古本屋のつぶやき2 (399レス)
上下前次1-新
358: 2024/08/31(土)01:30 ID:1AOPY3sc(1) AAS
これは結構見てるから
359: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 2024/09/20(金)22:57 ID:E+wdi9SW(1) AAS
『中論』
:15.43
24−8
a.二つの真理(二諦)に依って諸仏の説法は行なわれる。世間一般の理解としての真理(世俗諦)と最高の真実としての真理(勝義諦)である。
b.二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。(その二つの真理とは)世俗の覆われた立場での真理と究極の立場から見た真理とである。
c.諸仏は二諦(という二種の異なるレベルの真実)に依って教え(法)を説くのである。すなわち、世間の常識としての真実(世間世俗諦)と究極的な意味での真実(勝義諦)とである。
24−9
a.これら二種の真理の区別を知らない人々はブッダの教えにある甚深の実義を知らない。
b.この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深遠な真理を理解しないのである。
c.その二諦の区別を知らない人々は、(諸)仏の深遠なる教えの真実を知らない。
省4
360: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 2024/09/26(木)07:31 ID:qTvn7mfi(1/4) AAS
さんがん-てんにゅう 三願転入
三願とは阿弥陀仏の四十八願の中、 第十九・二十・十八の三願のことで、第十九願 (自力諸行往生=要門)・第二十願 (自力念仏往生=真門) の方便の教えを経て、第十八願 (他力念仏往生=弘願) の真実の教えへと導かれていった親鸞の求道の課程のこと。親鸞は「化身土巻」に、
「ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。」
と述べ、ここでは特に第二十願を「果遂の誓」と呼んで、真実へと導かんとする阿弥陀仏の方便のはたらきを讃嘆している。これによって方便の教えを捨てて、弘願真実の教えに帰入すべきことが明らかにされる。(浄土真宗辞典)
361: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 2024/09/26(木)07:32 ID:qTvn7mfi(2/4) AAS
回入とは同一次元の出来事(自力)であり、転入とは次元を異にする事象(他力)のことである。
是以 愚禿釈鸞 仰論主解義 依宗師勧化 久出万行諸善之仮門 永離双樹林下之往生。
ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。
回入善本徳本真門 偏発難思往生之心。
善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。
然今 特出方便真門 転入選択願海。速離難思往生心 欲遂難思議往生。果遂之誓良有由哉。
しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由ゆえあるかな。 (化巻 P.413)
362: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 2024/09/26(木)07:32 ID:qTvn7mfi(3/4) AAS
)
『教行証文類』の後序には、
しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。 (化巻 P.472)
とあるように、御開山は29歳の時に法然門下に入られた時点で「雑行を棄(す)てて本願に帰」されておられた。雑行を棄(す)てて本願に帰す、であるから直接 第十八願に帰されたのである。法然聖人は「一願建立」といわれるように第十八願に拠って往生浄土宗を立教開宗されたのであり、その門弟になることは第十八願の念仏行者になることであった。
「化身土巻」は、簡非けんぴ(非をえらびて捨てる)と、権用ごんゆう(従真垂仮:真実を直接理解できない未熟の機の為に真(実)より仮(善巧方便)を垂れること。暫用還廃ぜんゆうげんぱい[1])の両義があるといわれる。御開山自らが「生因三願」を考察された「願海真仮論」から窺えば簡非(非をえらびて捨てる)の意で三願転入の文を「化身土巻」に記述されたのであろう。御開山は、この道は間違いですと示す為に「三願転入」の文を「化身土巻」で顕された意であった。
363: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 2024/09/26(木)07:34 ID:qTvn7mfi(4/4) AAS
なお、四十八願中、衆生の往生の為に設けられた「生因三願」それぞれの三心の中間の信楽、発願、回向によって至心と欲生の意味が変わる。
第十八願の三心 至心、信楽、欲生
第十九願の三心 至心、発願、欲生
第二十願の三心 至心、回向、欲生
