[過去ログ] 【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
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743: 2022/10/15(土)19:50 ID:Hjkxb0g/0(12/18) AAS
小石川後楽園が回遊式になったのは、おそらく桂昌院の御成りのときである。
苑路を作るために大きな石が軒並み撤去され、平坦な道が作られた。
共通点の第三は、須弥山(しゅみせん)をかたどった築山ないし島があることである。
須弥山とは、仏教で世界の中心にあると考えられている山である。
須弥山を解説するのは困難である。ウィキの「須弥山」の箇所を読んでいただくしかない。
そこにある絵図などの写真を見ることは必須だろう。
簡単な解説ならこのサイトにもある。絵が分かりやすい。
外部リンク:yasurakaan.com
須弥山の中腹の四方には四天王の住む都があり、眷属たちがその周辺に住む。
山頂の?利(とうり)天には帝釈天の住む城がある。
帝釈天は天帝帝釈ともいい、四天王を配下として須弥山を守る。
帝釈天の像は、白象にまたがり、独古を持ち、鎧を身につけて中国の武将のような姿を
していることが多い。?利天にある帝釈天の城は善見城という。
以上を前提に、まず智積院庭園について検討しよう。
この庭のどこに須弥山をかたどったものがあるのか。
それは池の向こうの築山である。
今一度上記サイトを見ていただきたい。
外部リンク[php]:garden-guide.jp
築山の上に石塔がある。
これが帝釈天の善見城なのである。
この築山は昔はもっと高かったかも知れない。下の方にはより多くの大きな石が組み上げ
られていただろう。サツキはもっと大きく、四角く剪定して壁のようにしてあった。
それによって切り立った断崖が表現されていたのである。
今は一面の最近は丸い刈り込みしかなく、デザイン変更されたようである。
庭師がこの築山が須弥山だということを意識しなくなったのかも知れない。
ところで、池の向こうの築山は蓬莱山のはずであった。
それが何故須弥山なのか、疑問に思われる向きもあるかも知れない。
結論から言うと、鶴亀蓬莱庭園というのは一つの型であり、型というのは守られればそれで
いいのである。型を守った上で、別の趣向を持ち込むことは可能であり、自由である。
智積院庭園では、池の向こうの築山は蓬莱山であるが、しかしその姿は須弥山である。
蓬莱山と見る人は見ればよいし、須弥山に見えるのであればそのように見ればよい。
なお、智積院庭園には鶴島亀島が無いが、おそらく池が狭くなり撤去されたのだろう。
とにかく書院や講堂が大きく、ぎりぎりまで庭に寄っている。
これでは池もかなり埋め立てられているはずである。
本来は最低でもあと10メートルは奥行きがあっただろう。
その証拠に、舟入石を置く場所がなく、縁側の近くに置いて穴を穿ち、手水鉢になっている。
本来は池の左右に鶴島亀島が並び、その手前に舟入石が半分水に浸かって置かれたはずである。
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