[過去ログ] 【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)6【ダメ工作員】 (335レス)
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94: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)01:41 ID:ncJKes9f0(30/190) AAS
しさと崇高さを基盤として、日本人の自然に対する信仰のあり方や、日本独自の芸
術文化を育んだ名山でもある。富士山は山岳に対する信仰の在り方や芸術活動など
を通じ、時代を超えて一国の文化の諸相と極めて深い関連性を示し、生きた文化的
伝統の物証であるのみならず、人間と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑
出した類型として、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山である。世
界文化遺産としての富士山とは、富士山山体の内、標高約1500m以上の範囲で
ある。この範囲は、富士山周辺の主要な神社や景勝地から見た可視領域が重なり合
う範囲であるとともに、各登山道における山体の神聖性に関する境界の一つである
「馬返」の標高とほぼ一致する。なお、「馬返」とは、乗馬登山が物理的にも、宗
教的観点からも不可能になる地点を示す。景観的には山体の傾斜角の変化率が大き
省14
95: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)01:41 ID:nhLYBjhR0(16/96) AAS
様子は19世紀中ごろの絵図によって確認できる。1874年
、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって撤去さ
れ、ピークの名称も変更され、寺院は神社に改変された。しか
し、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記の行為
は現代の−23−登山者の多くが行っており、これらを通じて
富士信仰の核心が現代に受け継がれている。写真奥宮の写真表
法的保護、修理・整備の経緯1924年所在地が史蹟名勝天然
紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園
法の下に(富士箱根)国立公園に指定1952年所在地が文化
財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定2008年財団法
省22
96: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)01:46 ID:ncJKes9f0(31/190) AAS
ルヽ也」との記述も見られ、後に盛んになるお鉢巡りの古態と思
われる習俗があったことが知られる。富士講講中の多くは、頂上
に着くと、時計回りに山頂を巡っていった。内院に賽銭を投じ、
御来光を礼拝し、途中にあるいくつかの仏像や石碑を拝みながら
、大日寺(現奥宮)の大日如来、最高峰の剣ヶ峰、釈迦割石、霊
泉とされた金明水などを巡礼した。写真お鉢めぐりの写真A2大
宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間大社及び村山浅間神社を起
点とし、山頂大日岳に至る登山道である。12世紀前半、富士山
で修行した末代上人の開削した登山道が起源だとされ、14世紀
初め、僧の頼尊が修験者とその活動を組織化したことで、村山を
省22
97: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)01:47 ID:ncJKes9f0(32/190) AAS
定1969年国が大沢崩れに対する砂防事業に着手(継続中)1996年国・県が
台風による森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中)「御中道」は、標高2,
300m付近から2,800m付近の山腹を通り、富士山の中腹部を時計回りに一
周する約25kmの道である。「御中道巡り」は、修験道の祖とされる役行者が始
めたと伝えられ、16世紀後半、富士講の基礎を築いた長谷川角行が行ったことが
記録されている。古くは定まった道もなく巡ったとされ、富士講が盛んになった江
戸時代後期には一定の道が整備された。富士山信仰の上では、山体西側の大沢崩れ
を渡るという危険を伴う最大級の大行の道とされていた。富士登山3回以上の経験
を持ち、誓約書を御師に提出し、神への伺いをたてた上でないと許可されないほど
厳しいものであった。この御中道の巡拝を無事終えると、その証である「御許し」
省14
98: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)01:47 ID:nhLYBjhR0(17/96) AAS
1552年、村山を神聖な地と定め、村山三坊には山役銭の徴
収権を与えている。この権利は19世紀後半まで継続し、浅間
大社が登山道の管理に関わることはなかった。一方、16世紀
ごろ、浅間大社は湧玉池での水垢離を重要な儀式と位置づける
ことによって、浅間大社を経由した登拝を喧伝した。浅間大社
には16世紀前半に30余りの道者坊があったことが伝えられ
、同時期の絵図である「絹本著色富士曼荼羅図」には浅間大社
・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する人々の姿
99: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)01:52 ID:ncJKes9f0(33/190) AAS
の道者坊の記録より、御縁年で2,000人前後、平年で数百名
程度と推測できる。1826年の記録ではその数が減少し、村山
の村落も衰退していたとの記述もあるが、1860年、初の外国
人登山となる英国公使オ−24−ールコックは大宮を経由して村
山に宿泊し、山頂をめざした。彼の記録では大鏡坊、中宮八幡堂
の存在や登山道の様子が確認できる。明治維新以降、女人登山の
解禁もあり、登山者は増加傾向を示すが、1889年、東海道線
の開通による御殿場口利用者の増加により衰退し、これへの対策
として1906年、村山を経由せず4km短縮された大宮新道(
カケスバタ口)が建設されたため、大宮から現六合目までの村山
