[過去ログ] 【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践19 (1002レス)
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(1): 2021/03/25(木)00:10 ID:WsViHsR/(1) AAS
仏教の輪廻については、言ってる人バラバラで何を信じていいか良く分からんよ。
頓悟系の人だと、輪廻は昔の方便で、死んだらそれで終わりと言ってる人もいるみたい。

観察瞑想すると、心がすごい速さで回転しているのは分かるけど、肉体が死んだら心も
一緒に無くなるのか、良く分からない。

子供を作って、子孫残してって言うのが輪廻転生ならまだ分かるけど、オウムなんかでも
特殊な瞑想すると自分の過去生が見えてくるとか言うし、これまた、違うっぽい。

心のエネルギーはすごいから肉体が死んでも止まらないっていうのがテラワダの見解なのかな?
一時期、サイキックな能力が使えたことあるから、唯物論者じゃないんですけどね。
319
(1): 2021/03/25(木)00:37 ID:zaI+3byt(1/3) AAS
修行僧たちよ、
サーリプッタ、モッガラーナが亡くなってから、
この集(つど)いも淋しくなってしまった。
かつてサーリプッタ、モッガラーナのありしことを憶(おも)うと、
わたしにはこの集いはむなしい。
しかし、この世で形あるもの、有為(うい)なるもので
滅びないものがあるであろうか。
故に修行僧たちよ、
自らを島とし、自らをよりどころとして、
他人をよりどころとせず、法を島として、
省3
320: 2021/03/25(木)07:28 ID:U7rr+vtC(1) AAS
人が生まれた時には、実に口の中に斧が生じている
人は悪口を語って、その斧によって自分自身を斬るのである
321: 桃太郎 2021/03/25(木)16:34 ID:LggU5cVt(1) AAS
>>319

私が >>258 に書いた事だね。

>自らを島とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、
>法を島として、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。

ここは大事なところだよ。
最初に「自らを島とし」とあり、次に同じように「法を島として」とある。
つまり「自ら」と「法」は同じ意味になるので、ここで言う「自ら」とは「煩悩にまみれた愚かな自身の事」を言うのでは無いことは言うまでも無い。
ましてやネットで遊んでいるようなのナンチャッテ覚者でも無い。

要するに、釈尊の本意は「法を体現した自身を島とし拠り所とせよ。」という事になる。
まぁ、釈迦十大弟子の阿羅漢である「阿難」ぐらいの境涯になれば「自らを島」と出来るでしょうね。(笑
省2
322: 2021/03/25(木)19:06 ID:zZTs2Rfm(1) AAS
他人をよりどころとせず他人のあれこれをいちいち気にしなくてよろしい
323: 2021/03/25(木)22:44 ID:zaI+3byt(2/3) AAS
「比丘たちよ、みずからを洲 すとし、みずからを依所 えしょとして、他を依所とせず、法を洲とし、法を依所として、他を依所とせずして住するがよい。
比丘たちよ、みずからを洲とし、みずからを依所として、他を依所とせず、法を洲とし、法を依所として、他を依所とせずして住し、事の根本にまで立ちもどって観察するがよい、<嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、いったい何によって生じ、何によって起こるのであるか>と。
比丘たちよ、では、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、何によって生じ、何によって起こるのであろうか。
比丘たちよ、ここに、いまだ教えを聞かざる凡夫があるとするがよい。彼らは、いまだ、聖者にまみえず、聖者の法を知らず、聖者の法を行ぜず、だから、彼らは、色(肉体)は我である、我は色を有す、わがうちに色がある、あるいは、色のなかに我があると考える。だがしかし、色は移ろい変わる。色が移ろい変わるから、彼らに嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。
だから、彼らは、受(感覚)は我である。われは受を有す、わがうちに受がある、あるいは、受のなかに我があると考える。だがしかし、受は移ろい変わる。受が移ろい変わるから、彼らに、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。
彼らは、想(表象)は我である、・・・
彼らは、行(意志)は我である、・・・
彼らは、識(意識)は我である、我は識を有す、わがうちに識がある、あるいは、識になかに我があると考える。だがしかし、識は移ろい変わる。識が移ろい変わるから、彼らに、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。
しかるに、比丘たちよ、いま、色において、その無常なること、変易することを知り、貪りを離れ、滅尽すべきものなることを知り、さきの色もいまの色も、すべては無常・苦にして移ろい変わるものなることを、あるがままに正しき智慧をもって観るならば、その時、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは消滅するであろう。
それらが消滅するがゆえに心の動揺はなくなる。心の動揺がなくなるがゆえに安楽に住する。そして、安楽に住する比丘は、まさしく涅槃にいたれる者と称せられる。
省6
324: 2021/03/25(木)22:48 ID:zaI+3byt(3/3) AAS
「阿難よ、私は以前このように説いたではないか。
『愛すべきもの、諸々の喜ばしい事柄は、すべて別れ離れる定めのものである』と。
故に(私の死が間もないからといって)嘆き悲しむ事なかれ。阿難よ、まさに知るべきである。如来もまた久しからず、まさに滅び往くべきものであると。
故に阿難よ、まさに自らを洲[しま]とし、自らを拠り所とするべきである。まさに法を洲とし、法を拠り所とするべきである。他を洲とせず、他を拠り所とせずにあれ」

阿難は仏陀に申し上げた。
「世尊よ、どのようなことを『自らを洲とし自らを拠り所として、法を洲とし法を拠り所として、他を洲とせず他を拠り所とせずにある』ということでしょうか」

