[過去ログ] 【エロゲ特任教授】東浩紀スレッド126【ゼロアカ帝国皇帝】 (653レス)
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104(1): 2008/07/04(金)01:26 ID:f4T/jJwo0(1) AAS
>>102
言っていることはわかるが、
ローティ=宮台的連帯可能性は外側から恣意的に提示されなければならない
エリートによるアジア主義の見直し・・・のように
そしてそれはやはり一つの物語としての限界がはっきりしている
これは方法論の次元なので大した興味はない
> 「プレイヤー」に感情移入できるなら、隣人や
> 他の民族に対してもそれができる可能性があることを示している。
展開に異論はないが、私は「プレイヤー」に感情移入は不可能だと考える
>>97にあるように、
省3
105(1): 2008/07/04(金)02:04 ID:Egmo1t3p0(2/2) AAS
>>104
ローティは「公」と「私」の問題を完全に分離したものと見なしているので、宮台とは
まったく異なる。アイロニーは「公」に何の役にも立たないとローティははっきりそう
言っている。アイロニーはあくまでそれは個々人(「私」)のあり方の問題で、そのような
アイロニストが増えることによって、連帯が生まれるという可能性を言及している。
宮台は「一つの物語としての限界」を承知しつつ、それでも「あえて」エリートが特に
例外的な状況に対して対処すべく、養成されなければならないと考えている。
これは社会論的な問題で、哲学の問題ではない。哲学に興味ある人がこのことにあまり
興味を持たないのはそれはそれで当然だともいえる。むしろ東があちこちに首を突っ込む
ほうがどうかしてるのかもしれない。東は哲学的に論理的にやれることは全てやり尽く
省10
106(1): 2008/07/04(金)02:09 ID:8Jc3b/qG0(2/2) AAS
>>91
動物は「立場入れ替え可能性の想像力」など持たない。あくまで動物として生を
実践しているだけ。ただこれは自然界のいたるところで見られるように、判り易い
例でいえば、ミツバチは花の蜜を吸うのは単純に蜜がほしいから、でも花はその
ミツバチの性質を利用して、花粉を他の花へミツバチを介して受粉させているみたい
な関係が築かれている。東はそれを人間の「政治」でもできるだろうと考えている。
その東の着想の原点はやはりローティにあるだろう。ローティは「哲学」と「政治」
を切り離すことを提案している。「政治」を実践の場として考えること、ローティ
は「政治」の場はプラグマティックに構築されるべきだと考えた。それを更に進化
というか退化させたのが東で「政治」を人間の動物的な性質から構築されるような
省1
107(2): 2008/07/06(日)02:47 ID:8KWel6eA0(1) AAS
>>105
> ローティは「公」と「私」の問題を完全に分離したものと見なしているので、宮台とは
> まったく異なる。アイロニーは「公」に何の役にも立たないとローティははっきりそう
> 言っている。アイロニーはあくまでそれは個々人(「私」)のあり方の問題で、そのような
> アイロニストが増えることによって、連帯が生まれるという可能性を言及している。
ローティはアイロニストの私的態度(アイロニー)を共感可能性として外側から提示している
アイロニストが連帯性を広げられるのは同じアイロニストに対してであって、
そこで作られる公は私的な属性によって担保された公共性にすぎないのではないか
それはアイロニスト間で通用する物語で、宮台的なものと区別がつかないように思われる
> 「プレイヤー」は人間じゃないから、込み入った議論は丁寧にされるべきだったかも
省16
108: 2008/07/07(月)19:33 ID:ShQsl5gM0(1) AAS
今頃あずまんスレの存在に気付いたw
ネットスターで風子の中の人からヒトデもらいそこねてすねてたあずまん萌え
109: 2008/07/07(月)20:04 ID:+C4dSnzM0(1/2) AAS
そういうのはこっちでやれ。
【哲板の】東浩紀スレッド129【看板】
2chスレ:philo
110: 2008/07/07(月)20:16 ID:3Ti0+ZEy0(1) AAS
いや、風子の話は重要だと思う
『ファントム・クオンタム』にもでてくるし、同名のキャラが
111: 2008/07/07(月)22:28 ID:+C4dSnzM0(2/2) AAS
どう大切なのか自分で語るものじゃないの?
大切だと思う、で完結したら会話にならないよ。
112: 2008/07/08(火)00:50 ID:/ksrLOcB0(1) AAS
おらおらどうしたんや?
