◆三島由紀夫の遺訓◆ (511レス)
上下前次1-新
424: 2011/07/05(火)00:38 ID:BWcuqVwh(2/7) AAS
三島:(小高根二郎の「果樹園」に)戦争中、丹羽文雄が「海戦」を書いたときに、ぼくを非常にかわいがって
くれた先輩の蓮田善明が丹羽を非難攻撃した話が出ている。丹羽という男はいかに頑冥固陋な男か、海戦の最中、
弾が飛んでくるなかでも一生懸命メモをとって海戦の描写をしている。これは報道班員として任務を遂行して
いるわけで、そのために丹羽は名誉の負傷までしている。ところが蓮田は丹羽を非難して、なぜそのときおまえ
弾運びを手伝わないかといっておこっている。(中略)そこにはかなり重要な思想が入っていて、ほんとうに
文学というのは客観主義に徹することができるか、文学者はそういうときにキャメラであるのか、単なる「もの」を
記録する技術者であるのか、あるいは文学とはそういうときにメモをとることをやめて弾を運ぶことであるのか、
という質問を蓮田がしているのじゃないかとぼくは思う。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
425: 2011/07/05(火)00:39 ID:BWcuqVwh(3/7) AAS
三島:ぼくはそれは丹羽文雄が悪いとは決していってない。丹羽文雄は己れの信奉している文学の観念に
忠実だったと思う。ぼくは丹羽文雄のシンセリティーを微塵も疑わない。
(中略)総力戦というのは人間をあらゆるフィールドにおいて機能化してゆくものですね。大砲を撃つ人は大砲、
報道班員は文章によって記録あるいは報道し、あるいは軍宣伝のために利用される。そういう近代的な総力戦では
丹羽は正しい任務を果たしている。だけど文学というものは絶対そういう機能になり得ないものだということを
信じたい。
そうすると、文学が絶対に機能になり得ないということを証明するためにはどうすればいいかということになると、
そのとき弾を運べばいいじゃないかという結論になっちゃう。いかに邪魔でも、どいてくれといわれても。
(中略)
中村:それは戦時でなくいまの技術社会でもそうだね。
省3
426: 2011/07/05(火)00:45 ID:BWcuqVwh(4/7) AAS
三島:ぼくはその問題はそういうふうに現代の問題として考えるのだけれども、文学の機能化ということと
文学と行動との問題はいつもからみ合っているというふうに考える。なぜなら、現代技術社会における行動とは
その九九%までが、自分の機能によって縛られているもので、これは戦時中から「職域奉公」という思想で
はじまっていた。文学にしたって同じなので、(中略)文学文学と言っていればいいかというと、それこそ受身で、
しらずしらずのうちに機能化されてしまっているということが現代なんだと思うな。(中略)平和な時代だと、
実に複雑なヴァリエーションに富んでいて、のんびり芋掘りの話を書いていても、文学好きの実業家の消閑の具に
使われているかもしれないから、うかうかしていられぬわけだ。(中略)文学をこういう「しらずしらず」の
機能化から目ざめさせるには、文学外の行動の必要が起ってくるのじゃないか。その弾運びだけが文学だという
状況が来るかもしれないのではないか。
三島由紀夫
省1
427: 2011/07/05(火)00:46 ID:BWcuqVwh(5/7) AAS
三島:つまり、文学者が、言葉イコール行動、文学イコール行動と信じていることは、しらずしらずの機能化に
からめとられる危険があるので、あるとき自分の機能から絶対に離れたところで「何かのため」という行動を
やってみたらどうだ。(中略)
そこで、自分をそうやって文学からあるとき弾き出す力というものを、文学に本質的に具わった逆説的な
(ある意味で健康な)能力と考えるか、そういう力はもともと文学に存在しないと考えるか、で考えが完全に
二分されると思う。蓮田善明はその前者の考え方をした人だと思うし、僕は狭義の文学というよりも、どうしても
そういう広義の文学というものに魅力を感じる。そしてそれは、どちらがより強く文学を信じているか、という
信仰の形の論争にもなると思います。しかし、現実の例は、それほど高尚な話ではなくて、今起っている文学の
機能化というのは、簡単にいえば中間小説化ですよ。
三島由紀夫
省1
428: 2011/07/05(火)13:50 ID:BWcuqVwh(6/7) AAS
