[過去ログ] 朝鮮人が嫌いな人いますか?★10 (1002レス)
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162: 2022/09/19(月)01:56 ID:GI9KhdYb(1/2) AAS
>>159
賛成権って何やねん
↓ググってみたが...シナチョン残念!
> 民族主権とする国家が世界の大勢となっている下では、在日外国人に国政レベルの選挙権等を認めることは適切ではないと考えています。
外部リンク[html]:www.jcp.or.jp
163(1): 2022/09/19(月)10:09 ID:EVCLmJcM(1) AAS
普通の日本人なら当然嫌いだから安心しろよ
164: [age] 2022/09/19(月)11:09 ID:FMe0CMRa(1) AAS
>>163
貴様が普通の日本人を名乗るなゴミ!
165: 2022/09/19(月)11:26 ID:5xZaQHFl(1) AAS
普通の人間なら当然朝鮮人が嫌いだよ
166: 2022/09/19(月)12:22 ID:GI9KhdYb(2/2) AAS
恨韓論 世界中から嫌われる韓国の「小中華思想」の正体!
外部リンク:tkj.jp
167: 2022/09/20(火)08:52 ID:oNOYk5Rc(1/36) AAS
ヨーロッパの白人は、南北アメリカ大陸の先住民を虐殺し奴隷に使いほぼ滅亡させ土地を乗っ取った。
ただ、その先住民から奪った南北アメリカ大陸で生まれ育った白人は、ヨーロッパ本国生まれの白人とは差別されていたので、
その現地で生まれ育った白人たちはヨーロッパ本国に反逆し独立を主張し独立。
南北アメリカ大陸での侵略から独立までの動きそのものが、個人主義で他人の迷惑を顧みず、
自分の権利を主張することしか頭にない白人のクズっぷりを如実に表しているw
反差別などの綺麗事ではなく、こんな連中に植民地にされ奴隷化されたら地獄が待っているからこそ、
独立を守るために日本人は必死になって富国強兵を掲げて近代化に突き進んだのである。
168: 2022/09/20(火)08:55 ID:oNOYk5Rc(2/36) AAS
バカ「日本人は独立を守るために大東亜戦争で欧米白人と戦うことなんかせずに、大人しく奴隷になるべきだったニダ」
■植民地残酷物語 白人優越意識を解き明かす (著)山口洋一 カナリアコミュニケーションズ2015年7月31日発売■
第二章 支配・搾取型の統治
■2 植民地支配の実態――差別の徹底
植民地支配の目的について述べてきたが、これはあくまでも真の狙いを糊塗する表看板としての大義名分であり、
実は搾取による富の収奪と覇権の確立を目指していたのである。
省12
169: 2022/09/20(火)08:56 ID:oNOYk5Rc(3/36) AAS
インディオを獣なみに扱う彼らの残忍な振る舞いは、これを目撃したバージャーというドミニコ教団司祭の次のような記述にも残されており、
はからずも彼らのインディオに対する見方をまざまざと窺わせている。
「数人のキリスト教徒が乳飲み児を抱いた一人のインディオの女と出会った。
彼らは連れていた犬が腹を空かせていたので、母親の手から子供を奪い、生きたまま犬に投げ与え、犬は母親の目の前で、それをがつがつ喰い始めた。……
出産して間もない女たちが捕虜の中にいたとき、もし赤ん坊が泣きだすと、スペイン人たちは子供の足をつかんで岩に投げつけたち、
密林の中に投げ込んだりして、赤ん坊が確実に死ぬようにした。……
現場監督の誰もが、その配下にあるインディオの女と寝るのを習慣にしていた。
気に入れば、既婚であろうと未婚であろうと、監督はインディオの女と小屋に泊まる。
一方、その女の夫は山から黄金を掘る仕事に送り出された。
夕方送り出された男が戻ってくると、持ち帰った黄金の量が少ないといって、殴られたり、鞭打たれ、
省10
170: 2022/09/20(火)08:58 ID:oNOYk5Rc(4/36) AAS
この悲劇が真っ先に起きたのはカリブ海のエスパニョラ島(現ハイチ・ドミニカ)であった。
この島には1492年にコロンブスが初めて到着して以来、スペイン人が定住して20年あまりの間、先住民たちを酷使して砂金の採取を行った。
