[過去ログ] 【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践19 (1002レス)
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312: 2021/03/21(日)07:51 ID:YKJQMnZM(1) AAS
有身見離れるのさえできない
あーだこーだととらわれが多いのは自覚する
ネットで、瞑想について調べたり(←はっきり無駄と言うか有害ですわ)
でも結局昨日、大念住経と入出息念経読んで
そうそう、ブッダの言うやりかたで順番にやっていこう。ネットの有象無象の自称悟った連中(ネットは坐禅で悟った言うやつが多い)の言葉や解説じゃなく
って落ち着いた
坐禅で悟ったと公言するのの多くと、麻原もそうだとは思うけど
瞑想で何かあったのは事実だろう
有身見を離れるか、その手前の何かをして「わたくしは悟った。禅の奥義を極めた。実相がわかった」ってなった思う
313(1): 2021/03/23(火)20:59 ID:qBzZQigw(1/2) AAS
煩悩即菩提、生死即涅槃なんだが
煩悩があるままで煩悩が障りとならない状態をさすというような意見があるんだが
どう思う?
テーラワーダでは阿羅漢になれば業がなくなる
だから輪廻することがなくなると説くが
行動したり思ったりするのに業がなくなるというのはどうも理解できない
悟っても因果の中で生活している現実はかわらないのだから。
業というのはそもそも抽象的な概念なのだろうか?
また食欲や睡眠欲はあるはず。愚痴や無明は根本的になくなるが
生存本能のような欲は悟っても相変わらず存在するものだろう
省3
314: 2021/03/23(火)21:09 ID:qBzZQigw(2/2) AAS
また大乗で善根(善行)をつんでいけば悟ることができる
というのも理解できない
善行というのは善業なわけで善なる結果は生み出すことが
できるが、それによって輪廻から脱するという理屈が分らない
もちろん涅槃は善果なわけで、それを実現するための方法論は
善因になるし、善因となるものは業感縁起説にのっとれば
善業になるわけだが、善業によって業そのものをなくすというのは
矛盾があるように思う。
難しく考えずとも涅槃には智慧が必要で智慧には定という
止観の禅定が必要と考えればいいのだと思うが
省2
315: 2021/03/23(火)23:06 ID:Dyzb667a(1) AAS
>煩悩があるままで煩悩が障りとならない状態をさす
そう、その通り
というかこれが煩悩、これが煩悩でないと分けるのこそ煩悩
その判断基準がどこにあり、一体その判断を誰が行っているのか?
正確には自分の心身に不自然な煩悩はなくなるが自然な煩悩というか反応は残る
心身が物理的にあるので物理的な反応が生じるのは当然
しかし心身は自分でないと分かれば心身の煩悩(反応)がどのように生じようともそれは自分の煩悩(反応)とはならない
もちろんそれが分かるときには煩悩はいわゆる煩悩ではないですし、それが分かるようになるために日々煩悩に巻き込まれないようにしていくのは大切な基本修行だと思います
釈迦が弟子が死んだときに何故泣いたのか、解脱しているなら泣くことはないのではないかという古来からの議論を踏まえ
心身に反応が生じるとはどういうことか、そもそも心身とは何であるのかを探求すれば、やがて答えが導かれてくると思います
316: 2021/03/24(水)09:59 ID:WV7NscYs(1) AAS
坐禅してる人の言ってることに聞こえる
317(1): 2021/03/24(水)22:47 ID:ISRZhPo7(1) AAS
>>313
阿羅漢の目連は外教の者に打ち殺されましたが
後にある比丘が釈迦にこの件について「聖者目連は何の業があって外道にその身を粉砕せられたのか」と問うと、
釈迦は「目連はかつて過去世に、バラモンの子となり婦人を婬溺して母に孝行をしなかった。ある日、母に怒り悪語を発す、曰く如何ぞ勇力の人を得てかの身形を打たんと。この悪語によって五百生の中に於いてまさに打砕せられ、今日聖道を修して神通第一になったが、なおもこの報いを受けたのだ」と説明した(毘奈耶雑事18)。
また他の説では、彼は過去世において弊魔だった時に、しばしば拘楼孫仏の上首の弟子であった毘楼尊者を弄び、小児に変化して大杖で彼の頭を撃ち血を流させたことで地獄に堕した。
その宿業によって現世では釈迦仏の上首となり外道によって撲殺された(魔嬈乱経)。
318(1): 2021/03/25(木)00:10 ID:WsViHsR/(1) AAS
仏教の輪廻については、言ってる人バラバラで何を信じていいか良く分からんよ。
頓悟系の人だと、輪廻は昔の方便で、死んだらそれで終わりと言ってる人もいるみたい。
観察瞑想すると、心がすごい速さで回転しているのは分かるけど、肉体が死んだら心も
一緒に無くなるのか、良く分からない。
子供を作って、子孫残してって言うのが輪廻転生ならまだ分かるけど、オウムなんかでも
特殊な瞑想すると自分の過去生が見えてくるとか言うし、これまた、違うっぽい。
心のエネルギーはすごいから肉体が死んでも止まらないっていうのがテラワダの見解なのかな?
