[過去ログ] 【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
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723: 2022/09/23(金)22:45 ID:iiAqLOC20(6/14) AAS
[ 頼豊による小石川後楽園改修 ]
頼豊が行楽園を改修した時期については、具体的なことは分からない。
どの資料も「享保年間」としか言わない。
頼豊の息子である宗堯(むねたか)が水戸家の四代目藩主となったのは享保3年(1718)
である。その前から水戸家の養子に入っていたが、この年に先代の綱条が亡くなり、
家督を継いだのである。
先代も隠居したのではなく亡くなった。そして息子が藩主になった。
だからもはや誰も遠慮する者が無く、やりたい放題のことをやり始めたのである。
したがって、庭園の改修は享保3年以降であることは間違いない。
息子の宗堯は上記のごとく早世した。享保15年(1730)である。
省24
724: 2022/09/23(金)22:47 ID:iiAqLOC20(7/14) AAS
このような庭園の特徴は、何といっても景観が賑やかなことである。
さまざまな園芸種の樹木や草花を植え、花を咲かせて季節ごとの風景を楽しむ。
さらに、園内の景色を日本各地の名所に見立てるのである。
(ただ見立てるだけでなく、景勝を模した景観を作り出したりもする。これを「名所写し」
という。こうした趣向の庭園を縮景庭園という)。
「後楽紀事」によれば、小石川後楽園の大泉水は、琵琶湖ということになっている。
唐門から入った先は「京都への旅」という一種のテーマパークになっているのである。
唐門を入っていくと周囲に木がたくさん生えた水路がある。それは木曽川である。
とっつきにある石は「寝覚ノ床」であり、木曽路をめぐって唐門方向に戻り、大泉水の
畔を行くと、池の中にいくつか石があり、それは「竹生島」ということになっている。
省12
725: 2022/09/23(金)22:59 ID:iiAqLOC20(8/14) AAS
園内の景色についてはこのブログがよい。写真もうまい。
(ブログのアドレスを書くと書き込めなくなる。以下の標題をコピペして検索していただきたい)。
小石川後楽園【訪問編】 まだ知らぬ、日本を訪ねて
江戸時代も中期以降になると、庭園作成者は築山池泉回遊式庭園に加え、その近くに
田園あるいは里山の風景を作り始めた。
田園風景といえば、まずは「水田」である。田圃の周囲の湿地帯には菖蒲やアヤメが咲く。
斜面には一面に彼岸花が咲く。
里山の麓には梅林があり、柿の木や杏・桃の林がある。
そういった、日本人にとって懐かしい風景が庭園の景として作られるようになった。
小石川後楽園にも水田があり、梅林があり、菖蒲田がある。
省28
726: 2022/09/23(金)23:00 ID:iiAqLOC20(9/14) AAS
左兵衛は土地の形状はそのまま生かし、何百年と経た大木もあえて切らなかった。
深山幽谷のような雰囲気をまとった庭であった。
光圀も、よほどの必要がなければ一木一石も動かそうとはしなかったはずである。
光圀は、庭園際に彰考館を建てる必要から、庭園を内庭と「後楽園」とに分けた。
藩邸の一部である内庭と純粋の庭園部分とを明確に区別し、庭園部分に漢籍から名前を
付けたのである。内庭と後楽園の境として唐門を作った。
それから池の周囲、それも岸辺から離れた森の中のような場所に中国風のお堂を建てた。
光圀は庭園を改造するといっても、何かをプラスしただけである。
従来の庭園を破壊するような改造はしなかった。
光圀は庭園を改造したというよりも、完成させた人というべきかも知れない。
省16
727: 2022/09/23(金)23:01 ID:iiAqLOC20(10/14) AAS
清水観音堂は、時代的には光圀が作ったものである。
外部リンク[html]:kakezukuri.omiki.com
崖の上に懸造り(かけづくり)で観音堂を作り、舞台がしつらえてあった。
舞台といっても芸能のための舞台ではない。崖の上にせり出した縁(えん)を言う。
下に白糸の滝があり、これは清水寺の奥の院の滝だという。
さらに、清水観音堂の本尊は清水寺と同じ千手観音である。