一種のゴールドラッシュが起こり、1509年にはスペイン人の数は9千人あまりに増えていた。
彼らが先住民に疫病を感染させた。
彼らのやり方は乱暴で、もともとあまり生産性の高くない農村から、無理やり食料を調達し、農民を飢餓状態の栄養不足に陥れておきながら、
しかも彼らを駆り出して、砂金採取の過酷な労働に従事させた。
そして疫病に対する抵抗力がない住民たちは病気をうつされ、どんどん死に絶えて事実上絶滅状態に近づいた。
もともとエスパニョラ島では、スペイン人侵入以前は数百万人の人口をもつアラワク族が、
コヌスと呼ばれる焼畑農法によって森林を開いて農地にし、
マニオク、ジャガイモ、トウモロコシ、豆などを耕作していた。
省9
171: 2022/09/20(火)08:58 ID:oNOYk5Rc(5/36) AAS
ただしペルーの場合、海岸と高地では大きな差があって、高地におけるほうが、
スペイン人との接触がない集落が多かったので、人口減少はずっと低かった。
ところが海岸地方においては、人口数万の大きな集落が、
16世紀の後半には100人か200人程度の人口に激減してしまったところがざらにあった。
このような人口減少は17世紀になっても続いたが、17世紀の中頃になると、原住民が疫病に対する抵抗力をもつようになったため、
ようやく減少が止まり、増加に転じ始めた。
ポルトガル領だったブラジルでは、先住民が死に絶えたり、逃亡したりしたため、
その穴埋めに、旧世界の病気に抵抗力のあるアフリカ人が導入されたので、
事情はやや異なったが、それでも1562年から65年にかけて天然痘が大流行して、多くの住民が命を落とした。
172: 2022/09/20(火)09:15 ID:oNOYk5Rc(6/36) AAS
《地獄絵さながらの奴隷船》
ヨーロッパ白人世界においては、古代から奴隷という社会階層が存在していた。
人間を人間扱いしないことを合法と定めた制度がまかり通っていたのである。
日本には昔、貧困にあえぐ農村から苦境に身を沈める娘たちを求めて、「人買い」や「人さらい」はいたが、奴隷はいなかった。
廓に身を置く女たちは、悲惨な思いを舐めていたとしても、彼女らを縛っていたのは年季契約であり、決して奴隷ではなかった。
制度としての奴隷、つまり合法的な奴隷制度は存在しなかった。
これは日本と西洋との大きな違いである。
ヨーロッパの場合、隣接国とは陸続きだったので、頻繁に戦争が起こり、
負けた国の人間は奴隷にされるという不文律が古代より近世まで厳然と存在してきた。
(前章に見たローマ帝国やオスマン帝国はむしろ例外だった)この点で、日本とは大きく事情が異なっていたのである。
省13
173: 2022/09/20(火)09:17 ID:oNOYk5Rc(7/36) AAS
繊維製品では生糸と麻で、高級絹織物やビロード、金糸、銀糸も輸入され、さらにアジアを原産地とする宝石、珊瑚、真珠、陶磁器ももたらされた。
これに対して、ヨーロッパが輸出できた商品はささやかで、
羊毛、皮革、蜜蝋(蜂蜜の巣を加熱、圧搾して採集した蝋で、蝋燭や光沢材などに利用する)といった程度の物しかなかった。
従ってヨーロッパの貿易は慢性的な赤字となり、貿易業者として幅を利かせていたアラブ商人の懐に大量の金・銀が消えていった。
しかし、ヨーロッパの上流階級の人たちのオリエント商品への渇望は、
飽くことを知らなかったので、何世紀もの間、オリエントへの輸出のために、ヨーロッパ人奴隷が用意された。
「奴隷(スレイブ)」は語源的に「スラブ人」と同じである。
ポーランドからボルガ河畔に沿って、ウラル山脈に至るロシアの平原で、ヨーロッパの奴隷狩りたちによって、スラブ人の男女が捕らえられた。
この事実が世界史の本から消え去り、ウヤムヤにできた理由は、ヨーロッパの白人奴隷が、アラブ人やペルシャ人と混血すると薄まって、
二世代も経てばほとんど分からなくなってしまったからであろう。
省9
174: 2022/09/20(火)09:18 ID:oNOYk5Rc(8/36) AAS
どのくらいの数の黒人が連れてこられたのであろうか。
イギリスのジェイムズ・ウィリアムスンの試算では、1645年、バルバドスには1万1200人の白人小農と5680人の黒人奴隷がいたが、
1667年になると、745人の大農園主対8万2023人の奴隷に変化した。
