古本屋のつぶやき2 (398レス)
上下前次1-新
362: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 09/26(木)07:32 ID:qTvn7mfi(3/4) AAS
)
『教行証文類』の後序には、
しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。 (化巻 P.472)
とあるように、御開山は29歳の時に法然門下に入られた時点で「雑行を棄(す)てて本願に帰」されておられた。雑行を棄(す)てて本願に帰す、であるから直接 第十八願に帰されたのである。法然聖人は「一願建立」といわれるように第十八願に拠って往生浄土宗を立教開宗されたのであり、その門弟になることは第十八願の念仏行者になることであった。
「化身土巻」は、簡非けんぴ(非をえらびて捨てる)と、権用ごんゆう(従真垂仮:真実を直接理解できない未熟の機の為に真(実)より仮(善巧方便)を垂れること。暫用還廃ぜんゆうげんぱい[1])の両義があるといわれる。御開山自らが「生因三願」を考察された「願海真仮論」から窺えば簡非(非をえらびて捨てる)の意で三願転入の文を「化身土巻」に記述されたのであろう。御開山は、この道は間違いですと示す為に「三願転入」の文を「化身土巻」で顕された意であった。
363: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 09/26(木)07:34 ID:qTvn7mfi(4/4) AAS
なお、四十八願中、衆生の往生の為に設けられた「生因三願」それぞれの三心の中間の信楽、発願、回向によって至心と欲生の意味が変わる。
第十八願の三心 至心、信楽、欲生
第十九願の三心 至心、発願、欲生
第二十願の三心 至心、回向、欲生
第十九願や第二十願の至心や欲生は自らの力によって起こす至心と欲生であり、行者それぞれの能力による自力であるから報土往生は不確実である。
それに対して第十八願の至心は阿弥陀如来の至心であり、欲生は衆生を浄土へ往生させようといふ如来の招喚したまふの勅命であるから、まちがいなく当来の浄土往生の果があてになる決定要期であった。
364: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 09/27(金)12:52 ID:Icj6FKuH(1/6) AAS
知識の内部に「対象の形象」と「知識自らの形象」がふくまれていること、すなわち知識は自己認識を本質とすることを認めるときにのみ、「対象の知識」と「対象の知識の知識」の区別を説明することができる。
煩瑣になるので次のように記号化しよう。
C1(対象の知識)
O1(C1における「対象の形象」)
S1(C1における「自らの形象」)
C2(対象の知識の知識)
O2(C2における「対象の形象」)
S2(C2における「自らの形象」)
C1がS1とO1との両者をふくむことを
C1=(S1ーO1)
省9
365: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 09/27(金)13:03 ID:Icj6FKuH(2/6) AAS
知識が対象の形象を自らの内部にふくまない場合
C1=S1、C2=S2
しかるに
S2=S1、
したがって
C2=C1
知識がそれ自体としての顕現を内部にふくまない場合
C1=O1
C2=O2
しかるに
省3
366: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 09/27(金)13:05 ID:Icj6FKuH(3/6) AAS
……眠くなった。
乗り換え駅まで仮眠するかw
367: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 09/27(金)13:07 ID:Icj6FKuH(4/6) AAS
知識の内部に「対象の形象」と「知識自らの形象」がふくまれていること、すなわち知識は自己認識を本質とすることを認めるときにのみ、「対象の知識」と「対象の知識の知識」の区別を説明することができる。
煩瑣になるので次のように記号化しよう。
C1(対象の知識)
O1(C1における「対象の形象」)
S1(C1における「自らの形象」)
C2(対象の知識の知識)
O2(C2における「対象の形象」)
S2(C2における「自らの形象」)
C1がS1とO1との両者をふくむことを
C1=(S1ーO1)
省21
368: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 09/27(金)13:09 ID:Icj6FKuH(5/6) AAS
知識の内部に「対象の形象」と「知識自らの形象」がふくまれていること、すなわち知識は自己認識を本質とすることを認めるときにのみ、「対象の知識」と「対象の知識の知識」の区別を説明することができる。
煩瑣になるので次のように記号化しよう。
C1(対象の知識)
O1(C1における「対象の形象」)
S1(C1における「自らの形象」)
C2(対象の知識の知識)
O2(C2における「対象の形象」)
S2(C2における「自らの形象」)
C1がS1とO1との両者をふくむことを
C1=(S1ーO1)
省21
369: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 09/27(金)13:12 ID:Icj6FKuH(6/6) AAS
知識の内部に「対象の形象」と「知識自らの形象」がふくまれていること、すなわち知識は自己認識を本質とすることを認めるときにのみ、「対象の知識」と「対象の知識の知識」の区別を説明することができる。
煩瑣になるので次のように記号化しよう。
C1(対象の知識)
O1(C1における「対象の形象」)
S1(C1における「自らの形象」)
C2(対象の知識の知識)
O2(C2における「対象の形象」)
S2(C2における「自らの形象」)
C1がS1とO1との両者をふくむことを
C1=(S1ーO1)
省22
370: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/11(金)08:51 ID:AnfRjoyY(1/2) AAS
また香厳智閑禅師、かつて大潙大円禅師の会に学道せしとき、大潙いはく、
「なんぢ聡明博解なり、章疏のなかより記持せず、父母未生以前にあたりて、わがために一句を道取しきたるべし。」
香厳、いはんことをもとむること数番すれども不得なり。
ふかく身心をうらみ、年来たくはふるところの書籍を披尋するに、なほ茫然なり。
つひに火をもちて年来のあつむる書をやきていはく、
「画にかけるもちひは、うゑをふさぐにたらず。われちかふ、此生に仏法を会せんことをのぞまじ。ただ行粥飯僧とならん。」
といひて、行粥飯して年月をふるなり。
行粥飯僧といふは、衆僧に粥飯を行益するなり。このくにの陪饌役送のごときなり。
かくのごとくして大に潙まうす、
省15
371: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/11(金)08:55 ID:AnfRjoyY(2/2) AAS
>だから、香厳も小石が箒の竹に当たって悟った、んじゃないんです。。
>その音で、無自覚、から我に返った、迷いに帰って、言語化できた、ということなんです。。w
これ、逆ね。
例えば坐禅をしてて足が痛くなったり妄想したりしていて、隣単の方が警策をパンパンパンパンってやられた瞬間、痛みとか思考とか真っ新になる事がある訳です。
372: 10/11(金)11:06 ID:sznTjh1n(1) AAS
セイウンコーン〜
373: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/12(土)00:13 ID:mkSrCmIw(1) AAS
たとえば、「私は(〜を)見る」と言ったとしよう。では、見る「私」とは、何であろうか。
それは、「私は(〜を)見る」というのだから、その見る前に存在している何ものかということになる。
それは見る以前だけではない、聞くよりも、読むよりも、歩くよりも、走るよりも前に存在している何ものか、つまりあらゆる作用以前に存在している何ものか、ということになってしまう。すなわち、作用を持たない基体(サブスタンス)としての私だ。
だがいったい、そういう現象に関わらない私という存在を、どうやって知ることができようか。第一、その私って、いったい何なのだろう?
