[過去ログ] 【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践17 (1002レス)
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210: 2019/06/29(土)20:55 ID:5HtQzOMl(1/3) AAS
お釈迦さんが出家できたのは、
実家が裕福で(後継ぎも生まれて)、
「自分が稼がなくても」→『自分がいなくなっても』誰も生活を脅かされない
ということが明らかだったから。
211: 2019/06/29(土)21:00 ID:5HtQzOMl(2/3) AAS
釈尊在世時、
実際、悩んだ若者も居たのではなかろうか。
ゴータマの教えに感銘は受けた。
けれども、今、自分がサンガへ入ってしまったら、
母は、妻は、子供たちはどうやって食べていけばいいだろうか、と・・。
212: 2019/06/29(土)21:03 ID:5HtQzOMl(3/3) AAS
一子出家せば九族天に生ずと言われたりもするが、
一子しかいない時、彼が家庭を捨てるには、どういう手段があるだろうか・・。
213: 2019/06/29(土)21:58 ID:6Aebevdg(11/13) AAS
 
仮設としての
無明に依存して
我執をもって
妄想に依存して

>>204
>瞑想で妙なるものを見て

という感じだと思うけど
それでも.とりあえず
外部リンク:newspicks.com
省12
214
(2): 2019/06/29(土)22:35 ID:6Aebevdg(12/13) AAS
 
>>205
>物証のない迷信

他の人は.どうなのか?わからないけど
仮設としての
自分の場合は

目で見たり、触れて感じたりすることのできない
オカルト(occult)も
仮設のものとして
肯定なので
省14
215: 2019/06/29(土)22:48 ID:6Aebevdg(13/13) AAS
>>214の続き

一応.念のため
外部リンク:yamaneko.hatenablog.jp

(刹那生滅してるけど.とりあえず)
生命の中の心(の)流(れ)は、断絶する事がない
有分心.生命相続流とかも

仮設としてのもの.ことでおじゃります ヨロ m(_ _)m
216
(1): 2019/06/29(土)23:28 ID:nxf01Cjz(5/6) AAS
想像した輪廻は、ただの想像ですからね。
お釈迦さんが言ってる輪廻は、想像して言ってるわけじゃないですよ、ということが言いたかっただけです。
217
(1): 2019/06/29(土)23:35 ID:nxf01Cjz(6/6) AAS
想像した輪廻が、あると思う。
想像した輪廻が、ないと思う。
観測事実として確認された輪廻について語る。

最初の二つは、あるという想い、ないという想いで、どちらにせよ同じ土俵だと想います。
最後の一つは、智慧です。
考えて言ってるわけじゃない、想像の産物じゃないですよというお話です。

そして、この三つは言葉で話す以上、瞑想して確かめた人を除いて、
どのみち三つとも想像した概念として理解されるわけです。

なので、言ったところで仕方ないんですが、
経典の中でお釈迦さまが仰ってることは、解釈しないでそのまま受け取れば
省1
218
(1): 2019/06/29(土)23:49 ID:B4OCgdJw(3/3) AAS
瞑想で輪廻の観測ができるのかね?
219
(2): 2019/06/30(日)00:48 ID:7YiIO3WE(1/14) AAS
阿羅漢道智によって余す所なく滅尽する時
五蘊もまた般涅槃の時に、余すところなく滅尽して
因縁滅を了知する智慧
因縁滅智

阿羅漢果まで逝ってる僧侶とかじゃないと
わからないかもしれないけど

スッタニパータ 874
仮設としての
無明に依存して
我執にもとづいて
省13
220: 2019/06/30(日)01:04 ID:7YiIO3WE(2/14) AAS
 
輪廻がある
ということに我執すると

たとえば
宝珠タソの
『アートマンがあるんだ〜♪』
『自性があるんだ〜♪』

というような
我執と同じ感じになるかもしれない

中論とかの場合は
省11
221: 桃太郎 2019/06/30(日)02:51 ID:V/Punie7(1/4) AAS
>阿羅漢道智によって余す所なく滅尽する時、五蘊もまた般涅槃の時に、余すところなく滅尽して ...

それは無いね。まだ低い教えだよ。
仏教は三世の生命を前提としているんだから、輪廻を否定しては意味がないでしょ。
それに輪廻するから修行が続けられるんでしょ。

生命は永遠なんだよ。

生老病死、成住壊空いずれも諸法の実相なんだから、
修行によって(阿羅漢の極果を得て)この世に生まれて来ないなんてことは宇宙の法則(仏法)に反する事になる。
死なない人間がいないように、ありえません。

いかなる生命も「生老病死」からは逃れられない。
いかなる世界も「成住壊空」四劫(しこう)という原則(法)から逃れることは出来ない。
省2
222: 2019/06/30(日)03:23 ID:7YiIO3WE(3/14) AAS
 
