◆三島由紀夫の遺訓◆ (511レス)
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91: 2011/02/09(水)16:07 ID:grmrZ55y(6/8) AAS
自主独立の問題一つとつても、戦前の「自主独立」の日本が、軍縮会議以来、いや三国干渉以来、絶えず列強の
干渉によつて軍縮に対するチェックを受け、それによつて国内世論が、沸騰してきたことを考へると、日本のやうな
地理的要衡の、一定の経済力と一定の軍事力しか持ちえない小国が、条約下にあらうがあるまいが、国際同盟の
参加国であらうがあるまいが、外力の影響によつて左右されるのは宿命的だと思はなければならない。
(中略)
抵抗とは遊戯ではない。完全無防備の抵抗といふものがもしありうるならば、その最有力な例をとり上げて
指摘するならともかく、それが成功するかしないかの時点で、それを無防備的抵抗の良きお手本とすることは、
それ自体が国家を否定し、民族の自立を否定する思想であると言はなければならない。

三島由紀夫「自由と権力の状況」より
92: 2011/02/09(水)16:13 ID:grmrZ55y(7/8) AAS
(中略)
無益な武力的抵抗によつて、国家主権を奪はれるくらゐなら、流血の惨を避け、秩序を保つて表面的に妥協を
受け入れ、国家の存立をはかつたはうがよい、といふならば、非武装抵抗の利点は、一つは血を流さないですんだ、
といふことと、一つは国家の主権が曲りなりにも保たれたといふことでなければならない。
しかし、それはあくまで「非武装抵抗」の利点であつて、「非武装」の利点ではない。非武装(チェコは事実上
非武装国家ではなかつたが)それ自体は、強大な武力に対して何らの利点を持ちえないことは明らかである。
武力抵抗の反対概念は、非武装そのものではなく、非武装抵抗といふことであらう。

三島由紀夫「自由と権力の状況」より
93: 2011/02/09(水)16:14 ID:grmrZ55y(8/8) AAS
そして非武装抵抗の存立条件は、国民の結集した否(ノン)にしかなく、又、陰に陽にサボタージュその他で
抵抗する他はないが、次に来る段階は、非武装抵抗ですら血を流さずには有効性は発揮しえぬ、といふ段階であり、
又、国家の主権が曲りなりにも保たれても、その国家権力の実質的な主導権を奪はれるといふ状況をすでに
容認するならば、そのあとで、実質的な主導権を奪ひ返さうといふ抵抗は、抵抗の最初の論理的根拠を欠くことになる。
なぜなら、われわれが抵抗の手段の選択を迫られたとき、その一方(すなわち非武装)によつて、論理的に
一貫するならば、敵をすでに受け入れた己れの状況に対する抵抗とは、われわれ自身に対する抵抗に他ならなく
なつてしまひ、抵抗の論理は自らの身を喰ふものになるからであり、つひには抵抗それ自体が成立たなくなる
からである。そのとき、われわれは、非武装抵抗の利点が一つもない地点に立つてをり、「非武装抵抗」と
「非武装」とは同義語になり、つひには敗北主義の同義語になるのである。

