○出雲神話 出雲大社○ (240レス)
上下前次1-新
1(1): 2013/12/18(水)08:15 AAS
古代日本の最大の謎
出雲を語れ
221: 06/05(水)10:46 AAS
出雲神話と古事記は密接に関係しており、切り離して語ることはできません。 確かに、出雲は神話における重要な舞台の一つであり、大国主命をはじめ多くの神々の物語が紡がれています。しかし、天照大御神やその他の神々が祀られていないからといって、出雲が神話の中心地ではないと断言するのは短絡的です。
まず、出雲大社は天照大御神を祀っているわけではありません。大国主命を主祭神とし、須佐之男命や大国主命の妻である様々な神々を祀っています。これは、出雲が国土経営の神である大国主命と深い関わりを持つことを示しており、神話における出雲の重要性を裏付けています。
次に、イザナミ神社の存在についてですが、**出雲大社境内には「伊那佐社」という摂社があり、イザナミ命を祀っているとされています。「伊耶那美神社」**は奈良県桜井市にある神社で、古事記編纂の地とされる場所に位置しています。どちらもイザナミ命を祀る神社であり、出雲神話における重要な神々を祀っているという点で共通しています。
古事記には、出雲を舞台とした神話が数多く記されています。天孫降臨神話では、高天原からニニギノミコトが降臨し、出雲の地でコノハナノサクヤヒメと結婚します。ヤマタノオロチ神話では、スサノオノミコトが八岐大蛇を退治し、櫛稲田姫と結婚します。これらの神話は、出雲が古事記において重要な役割を果たしていることを示しています。
出雲と伊豆毛、伊弩毛の関係については、古事記研究者によって様々な議論があります。しかし、いずれにしても、出雲が古事記に記された地名であることは間違いありません。
省4
222: 警備員[Lv.1][警] 06/08(土)09:09 AAS
八雲立つ
223: 06/08(土)16:45 AAS
戦前も
心ある人「中国大陸に出兵してはいけませんよ」
お公家さん「嫌いな奴の逆をやってやる❗」「中国侵略や❗」
こうだったのか?😓
歴史を詳しく知らんが
[その後]
アメリカ「中国から撤兵しないと石油を禁輸しますよ」
お公家さん「真珠湾攻撃や❗」
マッカーサー「日本人は12歳児😨」
[現在]
省3
224: 06/18(火)16:09 AAS
出雲神族の渡来
この世界が、一夜にして氷の世界に変貌してしまった。大祖先であるクナトノ大神は、一族を救うため、厳しい旅路へ立ち上がった。東の彼方から氷の山を越え、果てしない海沿いを歩き続けた。幾世代にもわたる苦難の末、たどり着いたのが、現在の出雲の地であった。今から4000年も前の遥か昔である。
豊富な知識を携えたクナトノ大神は、先住の人々に鉄の採掘法、布織りの技術、農耕の心得を伝授した。麻、綿、そして機織りの木から糸を作り、クリやシイの実で鮮やかに染め上げた。出雲の人々は争いの歴史など知らない。自然と共に豊かに暮らすことを何より大切にしていた。その徳の高さを認められたクナトノ大神は、王として推戴されることとなった。
225: 06/18(火)16:11 AAS
【習俗と祭祀】
首長は「カミ」と呼ばれ、毎年10月に各地のカミが出雲に集まって、その年の収穫物の分配について話し合いました。 収穫量の多い国は、少ない国に分け与えたのです。この時、我々は祖国を偲んで竜蛇(ヘビの一種)を祀るのが習わしでした。
我々の祖国は高天原と呼ばれ、遠い海の彼方にあると伝えられています。 王が死にそうになると、後継者は王と会ってはならないとされていました。死体は穢れたものとして忌み嫌われ、これを見たり触れたりすると相続権が奪われたのです。墓も屋敷内に造ってはならないとされてきました。
王が他界すると、家人はツタで篭を編み、これに死体を入れて山の頂点の高いヒノキに吊るしました。 3年が過ぎるとカゴから下ろし、白骨を洗って山の大きな岩の近くに埋めたのです。山は我々の祖先の霊が眠る場所です。
高貴な人の婦人や子供が死ぬと、石棺に入れ、再生を願って宍道湖に沈めました。 我々は東西南北の方角がわかり、数字も持っていました。「ヒーフーミーヨー」と数え、「初めに言葉ありき」という言葉通り、言葉を大切にしていました。