三島:汚れてない思想というものはぼくは文学のなかにあるかどうかは疑問で、汚れてない思想というものは、
もしその思想を信奉すると文学を捨てなければならぬかもしれないという危険がいつもある。それが文学と行動との
問題にぶつかってくる。
(中略)
もし技術社会のなかにおける文学の機能ないし技術ということを考えれば、いまのテレビなどに毒されている
大衆が要求し、その大衆が人生の慰めあるいは疲れ休めとして要求する技術的によくできたおもしろい小説で
十分じゃないか。それ以上に現代読者ないし現代社会は何も要求していないと思う。一部の気ちがいじみた青年は
文学に哲学を求めたり文学に思想を求めたりするかもしれないが、社会はそんなものを全然要求していない。
ですからプロレタリア文学時代よりいまの時代のほうが文学が社会から要求されていないという意識は強かる
べきだと思う。
省2
429: 2011/07/05(火)13:51 ID:BWcuqVwh(7/7) AAS
三島:ぼくは最近アイラ・レヴィンというアメリカ人の「ローズマリーの赤ちゃん」という大衆小説の飜訳を
読んだ。こんなおもしろい小説を読んだことはない。すごくうまくできている。サスペンスの積み上げから何から
完璧です。しかし何もない。思想もなければ哲学も何も徹底的にない。そのかわり技術の高さは日本の大衆小説を
百倍しても追いつかないくらい技術が高い。そういうものがあるんだね。
中村:やっぱり金になるからみんな勉強するんだね。
三島:ぼくはあの小説を読んで、「群像」なんかに載っている純文学は技術という点において百倍劣ると思ったね。
中村:それは千倍かもしれない。
三島:音楽もアメリカやソ連ではそうなりつつある。アメリカもソ連に非常に似た傾向がある。演奏技術など
非常に高度に達している。技術社会の人間というのは技術を喜んで、ほかのものをべつに喜ばない。
省2
430: 2011/07/09(土)09:56 ID:oJmbFBkt(1/4) AAS
三島:僕はいつも思うのは、自分がほんとうに恥ずかしいことだと思うのは、自分は戦後の社会を否定してきた、
否定してきて本を書いて、お金をもらって暮らしてきたということは、もうほんとうに僕のギルティ・コンシャスだな。
武田:いや、それだけは言っちゃいけないよ。あなたがそんなこと言ったらガタガタになっちゃう。
三島:でもこのごろ言うことにしちゃったわけだ。おれはいままでそういうことを言わなかった。
武田:それはやっぱり、強気でいてもらわないと……。
三島:そうかな。おれはいままでそういうことは言わなかったけれども、よく考えてみるといやだよ。
省6
431: 2011/07/09(土)09:57 ID:oJmbFBkt(2/4) AAS
三島:言えないでしょう。そうすると、われわれだってどっちもいけないじゃないの。どうするのよ……。
武田:だから最後まで強気をもつということよ。
三島:強気をもつということは、もう小説を書くことじゃないだろう、そうすれば。文学じゃそれは解決できる
問題じゃない。
武田:だって、小説だって、あの長いもの書くのに、強気でなければ書けないよ。
三島:しかし僕は、それは絶対文学で解決できない問題だと気がついたんだ。まあ頭は遅いけど。
たとえば政治行為というものはね、あるモデレートな段階で満足できるものなら、自分の良心も満足するだろう。
たとえば、デモに参加した、危険を冒して演説会をやった、私は政治行為をやったということで、安心して文学を
やっていられる。私は自分の良心にこれだけ忠実にやったんだぞ、ということで、文学をやる、小説が売れる、
お金が入る、別荘でも建てる、犬でも飼う、ヨットを買う、そんなことほんとうにいやだな。
省5
432: 2011/07/09(土)09:58 ID:oJmbFBkt(3/4) AAS
武田:文学をやっていれば、いちおう決定しないですむ、というような風習が日本にある。
三島:あるんだよ。それは日本ばかりじゃない、僕はヨーロッパからきた風習だと思うよ。日本だったら
決定してますよ、明治維新までは。それは、ものを書く人間、詩をつくる人間、それから、少くとも文章を
書く人間は決定してますよ。だけど、いまの日本じゃ、非常にヨーロッパ的になったんです。つまり、ものを
書く人間のやることだから、決定しないですむんだという考えがある。僕はとってもそれがいやなんだよ。
