩人が訪れた。
省37
740: 2022/10/15(土)19:39 ID:Hjkxb0g/0(9/18) AAS
つぎに座観式庭園であること。座観式とは、一定の場所に座って眺める庭園を言う。
観賞式庭園ともいい、苑路を巡る回遊式庭園に対置されるものである。
まず、智積院庭園が座観式であるのはいうまでもない。
大書院の座敷から眺めるようになっている。
昔は書院も講堂もこんなに大きくはなく、池はこれほど間近ではなかったはずである。
書院から遠く廬山を仰ぐつもりで築山を眺めたのである。
では小石川後楽園はどうか。
残念ながら、小石川後楽園が座観式庭園であったなどという人は一人もいない。
作庭された当初から小石川後楽園の庭は回遊式であったということになっている。
それは、最も権威ある資料である鵜飼信興の書いた「後楽紀事」がそのように書いている
省26
741: 2022/10/15(土)19:39 ID:Hjkxb0g/0(10/18) AAS
後楽園が座観式であったと言っても、一カ所だけから見る庭ではなかった。
茶屋がいくつかあり、そこで休めるようになっていた。
ここが厳密な座観式庭園である竜安寺方丈南庭などとは異なる点である。
茶屋はただの休憩所ではなく、観賞ポイントであった。
とするなら、鑑賞ポイントを巡って歩くのだから回遊式と言えるではないかとの批判も
あろう。たしかに、ここから先は、「回遊式」とは何かという言葉の意義をめぐっての
議論になりかねない。
まず、小石川後楽園にはどのような観賞ポイントがあったかを明かにしよう。
最初に挙げられるのは清水観音堂の舞台だろう。
舞台ができるまでは、千手観音を安置した観音堂があるだけだった。
省32
742: 2022/10/15(土)19:49 ID:Hjkxb0g/0(11/18) AAS
小石川後楽園が回遊式になったのは、おそらく桂昌院の御成りのときである。
苑路を作るために大きな石が軒並み撤去され、平坦な道が作られた。
その後、頼豊による改修のときに苑路が隅々まで整備された。
頼豊によって小石川後楽園は池泉式回遊庭園として完成されたのである。
同様の庭は他にもある。初期の岡山後楽園である。
池の周囲に苑路はなく、周囲の高台になったところや傾斜地に小道があった。
その道をたどって茶屋などに移動したのである。
岡山後楽園が回遊式といえる庭になったのは、三代継政(つぐまさ)が12年の歳月をかけて
園内中央に唯心山を築いてからのことである。
栗林園もそうだが、江戸時代初期には観賞ポイントがいくつかあっても、それを一日で回る
省33
743: 2022/10/15(土)19:50 ID:Hjkxb0g/0(12/18) AAS
小石川後楽園が回遊式になったのは、おそらく桂昌院の御成りのときである。
苑路を作るために大きな石が軒並み撤去され、平坦な道が作られた。
共通点の第三は、須弥山(しゅみせん)をかたどった築山ないし島があることである。
須弥山とは、仏教で世界の中心にあると考えられている山である。
須弥山を解説するのは困難である。ウィキの「須弥山」の箇所を読んでいただくしかない。
そこにある絵図などの写真を見ることは必須だろう。
簡単な解説ならこのサイトにもある。絵が分かりやすい。
外部リンク:yasurakaan.com
須弥山の中腹の四方には四天王の住む都があり、眷属たちがその周辺に住む。
山頂の?利(とうり)天には帝釈天の住む城がある。
省27
744: 2022/10/15(土)19:51 ID:Hjkxb0g/0(13/18) AAS
では、小石川後楽園の中の島(蓬莱島)はどうか。
この点、元々の島の姿からすれば須弥山としか言いようがない。
須弥山とは、仏画などでは曼荼羅のような幾何学的な模様であらわされているが、機能を
含めて描くとあのようになるのであって、本来は笠が開かない松茸のような形をしている。
松茸よりもエリンギのような形といった方が分かりやすいかも知れない。
小石川後楽園の中の島の姿はアニメ映画のラピュタに出てくるような形状であった。
水面から五メートルほどの高さまでは大石が組み上げられ、そこからさらに尖塔のように
数メートルの高さの石が組まれていた。
その頂上付近から水が噴き出し、滝になって流れ落ちていた。