仏陀は阿難に告げられた。
「もし比丘が身についての身観念処を、勤め励んで行い、正しく知り〈正智〉、正しく気をつけた〈正念〉ならば、この世の貪欲と憂いとを制する。
そのように、外身と内身と、また受・心・法と法観念処についてもまた、同様に説く。
阿難よ、これを名づけて『自らを洲とし自らを拠り所として、法を洲とし法を拠り所として、他を洲とせず他を拠り所とせずにある』というのである」
省1
325: 桃太郎 2021/03/26(金)09:12 ID:diYGJ3y5(1/4) AAS
「法を体現した自身を島とし拠り所とせよ。」

ゆえに「法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る」となるわけだよ。

問題は「正しき智慧」とはなんぞや?という事でしょ。
それこそが、末法の御本仏であられる日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経」に他ならない。
326
(1): 2021/03/26(金)12:15 ID:QM1kewQC(1/2) AAS
ネットで遊んでる煩悩にまみれた桃太郎さんと、正しい智慧としての南無妙法蓮華経は両立するわけですよね
327: 桃太郎 2021/03/26(金)12:57 ID:diYGJ3y5(2/4) AAS
>>326

>ネットで遊んでる煩悩にまみれた桃太郎さんと、正しい智慧としての南無妙法蓮華経は両立するわけですよね

もちろんそうだよ。(苦笑

なにか勘違いしているようだけど、私は瞑想もしないし、世俗を離れる気も無い。
ふつうに人生を楽しんで、一切衆生の幸福の為に日蓮仏法を信仰している。
ゆえに、娑婆世界に身を投じて衆生を救うというわけだから、悩みも多いし、苦労も多い。
そのぶん功徳も大きい。「冬は必ず春となる。」だよ。

法華経の修行は「如蓮華在水」の精神なんだよ。
苦悩の衆生の中に飛び込んで行かなければ、仏の智慧など分かろう筈も無い。
※例せば、バットも振らずに教本暗記したぐらいでホームラン王になったつもりでいる人みたいなもの。
省8
328: 桃太郎 2021/03/26(金)13:06 ID:diYGJ3y5(3/4) AAS
 どんなに厳しい現実の悩みや、人生の宿命に直面しても、白蓮が泥沼の中から尊貴な大輪の花を薫らせていくように、必ず必ず最高無上の幸福の花を咲き誇らせていける。
それが、「如蓮華在水」(蓮華の水に在るが如し)という法理なのです。

 さらにまた、この白蓮は、花と実が同時に成長していきます。すなわち、原因(花)と結果(実)が俱時(=時を俱にすること)に備わっている。
これが、「蓮華の法」つまり「因果俱時」の法則であります。

 ゆえに、いつか、どこかで、仏になるというのではない。
今この時、真剣に妙法を説き弘めゆく、わが命に、即、仏の大生命が躍動してくるのです。

 友のため、法のため、広宣流布(仏に成る教えを弘める)のために行動することは、人の何倍も苦労が多い。
しかし、それは、自分自身の若き生命を、何よりも尊く強く美しく、光り輝かせていく道であります。
329: 桃太郎 2021/03/26(金)13:10 ID:diYGJ3y5(4/4) AAS
法華経は小乗教のような「現実逃避」の教えでは無いという事だ。

苦悩から逃げまとう小乗教に対して、苦悩を乗り越える道を示したのが法華経という事だね。
330: 2021/03/26(金)14:17 ID:QM1kewQC(2/2) AAS
つまり桃太郎さんの言う正しい智慧というのは、この自我そのままの思考と同じ地平にあるものだということですか
331: 2021/03/26(金)14:36 ID:NZ0ez6Pg(1) AAS
瞑想ってつらいよ
はっきり言って

座って悟れるとかは、坊さんでもないのに坐禅でお釈迦様と同等の域に悟ったとか言うのを見るけど
そういう人たちぐらいで、原始仏教で座ってたら悟れるとか言う人いるの?
332: 2021/03/26(金)20:15 ID:q8GJfLYZ(1) AAS
>>318
テーラワーダでの輪廻の見解は
多くが瞑想を通して体験したイメージに
基づいています
例えば私の場合は預流果に達する1ヶ月前辺りで
生命の流転に関する二つのイメージを
繰り返し見ました
全く同じ寸分違わないイメージの繰返しでした
当時は流石に輪廻転生は方便だろうと思って
いた為 どういう意味なのか
省21
333
(1): 2021/03/27(土)07:57 ID:JcLKgMcL(1) AAS
神秘体験経ないと進めないの?
それなら麻薬でもその他でも進めちゃう
334: 2021/03/27(土)12:07 ID:pvN6yxWP(1/2) AAS
>>317
別に死にざまの良しあしや過去につくった業によって阿羅漢とはいえ
左右されることは問題ないんだよ
俺が言いたいのは、ごく日常的な因果のことを言っている
業感縁起説では善因善果悪因悪果という運命論をとくわけで
それは右手をあげようと思う、右手があがるというごく日常的な因果をも
包括すると思うわけよ。阿羅漢になったとたん業がなくなるのであれば
そういった日常的な因果関係はどう業によって説明されうるのかなと
疑問に思ったわけだよ。過去に薫重された業が異熟果を生み出すことについては
ぜんぜん問題あるとは思ってない。
省2
335: 2021/03/27(土)12:12 ID:pvN6yxWP(2/2) AAS
>>333
神秘体験が必要かどうかは分らないが
それは薬に依存したものであってはならないということは確実だね
依存すれば苦を生むからね
それに仏教は観察を通した智慧の教えであって
神秘体験をしたという結果のものではないと思うよ
336: 桃太郎 2021/03/27(土)17:38 ID:ogw54Mtc(1) AAS
>観察を通した智慧

んで、智慧って何?
それ以前と何が変わるの?

何も変わらなければ智慧もクソも無いんでは?
337
(1): 2021/03/27(土)17:52 ID:+Lj/cKfF(1) AAS
桃太郎って、

偽善の臭いがプンプンする。
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