省22
100: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)01:53 ID:ncJKes9f0(34/190) AAS
設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は
神社に改変された。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記の
行為は現代の−23−登山者の多くが行っており、これらを通じて富士信仰の核心
が現代に受け継がれている。写真奥宮の写真表法的保護、修理・整備の経緯192
4年所在地が史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国
立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1952年所在地が文化財保護
101: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)01:53 ID:nhLYBjhR0(18/96) AAS
れている。道者坊はその後統合され、19世紀前半には5坊と
なった。また、1600年頃以降、地元支配者により、大宮を
経て村山口登山道を利用することが求められた。登山道中の宗
教施設は、17世紀初頭までに建設され、石室などの施設は主
に17世紀後半、興法寺から許可を受けた先達により建設され
たが、1707年の宝永噴火で登山道と共にことごとく破壊さ
れた。これらは再建されたが、その復興は須走口より遅かった
。主要な宗教施設としては発心門、中宮八幡堂、室大日などが
あった。登拝者は興法寺の檀所や浅間大社の道者場としていた
静岡県西部地方を含む西日本の人々が多かった。なお、153
省22
102: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)01:59 ID:ncJKes9f0(35/190) AAS
当たる1800年に約5,400人、1840年代前半は年平均
約1,700人、続く1860年の御縁年には約3,600人で
あった。登拝者は神仏分離令後も継続していたが、1883年、
須山口二合八勺に接続する御殿場口登山道が開鑿された。また、
1889年に東海道本線が開通し、御殿場口の利便性の向上によ
り須山口からの登拝者や登山者が減少することとなった。191
2年には、登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可能となった
ため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至っている。二
合八勺以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一部のみであ
る。また、1999年、地元住民により須山口下山歩道の名でか
省22
103: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)01:59 ID:ncJKes9f0(36/190) AAS
AA省
104: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)01:59 ID:nhLYBjhR0(19/96) AAS
山浅間神社及び12軒の御師を中心とした須山村により管理さ
れていた。ただし、銀明水の管理を巡り、須走村と争いになっ
た際は浅間大社の裁定を仰いでいる。登山道には宝永噴火前の
状況を描いた絵図で須山御胎内に附属する御胎内神社等の宗教
施設と山室がみられる。これらの施設及び登山道はその中腹よ
り噴火した宝永噴火により壊滅し、御縁年の1740年に復興
したが永続せず、1780年にようやく復興した。また、18
80年代の記録では御室浅間神社、中宮浅間社、御胎内等の宗
教施設と4箇所の石室があることが確認できる。中宮浅間社や
水呑浅間は村山修験の富士峯修行の行場としても使用された。
省22
105: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)02:06 ID:ncJKes9f0(37/190) AAS
た。登拝者は関東地方の富士講関係者が多く、東北地方からの登
拝者も見られる。講によっては吉田口から登山し、砂道で下山に
適した須走口へ下山する形をとった。また、1831年、須走口
山頂部に宝経塔が作られたことにより、日蓮宗の信徒による登拝
も増加した。1889年の東海道線開通による御殿場口、および
1903年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離が
長い須走口は敬遠されるが、御殿場口の下山道として利用され続
けた。1909年より登山道の周囲に石垣を築き、191
106: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)02:06 ID:ncJKes9f0(38/190) AAS
坊となった。また、1600年頃以降、地元支配者により、大宮を経て村山口登山
道を利用することが求められた。登山道中の宗教施設は、17世紀初頭までに建設
され、石室などの施設は主に17世紀後半、興法寺から許可を受けた先達により建
設されたが、1707年の宝永噴火で登山道と共にことごとく破壊された。これら
は再建されたが、その復興は須走口より遅かった。主要な宗教施設としては発心門
、中宮八幡堂、室大日などがあった。登拝者は興法寺の檀所や浅間大社の道者場と
していた静岡県西部地方を含む西日本の人々が多かった。なお、1532年以降不
連続であるが、登拝者の記録が残され、その数は18世紀後半から19世紀初頭の
道者坊の記録より、御縁年で2,000人前後、平年で数百名程度と推測できる。
1826年の記録ではその数が減少し、村山の村落も衰退していたとの記述もある
省14
107: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)02:06 ID:nhLYBjhR0(20/96) AAS
入仏などを行った。また、内院および薬師堂の散銭取得権も浅
間大社に次ぐ権利を有していた。冨士浅間神社及び須走村は、
1703年と1772年の2回幕府に訴え、これらの権利につ
いて八合目以上の支配権を主張する浅間大社と争い、正式に権
利を認められた。−25−登山道の施設は1683年の資料等
