[過去ログ] 【ヤッカイドウ】北海道新幹線249【開発失敗地】 [無断転載禁止]©2ch.net (1002レス)
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239: 2016/11/05(土)15:52 ID:v+Hv7VJD(4/33) AAS
駅周辺[編集]
民家は少なく、周囲は休耕田が目立っていた[2]。
北海道道798号西風連名寄線
天塩川[3]
ジェイ・アール北海道バス深名線「稲川商店前」停留所
駅跡[編集]
西名寄駅跡周辺 (2011年8月8日)
2000年(平成12年)時点では既に整地され[4]、2011年(平成23年)時点では「上川ライスターミナル」の物流センター倉庫が建築されており、倉庫の前に停車場接近標識が立っていた[5]。
また、駅名標のレプリカが、天塩弥生駅の駅名板と共に名寄市の「名寄市北国博物館」に、キマロキ編成とともに保存されている。
240: 2016/11/05(土)15:52 ID:v+Hv7VJD(5/33) AAS
天塩弥生駅
天塩弥生駅
てしおやよい - Teshio-Yayoi
◄北母子里 (15.6km)(3.2km) 西名寄►
所在地 北海道名寄市弥生
北緯44度20分5秒
東経142度23分9秒
所属事業者 JR logo (hokkaido).svg北海道旅客鉄道(JR北海道)
所属路線 深名線
キロ程 114.6km(深川起点)
省20
241: 2016/11/05(土)15:53 ID:v+Hv7VJD(6/33) AAS
歴史[編集]
1937年(昭和12年)11月10日 - 鉄道省名雨線名寄駅 - 当駅間開通に伴い初茶志内駅(はっちゃしないえき)として開業。一般駅。
1941年(昭和16年)10月10日 - 当駅 - 朱鞠内駅間が延伸開業し全通。路線名を深名線に改称、それに伴い同線の駅となる。
1949年(昭和24年)6月1日 - 公共企業体である日本国有鉄道に移管。
1951年(昭和26年)7月20日 - 天塩弥生駅に改称。
1960年(昭和35年)9月15日 - 貨物・荷物取扱い廃止。
1982年(昭和57年)3月29日 - 無人化。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR北海道に継承。
1995年(平成7年)9月4日 - 深名線の廃線に伴い廃止となる。
242: 2016/11/05(土)15:53 ID:2uc1MgCr(89/90) AAS
下関駅 乗車人員 10,541人/日(降車客含まず)
新山口駅 乗車人員 7,544人/日
小倉駅 (JR九州)35,301人/日 (JR西日本)10,618人/日
高松駅 12,117人/日
敦賀駅 3,386人/日
盛岡駅 18,205人/日
青森駅 5,677人/日
函館駅 3,077人/日wwwwwwwww (←目を疑いましたがホントでしたwww)
※番外編
室蘭駅 616人/日wwwwwwwwwwww
省3
243: 2016/11/05(土)15:53 ID:v+Hv7VJD(7/33) AAS
駅構造[編集]
廃止時点で、島式ホーム(片面使用)1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の北側(名寄方面に向かって左手側)に存在した。分岐器を持たない棒線駅となっていた[1]。
かつては島式ホーム1面2線を有する列車交換可能な交換駅であり、ここを始発・終着とする名寄からの区間列車も運転されていた。
そのほか駅舎側の線から駅舎側に分岐し駅舎東側の貨物ホームへの貨物側線を1線有していた[2]。使われなくなった駅舎側の1線は、交換設備運用廃止後は撤去された。貨物側線は1983年(昭和58年)4月時点では、分岐器が深川方、
名寄方の両方向とも維持されていた形で残存していたが[2]、1993年(平成5年)までに撤去された[1]。ホーム前後の線路は分岐器の名残で湾曲していた[1]。
無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が改築されて残っていた。駅舎は構内の北側に位置しホーム西側とを結ぶ通路で連絡した[1]。駅舎は無人化後縮小され、待合室部分のみの間口の狭い建物となっていた(1993年(平成5年)時点ではこの形状[1])。