もしそういう私があるとしたら、それが見るとは、どういうことになろうか。
もとより作用を持たないのであるから、どこかにあらかじめある「見る作用」と結びついて、はじめて見るということもできるということになるほかない。
しかしながら、いったい、見る作用のみが、どこかにあると考えられようか。
これはおかしな話である。ある意味では、そんなものがあるとすれば、ありもしない幽霊より怖いことだ。
したがって見る作用とは別に私があるということは、どうも成立しそうもない。
(入門 哲学としての仏教 竹村牧男)
省1
374: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/12(土)17:06 ID:KY3gqnHE(1) AAS
また、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』を読んでこられた方には、「諸法実相十如是」はどうなっているの? と疑問を持たれるかもしれない。
サンスクリット原典では十如是に相当する箇所は、「それらの諸々の法は、①何であり、②どのようにあり、③どのようなものであり、④どのような特徴を持ち、⑤どのような固有の性質を持つのか」という五つの疑問節になっている。
(『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』 植木雅俊より)
375: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/14(月)23:27 ID:sjF4Fa+q(1) AAS
ここに見る問題は、実はわれわれがこれまでの講義で何度も見てきた、因中有果論と因中無果論の間の解決困難な難問にあたるものである。
つまり、「人が仏になる」のは、原因である人にすでに結果としての仏性があるからだと考える立場と、「人が仏になる」にしても、それは原因である「人」に仏性があるからではなく、仏性が「人」に新しくそなわる瞬間があるからだという立場との対立である。
376: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/22(火)03:59 ID:7BwWrjvK(1/5) AAS
スッタニパータ第4章
950(第十五経第16偈)
名称と形体において、わがものと執着することがまったくない人、そして、存在しないことによって悲しむことのない人、実に、かれは、世間において失うことはありません。Sabbasonāmarūpasmiṃyassan’atthimamāyitaṃ,asatācanasocati,savelokenajiyyati.
377: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/22(火)04:05 ID:7BwWrjvK(2/5) AAS
スッタニパータ第4章
950(第十五経第16偈)
名称と形体において、わがものと執着することがまったくない人、そして、存在しないことによって悲しむことのない人、実に、かれは、世間において失うことはありません。
Sabbaso nāmarūpasmiṃ yassa n’ atthi mamāyitaṃ,asatā ca na socati, save lokena jiyyati.
378: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/22(火)04:10 ID:7BwWrjvK(3/5) AAS
1. Sabbaso
すべてにおいて、
一切において
2. nāmarūpasmiṃ
名色、
形あるものと名前や概念
3. yassa
その者の
4. n’ atthi
存在しない
省20
379: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/22(火)04:21 ID:7BwWrjvK(4/5) AAS
(第十五経第19偈)
不動であって明智のある者には、いかなる作為も存在しません。
かれは、勤め励むことから離れていて、あらゆるところに安穏を見るのです。
Anejassa vijānato n’ atthi kācini saṃkhiti, virato so viyārambhā khemaṃ passat isabbadhi.
(石飛先生の解説)
「明智のある者(ヴィジャーナント)」とは、「了知する(ヴィジャーナーティ)」の現在分詞ですが、このことばと、次にくるサンキティまたはニサンキティ(作為)から、彼岸に渡った明智のある者が、もはや為すことがなくなった様子を表すと考えられます。
十二支縁起の最初の支分である「無明(アヴィッジャー)」と、次の支分である「行(サンカーラ)」との関係を思い出した人もいることでしょう。
380: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/22(火)04:25 ID:7BwWrjvK(5/5) AAS
Anejassa vijānato
「揺るがない者(静かな者)、理解する者にとって」
n’ atthi kācini saṃkhiti
「どのような拘束も存在しない」
virato so viyārambhā
「その者は活動(行動)をやめた」
khemaṃ passat isabbadhi
「安全を見た者、その者は至福(解脱)を見た」
各単語の訳
1. Anejassa
省31
381: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 10/27(日)04:55 ID:umnBabH9(1) AAS
ye ca te dharmā yathā
ca te dharmā yādṛśāś
ca te dharmā yal-lakṣaṇāś
ca te dharmā yat-svabhāvāś
ca te dharmāḥ
ye ca yathā
ca yādṛśāś
ca yal-lakṣaṇāś
ca yat-svabhāvāś
ca te dharmā iti
省1
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