[過去ログ] 教会のイメージとは? (647レス)
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209(2): 2010/07/17(土)00:05 ID:WAtOrmc6(3/3) AAS
>>205
さっそくのお返事、ありがとうございます。
質問を続けさせて頂きます。
|>>万物の創造主である神が本当に
|>>ひとりの小さな人間の肉体に宿ることが可能であったのか、
|>>という疑問が出てきてしまいます。
|
|そのためのキリストです。
との御回答でした。
そうしますと、《造物主である絶対神がかかっていたイエス様》という事になりますので、
省5
210(2): 2010/07/17(土)00:56 ID:viDSlh0H(1) AAS
神の大愛を説くキリスト教はある意味でオープンな面を持っておられると感じるのですが、
日本の教会「だけ」は上記とは全く正反対の宗教であるとのイメージを持っています。
その理由は、自国の戦没者に対して敵意をむき出しにするからです。これは、もう、
非常識と言っても過言ではないかもしれません。
以前は、例えば故大平総理は敬虔なクリスチャンであられたそうですが、度々靖国神社に参拝されて
祈りを捧げられたと聞きました。
しかし現在では、全くそのような話は聞きません。
靖国神社には全世界からあらゆる宗教の方が参拝にこられますが、日本のキリスト教会だけは
異なるというイメージが有るのは、繰り返されている靖国がらみの訴訟の影響も強いのでしょう。
なぜ、日本の教会は、他国に行ったときにはその国の戦没者に祈りの捧げるのに、自国の
省4
211(2): 2010/07/17(土)01:58 ID:VFt+XJAS(1) AAS
ゼロさん、まだキレずに続けてるんだ。
アナタはご立派、見直しましたよ。
改めて>>1を見たけれど、やっぱり「ノンクリスチャン」という呼称にはカチンと来ますわ(笑)。
自分がキリスト教の施設で長い間お世話になり、その後も度々教会の礼拝に出たせいかもしれないね。
まあ、お水をかぶらなかった点だけで、ドシロウトと一緒に扱われるみたいで、ムカついちゃうのかも……。
そんなわけで、アンケート4点には、やっぱり応えられなかったです、ゴメン。
思うに、イメージ戦術みたいなのよりも、アナタのような人が集う場所である点をアピールする方が有効かと……。
ほら、「疲れた人は誰でも私の所へ来なさい」みたいなニュアンス、誠心誠意のこもった態度を伝える感じで……。
212(1): ゼロ 2010/07/17(土)20:42 ID:GuruZTQ3(1/10) AAS
>>209の方へ
>>209の方は、真剣に疑問の答えを求めていらっしゃるのですね。
文章から察するに、求道者でしょうか。
私は、解き明かす者や導く者というよりも、
道を切り開く者、あるいは種をまく者の方に区分されているようなので、
上手く回答できるかどうか分かりませんが、私に分かる範囲でお答えいたします。
>それならば、何故イエス様は祈を捧げるという行為を行っているのですか?
この質問に関しましては、>>165の方が同じことを疑問視されていましたので、
>>178、>>179、>>182、>>184、>>187で、
コンピュータを例に、解説しております。
省7
213: ゼロ 2010/07/17(土)20:44 ID:GuruZTQ3(2/10) AAS
>>209の方は、キリスト教で、”人間がどういったもので構成されている”と
言われているのか、ご存知でしょうか。
キリスト教では「人間は、肉体・魂・霊の三つで構成されている」と言われています。
キリスト教とは無縁の方がこの話を聞くと、
「魂と霊って一緒じゃないの?」と思われるようですが、
聖書の中では、まったく異なるものとして、書かれています。
肉体とはご存知の通り、私達人間が持つ身体のことです。
魂とは、簡単に言えば、精神や人格と言った類いのものです。
では、霊とは一体なんなのでしょうか。
聖書の言う霊とは、聖霊(せいれい)や悪霊(あくれい)のことを指しています。
省12
214: ゼロ 2010/07/17(土)20:48 ID:GuruZTQ3(3/10) AAS
では、これをイエス・キリストに当てはめると、どのような状態となるのでしょうか。
まず、イエスと言う人間の男の肉体があります。
これは、神様が人間として、この地上に関わるために絶対に必要なものです。
人間以外の肉体を使っては、そもそも人間ではなくなってしまいますからね。
次に、イエスと言う人間の男の魂があります。
この魂も、肉体と同様に、人間の魂でなければ、
人間ではなくなってしまうので、必要なものです。
そして、最後に、霊。
ここに聖霊として神様がいるわけです。
・イエスと言う人間の肉体
省3
215: ゼロ 2010/07/17(土)20:52 ID:GuruZTQ3(4/10) AAS
実は、聖書の中では、一度だけ、
イエスと言う人間の肉体とイエスと言う人間の魂だけになったことがあります。
どこだかお分かりになるでしょうか。
マルコによる福音書の中にあります。
『そして三時に、イエスは大声で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。
それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。』
この時、父なる神(創造主)の霊が、イエスの肉体から出て行ってしまったので、
イエスと言う人間の魂が、神様に向けて叫ぶことになったのです。
そして、霊が抜けてしまったので、イエスの肉体は死に至りました。
人間を構成しているのは、肉体と魂と霊ですから、霊が抜けてしまうと、
省3
216: ゼロ 2010/07/17(土)20:56 ID:GuruZTQ3(5/10) AAS
○何故、神の子供と呼ばれているのか?