三島由紀夫「自由と権力の状況」より
94: 2011/02/10(木)11:34 ID:C3oYkN/f(1/6) AAS
私は、ごく簡単に言つて、青年に求められるものは「高い道義性」の一語に尽きると思ふ。さう言ふと、バカに
古めかしいやうだが、道義といふのは、青年の愚直な盲目的な純粋性なしにば、この世に姿を現はすことはないのである。
老人の道義性などといふのは大抵真っ赤なニセモノである。
私がいつも思ひ出すのは、二・二六事件で処刑された青年将校の一人、栗原中尉のことである。(中略)
中尉の部下だつた人から直接きいた話であるが、あるとき演習があつて、小休止の際、中尉の部下の一上等兵が、
一種のアルコール中毒で、耐へられずに酒屋へとび込んでコップ酒をあふつてゐた。そこへ通りかかつた大隊長に
詰問され、所属と姓名を名乗らされたが、その晩帰営すると、大隊長は一言も講評を言はず、全員の前で、
その兵の名をあげて、いきなり重営倉三日を宣告した。
中尉は部下に、その兵の演習の汗に濡れたシャツを取り換へさせるやう、営倉は寒いから暖かい衣類を持つて
行かせるやうに命じた。それからなほ三日つづいた演習のあひだ、部下たちは中尉の顔色の悪いのを気づかつた。
省2
95: 2011/02/10(木)11:35 ID:C3oYkN/f(2/6) AAS
あとで従兵の口から真相がわかつたが、上等兵の重営倉の三晩のあひだ、中尉は一睡もせず、軍服のまま、
香を焚いて、板の間に端座して、夜を徹してゐたのださうである。
釈放後この話をきいた兵は、涙を流して、栗原中尉のためなら命をささげようと誓ひ、事実、この兵は二・二六事件に
欣然と参加したさうだ。
青年のみが実現できる高い道義性とは、かういふことを言ふのである。第一、老人では、いくらその気があつても、
三日も完全徹夜をした上で走り回つてゐたら、引つくりかへつてしまふであらう。
二・二六事件が右寄りの話で面白くないといふのなら、左翼の革命運動も、青年がこれに携はる以上、高い道義性の
実現なしには、本当に人心を把握できないと私は信ずる。チェ・ゲバラは革命家の禁欲主義を唱へ、強姦の罪を
犯した愛する部下を涙をのんで射殺したが、これはゲバラが革命の道義性をいかに重んじたかの証左であつて、
毛沢東の「軍事六篇」もこの点をやかましく言つてゐる。
省1
96: 2011/02/10(木)11:43 ID:C3oYkN/f(3/6) AAS
…一学生の万引き事件、日大紛争における暴力団はだしの残虐なリンチ事件、……これらは学生による政治活動から、
道義性が崩壊してゆくいちじるしい事例である。あとには目的のためには手段をえらばない革命戦術が残つてゐる
だけである。一見、平和戦術をとつてゐる一派も、それ自体が戦術であることが見えすいてゐて、何ら高い道義性を
感じさせることはない。
ここまで青年を荒廃させたのは、大人の罪、大人の責任だ、といふのが、今通りのいい議論だが、私はさう考へない。
青年の荒廃は青年自身の責任であつて、それを自らの責任として引き受ける青年の態度だけが、道義性の源泉に
なるのである。
私の知つてゐる青年たちの中には、たしかに立派な青年もゐる。信ずるに足る青年もゐる。私の知つてゐる
非青年五十人と、青年五十人と公平に比べると、大した差はみとめられない。日本人が全部堕落してゆくとは
とても信じられない。しかし、私は、青年をおだて上げておいて、自分は左ウチハで暮さうといふ気はみぢんも
省2
97: 2011/02/10(木)11:54 ID:C3oYkN/f(4/6) AAS
桜田門外の変は、徳川幕府の権威失墜の一大転機であつた。十八列士のうち、ただ一人の薩摩藩士としてこれに
加はり、自ら井伊大老の首級をあげ、重傷を負うて自刃した有村次左衛門は、そのとき二十三歳だつた。(中略)
維新の若者といへば、もちろん中にはクヅもゐたらうが、純潔無比、おのれの信ずる行動には命を賭け、国家変革の
情熱に燃えた日本人らしい日本人といふイメージがうかぶ。かれらはまづ日本人であつた。そこへ行くと、
国家変革の情熱には燃えてゐるかもしれないが、全学連の諸君は、まつたく日本人らしく思はれない。かれらの
言葉づかひは、全然大和言葉ではない。又、あのタオルの覆面姿には、青年のいさぎよさは何も感じられず、
コソ泥か、よく言つても、大掃除の手つだひにゆくやうである。あんなものをカッコイイと思つてゐる青年は、
すでに日本人らしい美意識を失つてゐる。いはゆる「解放区」の中は、紙屑だらけで、不潔をきはめ、神州清潔の民は
とてもあんな解放区に住めたものではないから、きつと外国人を住まはせるための地域を解放区といふのであらう。

三島由紀夫「維新の若者」より
98: 2011/02/10(木)16:58 ID:C3oYkN/f(5/6) AAS
剣を失へば詩は詩ではなくなり、詩を失へば剣は剣でなくなる……こんな簡単なことに、明治以降の日本人は、
その文明開化病のおかげで、久しく気づかなかつた。大正以降の西欧的教養主義がこの病気に拍車をかけ、さらに
戦後の偽善的な平和主義は、文化のもつとも本質的なものを暗示するこの考へ方を、異端の思想として抹殺するに
いたつたのである。(中略)
以前から、終戦時における大東塾の集団自決が、一体何を意味するかといふことは、私の念頭を離れなかつた。
神風連は攻撃であり、大東塾は身をつつしんだ自決である。しかしこの二つの事件の背景の相違を考へると、
いづれも同じ重さを持ち、同じ思想の根から生れ、日本人の心性にもつとも深く根ざし、同じ文化の本質的な問題に
触れた行動であることが理解されたのであつた。
影山氏の「日本民族派の運動」を読む人は、かういふ氏の思想の根を知ることによつて、さらに興趣を増すことと
思はれる。
省1
99: 2011/02/10(木)17:00 ID:C3oYkN/f(6/6) AAS
氏はおそろしいほど実証的であり、歴史を正す一念において、博引旁証、及ばざるところがない。忘れつぽい
日本人から見ると、その点、却つて日本人離れがしてゐる。実に皮肉なことだが、神風連の事件そのものが、
純潔に自分の思想を守つて抵抗するといふ徹底性の点で、却つて西欧人に理解されやすい要素を含んでゐると
思はれるのと、このことは照応してゐる。西欧化した日本人が、西欧から学ばなかつた唯一のものこそ、
思想に対するこのやうな西欧人の態度なのである。(中略)
又、思想的立場を異にする花田清輝氏などに対しても、本書は公正な態度で、さはやかな記述をしてをり、その点、
思想上の敵に対して卑劣な悪罵の限りをつくす一部の左翼人の著書とは対蹠的である。(中略)
昭和の文学史は、あまりに多くのイデオロギッシュな歪曲や、眼界のせまい文壇人の文壇意識などによつて
毒されてきた。今後昭和の戦前戦中の文学について語る者は、必ず本書に目をとほすことなしには、公正な目を
養ふことができないであらう、と私は信ずる。
省1
100: 2011/02/11(金)00:41 ID:rtFjOVzm(1/16) AAS
戦後、文化の問題の偏頗な扱ひは、久しく私の疑惑を培つて来た。戦争について書かれた作品で、文学作品として
後世に伝へられる資格を得たものは、悉く文学者の作品である。餅は餅屋であるから、もちろん文章は巧い。
文学的な深みもあり、普遍的な説得力もある。しかし、いかんせん、その個人的な戦争体験は限られてをり、
戦闘に参加する前から文筆の人であつた者の目に映じた戦争は、どんなに公平を期しても、そこに自ら視点の
限定がある。いかなる大戦争といへども、個々人にとつては個人的体験であることは当然だが、同時に、そこには、
純戦闘員による戦争の真髄が逸せられてゐたことは否めない。
誤解のないやうに願ひたいが、私は、文学者の書いた戦記が、体験のひろがりと切実さを欠いてゐる、と非難して
ゐるのではない。ただ、あの戦争に関する記録乃至創作を、純文学的評価だけで品隲することは、実は、もつと
大きな見地からは、非文学的、ひいては非文化的行為ではないか、といふ疑問を呈したのである。