第十九願や第二十願の至心や欲生は自らの力によって起こす至心と欲生であり、行者それぞれの能力による自力であるから報土往生は不確実である。
それに対して第十八願の至心は阿弥陀如来の至心であり、欲生は衆生を浄土へ往生させようといふ如来の招喚したまふの勅命であるから、まちがいなく当来の浄土往生の果があてになる決定要期であった。
364: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 2024/09/27(金)12:52 ID:Icj6FKuH(1/6) AAS
知識の内部に「対象の形象」と「知識自らの形象」がふくまれていること、すなわち知識は自己認識を本質とすることを認めるときにのみ、「対象の知識」と「対象の知識の知識」の区別を説明することができる。
煩瑣になるので次のように記号化しよう。
C1(対象の知識)
O1(C1における「対象の形象」)
S1(C1における「自らの形象」)
C2(対象の知識の知識)
O2(C2における「対象の形象」)
S2(C2における「自らの形象」)
C1がS1とO1との両者をふくむことを
C1=(S1ーO1)
省9
365: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 2024/09/27(金)13:03 ID:Icj6FKuH(2/6) AAS
知識が対象の形象を自らの内部にふくまない場合
C1=S1、C2=S2
しかるに
S2=S1、
したがって
C2=C1
知識がそれ自体としての顕現を内部にふくまない場合
C1=O1
C2=O2
しかるに
省3
366: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 2024/09/27(金)13:05 ID:Icj6FKuH(3/6) AAS
……眠くなった。
乗り換え駅まで仮眠するかw
367: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 2024/09/27(金)13:07 ID:Icj6FKuH(4/6) AAS
知識の内部に「対象の形象」と「知識自らの形象」がふくまれていること、すなわち知識は自己認識を本質とすることを認めるときにのみ、「対象の知識」と「対象の知識の知識」の区別を説明することができる。
煩瑣になるので次のように記号化しよう。
C1(対象の知識)
O1(C1における「対象の形象」)
S1(C1における「自らの形象」)
C2(対象の知識の知識)
O2(C2における「対象の形象」)
S2(C2における「自らの形象」)
C1がS1とO1との両者をふくむことを
C1=(S1ーO1)
省21
368: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 2024/09/27(金)13:09 ID:Icj6FKuH(5/6) AAS
知識の内部に「対象の形象」と「知識自らの形象」がふくまれていること、すなわち知識は自己認識を本質とすることを認めるときにのみ、「対象の知識」と「対象の知識の知識」の区別を説明することができる。
煩瑣になるので次のように記号化しよう。
C1(対象の知識)
O1(C1における「対象の形象」)
S1(C1における「自らの形象」)
C2(対象の知識の知識)
O2(C2における「対象の形象」)
S2(C2における「自らの形象」)
C1がS1とO1との両者をふくむことを
C1=(S1ーO1)
省21
369: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 2024/09/27(金)13:12 ID:Icj6FKuH(6/6) AAS
知識の内部に「対象の形象」と「知識自らの形象」がふくまれていること、すなわち知識は自己認識を本質とすることを認めるときにのみ、「対象の知識」と「対象の知識の知識」の区別を説明することができる。
煩瑣になるので次のように記号化しよう。
C1(対象の知識)
O1(C1における「対象の形象」)
S1(C1における「自らの形象」)
C2(対象の知識の知識)
O2(C2における「対象の形象」)
S2(C2における「自らの形象」)
C1がS1とO1との両者をふくむことを
C1=(S1ーO1)
省22
370: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 2024/10/11(金)08:51 ID:AnfRjoyY(1/2) AAS
また香厳智閑禅師、かつて大潙大円禅師の会に学道せしとき、大潙いはく、
「なんぢ聡明博解なり、章疏のなかより記持せず、父母未生以前にあたりて、わがために一句を道取しきたるべし。」
香厳、いはんことをもとむること数番すれども不得なり。
ふかく身心をうらみ、年来たくはふるところの書籍を披尋するに、なほ茫然なり。
つひに火をもちて年来のあつむる書をやきていはく、
「画にかけるもちひは、うゑをふさぐにたらず。われちかふ、此生に仏法を会せんことをのぞまじ。ただ行粥飯僧とならん。」
といひて、行粥飯して年月をふるなり。
行粥飯僧といふは、衆僧に粥飯を行益するなり。このくにの陪饌役送のごときなり。
