[過去ログ] 【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
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747: 2022/10/15(土)19:57 ID:Hjkxb0g/0(16/18) AAS
上述のとおり、後楽紀事の出版は享保21年(1736)である。
その前年に頼豊が亡くなっている。
頼豊の息子である宗堯は享保15年(1730)に急死したのであるから、この時から頼豊は
水戸家への出入りをしなくなったはずである。
つまり、頼豊が水戸家とのかかわりを断ってから6年、頼豊が死んでから1年経った後に
後楽紀事は出版されたのである。
本の出版と頼豊の死を関係づければ、いろいろな動きが見えてくる。
頼豊が死んで一年後に出版されたということは、頼豊が死んですぐに本の執筆が始められ
たということである。(或いは頼豊が病に倒れた時から書き始められたかも知れない。
水戸家と高松松平家は親戚であるから頼豊の病勢はすぐに分かる)。
省30
748: 2022/10/15(土)19:58 ID:Hjkxb0g/0(17/18) AAS
以上、後楽紀事はいろいろな時代のエピソードが整理されずに書かれているので、ただ
事実を羅列しただけのように見えるが、整理してみると、結局は頼豊の改造によっては
さほど庭園は変わっていない、むしろ昔に戻ったかのように書かれているのである。
こんな本を書けと命ぜられて、鵜飼信興はおおいに苦しんだと思われる。
目の前の庭園の景はほぼ全て頼豊が作ったもの、あるいは見立てを決めたものである。
それを知りつつも、現在の庭園を否定することはできない。
頼房の時代にこうした縮景庭園を造ったということはあり得ないのだが、仮にそれを
知っていたとしても、おくびにも出さなかった。
結局、今の景観が頼房公や家光公の苦心でできたように書いたのである。
しかし、さすがに学者らしく集められたエピソードは嘘ではない。
省29
749: 2022/10/15(土)19:58 ID:Hjkxb0g/0(18/18) AAS
また、上記「後楽園史」によれば、頼豊の改修により園内に畑が作られ、大根、蕪などが
栽培されていたという。また水車楼のそばに果樹が植えられた。
さらに、丸屋は耕作の際に休憩する御茶屋とされていたほか、亀や鯉、鴨、鶴等の生き物を
飼育していたという記述があるという。
頼豊はこういう庭が好きだったようである。
大泉水は琵琶湖であるとし、そこに行くまでの中山道の木曽路や、京都やその周辺の名所を
写した庭園にしたのは誰かといえば、それは間違いなく頼豊である。
これは上に繰り返し述べてきたところである。
だが、日本の史学は文献主義であり、もっとも権威のある文献である後楽紀事が、頼房の
庭園作成時にすでに縮景庭園であるとし、回遊式庭園であったとする以上、それに異論を
省9
750: 2022/10/17(月)08:26 ID:I1eV0Zpd0(1/3) AAS
ここまで書いてきて閑話休題。
しかし、水戸藩の侍たちもだらしがない。
御成りのときに庭園を大改造するような必要があったのか。
手を加えずにおくことはできたのではないか。
幕府からは勿論事前に御成奉行が来て「ああせい、こうせい」と指図する。
はじめて御成りを迎える大名は御成御殿というものを新築する。
その御殿建設にあたっては奉行が三人派遣され逐一指図を受けることになっていた。
小石川後楽園への御成りのときは御成御殿は建てられなかったが、その分庭園の改造を
要求されたわけである。奉行たちが庭園を隅々まで見て細かく指示したのだろう。
しかし、家光公ご苦心の庭という一言で排除できたはずである。
省33
751: 2022/10/17(月)08:29 ID:I1eV0Zpd0(2/3) AAS
その後高松松平家から宗堯が養子に入り、成長して四代藩主の地位に就いた。
そうなってからは、さらに高松松平家系の家臣たちの力が強くなった。
この家臣たちによって水戸家は乗っ取られたようになったのである。
そうでないと、頼豊などという、自藩の家老たちにも相手にされていない政治手腕の無い
殿様が強権をふるうなど不可能であろう。
頼豊はまるで水戸藩主のようだったというのは、当時の文献が一様に伝えるところである。
ただし、頼豊がここまで堂々とやり切ったのには本質的な理由がある。