すると平仄が合い、この観音堂は清水寺の写しだということになる。
光圀公も名所の見立てや名所写しをしていたではないかと言われそうである。
しかし、これらは「見立て」が変わっただけである。
観音堂は、もともとは清水寺など意識されていない。
省25
728: 2022/09/23(金)23:02 ID:iiAqLOC20(11/14) AAS
[八卦堂]
八卦堂は、おそらく浙江省西湖の雷峰堂をイメージしたものだろうということは上述した。
光圀が将軍家光に謁見したおりに、中国の学問の神である文昌星の像を頂戴した。※
(現在この文昌星像は徳川ミュージアムにある)。
外部リンク:bunka.nii.ac.jp
この文昌星像を安置したのが八掛堂である。
光圀の時代には文昌堂という名称であった。
※ 文昌星とは文字通り星であり、周囲の星を併せて文昌宮と呼ばれる星座をなす。
(北斗七星の枡形の第一星(魁星とよばれる)も学問の神とされ、両者は重なる)。
中国の星座は、北極星を「天帝」とし、周囲の星に役所や庭園や役人の名称をあてはめ、
省12
729: 2022/09/23(金)23:03 ID:iiAqLOC20(12/14) AAS
光圀は許可制ではあるが、貴賤を問わず庭園への入場を許した。
庭を観賞させるというより、たくさん作ったお堂を拝観させたかったのだろう。
文昌堂には、学者や識者など多くの人が来訪して拝礼したという。
この時代には、一種の儒学ブームが起きていた証拠といえるだろう。
頼豊による庭園改造のときに、お堂の内部の文昌像は移転させられ、お堂には讃岐の
金比羅大将が祀られた。お堂の名前も八卦堂に改められた。
八卦堂は明治維新も無事で乗り越えた。
しかし関東大震災で焼失し、今は土台しか残っていない。
土台の形から八角形のお堂であったことが分かる。
なお水戸弘道館の八卦堂は、斉昭公がこの八卦堂に倣って建立した。
省13
730: 2022/09/23(金)23:04 ID:iiAqLOC20(13/14) AAS
八卦堂は弘道館全体の中心に建てられ、その中に「弘道館記」(建学の精神を記した文章)
を刻んだ大理石を収めた。やや押しつけがましいというか、何事も徹底して行い、懈怠を
許さない斉昭公らしいやり方である。
何故八卦堂という名称なのかといえば、八面ある壁面の上部に、それぞれ算木を並べ、
易の「卦」が示されているからである。
八卦堂についてはここが詳しい。
外部リンク:ibamemo.com
易経にある「易に太極あり、これ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず」。
この言葉が図にされているので是非ご覧頂きたい。
両儀、四象、八卦は算木を使って表示される。
省31
731: 2022/09/23(金)23:05 ID:iiAqLOC20(14/14) AAS
調べてみたが、八卦堂という名のお堂は日本では小石川後楽園と弘道館のもの以外に見当たら
ないようである。小さな祠などがあるのかも知れないが、少なくとも有名なものはない。
そもそも日本では八角堂そのものが少ない。八角堂は中国では皇帝の廟として建てられること
が多かった。日本では法隆寺や興福寺、広隆寺など有名な寺院にあることが多い。(もちろん
近年にただの納骨堂として作られた八角堂ならいくらでもある)。
八角堂が少ないのだから、これに八卦堂という名のついたお堂などめったにあるものでは
なかろう。中国では八角の塔やお堂が多いが、中国でも、八角の堂塔に八卦の算木を飾った
建造物は珍しいのではないか。
もしかしたら中国の明の時代、上海や杭州などで流行した様式なのではなかろうか。
小石川後楽園の八卦堂は、朱舜水の発案のような気がする。
省23
732: 2022/10/15(土)19:28 ID:Hjkxb0g/0(1/18) AAS
[ 小石川後楽園-総括 ]
思いがけず庭園に関する叙述が長くなってしまった。
内容が錯綜したが、ここで追求したテーマは、松平頼豊が小石川後楽園をどれだけ改変した
かということであった。逆にいうと、頼房公が作庭し光圀公が完成させた小石川後楽園は、
どれだけその姿を留めているのか、である。
結論から言えば、庭園の土台である護岸石組みや滝石組みなどの庭園の基本構造部分は
ほとんどが破壊されたと見るべきである。
この時代の庭は、京都に金地院方丈庭園などが残されているし、東京でも旧芝離宮恩賜庭園
