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【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
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: 2022/10/15(土)19:55
ID:Hjkxb0g/0(15/18)
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746: [sage] 2022/10/15(土) 19:55:48.55 ID:Hjkxb0g/0 例えば得仁堂について、後楽紀事には「その後享保中、讃州岩清尾の八幡となる。八幡堂と 称す、額はやめらる。」とある。 頼豊が光圀の安置した伯夷・叔斉の像を讃岐岩清尾神社の八幡像に取り替え、「八幡堂」と 改名、「得仁堂」と書かれた額は取り外されたというのである。 この「八幡堂」は、文政9年(1827)に八代斉脩が八幡像のために宮を新設し伯夷・叔斉の 像を戻したので、それ以降再び「得仁堂」と呼ばれるようになった。 後楽紀事が書かれた時にはまだ八幡堂のままだったのである。 こういうこともしっかり書いてある。 事実は詳細と言っていいレベルできちんと書いてある。 にもかかわらず、琉球山についてはいっさい経緯を書かない。 最初から白いツツジの山であったようにしか書いていないのである。 頼豊が琉球山を富士山の形に削り、一面に白いツツジを植えたのを知らないはずはなかろう。 頼豊が庭園を弄ったのはせいぜい後楽紀事出版の6年ほど前までで、白いツツジ山が作られ たのも20年以上前ということはない。そんなものが作られれば当然人の話題になるはずで あり、小石川の藩邸に住んでいた鵜飼信興がこれを知らないはずはないのである。 それなのに頼豊がやったことであるとはハッキリ書かない。 こういうところがおかしい。 (なお、栗林公園の飛来峰の頂には白い石で築かれた石組みがある。珪化木(けいかぼく) という植物の化石なのだそうである。わざわざこのような石を使ったのは富士の高嶺の雪を 現すためという。これをやったのは勿論頼豊である)。 では何故後楽紀事には、小石川後楽園は造営当初から縮景庭園であり、回遊式の庭園で あるかのように書かれているのか。 おそらく、造園の当初は回遊式ではなかったと書けば、頼豊による庭の改造を全面的に 認めることになるからだろう。 大泉水を琵琶湖に見立てたり、庭のあちこちを京都の風景に見立てたりするようなことは なかったと書けば、今の庭園は威公様や義公様ご苦心の御庭ではないということになる。 言っておくが、庭の様式など変わってもよいのである。 多くの大名の庭園は、作られた当初は江戸初期の鶴亀蓬莱庭園の形式であった。 しかし、そのほとんどがいつのまにかありきたりの大名庭園になった。 岡山の後楽園も、讃岐の栗林園もそうである。これは避けられない変化であった。 だから本来からすれば、小石川後楽園の庭が大名庭園になっても何ら問題はないのである。 しかしながら、小石川後楽園では一つだけ他の大名とは違う事情があった。 その改造が徐々にではなく一挙になされ、かつ殿様でない人物によってなされたことである。 もちろん頼豊は息子の宗堯(水戸藩第四代藩主)の名で命令を出していた。 しかし、頼豊が宗堯に代わり藩主のようにふるまっていたことは誰もが知るところである。 後楽園は藩祖である頼房公が作り、二代光圀公が完成させた庭である。 これを養子としてやってきた殿様の父親が好き放題に改造してしまった。 このことは水戸藩の家臣たちにとっては屈辱であった。 屈辱として忍ぶ家臣ばかりではなく、それを容認した重臣たちに対する批判も沸き起こった のではないか。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/746
例えば得仁堂について後楽紀事にはその後享保中讃州岩清尾の八幡となる八幡堂と 称す額はやめらるとある 頼豊が光の安置した伯夷叔斉の像を讃岐岩清尾神社の八幡像に取り替え八幡堂と 改名得仁堂と書かれた額は取り外されたというのである この八幡堂は文政年に八代斉が八幡像のために宮を新設し伯夷叔斉の 像を戻したのでそれ以降再び得仁堂と呼ばれるようになった 後楽紀事が書かれた時にはまだ八幡堂のままだったのである こういうこともしっかり書いてある 事実は詳細と言っていいレベルできちんと書いてある にもかかわらず琉球山についてはいっさい経緯を書かない 最初から白いツツジの山であったようにしか書いていないのである 頼豊が琉球山を富士山の形に削り一面に白いツツジを植えたのを知らないはずはなかろう 頼豊が庭園を弄ったのはせいぜい後楽紀事出版の年ほど前までで白いツツジ山が作られ たのも年以上前ということはないそんなものが作られれば当然人の話題になるはずで あり小石川の藩邸に住んでいた鵜飼信興がこれを知らないはずはないのである それなのに頼豊がやったことであるとはハッキリ書かない こういうところがおかしい なお栗林公園の飛来峰の頂には白い石で築かれた石組みがある珪化木けいかぼく という植物の化石なのだそうであるわざわざこのような石を使ったのは富士の高嶺の雪を 現すためというこれをやったのは勿論頼豊である では何故後楽紀事には小石川後楽園は造営当初から縮景庭園であり回遊式の庭園で あるかのように書かれているのか おそらく造園の当初は回遊式ではなかったと書けば頼豊による庭の改造を全面的に 認めることになるからだろう 大泉水を琵琶湖に見立てたり庭のあちこちを京都の風景に見立てたりするようなことは なかったと書けば今の庭園は威公様や義公様ご苦心の御庭ではないということになる 言っておくが庭の様式など変わってもよいのである 多くの大名の庭園は作られた当初は江戸初期の鶴亀蓬莱庭園の形式であった しかしそのほとんどがいつのまにかありきたりの大名庭園になった 岡山の後楽園も讃岐の栗林園もそうであるこれは避けられない変化であった だから本来からすれば小石川後楽園の庭が大名庭園になっても何ら問題はないのである しかしながら小石川後楽園では一つだけ他の大名とは違う事情があった その改造が徐にではなく一挙になされかつ殿様でない人物によってなされたことである もちろん頼豊は息子の宗水戸藩第四代藩主の名で命令を出していた しかし頼豊が宗に代わり藩主のようにふるまっていたことは誰もが知るところである 後楽園は藩祖である頼房公が作り二代光公が完成させた庭である これを養子としてやってきた殿様の父親が好き放題に改造してしまった このことは水戸藩の家臣たちにとっては屈辱であった 屈辱として忍ぶ家臣ばかりではなくそれを容認した重臣たちに対する批判も沸き起こった のではないか
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