>生命は永遠なんだ

たとえば
大乗の
仏性.真如.如来蔵とかのことを

言ってるのかしらん?
223
(1): 2019/06/30(日)10:18 ID:oLaWIXPn(1/8) AAS
>>218
今世の自我のなかに、過去世の記憶があるわけないからね。
自我を手放した時、どうなるかって話。
各自で確認して下さい。
224
(1): 2019/06/30(日)10:27 ID:oLaWIXPn(2/8) AAS
人間は思考概念でものごとを捉えるけど、般若の智慧に属すること(無我や輪廻)は思考概念
ではないから、言葉で言おうと思ったら、基本的にあれじゃない、これじゃない、それじゃない、
という言い方しかできないと思う。

あるいは仏教用語で言うと、
想として五蘊の中に生みだされた概念(pannatti)は、
五蘊を洞察した智慧(pannaa)ではない、ということかな。

自己流の表現なので、教理学的に正確じゃなかったらごめんなさい。
225: 桃太郎 2019/06/30(日)10:29 ID:V/Punie7(2/4) AAS
>>219

このリンク先の内容もアビダルマに傾斜した思想であることが分かる。

原始仏教は釈迦仏教の正統を受け継ぐとされた教団が、いくつもの部派に分裂し、互いに閉鎖集団を形成してしまった。
アビダルマ研究は、ますます煩項におちいり、大衆からは遊離する一方であった。

菩提樹の下で成道した釈尊は、その悟りを自分一個のものに留めておくのではなく、自らの悟達を全人類の共有のものとするため、仏法流布の旅に出立した。
ところが、部派仏教の僧侶達は、世俗の権威から超然とするばかりで、山林に閉じこもり、アビダルマ(阿毘達磨)研究に専念する傾向が出てきた。

すなわち「自利」のみを求め、大衆を化導する「化他」の実践がおろそかになったと考えられる。
そこで大乗教徒達は、自らの仏道修行はもちろん、苦悩に沈む大衆を広く教化していくことにこそ、釈迦の本来の精神があったのではないか、−そのように主張した
省2
226: 桃太郎 2019/06/30(日)11:17 ID:V/Punie7(3/4) AAS
前スレからのコピーだが

本来、原始仏教では、あくまで自己の体験的覚証を得ることが最第一の関心事ですから、
理論的に論証しようとしたり、誰かと論争したりすることは頭から否定したでしょう。
究極の生命を体得するという修行だけに心を集中することが第一義ですから、それから逸脱する行為は邪道としてしりぞけられたであろうと思う。

ところがテラワダは見ての通りかなりの部分でアビダルマに傾斜しているので、原始仏教とも言え無いのではなかろうか。

100歩譲って、「いや、あくまで自己の体験的覚証を得ることが最第一の関心事」だよ。と言ったところで
原始仏教には大きな落とし穴がある。それは体験的覚証は論証のしようが無いという事がひとつ。

めんどくさい仏法用語で、あたかも覚者のごとく主張しても、体験的覚証を証明しようがない。
例えば100人が実践して100人が現象として証明出来る明確な現証を得られれば、それは間違いなく正しい教えと言えるが
そうでなければ、確証は得られない。
省3
227: 桃太郎 2019/06/30(日)11:17 ID:V/Punie7(4/4) AAS
仏典の「沙門果経」には彼の説として、懐疑論が説かれてある。
次のようなものだ。

「もしあなたが、あの世は有るか、とたずねて、わたしがもし、あの世は有ると考えたら、あの世は有る、とあなたに答えるであろうが、〈しかし実際には〉わたしはそうはしない。
そのとおりだともわたしは考えないし、別だとも考えない。そうでないとも考えないし、そうでないのではないとも考えない。
もし、あなたが、あの世は無いのか、あの世は有り又無いものなのか、あの世は有るのでもなく無いのでもないのか、とたずねても、同じことである。」(略)

つまり、一つの問いに対して、かならず有・無・亦有亦無・非有非無の四句分別をもって答えたそうです。

いわゆる仏典で、なまずのような論とか、ごまかしの論とか非難しているのもだ。捕らえどころがない。

しかし、サンジャヤの立場に立って考えてみると、それなりに筋の通った論理だ。
 たしかに、言語を道断する究極の悟りは「無我」という立場から、人間の知覚感覚のあいまいさを前提とするかぎり、事物に対するなんらかの意思表示や判断を中止せざるをえない。
もし、なんらかの判断を行なうならば、その判断の根拠にある知覚を信頼したことになり、大きな矛盾に陥ってしまう。
省6
228
(1): 2019/06/30(日)11:23 ID:7YiIO3WE(4/14) AAS
 
桃太郎師匠の場合は↓これかしらん?

外部リンク[html]:blog.livedoor.jp

無の世界も超えて
計らいのない、分別のない心で
移り行く世界の様をありのまま見つめている

外部リンク[html]:www.shogyoji.or.jp
無住処涅槃
生死にも涅槃にも住さない涅槃
省5
229
(1): 2019/06/30(日)11:40 ID:XUQ411oR(1/8) AAS
>>223>>224
それは仏教の理論的にはそうなるはずだという推測にしか過ぎない。
なぜ「私は瞑想して観察下結果、輪廻や輪廻を決定する功徳の証しを見つけました」と言えないのですか?
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