須弥山では甘露の法雨という甘い水が降ってきてそこに住む者たちの喉を潤す。そのため
省23
745: 2022/10/15(土)19:53 ID:Hjkxb0g/0(14/18) AAS
そしてこの庭園を光圀はほとんど変えなかった。
後楽紀事にある。
「一木を伐り一石をうこかしたまふ事はなかりけるとこそ。明遺臣舜水に命ぜられて、
御園の名をえらばせられし時に、(中略)後楽園と名付けられて、御屋形より御園への
唐門にも右の三字を書して扁額となせり。得仁堂、文昌堂、円月橋の類は、義公上の
御経営なり。すべて威公上のあそばされたる御事を、少しなりともあらためたまはず。
されどことにより改めさせたまふこともありしかど、是はまたもとのごとくに成べき
ことなり。一木なりとも枯たるは御本意なき御事とて、年々御植かへは有之候得ども、
大木を伐らせらるる事は、かってこれなかりけるとそ。松は別て御当家へいはれある
ことなれば、一枝をも伐らせたまはざりけり。」。
省33
746: 2022/10/15(土)19:55 ID:Hjkxb0g/0(15/18) AAS
例えば得仁堂について、後楽紀事には「その後享保中、讃州岩清尾の八幡となる。八幡堂と
称す、額はやめらる。」とある。
頼豊が光圀の安置した伯夷・叔斉の像を讃岐岩清尾神社の八幡像に取り替え、「八幡堂」と
改名、「得仁堂」と書かれた額は取り外されたというのである。
この「八幡堂」は、文政9年(1827)に八代斉脩が八幡像のために宮を新設し伯夷・叔斉の
像を戻したので、それ以降再び「得仁堂」と呼ばれるようになった。
後楽紀事が書かれた時にはまだ八幡堂のままだったのである。
こういうこともしっかり書いてある。
事実は詳細と言っていいレベルできちんと書いてある。
にもかかわらず、琉球山についてはいっさい経緯を書かない。
省30
747: 2022/10/15(土)19:57 ID:Hjkxb0g/0(16/18) AAS
上述のとおり、後楽紀事の出版は享保21年(1736)である。
その前年に頼豊が亡くなっている。
頼豊の息子である宗堯は享保15年(1730)に急死したのであるから、この時から頼豊は
水戸家への出入りをしなくなったはずである。
つまり、頼豊が水戸家とのかかわりを断ってから6年、頼豊が死んでから1年経った後に
後楽紀事は出版されたのである。
本の出版と頼豊の死を関係づければ、いろいろな動きが見えてくる。
頼豊が死んで一年後に出版されたということは、頼豊が死んですぐに本の執筆が始められ
たということである。(或いは頼豊が病に倒れた時から書き始められたかも知れない。
水戸家と高松松平家は親戚であるから頼豊の病勢はすぐに分かる)。
省30
748: 2022/10/15(土)19:58 ID:Hjkxb0g/0(17/18) AAS
以上、後楽紀事はいろいろな時代のエピソードが整理されずに書かれているので、ただ
事実を羅列しただけのように見えるが、整理してみると、結局は頼豊の改造によっては
さほど庭園は変わっていない、むしろ昔に戻ったかのように書かれているのである。

こんな本を書けと命ぜられて、鵜飼信興はおおいに苦しんだと思われる。
目の前の庭園の景はほぼ全て頼豊が作ったもの、あるいは見立てを決めたものである。
それを知りつつも、現在の庭園を否定することはできない。
頼房の時代にこうした縮景庭園を造ったということはあり得ないのだが、仮にそれを
知っていたとしても、おくびにも出さなかった。
結局、今の景観が頼房公や家光公の苦心でできたように書いたのである。
しかし、さすがに学者らしく集められたエピソードは嘘ではない。
省29
749: 2022/10/15(土)19:58 ID:Hjkxb0g/0(18/18) AAS
また、上記「後楽園史」によれば、頼豊の改修により園内に畑が作られ、大根、蕪などが
栽培されていたという。また水車楼のそばに果樹が植えられた。
さらに、丸屋は耕作の際に休憩する御茶屋とされていたほか、亀や鯉、鴨、鶴等の生き物を
飼育していたという記述があるという。
頼豊はこういう庭が好きだったようである。

大泉水は琵琶湖であるとし、そこに行くまでの中山道の木曽路や、京都やその周辺の名所を
写した庭園にしたのは誰かといえば、それは間違いなく頼豊である。