駅名の由来[編集]
[icon] この節の加筆が望まれています。
当駅の所在する地名に旧国名の「天塩」を冠する。
旧駅名の初茶志内(はっちゃしない)は、アイヌ語の「ハツクシ・ウシ・ナイ」(葡萄、子桑の多い川)に由来する[1]。
244: 2016/11/05(土)15:54 ID:v+Hv7VJD(8/33) AAS
駅周辺[編集]
名寄市内の山間に位置した[2]。
北海道道798号西風連名寄線
弥生共同墓地
初茶志内山 - 駅の南。標高201m。
ジェイ・アール北海道バス深名線「天塩弥生」停留所
駅跡[編集]
天塩弥生駅跡 (2011年8月8日)
廃駅後しばらく駅舎やホームが残っていたが、1998年(平成10年)に全て解体され、跡地は整地された。2000年(平成12年)時点では跡地が残るのみで[3]、2010年(平成22年)時点では民家の裏の荒廃した空き地となっていた[4]。
2011年(平成23年)時点では駅附近の線路跡が確認出来、バラストが残存していた[5]。駅名標のレプリカが名寄市の「名寄市北国博物館」にキマロキ編成とともに保存されている[5]。
省2
245: 2016/11/05(土)15:55 ID:v+Hv7VJD(9/33) AAS
北母子里駅
北母子里駅
北母子里駅(1994年8月31日)
北母子里駅(1994年8月31日)
きたもしり - Kita-Moshiri
◄白樺 (5.4km)(15.6km) 天塩弥生►
所在地 北海道雨竜郡幌加内町字母子里
北緯44度21分46秒
東経142度15分33秒
所属事業者 JR logo (hokkaido).svg北海道旅客鉄道(JR北海道)
省12
246: 2016/11/05(土)15:55 ID:v+Hv7VJD(10/33) AAS
北母子里駅(きたもしりえき)は、北海道(空知支庁)雨竜郡幌加内町字母子里にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)深名線の駅(廃駅)である。電報略号はキモ。深名線の廃線に伴い1995年(平成7年)9月4日に廃駅となった。
目次 [非表示]
1 歴史
2 駅構造
3 駅名の由来
4 利用状況
5 駅周辺
6 駅跡
7 隣の駅
8 脚注・出典
省12
247: 2016/11/05(土)15:56 ID:v+Hv7VJD(11/33) AAS
駅構造[編集]
廃止時点で、島式ホーム(片面使用)1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の北側(名寄方面に向かって左手側、旧上り線)に存在した[3]。そのほか深川方から駅舎側に分岐し駅舎東側の旧貨物ホームへの行き止まりの側線を1線有していた[3]。
かつては島式ホーム1面2線を有する列車交換可能な交換駅で、駅舎側(北側)が下り線、外側(南側)が上り線となっていた[4]。
使われなくなった駅舎側の1線(下り線)は、交換設備運用廃止後は撤去されたが、ホーム前後の線路は分岐器の名残で湾曲していた[3]。
無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。駅舎は構内の北側に位置し構内踏切で側線及び旧下り線跡を渡りホーム西側とを結ぶ通路で連絡した[3]。当駅所在地は1978年(昭和53年)2月に氷点下41.2度という戦後の公式日本最低気温を記録したことで有名であり、
真冬は氷点下30度以下になることも多かったが、当駅設置の温度計は氷点下30度までしか計測出来ない物であった[4]。
その後同年3月に国鉄総裁の高木文雄が当駅を訪れた際にその話を聞き、後日氷点下60度まで計れる寒暖計を特注して当駅と朱鞠内駅に贈呈している[5]。
当駅待合室に駅ノートがあり、耐寒体験に訪れた人々の思い出が記されていたとのことである[3]。
248: 2016/11/05(土)15:57 ID:v+Hv7VJD(12/33) AAS
駅名の由来[編集]
当駅の所在する地名に「北」を冠する。地名は、アイヌ語の「モシリ・ウン・ナイ」(島のある川)の前半部分に由来する。
当地は北海道大学農学部雨竜演習林のモシリウンナイ(後に母子里)事業区に属し、1928年(昭和3年)に演習林が植民地区画を行って「茂知」植民地と名付けた[6]。