(中略)
僕は、学生が東大で提起した問題というのは、いまだに生きていると思っているけれどもね。つまり、反権力的な
言論をやった先生がね、政府からお金をもらって生きているのはなぜなんだ、ということだよ。簡単なことだよ。
周の粟をくらわず、という人間がぜんぜんいないということだよ。これは根本的批判だよ。
私立大学ならそれはいいよ、だけど官立大学じゃそれは成り立たんじゃないですか。
省2
433: 2011/07/09(土)09:59 ID:oJmbFBkt(4/4) AAS
武田:たとえば、いまヘドロの問題があるでしょう。ヘドロの一番の問題は、われわれが紙を使って生きていると
いうことですね。もし日本文学全集が出なくて、あるいは大新聞があんなに増頁しなかったら、石狩川のヘドロも
大昭和製紙の田子の浦のヘドロも出ないですよね。それを自分が、自分の芸術、あるいは自分の美をうたいあげる
根底は、けっきょくそのヘドロによって支えられているという感覚がないと、無限に批判できますよ、それは。
(中略)画家の使う絵具だって、映画監督の使うフィルムだって、全部ヘドロを出しているんだもの。それを
ふまえないで公害問題を言うと、それこそまた戦後の空虚だね。
三島:またはじまっていると僕は思うんだ。つまり、公害を批判すれば、またそれでいいんだ。(笑)文学と
いうものは、そういうものにいつも反抗してきたはずだろう。ところがいま文学の機能というのは、ほとんど
反抗しないようなところにきちゃって、反抗する力もなくなっちゃったんじゃないの。そういうものはウソだと
いうことを。
省2
434: 2011/07/12(火)10:35 ID:kYaIUYdr(1/5) AAS
言論の自由も左翼の言論の自由と右翼の言論の自由がある。私も小説を書いていますときはさほどに感じない
けれども、文壇というところは、文学賞など審査する場合、私ははっきりいえますが、かりにも思想的偏向で
作品を選んだことはない。たとえそれが、共産党員であろうがなかろうが、自分と政治的意見がかわろうが、
文学作品としてよければいいという立場を通しております。しかしひとたび評論の世界に入ると、なるほど
むずかしいもんだなということを最近痛感したことがあります。
私事ですけれども(中略)「文化防衛論」というのを書きました。つまらんものですが、一所懸命書いたんで
七十枚ほどの長いものになった。そうすると、読売新聞と東京新聞は、それぞれ林房雄さん、林健太郎さんが
文壇時評をやっておられるからいろいろ親切に採り上げてくださる。見ようによっては親切すぎるわけですね。
ところが朝日、毎日は一行も取扱わなかった。黙殺です。
三島由紀夫
省1
435: 2011/07/12(火)10:36 ID:kYaIUYdr(2/5) AAS
三島:もう一つはテレビの場合、ぼくらは実にニュース取材というのは困るんです。うっかり映像を出すと、
映像にウソはつけない。私がカメラの前に立つ、何かをしゃべる。何かをやる、それをフィルムではどうにでも
なるということですね。しまいにちょっとしたコメントリィをつけて「……と三島は意気揚々、過激な言論を
吐いて高笑いをしていた」なんていわれたら、これはもうマンガになっちゃう(笑)
マンガにされるのも悲劇にされるのも、みんな向こう様の自由。ですから言論の自由にしろ、偏向にしろ、
われわれは実に微妙なところで生きているということです。
小汀:ほんとうにそうです。(中略)
無着成恭という寺の坊主の、あんまり日本語のできない人、(笑)それと対等で議論するというんだ。ぼくは
(中略)しゃべる機会がほとんどない。こららにしゃべる機会を司会が与えないようにしているんだ。(中略)
(無着は)発言したら最後、マイクをはなさないんだ。(中略)向こうが七分の土俵を使えて、こちらは三分しか
省3
436: 2011/07/12(火)10:37 ID:kYaIUYdr(3/5) AAS
三島:タクシーに乗っていたとき、ラジオで無着成恭が子供の質問に答えていたんです。子供が「先生、
スサノオノミコトとか、アマテラスオオミカミの話は本当にあったんですか」ときくと、その無着が「チミ、
それね、ぼくこれからハナスしるけどね。あのスンワ(神話)というのは、ほんとうのハナスと違うの。
ツガ(違)うけれども、あのネ(中略)アマテラスオオミカミ(天照大神)ツウ人がいだの。それがら