一時期、サイキックな能力が使えたことあるから、唯物論者じゃないんですけどね。
319(1): 2021/03/25(木)00:37 ID:zaI+3byt(1/3) AAS
修行僧たちよ、
サーリプッタ、モッガラーナが亡くなってから、
この集(つど)いも淋しくなってしまった。
かつてサーリプッタ、モッガラーナのありしことを憶(おも)うと、
わたしにはこの集いはむなしい。
しかし、この世で形あるもの、有為(うい)なるもので
滅びないものがあるであろうか。
故に修行僧たちよ、
自らを島とし、自らをよりどころとして、
他人をよりどころとせず、法を島として、
省3
320: 2021/03/25(木)07:28 ID:U7rr+vtC(1) AAS
人が生まれた時には、実に口の中に斧が生じている
人は悪口を語って、その斧によって自分自身を斬るのである
321: 桃太郎 2021/03/25(木)16:34 ID:LggU5cVt(1) AAS
>>319
私が >>258 に書いた事だね。
>自らを島とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、
>法を島として、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
ここは大事なところだよ。
最初に「自らを島とし」とあり、次に同じように「法を島として」とある。
つまり「自ら」と「法」は同じ意味になるので、ここで言う「自ら」とは「煩悩にまみれた愚かな自身の事」を言うのでは無いことは言うまでも無い。
ましてやネットで遊んでいるようなのナンチャッテ覚者でも無い。
要するに、釈尊の本意は「法を体現した自身を島とし拠り所とせよ。」という事になる。
まぁ、釈迦十大弟子の阿羅漢である「阿難」ぐらいの境涯になれば「自らを島」と出来るでしょうね。(笑
省2
322: 2021/03/25(木)19:06 ID:zZTs2Rfm(1) AAS
他人をよりどころとせず他人のあれこれをいちいち気にしなくてよろしい
323: 2021/03/25(木)22:44 ID:zaI+3byt(2/3) AAS
「比丘たちよ、みずからを洲 すとし、みずからを依所 えしょとして、他を依所とせず、法を洲とし、法を依所として、他を依所とせずして住するがよい。
比丘たちよ、みずからを洲とし、みずからを依所として、他を依所とせず、法を洲とし、法を依所として、他を依所とせずして住し、事の根本にまで立ちもどって観察するがよい、<嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、いったい何によって生じ、何によって起こるのであるか>と。
比丘たちよ、では、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、何によって生じ、何によって起こるのであろうか。
比丘たちよ、ここに、いまだ教えを聞かざる凡夫があるとするがよい。彼らは、いまだ、聖者にまみえず、聖者の法を知らず、聖者の法を行ぜず、だから、彼らは、色(肉体)は我である、我は色を有す、わがうちに色がある、あるいは、色のなかに我があると考える。だがしかし、色は移ろい変わる。色が移ろい変わるから、彼らに嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。
だから、彼らは、受(感覚)は我である。われは受を有す、わがうちに受がある、あるいは、受のなかに我があると考える。だがしかし、受は移ろい変わる。受が移ろい変わるから、彼らに、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。
彼らは、想(表象)は我である、・・・
彼らは、行(意志)は我である、・・・
彼らは、識(意識)は我である、我は識を有す、わがうちに識がある、あるいは、識になかに我があると考える。だがしかし、識は移ろい変わる。識が移ろい変わるから、彼らに、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。
しかるに、比丘たちよ、いま、色において、その無常なること、変易することを知り、貪りを離れ、滅尽すべきものなることを知り、さきの色もいまの色も、すべては無常・苦にして移ろい変わるものなることを、あるがままに正しき智慧をもって観るならば、その時、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは消滅するであろう。
それらが消滅するがゆえに心の動揺はなくなる。心の動揺がなくなるがゆえに安楽に住する。そして、安楽に住する比丘は、まさしく涅槃にいたれる者と称せられる。
省6
324: 2021/03/25(木)22:48 ID:zaI+3byt(3/3) AAS