これは上に繰り返し述べてきたところである。
だが、日本の史学は文献主義であり、もっとも権威のある文献である後楽紀事が、頼房の
庭園作成時にすでに縮景庭園であるとし、回遊式庭園であったとする以上、それに異論を
省9
750: 2022/10/17(月)08:26 ID:I1eV0Zpd0(1/3) AAS
ここまで書いてきて閑話休題。
しかし、水戸藩の侍たちもだらしがない。
御成りのときに庭園を大改造するような必要があったのか。
手を加えずにおくことはできたのではないか。
幕府からは勿論事前に御成奉行が来て「ああせい、こうせい」と指図する。
はじめて御成りを迎える大名は御成御殿というものを新築する。
その御殿建設にあたっては奉行が三人派遣され逐一指図を受けることになっていた。
小石川後楽園への御成りのときは御成御殿は建てられなかったが、その分庭園の改造を
要求されたわけである。奉行たちが庭園を隅々まで見て細かく指示したのだろう。
しかし、家光公ご苦心の庭という一言で排除できたはずである。
省33
751: 2022/10/17(月)08:29 ID:I1eV0Zpd0(2/3) AAS
その後高松松平家から宗堯が養子に入り、成長して四代藩主の地位に就いた。
そうなってからは、さらに高松松平家系の家臣たちの力が強くなった。
この家臣たちによって水戸家は乗っ取られたようになったのである。
そうでないと、頼豊などという、自藩の家老たちにも相手にされていない政治手腕の無い
殿様が強権をふるうなど不可能であろう。
頼豊はまるで水戸藩主のようだったというのは、当時の文献が一様に伝えるところである。
ただし、頼豊がここまで堂々とやり切ったのには本質的な理由がある。
頼豊は光圀のことなど問題にもしていなかったのである。
それは何故かといえば自分たちは頼房の長男の血統だからである。
自分たちの方が由緒正しい血統であり、本来水戸家の藩主であるべき血筋なのである。
省28
752: 2022/10/17(月)08:33 ID:I1eV0Zpd0(3/3) AAS
[ 現在の後楽園について ]
中の島(蓬莱島)は見るも無惨である。
土を盛って木を植え、周囲を多少石で囲っただけである。
亀島などは徳大寺石を立てたところまではいいが、他にまともな石が一つもない。
残土置き場のようである。
竹生島などは庭師の仕事が雑すぎて、眺めていると心が荒んでくるようだ。
涵徳亭の庭に置かれた石はただ投げ出されただけのようであり、そもそも品のない石ばかり
で見るに堪えない。全体に日本庭園の格調が感じられない。
おそらく、庭園を管理しているのは日本庭園専門の庭師ではないのだろう。
都庁の役人も造園会社も、普通の公園を管理している人たちなのだと思われる。
省31
753: 2022/10/22(土)07:30 ID:RXHRGJxE0(1) AAS
庭園長々と書き込んですいませんでした。これで終わりです。
皆さんの書き込みを邪魔してしまったかも知れない。
どうぞ自由に書き込んで下さい。
754: 2022/12/21(水)12:23 ID:U2p/KSb90(1) AAS
水戸藩主・徳川斉昭がペリー殺害を計画…攘夷など示す書簡16点、倉敷で発見

書簡が見つかった江戸末期から塩田開発で栄えた旧野崎家住宅には、約10万点の史料が保管されている。
見つかった書簡は、斉昭が幕府の海防参与の職にあった1853~55年頃に書かれたとみられる。
 「夷人(いじん)焼殺ノ件」と朱書きされ、黒船で江戸の手前まで乗り付けたペリーら米の使節を「墨夷(ぼくい)」と呼び、抹殺する案を詳細に書き付けている。
書簡で斉昭は「仕掛けをした屋敷に入れてしまえば一度に焼き殺せるのではないか」「江戸城内の大広間で上官らに
酒をたっぷりと飲ませて頭をはね(中略)品川の辺りに待機したものには狼煙(のろし)を上げて知らせる。船中に
残ったものも残さず切り捨てられる」といった計画を記している。調査した県立博物館の横山定副館長は「腹心の
東湖に率直な意見を述べており、一貫した攘夷思想を唱えた斉昭らしさが、うかがえる印象的な書簡で、貴重な
発見だろう」と話している。
外部リンク:news.yahoo.co.jp
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