スサノオノミコト、ツウ人がいだの。これが悪い人でね、何したがどいうど、まんず、田んぼ荒らして米とれなぐ
したの。(中略)それがら機織りをこわして……(中略)あの岩戸ツウのはどう考えればいいがツウと、あれね、
お墓なんだね。(中略)」(笑)
これじゃ、ぼくは子供が可哀想になっちゃった。(笑)唯物史観の、つまり、やり方を教えて、まず基本的な
生産関係の生産手段の破壊とか、そういうところから教えていって、それがいかにいけないことかと。そして
神話的なことを全部リアリスティックに教えている。
省2
437: 2011/07/12(火)10:38 ID:kYaIUYdr(4/5) AAS
子供の雑誌なんかをみていますと、手塚治虫などがやはり神話を書いている。たとえば神武天皇など他民族を
侵略した蛮族の酋長にしている。日本に古代奴隷制なんてないんですが、奴隷たちが苦しめられて鞭で打たれて、
そこで金の鳥が弓の上にとまったりして、それで人民を威嚇して……と、全部そういう話です。
ぼくは大学生が白土三平のマンガを読むのはまだいいと思う。それは唯物論をかじってからマンガを読むんだから
まだいい。あるいはマンガで唯物論をかじるにしてもです。だけど小学生や子供が読むのは、大学生が読むのとは
違うでしょう。これがなんでもないような女の子向きのマンガの中に、支配階級を倒せとか、資本主義はいかんとか、
それがたくみにしみ込むように織りこんである。大人が神経をつかっても、いつのまにか侵入してきているんですよ。
(中略)とにかく厚顔無恥というのが彼らの特質ですね。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
438: 2011/07/12(火)10:38 ID:kYaIUYdr(5/5) AAS
(全般的に右寄りの人たちは)清らかなものはそっとしておきたいって気持ちがとても強いんだけれども、
清らかのまわりには濁流がうずまいている。われわれが清らかなものをもとうとすると、清らかなものだけ
もっていたら、どんどん押流されてしまう。エロティックというのは清らかなものの中にもあるんだということが
理解できないんですよ、彼らは……。むしろ左翼はそこらはうまいですよ。はじめから民青なんかのサークルでも
男女交際、(中略)きれいな女の子なんかがいっしょに手をつないでくれる。まあフォークダンスやりましょう、
そのうちに女の子のほうがアクティブだと、「こんどのなんとかの反戦デモに参加しない?」というと、
「きみにいわれたら……」ということになるでしょう。みんなエロティックからはいっていますよ。(中略)
これでは(右翼は)チャームという点がむずかしい。ユーモアも笑いもなくてはね。
いかに思想が正しくても欠点は欠点で自覚しなきゃいかんと思います。
三島由紀夫
省1
439: 2011/07/13(水)19:58 ID:xHApclQi(1/3) AAS
核兵器というのは男で、世論というのは女という考えを非常に強くもっているんですよ。
(中略)それをさらに敷衍しますと、こういう世の中にしたのは、どうも核が原因じゃないかと思えるんです。
というのは国家権力でも何でも、権力というのは力ですから、「“力”イコール兵器」で、兵隊の数と強い兵器を
もっている方が強い。当然でしょう。それが世界歴史を支配してきた。いままでは兵器は使えるからこそ
強かったんです。ところが使えない兵器をついつくっちゃったんですね。広島で使ってあんな惨禍を起こして
使えなくしてしまった。使えない兵器というのは、あるいは力というのは恫喝にしか用をなさない。恫喝ないしは
心理的恐怖、ひとつのシンボリックな意味だけが強まってきた。そうなると、片一方の方は使えぬ兵器に対する
ものとして人民戦争理論みたいに、ずっと下の方からしみこんでくるやつが出てくるのは当然ですね。それをみて
被害者意識というのがだんだん勝つ力になってくる。
三島由紀夫
省1
440: 2011/07/13(水)19:59 ID:xHApclQi(2/3) AAS
広島市民には非常に気の毒だけれども、つまり「やられた」ということが、何より強い立場とする人間ができてくる。
そうすると、やられないやつまでも、やられたような顔をする方がトクだというようになるわけです。つまり女が
男にだまされたといって訴えるようなものです。とにかくトクなのは、なぐることじゃなくて、なぐられることだと。