など、池の護岸石組みをそのままにした庭園が残っている。
しかし、小石川後楽園では景観の要になる石はほぼ撤去されている。
省30
733: 2022/10/15(土)19:31 ID:Hjkxb0g/0(2/18) AAS
後楽紀事が出版されたのは上記のように元文元年(1736)であり、頼豊による庭園改造
から6年は過ぎている。
頼豊の息子である水戸德川家第四代藩主宗堯は享保15年(1730)に死んだ。
息子が死んだのだから、頼豊は水戸家の藩邸に出入りして藩主のような振る舞いをするなど
出来なくなったはずである。後楽園の改修は息子の宗堯が生きていた間のことだろう。
だから頼豊による改修は、どんなに遅くとも享保15年には終わったのである。
頼豊は息子の死の5年後、享保20年(1735)に死亡している。
そして、後楽紀事は頼豊が死んだ翌年に出版されているのである。
著者の鵜飼信興は彰考館の吏員だから、ほぼ毎日内庭にある彰考館に通っていた。
いつから通っていたかは分からないが、本を出版するほどの史館員なのであるから、3年や
省37
734: 2022/10/15(土)19:32 ID:Hjkxb0g/0(3/18) AAS
島はそれだけではなかった。
蓬莱島があるなら、鶴島と亀島がなければならない。
だが、現在小石川後楽園に亀島はあるが、鶴島はどこにもない。※
鶴島と亀島はペアになっているものであるから、片方だけというのはあり得ない。
だから鶴島は撤去されたと考えるしかないのである。
鶴島は、天竜寺の曹源池の場合は池の左側にある。多くがそうなっているようである。
しかし金地院方丈庭園は右側であり、決まったものでもないらしい。
亀島鶴島には松を植える。亀島には重厚な枝振りの真っ直ぐな松を、鶴島には枝を広げた
松を植える。鶴島の松は地を這うように斜めに伸び、そこから大きく枝を広げる。
鶴の姿を現しているのである。
省17
735: 2022/10/15(土)19:32 ID:Hjkxb0g/0(4/18) AAS
亀島について触れておく。
亀島の徳大寺石を中心とする景は、京都二条城二の丸庭園の亀島に似ている。
亀がグイッと頭をもたげた姿を写したものなのである。
だからこれを亀頭石という。
外部リンク[php]:garden-guide.jp
ここの一番下から三番目の写真が亀島を正面から撮ったものである。
亀頭石は徳大寺左兵衛にちなんで徳大寺石と呼ばれている。
二条城の亀島は、石橋を渡して人が入れるようにし、そのため松を植えていない。
馬鹿みたいな話である。
後楽園の方は、徳大寺石の両端の石が貧弱で、亀島らしいどっしりとした趣きがない。
省22
736: 2022/10/15(土)19:35 ID:Hjkxb0g/0(5/18) AAS
[中の島(蓬莱島)について]
今の小石川後楽園では、誰も中の島(蓬莱島)には興味をもつまい。
大木の生えたただの小山のようになっているからである。
しかし、本来の中の島の石組みは10メートルほどの高さがあり、そこからさらに木が天に
伸びていた。奇怪な尖塔のような姿だったと思われる。
大きさも今の蓬莱島より一回り大きかった。
しかし、現状からして、それらの石組みは崩壊し撤去されたと見るほかはない。
石を高く組んだ構造であったため、地震で崩壊した可能性がある。
桂昌院の御成りの翌年(元禄16年)の地震は大きく、滝石組みや滝への給水設備が壊れた。
このときに蓬莱島の石組みも崩れたとされている。
省46
737: 2022/10/15(土)19:36 ID:Hjkxb0g/0(6/18) AAS
後楽紀事には他にも中の島の記述がある。
「大泉水のうち、長橋の西に在り。人々これを蓬莱島といふ。弁財天の祠をたてり。
この島ことに絶景なり。瀧ありて高く掛かれり。みな人奇異の見物なりとて驚かざる
ものなし。(中略)是も大地震に崩れたれば、みな地中にしづめり、亀の腮の石のみ残りて、
今鼻まかり岩といふ。」。
前段は滝があるとしているのだから、鵜飼信興が想像で書いているのである。
後段が今の話である。ここで「亀の腮の石のみ残りて」というのが分からない。
腮(あぎと)とは、顎とかエラのことである。徳大寺石は亀の頭の部分である。
この顎の部分の石ということは、徳大寺石の土台になっていた石のことなのだろうか。