省1
226: 06/18(火)16:13 AAS
スサノオの侵略
朝鮮半島から砂鉄を求めて、馬を連れたスサノオがスサの港に上陸した。ヒイ川沿いの古志の人々が暴動を起こし、テナヅチとアシナヅチが助けを求めたため、スサノオが鎮圧に乗り出した。勢いに乗ったスサノオは、次第に出雲国を我が物顔で闊歩するようになった。そして、テナヅチの娘との結婚を果たしたのである。
227: 06/18(火)16:16 AAS
【ホヒ族の密告】
九州から天孫族が船で攻めてきた。その前に渡来し、王の娘と結婚していたホヒが密告し、敵を導いたのである。
稲佐浜で戦ったが、出雲軍は徹底的に打ちのめされてしまった。
オオクニヌシはコトシロヌシに相談を持ちかけた。「これ以上、出雲の民が殺されるのは忍びない。国(王位)を天孫族に譲るべきではないだろうか?」
コトシロヌシは反対だったが、「父上がそう仰るのなら、従いましょう」と答え、天孫族への呪いの言葉を叫んでから、敵将の前で海に飛び込み、自害した。
省2
228: 06/18(火)16:18 AAS
神武の侵攻
天孫族の侵攻を手引きしたホヒ族との関係は次第に改善していたが、今度は神武が九州から攻めてきた。勢力を回復していた私たちは、穴門(長門国)※1で迎え撃った。
防府(現在の山口県)、河内、熊野などで戦った神武は、6人の部下を失った。しかし、7人目の神武は強かった。さらに、朝鮮からの渡来人「カラの子」と呼ばれるヤタガラスが神武の味方についた。
彼らは和解を装いながら、次々と出雲人を殺害していった。誠に陰険で残酷な手段だった。傷ついた王トミノナガスネ彦は、ヤマトを神武に譲り、出雲へ撤退した。王はその後、出雲で亡くなった。神武は橿原で即位し、ヤマトの王となった。
出雲人は、ヤマト、出雲、北陸、関東、東北などに分散させられた。神武から数代の王は、出雲王家の娘を妻に迎えた。これは、私たちの反乱を防ぐためでもあった。縄文時代も終わりに近づいていた頃のことである。
省1
229: 06/18(火)16:21 AAS
ヒボコ族の渡来
朝鮮半島から渡来したヒボコ族は、出雲への侵攻を撃退された後、但馬国に逃れました。首長のヒボコは豪族の娘と結婚し、勢力を拡大。若狭国、近江国を経てヤマト政権と交流を深め、同じく朝鮮半島から渡来していた倭漢氏と協力して安定した勢力を築きました。
鉄を求めたヒボコ族は、次に吉備国を目指します。出雲国は八千軍を編成して防衛線を引きましたが、伊予国や淡路国の百済人の加勢もあり、突破されました。ヒボコ族は吉備王国を建国し、久米川から鉄を採掘、陶器も焼成しました。弥生時代に入っていた頃のことです。
力をつけたヒボコ族は、天孫族と手を結び、物部氏を将として吉備国から攻め込みました。彼らは女子供までも殺害し、出雲国は滅亡の危機に瀕します。天孫族は出雲大社(熊野大社)の神宝である勾玉を奪い、祭祀は停止されました。人々は働かず、各地で反乱が起こります。
困窮した天孫族は、ヒボコ族に祭祀の復活を懇願しました。しかし言うことを聞かないため、ホヒ族が代行することになりました。しかし国々は混乱し、天孫族内部でも内乱が発生します。天孫族は伊勢国にも攻め込みましたが、王の伊勢彦は勢力を持つミナカタノトミノ命のいる信濃国へ逃れました。
省2
230: 06/18(火)16:29 AAS
出雲の口伝に伝わる57柱の神々
イザナギ命とイザナミ命の長男とされるクナトノ大神は、王に推された神として古事記に記されています。出雲の口伝では、このクナトノ大神を初代として、57柱の神々がいたと伝えられています。
幸(さい)の神、塞(さえ)の神、道祖神、道陸神(どうろくじん)など様々な別名を持ち、熊野大社、出雲井神社、道祖神社、幸(さきわい)神社など各地で祀られています。
聖武天皇から桓武天皇までの歴代天皇は、クナトノ大神の力を恐れ、平安京、長岡京、信楽京(しがらき)などの都では「サイの大通り」を作り、都の四隅に神社を建てて鎮魂の供養を行ったと伝えられています。
231: 06/18(火)16:31 AAS