そして痛くなくとも、「あっ、イタタタ!」というほうがいつも強い立場をつくれる。それで全学連がヘルメットの
下に赤チンを綿にしみこませていて、なぐられると赤チンがダラダラと垂れるようになっているという話も
ききますが、それも被害者ぶる者の強さの一例ですね。
被害者という立場に立てば、強いということがわかっちゃっている。なぜなら向こうは力が使えないに決まって
いるんだから。それが世論であり、女の勝利だと思うんですね。女はあくまで「弱い女をどうしてこんなに
いじめるんだ」と、断然反対してくる。すると男はそれ以上、腕力をふるえないから負けちまうわけですね。
三島由紀夫
省1
441: 2011/07/13(水)20:00 ID:xHApclQi(3/3) AAS
(中略)力対力という関係が、戦後の世界ではだんだん薄れてきつつあると思うんですよ。(中略)
われわれの主張は正しいのに、こんなに弱い、武器をもたない学生がやられているじゃないかと、頭から血が
流れているじゃないかと。全学連を非難する人たちも、やっぱりおしゃもじをもって、主婦連じゃないけれども、
弱いわれわれの生活を守るのにはどうすればいいのか、すべて「弱いわれわれ」が前提になっている。これは
世論のいちばん大きな要素で、われわれが世論に迎合するためには、自分が強者、あるいは加害者であったら
たいへんなことになっちゃう。
自衛隊があんなに悪口をいわれるのはもう、自衛隊が力だということがはっきりしているからですね。そして
警察の悪口がいわれるのは、警察が力だということがはっきりしているからですね。力をもっているやつは
かなわない世の中になっちゃっている。これは戦略をよほど考えないと、いまわれわれは左翼の言論を力だと
思って評価したらまちがいで、あれは弱さの力なんですね。それをいちばん象徴しているのは、ぼくは核と
省3
442: 2011/07/14(木)11:06 ID:ntBEh9Qb(1/3) AAS
「ウエストサイド・ストーリィ」というミュージカルがありますが、実に皮肉な歌が出てきます。暴力団の
不良少年どもが、お巡りがやってくると、みんなで被害者意識を訴える歌を歌うんです。われわれは社会的な
病気だ、ソーシャル・ディジーズだ、すべて社会の被害者で、社会の矛盾がわれわれに集中されて、こういう
人間になっちまった、われわれに罪もなければ責任もない、教師が悪い、社会が悪い、政治が悪い、経済が悪いと
いうんです。お巡りは閉口してしっぽを巻いて逃げ出すんです。
ああいう逆手のとり方というのは、日本では一般的になっちゃった。いつも個人が責任をとらないからです。
それは現体制にも責任があるんで、誰も個人が責任をとらなければ、罪を人になすりつけるほかない。そうすると
金嬉老のような殺人犯の罪さえ、誰かに、あいまいモコたるものになすりつけることはできるんですね。これは
人間が、本当に自分個人の責任をとらなくなった時代のあらわれですね。
三島由紀夫
省1
443: 2011/07/14(木)11:07 ID:ntBEh9Qb(2/3) AAS
たとえばわれわれの中に、自立感情というのがあり、(中略)何とか一人立ちしたい、人に頼らずに生きたいという
気持ちがあることは右も左も問わないと思うんです。その気持ちを左に利用されるというのは非常につらいですね。
たとえば米軍基地反対とか、沖縄を返せとか、どこかに訴える力がありますよね。それは右にも共通するからですね。
ぼくはこのあいだアメリカ人にいったんです。ここらが君たちの性根のきめどころだと。安保条約をやめて
双務協定にするとか、そのためには憲法をかえなければならない、そのときには君らの国に基地をくれと
いったんです。(笑)ロサンゼルス、サンフランシスコ、ニューヨーク、ワシントンの四ヶ所でいいから、基地を
ほしいと……。一坪でもいいんです。そのまわりに基地反対デモが押し寄せても、その一坪の中にはいってきたら、
撃っちまえばいいんですからね。そのくらいのことをアメリカは考えなければだめだと。(中略)双務的で
あれば、国民は納得する。納得させるためには、アメリカの広いところで、一坪くらいの土地がなんだ、と
そういったんです。
省2
上下前次1-新書関写板覧索設栞歴
あと 68 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル
ぬこの手 ぬこTOP 2.143s*