おそらく、鵜飼信興が徳大寺石のことを「腮の石」と言っているのである。
省25
738: 2022/10/15(土)19:37 ID:Hjkxb0g/0(7/18) AAS
大徳寺瑞峯院の独座庭は近代作庭家の作品だが、波立つ海の中の蓬莱島をあらわしている。
外部リンク:serai.jp
入門用にこういう庭があってもよいだろう。
座禅をするための庭だと思えば砂紋などはどうでもよい。
この写真の何枚か下に妙心寺退蔵院「元信の庭」の写真。蓬莱島の石組みがある。
狩野元信は室町時代の絵師である。1476年生まれで、足利九代将軍義尚に仕えた。
(義尚は足利義政と日野富子の次男である。先に将軍後継と決まっていた義視と対立し、
応仁の乱のきっかけとなった将軍)。
日本画の代表的な流派である狩野派の始祖・狩野正信の長男で、狩野派の画風を完成させ、
室町時代から明治まで続く狩野派の基礎を作り上げた人物である。
省46
739: 2022/10/15(土)19:38 ID:Hjkxb0g/0(8/18) AAS
[蓬莱島(中の島)の実体]
小石川後楽園が作られた当初の中の島(蓬莱島)の形状は、世に類のない独特のもので
あるが、あえていえば智積院の庭の築山が似ているかも知れない。
智積院の庭
外部リンク[php]:garden-guide.jp
無数の石とサツキの刈り込みで出来た築山が特徴である。
池の中にある島のように見えるが、背後は地面につながっており、築山である。
中国の廬山(ろざん)を模したものという。
廬山とは江西省北部にある長江の南にある山で、諸峰が絶壁をなして聳え立つ。
多くの名士が隠棲し、李白や蘇武など有名な詩人が訪れた。
省37
740: 2022/10/15(土)19:39 ID:Hjkxb0g/0(9/18) AAS
つぎに座観式庭園であること。座観式とは、一定の場所に座って眺める庭園を言う。
観賞式庭園ともいい、苑路を巡る回遊式庭園に対置されるものである。
まず、智積院庭園が座観式であるのはいうまでもない。
大書院の座敷から眺めるようになっている。
昔は書院も講堂もこんなに大きくはなく、池はこれほど間近ではなかったはずである。
書院から遠く廬山を仰ぐつもりで築山を眺めたのである。
では小石川後楽園はどうか。
残念ながら、小石川後楽園が座観式庭園であったなどという人は一人もいない。
作庭された当初から小石川後楽園の庭は回遊式であったということになっている。
それは、最も権威ある資料である鵜飼信興の書いた「後楽紀事」がそのように書いている
省26
741: 2022/10/15(土)19:39 ID:Hjkxb0g/0(10/18) AAS
後楽園が座観式であったと言っても、一カ所だけから見る庭ではなかった。
茶屋がいくつかあり、そこで休めるようになっていた。
ここが厳密な座観式庭園である竜安寺方丈南庭などとは異なる点である。
茶屋はただの休憩所ではなく、観賞ポイントであった。
とするなら、鑑賞ポイントを巡って歩くのだから回遊式と言えるではないかとの批判も
あろう。たしかに、ここから先は、「回遊式」とは何かという言葉の意義をめぐっての
議論になりかねない。
まず、小石川後楽園にはどのような観賞ポイントがあったかを明かにしよう。
最初に挙げられるのは清水観音堂の舞台だろう。
舞台ができるまでは、千手観音を安置した観音堂があるだけだった。
省32
742: 2022/10/15(土)19:49 ID:Hjkxb0g/0(11/18) AAS
小石川後楽園が回遊式になったのは、おそらく桂昌院の御成りのときである。
苑路を作るために大きな石が軒並み撤去され、平坦な道が作られた。
その後、頼豊による改修のときに苑路が隅々まで整備された。
頼豊によって小石川後楽園は池泉式回遊庭園として完成されたのである。
同様の庭は他にもある。初期の岡山後楽園である。
池の周囲に苑路はなく、周囲の高台になったところや傾斜地に小道があった。
その道をたどって茶屋などに移動したのである。
岡山後楽園が回遊式といえる庭になったのは、三代継政(つぐまさ)が12年の歳月をかけて
園内中央に唯心山を築いてからのことである。
栗林園もそうだが、江戸時代初期には観賞ポイントがいくつかあっても、それを一日で回る
省33
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