毎年10月に、世界中の神々が島根県出雲市に集まるという言い伝えが、現在の「神無月」と「神在月」の呼び名の由来となっています。
出雲大社の神々は、祖先の魂を具現化した勾玉を「宝物(たからもの)」と呼んでいました。この勾玉を身に着けることができる王家を「宝筋(たからすじ)」と称し、昭和53年時点で出雲に残る「宝筋」はわずか12軒のみでした。
勾玉は、シュメール語で「美しい玉」という意味の「mag dim」という言葉に由来すると言われています。
232: 06/18(火)16:32 AAS
古事記では、越の国からヤマタノオロチが娘を奪いに来るという筋書きになっています。一方、口伝ではヤマタノオロチは登場せず、出雲のヒナ川に住みついていた古志人が暴れたと伝えられています。共通しているのは、テナヅチとアシナヅチが助けを求めたことと、テナヅチの娘と結婚したという部分です。
233: 06/18(火)16:34 AAS
出雲神話におけるコトシロヌシとオオクニヌシの真実
はじめに
美保神社の青紫垣神事は、コトシロヌシが天孫族への呪いの言葉をを残し海に飛び込んだ様子を再現する神事として知られています。しかし、富氏によると、この神事は単なる死の前夜祭ではなく、出雲人の天孫族への恨みや屈辱を表現するものであり、本来の御祭神はミホススミノ命であると指摘されています。
コトシロヌシの死と出雲の悲劇
コトシロヌシは、出雲国譲り神話において重要な役割を果たした神です。しかし、天孫族との争いに敗れ、海に身を投げて果てます。富氏は、この死を単なる自殺ではなく、天孫族への強い恨みと絶望の表れと解釈しています。
オオクニヌシの謎
オオクニヌシは、コトシロヌシの父であると同時に、出雲国の王でもあります。しかし、その生涯については謎が多く、記紀神話とシュメール語訳神話では大きく異なる記述が見られます。
出雲王朝とミナカタノトミノ命
オオクニヌシの死後、出雲国はホヒ一族によって支配されます。ホヒ一族はさらに大和へ侵攻し、出雲王朝を築きます。しかし、この王朝は間もなくミナカタノトミノ命によって滅ぼされます。
ミナカタノトミノ命は、信濃国を拠点とした勢力であり、諏訪大社を建立しました。富氏は、ミナカタノトミノ命は出雲神話において本来重要な役割を果たしていた人物であり、記紀神話においてその存在が矮小化されているのは、藤原氏による意図的な改変であると主張しています。
省4
234: 06/18(火)16:38 AAS
天孫族の内乱が長引くと、各地の渡来系豪族たちはそれぞれに王位を狙って争いを起こし始めました。大伴金村や物部麁鹿火(あらかひ)はなんとか彼らをまとめようとしましたが、うまくいきませんでした。苦境に立たされた二人は、仲哀天皇の五世孫である倭彦王(やまとひこのおう)を擁立しようとしましたが、迎えの兵が現れた途端に逃げ出してしまい、倭彦王は行方不明になってしまいました。
次に彼らが目をつけたのは、渡来人に対して中立的な立場を保っていた出雲の王家でした。新羅系のヒボコ族、倭漢氏系の葛城一族、百済系や高句麗系の人々にとっても、出雲神族の王が天皇になれば、さほど抵抗することはないと考えたのです。大伴氏や物部氏から何度も要請を受けましたが、出雲神族は動きませんでした。「なぜ自分たちが渡来人のために天皇となり、国を治めなければならないのか」というのが、その理由でした。
しかしその後も、百済系の河内馬飼首やヒボコ族などから天皇擁立の請願が続き、ついに重い腰を上げた出雲神族は、古志方面の首長であったオホトを擁立し、継体天皇として即位させました。
507年の即位式には、出雲神族の三輪一族と加茂一族が大きな役割を果たしました。継体天皇は即位後、河内から山背を転々とし、19年後にようやく大和に入りました。これは、大和での戦乱が終結するのを待っていたためです。
継体天皇から宣化天皇までの3代、天皇位は出雲神族によって継承されました。
235: 06/18(火)16:42 AAS
オオクニヌシはスサノオの子孫とされますが、スサノオは牛をトーテムとする牛族(ウル人)であるのに対し、オオクニヌシは竜蛇をトーテムとする竜蛇族、蛇族(シュメール人の黒黄色人)であり、両者は異なる民族であると考えられます。