で詳細が確認でき、大日堂、御室浅間神社、古御岳神社等の宗
教施設と共に、小屋・石室が山頂部まで設置されている。17
07年の宝永噴火では、これらの施設及び麓の浅間神社、須走
村は約3mの降砂に覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け
、翌年の登拝期までには復興を完了し、多くの登拝者を集めた
省22
108: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)02:12 ID:ncJKes9f0(39/190) AAS
は、八合目まで馬による登山が可能になった。八合目以上は浅間
大社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。また、19
23年に皇太子(昭和天皇)の登山に利用されている。1959
年、バス道路(現ふじあざみライン)の完成により、五合目以下
の登山道の利用は減少し、一部登山道としての確認ができない区
間がある。写真須走口登山道の写真A5吉田口登山道北口本宮冨
士浅間神社を起点とし、富士山頂を目指す道である。15世紀に
は、富士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間
にも広まっていた。吉田口は14世紀後半には参詣の道者のため
の宿坊もでき始め、大勢の人々が登るための設備が整うようにな
省22
109: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)02:13 ID:ncJKes9f0(40/190) AAS
た須山村により管理されていた。ただし、銀明水の管理を巡り、須走村と争いにな
った際は浅間大社の裁定を仰いでいる。登山道には宝永噴火前の状況を描いた絵図
で須山御胎内に附属する御胎内神社等の宗教施設と山室がみられる。これらの施設
及び登山道はその中腹より噴火した宝永噴火により壊滅し、御縁年の1740年に
復興したが永続せず、1780年にようやく復興した。また、1880年代の記録
では御室浅間神社、中宮浅間社、御胎内等の宗教施設と4箇所の石室があることが
確認できる。中宮浅間社や水呑浅間は村山修験の富士峯修行の行場としても使用さ
れた。登拝者については詳しい研究が進んでいないが、西日本・東日本両方からの
登山者があったことが、宿帳及び案内立札の立地から確認できる。登拝者数は御縁
年に当たる1800年に約5,400人、1840年代前半は年平均約1,700
省14
110: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)02:13 ID:nhLYBjhR0(21/96) AAS
めの設備が整うようになった。16世紀から17世紀、長谷川
角行が吉田口を利用して修行を行い、18世紀前半には富士講
隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自殺)にあたって
信者の登山本道をこの吉田口と定めた。このため、富士講の信
者が次第に増加した18世紀後半以降は、年間数万人を数える
富士講の道者が登拝したとされる。1964年に富士山有料道
路が開通した後は、ほとんどの登山者が新五合目(小御岳)を
起点として登るようになったため、五合目以下の道を利
111: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)02:19 ID:ncJKes9f0(41/190) AAS
、吉田口登山道の起点に位置し、祭神として木花開花姫命、天津
彦彦火瓊瓊杵命、大山祇命を祀る神社である。富士山の遙拝所に
祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、148
0年には「富士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神
社の社殿が整っていたとされる。当神社は領主からの崇敬が厚く
、境内に現存する3つの社殿は、1561年、1594年、16
15年にそれぞれ当時の領主が寄進したものである。富士講との
つながりが強く、1730年には富士講の指導者である村上光清
の寄進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる
境内の景観の礎が形成された。北口本宮冨士浅間神社の支配権は
省22
112: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)02:20 ID:ncJKes9f0(42/190) AAS
た、内院および薬師堂の散銭取得権も浅間大社に次ぐ権利を有していた。冨士浅間
神社及び須走村は、1703年と1772年の2回幕府に訴え、これらの権利につ
いて八合目以上の支配権を主張する浅間大社と争い、正式に権利を認められた。−
25−登山道の施設は1683年の資料等で詳細が確認でき、大日堂、御室浅間神
社、古御岳神社等の宗教施設と共に、小屋・石室が山頂部まで設置されている。1
707年の宝永噴火では、これらの施設及び麓の浅間神社、須走村は約3m
113: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金)02:20 ID:nhLYBjhR0(22/96) AAS
登山者は激減したが、六合目以上については、現在残る登山道
の中で最も多くの道者(外の登山口の合計と同程度)が吉田口
登山道を上って山頂を目指している。しかも、古道としては唯
一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道である。写真吉田口登
山道の写真表法的保護、修理・整備の経緯1924年所在地が
史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在
地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1952年
所在地が文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定19
78年「特別名勝富士山保存管理計画」策定(1999年、2
006年改訂)1996年歴史の道整備活用事業により馬返〜
省22
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