この22年間に、小農による耕作が消滅し、大土地所有による大規模な砂糖きび栽培が多くの黒人奴隷を使って始められたのである。
18世紀にかけて、バルバドスの他ジャマイカやセント・キッツ島など
イギリスが進出したカリブ海の島々に送られた黒人奴隷の数は、200万人以上に及ぶものと推測される。
16~19世紀にアメリカ大陸に運ばれたアフリカ奴隷の総数は、ブラジル向けが365万人、スペイン領南米・カリブ海が155万人、
フランス領カリブ海が160万人、オランダ領カリブ海が50万人、北米向けが40万人などと推測される
(増田義郎著『物語ラテン・アメリカの歴史』に所載のPhilip Curtinによる)
初期の段階では主にオランダ船が奴隷貿易に携わっていたが、やがてイギリスが乗り出してきて、
省8
175: 2022/09/20(火)09:19 ID:oNOYk5Rc(9/36) AAS
奴隷は財産であるから、農園主たちは彼らは長持ちさせて、できるだけ使おうとしたので、ある程度の待遇を与え、それなりの面倒を見た。
悲惨だったのは、不在地主の農園の奴隷たちであった。
不在地主は本国に住み、自分の農園を現地の弁護士や農園主に任せた。
通常、彼らは生産物による収入の6%を報酬として受けたが、実務は監督者を雇って、これにやらせたので、
雇われた監督者は持ち主の財産と収益をくすねることに専念し、自分の所有物ではない奴隷たちを牛馬の如く酷使した。
白人たちは奴隷の反抗や蜂起を恐れていたので、ちょっとした過失や不服従も厳しく罰せられた。
バルバドスでは、1シリング以上の盗みは死罪と決まっていた。
1736年にアンティグア島で白人謀殺の企みが発覚したとき、6人の奴隷が絞首刑、5人が車裂き、77人が火刑に処せられた。
イギリス政府がようやく奴隷制度を廃止したのは1833年のことで、この時には2千万ポンドもの賠償金が支払われた。
奴隷制度廃止で不利益を蒙ったど奴隷のオーナーや奴隷商人たちが手厚い賠償金を受け取ったのである。
176: 2022/09/20(火)09:21 ID:oNOYk5Rc(10/36) AAS
《独立へのプロセス》
19世紀に入ると、中南米のスペイン・ポルトガル領の各植民地は次々に独立した。
スペイン領アメリカの各地は、キューバとプエルトリコを除いて、すべて1828年までに独立した。
ポルトガル領ブラジルの場合は、1822年にブラジル帝国として独立し、1889年に共和制に移行した。
しかし独立運動を担ったのは原住民ではなく、多くの場合、現地で生まれ育った白人たちであった。
現地生まれのスペイン人はクリオーヨと呼ばれ、彼らは血筋としては本国人と変わりない白人でありながら、
本国生まれとは差別され、本国からの渡来人の下位に置かれるという状態が長年にわたり続けられてきた。
中南米の革命運動は、本質的にクリオーヨの本国に対する反逆だったのである。
クリオーヨのイニシアチブによって始まった運動も、それが社会革命的な色彩を帯びて原住民の処遇に目を向けるようになると、
直ちにクリオーヨの大部分はこれから背を向け、本国政府の植民地統治機構を形成する保守勢力と手を結んで、
省12
177: 2022/09/20(火)09:22 ID:oNOYk5Rc(11/36) AAS
そこでクリオーヨたちが発表した独立宣言案には、もはや本国でナポレオンに退位させられた
フェルナンド7世への忠誠を誓うことなど問題外とし、今こそスペインの軛から脱して独立することを唱え、
また民衆の代表者による議会をつくり、その中には「インディオたちにも議席を与えてその権利を保障すべきである」という、
当時としては極めて革命的な内容を盛り込んで宣言案であった。
一般のクリオーヨの目から見れば、たいへん危険な思想を孕んだこの革命運動は疑いの目で見られたので、
その支持を得ることができず、結局はペルーのリマから送られてきた軍隊によって粉砕されてしまったのである。
この例に見られるように、独立に向けた運動に携わったのは常にクリオーヨたちであった。
従って独立達成後、政治の表舞台に立ったのはクリオーヨの大土地所有者や大商人たちであり、
追い出された本国生まれのスペイン人に代わって、彼らが政治の舵取りを握った。
ところがそこではメスティソや原住民はすっかり置き去りにされてしまう形となり、あくまで白人主導で事が進められた。
省8