その後最初の植民が行われ、その中の若い家族に子供が生まれたことから、当地の看守所[注 1]職員がこれを記念して植民地名を「母子里」と改名し、1930年(昭和5年)の村議会で正式な地区名となった[6][7]。
尚、「北」の付かない「母子里駅」は存在しない。「北」が冠されたのは当駅開業時、根室本線に、読みが同じとなる茂尻駅(もしりえき)が既に存在したため、混同を防ぐためとされている。
249: 2016/11/05(土)15:58 ID:v+Hv7VJD(13/33) AAS
駅周辺[編集]
国道275号(美深国道)
北海道道688号名寄遠別線
母子里簡易郵便局
朱鞠内湖(雨竜第一ダム)
北海道大学演習林[8]
モシリウンナイ川 - 地名由来となった川[3]。
美深峠 - 駅の北[8]
ジェイ・アール北海道バス深名線「母子里」停留所
駅跡[編集]
省2
250: 2016/11/05(土)15:58 ID:v+Hv7VJD(14/33) AAS
蕗ノ台駅
蕗ノ台駅
ふきのだい - Fukinodai
◄湖畔 (8.8km)(4.1km) 白樺►
所在地 北海道雨竜郡幌加内町字蕗ノ台
北緯44度22分11秒
東経142度8分58秒
所属事業者 JR logo (hokkaido).svg北海道旅客鉄道(JR北海道)
所属路線 深名線
キロ程 89.5km(深川起点)
省10
251: 2016/11/05(土)15:59 ID:v+Hv7VJD(15/33) AAS
目次 [非表示]
1 概要
2 歴史
3 駅構造
4 駅名の由来
5 駅周辺
6 駅跡
7 その他
8 隣の駅
9 脚注
省1
252: 2016/11/05(土)16:01 ID:v+Hv7VJD(16/33) AAS
概要[編集]
この地は北海道大学農学部演習林と国有林の境界の国有林側にあたり[1]、北海道庁が定めた植民地域からも外れていて、1929年(昭和4年)頃からの林業関係者の出入りが見られるだけの地域であった[2]。
当駅は隣の白樺駅と同様に森林資源の搬出が目的で開設されたとみられる[2]。駅開設後も林業関係者のみが作業のために一時的に定住していたにすぎなかった[2]。この地に開拓植民が行われたのは戦後間もない1946年(昭和21年)で、
終戦に伴う緊急開拓政策の一環として、軍需産業から平和産業へ移行するにあたって人員削減の対象となった室蘭の日本製鋼所従業員家族の団体が、幌加内村から指定されて入植した[2]。人口は1950年(昭和25年)の統計では167人であった[2]。
気象条件の激しさと農業に慣れていない者が多かったために農業収穫が悪く、
1955年(昭和30年)頃から団体で内紛が表面化したこともあり、脱落離村が徐々に広がって人口が減っていった[2]。一時期は当地に駐在する林業関係者により、隣の白樺駅と同程度の木材搬出があって、幌加内村内では朱鞠内駅に次ぐ貨物出荷量を誇ったが、
その後農林産物の搬出や乗降客が激減してほとんど無くなった当駅は、1964年(昭和39年)に無人駅になった[2]。さらに1972年(昭和47年)の夏、最後まで残っていた家族の離村によりこの地は無人地帯となった[2]。
253: 2016/11/05(土)16:01 ID:v+Hv7VJD(17/33) AAS
1977年(昭和52年)から冬季休止の駅となり、1979年(昭和54年)までは翌年の3月31日、1980年(昭和55年)からは翌年の4月20日まで休止となった。晩年は臨時駅に降格となり、
冬季休業中の1990年(平成2年)3月10日、雨煙別駅や政和温泉駅、白樺駅と共に廃駅となった。
廃止時点まで、毎年12月1日 - 4月30日(1987年(昭和62年)までは4月20日)の間は全列車が通過していた上、白樺駅と共に冬眠する駅として有名だった。昭和30年代には電報取扱駅であったこともある。
歴史[編集]
1941年(昭和16年)10月10日 - 鉄道省深名線朱鞠内駅 - 初茶志内駅(後の天塩弥生駅)間延伸開通(深名線全通)に伴い開業[3]。一般駅[4]。
1949年(昭和24年)6月1日 - 公共企業体である日本国有鉄道に移管。
1964年(昭和39年)4月1日 - 貨物・荷物取扱い廃止[3]。同時に無人化[3]。