古代オリエントでは、竜蛇族が牛族に追いやられ、各地に散らばったという説があります。富氏の口伝にも「出雲人に戦いの歴史はなかった」とあり、戦わずに住み着いていた土地を離れたことが推測されます。
蛇族の代表的な家紋は「亀甲紋」「州浜紋」「巴紋」であり、これらの紋章はバビロニアや古代インドの竜神にも見られます。「亀甲紋」は海神のシンボルマークでもあり、出雲神族もまたこれらの紋章を持っています。
地球北半球諸国における動物の「牛」の原音には「ウル(uru)」が多く、メソポタミア南部のシュメール都市ウルクの「ウル」も牛に由来した地名です。「ウル」はトーテムから部族名となり、さらに王朝や都市の命名由来ともなりました。
このように、牛と蛇のトーテムは、古代日本の神話、神名、石碑、地名などにも残されています。
236: 06/18(火)16:47 AAS
御神歌とは、神道において、神々が直接詠んだとされる歌を指します。具体的には、神託や神意を伝える手段として、神々が人間に託した歌と考えられています。御神歌は、古事記や日本書紀などの文献に記録されており、神道の信仰や思想を理解する上で重要な資料として扱われています。
一方、神歌は、神を祀るために歌われる歌の総称です。神事や祭礼の際に、神への感謝や祈りを込めて歌われる神楽歌や、能楽の「翁」で謡われる歌なども神歌に含まれます。神歌は、御神歌とは異なり、神々自身が詠んだ歌とは限りません。むしろ、人間が神への敬意を表すために創作した歌が大半を占めます。
237: 06/27(木)22:54 AAS
『古事記』や『日本書紀』に記された神話(記紀神話)と、『出雲国風土記』に伝わる神話(風土記神話)には、興味深い相違点が数多く存在します。
風土記神話においては、記紀神話で語られる出雲神話と共通もしくは類似する伝承はほとんど見当たりません。記紀神話に登場する神々が風土記神話にも登場する場合でも、その物語内容は大きく異なっていることが特徴です。
例えば、記紀神話では簸の川上流を舞台としたスサノオの八岐大蛇退治が有名ですが、風土記の大原郡斐伊郷の条にはその記述が見られません。同様に、『古事記』でオオクニヌシの生い立ちとして語られる八十神による迫害や根の国での試練も、風土記神話には存在しません。
神々の系譜についても、記紀神話と風土記神話では大きく異なる様相を呈しています。風土記神話における神々の系譜は、記紀神話とはかなり異なる形で捉えられていたと考えられます。
このように、記紀神話と風土記神話は、出雲神話に関する内容において様々な相違点が認められます。これらの相違点は、古代出雲における神話伝承の多様性を示唆するものとして、神話研究において重要な手がかりとなっています。
238(1): 06/27(木)22:58 AAS
出雲は小さな国なのに、なぜ神話の3分の1も占めているのでしょうか? そのせいで、1000年も前から大和朝廷と対立する強国のようなイメージが私たちの中にあったのかもしれませんね。
239: 07/21(日)21:34 AAS
本来は高志が強大で
出雲は下っ端なんだろうが
北陸って蘇我氏のこと書きたくないから
無視して出雲が変な感じになり
中臣が水増ししたい宇佐関連や
タケミカヅチはしゃしゃる
240: 07/29(月)18:04 AAS
>>238
出雲が神話の3分の1を占めているのは、本当に不思議ですよね。小さな国なのに、どうしてこんなに大きな役割を担っているのか、ずっと気になっていました。
大和朝廷との対立も、神話の影響が大きいのかもしれません。出雲が強大な国というイメージは、もしかしたら神話の物語から生まれたものなのかも。でも、実際のところ、出雲と大和の関係はどうだったのか、もっと詳しく知りたいです。
歴史の教科書には詳しく載っていないので、自分で調べてみたいと思っています。出雲には、神話以外にもたくさんの魅力的なものがあるようなので、いつか行ってみたいなぁ。
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