それは、イエスと言う人間の肉体とイエスと言う人間の魂を、
神様が創っているからです。
先に説明した通りですが、神様が人間となるためには、必要な要素があります。
その要素は神様が創ったものです。
神様は、自分の創った存在に対して、父と呼ぶことを許可しています。
それ故に、創られた存在である、イエスと言う人間の肉体とイエスと言う人間の魂は、
子供として扱われているのです。
○何故、祈りを捧げていたのか?
それは、神の子だからです。
省7
217: ゼロ 2010/07/17(土)21:03 ID:GuruZTQ3(6/10) AAS
ですが、そうすると、更なる疑問が生まれてきます。
イエスは、父なる神(創造主)ではないのではないか?
というものです。
これが、キリスト教の内部で、混乱となっている原因なのです。
例えば、神様が目に見え、触れることができるとして、
それが物理的に人間の肉体に融合していたとしましょう。
そして、融合されている人間は、神様の意志に従って意動いているとします。
では、この存在は一体なんなのでしょうか。
人なのでしょうか?
それとも神様なのでしょうか?
省7
218: ゼロ 2010/07/17(土)21:05 ID:GuruZTQ3(7/10) AAS
論点の中心となているのは、イエス・キリストが神であるか、人であるか、ということですが、
神様の意志に従っている肉体と魂は、先程の例えの、人間の能と手足の関係と同様だと言えます。
つまり、神様の意志によって、動かされているのだから、それも含めて、神様、となるわけです。
そう考えられず、表面的な部分だけを見ると、イエス・キリストは、神の子ではあるが、
神ではない、という結論に達してしまうわけです。
私個人は、前者の方を信じているので、父なる神(創造主)=子なる神(イエスキ・リスト)
と認識しています。
回りくどいので、混乱しそうですが、このようなものだと、私は解釈しています。
219: ゼロ 2010/07/17(土)21:22 ID:GuruZTQ3(8/10) AAS
>>210の方へ
>なぜ、日本の教会は、他国に行ったときにはその国の戦没者に祈りの捧げるのに、自国の
>戦没者にはそうしないのか?
おそらくそれは、神社として、戦没者の方々を祭り上げてしまったことが、
クリスチャン側からすると、問題なのだと思います。
もし、第二次世界大戦の時に、原爆によって亡くなられた方々の為に作られた、
記念碑……というのでしょうか、なんと表現すべきか分かりませんが、
そう言うもののように、悼むための象徴のようなものであったなら、
日本人のクリスチャンは、その地に足を運び、悼んだやも知れません。
ですが、神社などに、祭り上げられてしまうと、戦没者の方のために祈る行為すら、
省7
220: ゼロ 2010/07/17(土)22:14 ID:GuruZTQ3(9/10) AAS
>>211の方へ
>ゼロさん、まだキレずに続けてるんだ。
>アナタはご立派、見直しましたよ。
有難うございます。
>改めて>>1を見たけれど、やっぱり「ノンクリスチャン」という呼称にはカチンと来ますわ(笑)。
やはり、「ノンクリスチャン」という表現は、不快を与えてしまうものなのですね。
書き直したい所ですが、なにせ、ここは2チャンネル……
権限がないので、訂正できません。
……すみません。
>自分がキリスト教の施設で長い間お世話になり、その後も度々教会の礼拝に出たせいかもしれないね。
省10
221: ゼロ 2010/07/17(土)22:18 ID:GuruZTQ3(10/10) AAS
>ほら、「疲れた人は誰でも私の所へ来なさい」みたいなニュアンス、誠心誠意のこもった態度を伝える感じで……。
仰りたいこと、お察しいたします。
そうできるのであれば、すぐにでもそうしたいものです。
ですが、私のやろうとしていることは、実の所、外部に向けたイメージ戦略ではないのですよ。
外部に向けたものであるように見せかけながら、本当は、内部のクリスチャンが、
本来あるべき姿を取り戻す、あるいは手に入れる、きっかけを作ることなのです。
そうすることで、211の方の言葉を借りるならば、誠心誠意のこもった態度で、
伝道するクリスチャンが増え、結果的に外部の人々に影響を与えてゆくのです。
今、クリスチャンの中には、キリスト教徒ではない方が指摘できる程、
クリスチャンとしてあるまじき行動をする方々がいらっしゃいます。
省14
222(2): 2010/07/17(土)23:02 ID:8l+SPFqU(1) AAS
>>212
途中ですみません。ゼロさんは
>私は、解き明かす者や導く者というよりも、
>道を切り開く者、あるいは種をまく者の方に区分されているようなので、
のように表現されていました。
このことには、いつ頃から、そしてどのようにして気付いたのでしょうか?