わいが怖いんか
お前ら
113: 2008/07/08(火)23:11 ID:3lTH99nI0(1) AAS
もうid付きのこのスレでいいよ
勢いが激減するかもしれないが
114: 2008/07/11(金)22:41 ID:G7Gbeu/X0(1) AAS
終わりか?楽しみにしてたんだけどね。
115(1): 2008/07/12(土)01:54 ID:kizfD2k50(1) AAS
葉鍵板でこんな知的な会話…貴重なスレかもしれん
116: 2008/07/14(月)18:06 ID:0+DmGI2A0(1) AAS
まだだ
まだ終わらんよ
117: 2008/07/14(月)20:38 ID:0PjZp2Wk0(1) AAS
2人しかまともにレスしてないけどなw
118(1): 2008/07/15(火)21:34 ID:u9RQzeG60(1/2) AAS
>>107
>そこで作られる公は私的な属性によって担保された公共性にすぎないのではないか
>それはアイロニスト間で通用する物語で、宮台的なものと区別がつかないように思われる
公と私を直接つなごうとはしない=ローティ
公と私を天皇とか物語でつなぐ=宮台ほか
こんな感じだろう。
>しかし<私>(プレイヤー)のキャラクター化は不可能ではないか(論点)
精神的には可能だろう。
あずまんも精神的には痩せている。
>「この私」に可能な世界を想像するのではなく、
省2
119(1): 2008/07/15(火)23:57 ID:u9RQzeG60(2/2) AAS
文字起こししたよ(^o^)ノ
浅田彰 No.8(1986年テレビ放送)
外部リンク:jp.youtube.com
そして戦争が終わり、我々はすっかり変貌してしまった都市のなかで終わりのない時を
生きています。境界と中心によって空間的に確定され、サンボリックな言語的秩序によって
支配された古典的なポリスとしての都市ではなく、アメーバ状のスプロールによって外部との
境界を失い、エレクトロニックメディアの散布するイマジネールな表層的映像の洪水のなかに
どっぷりと浸り込んだ、そういうシミュレーションとしての、そう、それはまさにボードリヤールの
いう意味でのシミュレーション都市であって、そのなかでは映像が現実を模倣すると同時に
現実が映像を模倣する、そういう奇妙なループが止め処もなく反転し合って、まわっている
省15
120(2): 2008/07/16(水)00:01 ID:Fn57JFmi0(1/3) AAS
>>118
>公と私を直接つなごうとはしない=ローティ
>公と私を天皇とか物語でつなぐ=宮台ほか
ローティ全く知らんのだけど、公と私を直接つなごうとはしないんではなくって、私が公的な外へ向かう意識を持つ必要はないっていうことでいいの?
公的意識のようなものをアイロニカルにとらえて何らかの実践を行うことで、連帯可能性が生まれるみたいな感じ?
>>107
>しかし<私>(プレイヤー)のキャラクター化は不可能ではないか(論点)
これについてはよく理解できない
↓こんな感じ?
ジル・ドゥルーズのわかりやすい言葉でいえば、この現実のほかにいろんな可能性があるということではなく、
省3
121(1): 2008/07/16(水)00:03 ID:/9PQApmk0(1/7) AAS
そう、もうはっきり言ってしまったほうがいいかもしれない。つまり都市はテクストではない。
あるいはアンチ・オイディプスの著者達の言い方からすれば、都市は劇場ではなく工場なのです。
さてこの工場をサーベイしていくには一体どうしたらいいのだろう。それには例えばこの東京
という都市、物質とエネルギー、情報とイメージのこの一大工場の脈関係ともいうべきこの道路網、
千に分岐しながらこの回路の全体を、そのいちいちを辿りながら漂流していくこと、それしかないの
ではないかという気がしないでもないです。全体像を鳥瞰するなどというのではない、むしろしばし
呆然と流れに身を委ね、千に分岐した回路の一つずつを辿っていくこと、ま、こうして我々は今東京、
このニュートラルなシミュレーション都市をあてどもなくさ迷っているわけです。
そう、東京こそがシミュレーション都市の典型といってもいいのかもしれない。かつてロラン・バルトは
東京のことをこんな風に語った、つまり、この都市は中心を持たない、もっと正確に言えば中心はある
省10
122(1): 2008/07/16(水)00:05 ID:/9PQApmk0(2/7) AAS
この都市を覆う映像のこの徹底した深さの無さ、この徹底的な表層性というものを、しかしどうやって理解
すればいいのか。そのためには第一章でこのエレクトロニクスな映像を十七世紀のオプティカルな映像と
比較してみたい、ここでもう一度大きく迂回してこのエレクトロニクスの映像というものを例えば鏡の映像、
あるいはそれとは質的に異なる写真の映像、そういったものと比較してみる必要があるのではないか
という気がします。
鏡の時代というのがヘーゲル的な意識の時代であり、それに続く写真の時代というのがフロイト的な
無意識の時代であるとすれば、エレクトロニックな映像の時代というのは何なのだろうか。
まあそういった意識や無意識といった全てを断片化する、千の破片に砕いて表層に飛散させる時
なのかもしれない。かつてアンディ・ウォーホルはあれら表層的なイメージの残酷にして愚鈍な反復に
よって解をみせてくれたように。
省11
123(1): 2008/07/16(水)00:09 ID:/9PQApmk0(3/7) AAS
文字起こししたよ、パート2(^o^)ノ
浅田彰 No.9(1986年テレビ放送)
外部リンク:jp.youtube.com
エレクトロニクスの産み出したシミュレーションの宇宙から出発し、メディアネットワークに覆い尽くされた
シミュラークル都市をくぐってきたビデオ・エボリューションの企てはそろそろ終点に近づいたようです。
これまでみてきたように、現代がかつての科学革命と同じくらい重大な変化の時代だとすれば、
今問われているのは十七世紀、十八世紀のバロック文化に比肩しうる文化、テクノ・バロックとでもいった
ような文化を産み出せるかどうか、このことでしょう。
そのために必要なのは一体何なのか、バロックの時代、それが旅と交通の時代であったことを思い起こす
必要があります。実際、ヨーロッパ中を旅してまわったデカルトからライプニッツに至る哲学者をはじめ、
省10
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