かくのごとくして大に潙まうす、
省15
371: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 2024/10/11(金)08:55 ID:AnfRjoyY(2/2) AAS
>だから、香厳も小石が箒の竹に当たって悟った、んじゃないんです。。
>その音で、無自覚、から我に返った、迷いに帰って、言語化できた、ということなんです。。w
これ、逆ね。
例えば坐禅をしてて足が痛くなったり妄想したりしていて、隣単の方が警策をパンパンパンパンってやられた瞬間、痛みとか思考とか真っ新になる事がある訳です。
372: 2024/10/11(金)11:06 ID:sznTjh1n(1) AAS
セイウンコーン〜
373: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 2024/10/12(土)00:13 ID:mkSrCmIw(1) AAS
たとえば、「私は(〜を)見る」と言ったとしよう。では、見る「私」とは、何であろうか。
それは、「私は(〜を)見る」というのだから、その見る前に存在している何ものかということになる。
それは見る以前だけではない、聞くよりも、読むよりも、歩くよりも、走るよりも前に存在している何ものか、つまりあらゆる作用以前に存在している何ものか、ということになってしまう。すなわち、作用を持たない基体(サブスタンス)としての私だ。
だがいったい、そういう現象に関わらない私という存在を、どうやって知ることができようか。第一、その私って、いったい何なのだろう?
もしそういう私があるとしたら、それが見るとは、どういうことになろうか。
もとより作用を持たないのであるから、どこかにあらかじめある「見る作用」と結びついて、はじめて見るということもできるということになるほかない。
しかしながら、いったい、見る作用のみが、どこかにあると考えられようか。
これはおかしな話である。ある意味では、そんなものがあるとすれば、ありもしない幽霊より怖いことだ。
したがって見る作用とは別に私があるということは、どうも成立しそうもない。
(入門 哲学としての仏教 竹村牧男)
省1
374: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 2024/10/12(土)17:06 ID:KY3gqnHE(1) AAS
また、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』を読んでこられた方には、「諸法実相十如是」はどうなっているの? と疑問を持たれるかもしれない。
サンスクリット原典では十如是に相当する箇所は、「それらの諸々の法は、①何であり、②どのようにあり、③どのようなものであり、④どのような特徴を持ち、⑤どのような固有の性質を持つのか」という五つの疑問節になっている。
(『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』 植木雅俊より)
375: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 2024/10/14(月)23:27 ID:sjF4Fa+q(1) AAS
ここに見る問題は、実はわれわれがこれまでの講義で何度も見てきた、因中有果論と因中無果論の間の解決困難な難問にあたるものである。
つまり、「人が仏になる」のは、原因である人にすでに結果としての仏性があるからだと考える立場と、「人が仏になる」にしても、それは原因である「人」に仏性があるからではなく、仏性が「人」に新しくそなわる瞬間があるからだという立場との対立である。
376: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 2024/10/22(火)03:59 ID:7BwWrjvK(1/5) AAS
スッタニパータ第4章
950(第十五経第16偈)
名称と形体において、わがものと執着することがまったくない人、そして、存在しないことによって悲しむことのない人、実に、かれは、世間において失うことはありません。Sabbasonāmarūpasmiṃyassan’atthimamāyitaṃ,asatācanasocati,savelokenajiyyati.
377: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 2024/10/22(火)04:05 ID:7BwWrjvK(2/5) AAS
スッタニパータ第4章
950(第十五経第16偈)
名称と形体において、わがものと執着することがまったくない人、そして、存在しないことによって悲しむことのない人、実に、かれは、世間において失うことはありません。
Sabbaso nāmarūpasmiṃ yassa n’ atthi mamāyitaṃ,asatā ca na socati, save lokena jiyyati.
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