1977年(昭和52年)12月1日 - 初めて冬季休止となる[4]。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR北海道に継承[4]。同時に臨時駅へ降格[4]。
1990年(平成2年)3月10日 - 冬季休業中のまま廃止[4]。
254: 2016/11/05(土)16:04 ID:v+Hv7VJD(18/33) AAS
駅構造
廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の西側(名寄方面に向かって左手側)に存在し、分岐器を持たない棒線駅となっていた[5]。かつては島式ホーム1面2線に貨物ホームと貨物側線を有する列車交換可能な交換駅であった。
1983年(昭和58年)時点ではかつての島式ホームの使われなくなった側の位置に相当する場所に、深川方、名寄方両側の分岐器が撤去された形で側線が1線残っていた[5]。ホーム前後の線路は分岐器の名残で湾曲していた[5]。
無人駅となっており、有人駅時代の駅舎は撤去されプレハブの待合所を有していた。ホームはかつての土盛りから板張りの仮乗降場スタイルに変わり、
冬季休業中ホームは撤去されるという移動式のものとなっていた[5]。深川方(南側)にスロープを有し[6]駅施設外に連絡していた。
駅名の由来[編集]
当駅の所在する地名より。地名は、当地が蕗の繁茂地であったことに由来する[6]。
255: 2016/11/05(土)16:05 ID:v+Hv7VJD(19/33) AAS
駅周辺
開拓団が入植していた頃は駅周囲は「蕗の台第1区」と称して駅職員と林業関係者が占め、木工所や木材倉庫、日通営業所があり、1km程離れた所に蕗の台小学校・中学校があった[2]。
開拓団地は「蕗の台第2区」と称し、さらに離れた地域に住居と農地を構えていた[2]。
廃止時は民家は1軒も無く、附近一帯は山菜の宝庫であった[5]。
北海道道528号蕗の台朱鞠内停車場線
北海道道688号名寄遠別線
朱鞠内湖(雨竜第一ダム)
滝の沢[7]
エビシオマップ沢[7]
釜ヶ淵 - 駅の南西[7]。
省2
256: 2016/11/05(土)16:05 ID:v+Hv7VJD(20/33) AAS
白樺駅
白樺駅
しらかば - Shirakaba
◄蕗ノ台 (4.1km)(5.4km) 北母子里►
所在地 北海道雨竜郡幌加内町
北緯44度22分24.5秒
東経142度11分41秒
所属事業者 JR logo (hokkaido).svg北海道旅客鉄道(JR北海道)
所属路線 深名線
キロ程 93.6km(深川起点)
省10
257: 2016/11/05(土)16:06 ID:v+Hv7VJD(21/33) AAS
目次 [非表示]
1 概要
2 歴史
3 駅構造
4 駅名の由来
5 駅周辺
6 駅跡
7 隣の駅
8 脚注・出典
8.1 脚注
省2
258: 2016/11/05(土)16:07 ID:v+Hv7VJD(22/33) AAS
概要[編集]
原生林の中に作られた駅であったが、開業の経緯として開拓の基地という背景を持っていた[1]。 北海道大学農学部演習林の中(泥川事業区)に位置し、
蕗ノ台と同様に1929年(昭和4年)頃から林業関係者が出入りして、付近の「泥川」からブトカマベツ川-雨竜川と伐採木材を流送していた[2]。
当線が延伸工事を進めていた1940年(昭和15年)には当地に市街地ができる可能性が大きいとのことから、演習林側で駅前予定地に市街住宅区画を行い、また「林内植民地」[注 1]予定地の区画測量も行っていた[3]。
当駅ができた当初は添牛内方面から数名が入地して開拓を試みたが、3年程で撤退し、結局最後まで居住したのは林業関係者だけであった[2]。
当駅は木材貨物の積込み基地として、蕗ノ台と同様に駅土場には多くの木材が集積され、1956年(昭和31年)度には木材の年間発送量が12,000tを記録している[2]。
その後輸入自由化に押されて木材搬出も一気に無くなり、1955年(昭和30年)に100名を数えた地区の人口も急激に減って[2]、1961年(昭和36年)に当駅は無人駅となった。
最後の1名が離村したのは1964年(昭和39年)4月以降1965年(昭和40年)9月以前とみられ、それ以降ここは無人地帯となった[2]。
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