もし良ければ教えて下さい。
と言うのも、僕も一人一人のキリスト教徒には
それぞれの役割というものがあるのかもしれない、と思うからです。
(Tコリント12章「霊の賜物」を参考にして)
223(1): 2010/07/18(日)00:56 ID:sGIu6hbu(1/2) AAS
>>210
外部リンク[htm]:www.kuretakekai.jp
>参拝した大平首相(クリスチャン)は「人がどう見るか、私の気持ちで行くのだから批判はその人に任せる」
>(記者団に対して)、A級戦犯あるいは大東亜戦争というものに対する審判は
>歴史がいたすであろうというように私は考えています。」
>(昭和54年6月5日参院内閣委員会)と述べている。
クリスチャンの大平首相(聖公会)は終戦記念日に靖国神社を私的参拝されました。
中曽根首相が終戦記念日に靖国神社に公式参拝したのを朝日新聞が騒ぎ立てて以来、
中国が靖国参拝に内政干渉するようになりました。
一部の教会内左翼は靖国参拝に反対してますが、戦没者慰霊の施設としてなら
省12
224(1): 2010/07/18(日)01:04 ID:sGIu6hbu(2/2) AAS
AA省
225: ゼロ 2010/07/19(月)01:56 ID:lrG7JchK(1/9) AAS
>>222の方へ
そう、ですね……まだ確信にまでは至っていないので、はっきりお答えはできないのですが、
それっぽいな、と思いはじめたのは、二年程前からです。
なぜ、それっぽいな、と思ったのかと言いますと、
役目らしきことと違うことをしようとすると、
全ての道が閉ざされてしまうことに気づいたからです。
私には元々、どうしてもやりたいことがあって、
ずっとそのためだけに、本を読んで勉強し、実践して技術を身につけ、
やりたいことができるようにと努力してきました。
けれど、いざ、そのやりたいことをやろうとすると、
省10
226: ゼロ 2010/07/19(月)02:00 ID:lrG7JchK(2/9) AAS
その時初めて、”もしかしたら、今まで私がやろうとしてきたことは、
神様の御心ではなかったのでは?”と思いました。
そして改めて、考え直したのです。
今度は、”自分のやりたいことではないけれど、
神様がやれと言っているぽい、こっちの道を選んでみよう”そう思って、
別の道を選択して歩むと、今まで目の前に立ちふさがっていた障害が、
嘘のようになくなりました。
ずっと死ぬことにしか向けられていなかった思考が、生きることに向けられ、
忌々しいと思い続けてきた人間の存在を、愛しいものだと思えるようになりました。
そして、周囲の人々は、私に向かって、こう言うようになりました。
省9
227: ゼロ 2010/07/19(月)02:05 ID:lrG7JchK(3/9) AAS
もっとも、私が、解き明かす者や導く者というよりも、
道を切り開く者、あるいは種をまく者の方に区分されているように思うのは、
私の身近に、本当に解き明かす者や導く者、
そして道を切り開く者、あるいは種をまく者の方の役目を担う人間がいるからでもあるのです。
私は、解き明かす者や導く者の役目を担っている人のしていることと、
自分のしていることを見た時に、
本質は同じでも、与えられている役目は異なるものだと感じました。
そして、道を切り開く者、あるいは種をまく者の役目を担っている人のしていることと、
自分のしていることを見た時に、
本質が同じで、方向性が似ていると感じました。
省6
228: ゼロ 2010/07/19(月)02:11 ID:lrG7JchK(4/9) AAS
ただ、役目に関して、勘違いをしないでいただきたいのは、
人間には、全体を通してやるべき、大きな役目と、
その時々や場合、また、関わる人によって、
臨機応変に対応しなければならない、小さな役目があるのです。
大きな役目は、聖書に書かれている通り、明確で分かりやすいものですが、
小さな役目は、その時に関わる人の分だけ有り、その数は無数です。
大きな役目の場合は、自覚して意識的に行なわなければ、果たすことは難しいでしょう。
なぜなら、その人が、一番やりたくないと思っていることを、
行なわなければならないことが、ほとんどだからです。
そしてそれは、生きている間に全うされることはありません。
省14
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