「阿難よ、私は以前このように説いたではないか。
『愛すべきもの、諸々の喜ばしい事柄は、すべて別れ離れる定めのものである』と。
故に(私の死が間もないからといって)嘆き悲しむ事なかれ。阿難よ、まさに知るべきである。如来もまた久しからず、まさに滅び往くべきものであると。
故に阿難よ、まさに自らを洲[しま]とし、自らを拠り所とするべきである。まさに法を洲とし、法を拠り所とするべきである。他を洲とせず、他を拠り所とせずにあれ」
阿難は仏陀に申し上げた。
「世尊よ、どのようなことを『自らを洲とし自らを拠り所として、法を洲とし法を拠り所として、他を洲とせず他を拠り所とせずにある』ということでしょうか」
仏陀は阿難に告げられた。
「もし比丘が身についての身観念処を、勤め励んで行い、正しく知り〈正智〉、正しく気をつけた〈正念〉ならば、この世の貪欲と憂いとを制する。
そのように、外身と内身と、また受・心・法と法観念処についてもまた、同様に説く。
阿難よ、これを名づけて『自らを洲とし自らを拠り所として、法を洲とし法を拠り所として、他を洲とせず他を拠り所とせずにある』というのである」
省1
325: 桃太郎 2021/03/26(金)09:12 ID:diYGJ3y5(1/4) AAS
「法を体現した自身を島とし拠り所とせよ。」
ゆえに「法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る」となるわけだよ。
問題は「正しき智慧」とはなんぞや?という事でしょ。
それこそが、末法の御本仏であられる日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経」に他ならない。
326(1): 2021/03/26(金)12:15 ID:QM1kewQC(1/2) AAS
ネットで遊んでる煩悩にまみれた桃太郎さんと、正しい智慧としての南無妙法蓮華経は両立するわけですよね
327: 桃太郎 2021/03/26(金)12:57 ID:diYGJ3y5(2/4) AAS
>>326
>ネットで遊んでる煩悩にまみれた桃太郎さんと、正しい智慧としての南無妙法蓮華経は両立するわけですよね
もちろんそうだよ。(苦笑
なにか勘違いしているようだけど、私は瞑想もしないし、世俗を離れる気も無い。
ふつうに人生を楽しんで、一切衆生の幸福の為に日蓮仏法を信仰している。
ゆえに、娑婆世界に身を投じて衆生を救うというわけだから、悩みも多いし、苦労も多い。
そのぶん功徳も大きい。「冬は必ず春となる。」だよ。
法華経の修行は「如蓮華在水」の精神なんだよ。
苦悩の衆生の中に飛び込んで行かなければ、仏の智慧など分かろう筈も無い。
※例せば、バットも振らずに教本暗記したぐらいでホームラン王になったつもりでいる人みたいなもの。
省8
328: 桃太郎 2021/03/26(金)13:06 ID:diYGJ3y5(3/4) AAS
どんなに厳しい現実の悩みや、人生の宿命に直面しても、白蓮が泥沼の中から尊貴な大輪の花を薫らせていくように、必ず必ず最高無上の幸福の花を咲き誇らせていける。
それが、「如蓮華在水」(蓮華の水に在るが如し)という法理なのです。
さらにまた、この白蓮は、花と実が同時に成長していきます。すなわち、原因(花)と結果(実)が俱時(=時を俱にすること)に備わっている。
これが、「蓮華の法」つまり「因果俱時」の法則であります。
ゆえに、いつか、どこかで、仏になるというのではない。
今この時、真剣に妙法を説き弘めゆく、わが命に、即、仏の大生命が躍動してくるのです。
友のため、法のため、広宣流布(仏に成る教えを弘める)のために行動することは、人の何倍も苦労が多い。
しかし、それは、自分自身の若き生命を、何よりも尊く強く美しく、光り輝かせていく道であります。
329: 桃太郎 2021/03/26(金)13:10 ID:diYGJ3y5(4/4) AAS
法華経は小乗教のような「現実逃避」の教えでは無いという事だ。
苦悩から逃げまとう小乗教に対して、苦悩を乗り越える道を示したのが法華経という事だね。
330: 2021/03/26(金)14:17 ID:QM1kewQC(2/2) AAS
つまり桃太郎さんの言う正しい智慧というのは、この自我そのままの思考と同じ地平にあるものだということですか
331: 2021/03/26(金)14:36 ID:NZ0ez6Pg(1) AAS
瞑想ってつらいよ
はっきり言って
座って悟れるとかは、坊さんでもないのに坐禅でお釈迦様と同等の域に悟ったとか言うのを見るけど
そういう人たちぐらいで、原始仏教で座ってたら悟れるとか言う人いるの?
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