頼豊は光圀のことなど問題にもしていなかったのである。
それは何故かといえば自分たちは頼房の長男の血統だからである。
自分たちの方が由緒正しい血統であり、本来水戸家の藩主であるべき血筋なのである。
省28
752: 2022/10/17(月)08:33 ID:I1eV0Zpd0(3/3) AAS
[ 現在の後楽園について ]
中の島(蓬莱島)は見るも無惨である。
土を盛って木を植え、周囲を多少石で囲っただけである。
亀島などは徳大寺石を立てたところまではいいが、他にまともな石が一つもない。
残土置き場のようである。
竹生島などは庭師の仕事が雑すぎて、眺めていると心が荒んでくるようだ。
涵徳亭の庭に置かれた石はただ投げ出されただけのようであり、そもそも品のない石ばかり
で見るに堪えない。全体に日本庭園の格調が感じられない。
おそらく、庭園を管理しているのは日本庭園専門の庭師ではないのだろう。
都庁の役人も造園会社も、普通の公園を管理している人たちなのだと思われる。
省31
753: 2022/10/22(土)07:30 ID:RXHRGJxE0(1) AAS
庭園長々と書き込んですいませんでした。これで終わりです。
皆さんの書き込みを邪魔してしまったかも知れない。
どうぞ自由に書き込んで下さい。
754: 2022/12/21(水)12:23 ID:U2p/KSb90(1) AAS
水戸藩主・徳川斉昭がペリー殺害を計画…攘夷など示す書簡16点、倉敷で発見
書簡が見つかった江戸末期から塩田開発で栄えた旧野崎家住宅には、約10万点の史料が保管されている。
見つかった書簡は、斉昭が幕府の海防参与の職にあった1853~55年頃に書かれたとみられる。
「夷人(いじん)焼殺ノ件」と朱書きされ、黒船で江戸の手前まで乗り付けたペリーら米の使節を「墨夷(ぼくい)」と呼び、抹殺する案を詳細に書き付けている。
書簡で斉昭は「仕掛けをした屋敷に入れてしまえば一度に焼き殺せるのではないか」「江戸城内の大広間で上官らに
酒をたっぷりと飲ませて頭をはね(中略)品川の辺りに待機したものには狼煙(のろし)を上げて知らせる。船中に
残ったものも残さず切り捨てられる」といった計画を記している。調査した県立博物館の横山定副館長は「腹心の
東湖に率直な意見を述べており、一貫した攘夷思想を唱えた斉昭らしさが、うかがえる印象的な書簡で、貴重な
発見だろう」と話している。
外部リンク:news.yahoo.co.jp
755: 2023/12/05(火)20:21 ID:vqkSBReB0(1) AAS
一橋慶喜は禁裏御守衛総督として京都にいた。武田耕雲斎の一党(天狗党)が西上して
きたと知ると、慶喜は自分を征討軍の総督に命じてほしいと朝廷に願い出た。
願書には以下のようなことが書かれてあった(意訳)。
「このたび常野浮浪の徒が多数人、中山道を罷り越して容易ならざる情勢であります。
この上帝都に迫るような事になれば、禁裏を守衛するという職掌上恐懼に堪えません。
のみならず、この集団の中には実家の家来等も交じっているようでありまして、これは
特段に相済まぬことであります。それ故、速やかに江州路まで出張して追討つかまつる
所存にございます。」。
朝廷では「そのようなことをしたら人心が動揺する」という理由で許さなかった。
許さなかったのは、実は一橋公と水戸勢がくっついて攘夷を決行するに至るのではないかと
省25
756: 2023/12/07(木)12:52 ID:kohuMx2s0(1) AAS
朝廷は慶喜を征討軍の大将にはさせたくなかったが、重ねて乞うものだから仕方なく許可した。
その肩書きは禁裏御守衛総督である。それまでの肩書きと何も変わらない。
天狗党西上軍が京都に迫るようなことがあっては困るから、禁裏(朝廷)を守るために出陣する
という名目なのである。
これにより12月3日、慶喜は京都から大津に出陣することになる。
その行列はまことに勇壮華麗なものであった。
徒目付・小人目付を先駆として歩兵・大砲・別手組の諸隊、中軍には講武所の兵と床机隊・大砲隊。
これに続き赤字に葵の紋をつけた旗を立て、旗本勢が持小筒組を率いて進む。
次に馬印や陣鐘、太鼓、旗、さらに騎馬隊が往く。
その後にようやく慶喜が出てくる。左右を守る旗本たちに続いて書院番士たちが手槍を棒持ちに
省12
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