178: 2022/09/20(火)09:22 ID:oNOYk5Rc(12/36) AAS
当時の中南米各国はまだ都市化が進んでおらず、リマやブエノスアイレスのような首都でもたかだか数万人程度の人口に過ぎなかったので、
このような都市を武力で制圧して、地方の小ボスを手なずけてしまえば、勝手放題の政治を行うことはたやすかった。
19世紀を通じて、中南米の政変とはカウディーヨの政権を別のカウディーヨが私兵を使って転覆させて乗っ取ることを意味した。
これが革命と称される茶番の実態だったのである。
19世紀前半の典型的なカウディーヨは、アルゼンチンのマヌエル・デ・ロサスであった。
彼はまずブエノスアイレスを押さえ、地方のカウディーヨを手なずけて盟約を結び、反抗者は残忍なやり方で徹底的に弾圧し、
最終的にはアルゼンチンの独裁者となって1852年まで君臨した。
その過程で、彼は白人植民者の進出を後押しするために現地人の狩猟民を「掃討」する作戦を指揮し、
原住民の命などには全く価値も認めず、手当たり次第に虐殺するのが常であった。
1833年の作戦では6千人の原住民を殺した。
省5
179: 2022/09/20(火)09:23 ID:oNOYk5Rc(13/36) AAS
■植民地残酷物語 白人優越意識を解き明かす■(著)山口洋一 カナリアコミュニケーションズ2015年7月31日発売
◇(2)イギリス領インド帝国◇
イギリスがそのお家芸とも言える「分割統治」(divide and rule)の手法を駆使して、
狡猾な統治を行った典型的なケースとして知られるインドにおいては、どのような植民地経営が行われたのであろうか。
イギリスが産業革命に成功し、巨大な植民地帝国を築き上げ、
繁栄を誇り得たのも、実はイギリスがインドの富を奪い、
インドの民衆を極貧に陥れ、彼らを犠牲にして初めて可能となったのである。
現にイギリス東インド会社はインドの富を暴力的に収奪し、イギリス産業革命の物質的基盤を構築していった。
インドが抱えてきた貧困をはじめとする困難な諸問題は、2世紀に及んだイギリスの植民地支配と収奪の結果生じ、増幅されてきた。
インドの経済は荒廃し、民衆の生活は悪化の一途を辿った。
省9
180: 2022/09/20(火)09:24 ID:oNOYk5Rc(14/36) AAS
《植民地化推進の経緯》
イギリスのインド進出は、1600年にエリザベス女王の勅許状を下賜された東インド会社が1612年に西海岸のスラートに
最初の商館を開設したことをもって始まった。
それ以降、会社はどんどんとその地盤を拡大強化して行った。
やがてこの会社は、会社とはいえ堅固な要塞を築き、近代的な兵器を備え、
多数のインド人傭兵を擁する強大な貿易軍団となっていった。
イギリスが彼ら一流の「分割統治」の手法を駆使して、狡猾に植民地支配を進めるやり方は、
植民地化にとりかかる当初の段階から如何なく発揮された。
イギリスがインドに触手を伸ばそうとした頃のこの国はムガール帝国末期のことであった。
この帝国はインドの西からやってきて、16世紀前半に支配を確立したイスラム教を奉じる国家である。
省13
181: 2022/09/20(火)09:24 ID:oNOYk5Rc(15/36) AAS
設立当初の東インド会社は、東洋の物産をヨーロッパに輸入して利益を上げる商業活動からスタートした。
しかし、やがてそのための資金をインド自体で手に入れる方策を編み出した。
つまり会社が商業活動のみならず、政治的支配者としての主権をインドに持ち込み、
インド人から税金を取り立てることを始めたのである。
まさに東インド会社の商活動からイギリスの植民地統治に向けたプロセス初動への脱皮である。
その後イギリスとインドの関係を決定的に変える第一歩となったのは1757年のプラッシーの戦いであった。
もともとベンガルはムガール帝国の一州であったが、帝国末期には事実上地方権力として独立した存在となっていた。
かねてからベンガル地方への進出を狙っていた東インド会社は、
フランスの攻撃に備えるという名目で、カルカッタの要塞を強化しようとした。
これに異を唱えた太守は会社と衝突し、フランスに援助を求め、1757年6月23日にプラッシーの野にイギリス側と対峙した。
省7
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