三島由紀夫「『戦塵録』について」より
101: 2011/02/11(金)00:43 ID:rtFjOVzm(2/16) AAS
その好例がこの「戦塵録」である。これがいはゆる文学作品を狙つた記録でもなければ、文学的素養ゆたかな人の
作物でもないことは、一読すでに明らかである。しかしここに描かれてゐるのは、大きな一つの文化及び文化様式の
終末の悲劇なのである。
わけても貴重なのは、筆者が戦闘機乗りとしての純戦闘員であり、戦争の最先端の感情と行為を体験し、又、
一人の若者であつて、純情な恋愛とその愛別離苦を身にしみて味はひ、且つ、戦争の終末とその終末に殉じた人たちの
最期に立会つたといふことである。行為者にして記録者であること、青春の人にして終末の立会人であつたこと、
……このやうな相矛盾する使命をこの人に課したのは、おそらく歴史のもつとも生粋のものを後世に伝へようと
はかられた神意であるにちがひない。
今にして思へば、私は、戦後文化の復興者であらうと自負した人たちの近くにゐすぎた。そこにゐたのは、必ずしも
私の責任ではないが、そこにゐて感じた反撥の数々は、却つて私をして文化と歴史の本質について目をひらかせて
省2
102: 2011/02/11(金)00:46 ID:rtFjOVzm(3/16) AAS
すなはち、昭和二十年八月、身を以て、日本文化の伝統的様式を発揚し、日本の純にして純なる文化の終末を体現し、
そこに後世に伝へるべき真の創造を行つたのは、いはゆる文化人ではなくて、「戦塵録」に登場する、若い
戦士だつたのであり、自刃して行つた矜り高い武人たちだつたのである。戦後の文化人は、そこにもつとも重要な
文化の問題がひそむことを理解せずに、浅墓な新生へ向つて雀躍したのである。残念ながら、私もその一人で
あつたと云はねばならない。「戦塵録」の著者ならびにその戦友たちは、若き日を、戦ひ、死に直面し、
絶対的なものについて思惟し、しかも活々と談笑し、冗談を飛ばし、喧嘩をし、異国の美女に心を惹かれ、
明日をも知れぬ恋を体験し、……そのやうに十分に生きた上で、ひとりひとり、いさぎよく散つてゆく。冒頭の
人名の上に引かれた赤線は、かれらの名を抹消するのではなく、かれらの名を不朽のものにするのである。

三島由紀夫「『戦塵録』について」より
103: 2011/02/11(金)00:47 ID:rtFjOVzm(4/16) AAS
そして、選局逼迫の只中にも句会を催ほし、死に臨んでは辞世を作る。日々日本刀の手入は怠りなく、そこには、
日本人に対する日本文化の「型」が与へた最後の完璧な強制とその達成があつた。もちろんかれらは、強制されて
句を作り辞世を詠んだわけではない。しかし文化の本質とは、その文化内の成員に対して、水や空気のやうに、
生存の必須の条件として作用して、それが絶たれたときは死ぬときであるから、無意識のうちに、不断に強制力を
及ぼす処のものである。それこそは文化であり、このやうな文化を理解しなくなつたところに、戦後の似而非文化は
出発したのである。戦士たちの死の作法そのものが文化であるやうな文化の、最高度の発揚とその終末を、
「戦塵録」ほど、みごとに活々と語つてゐる本はなく、その点でいはゆる文学作品をはるかに凌駕してゐる。
では果して、日本文化は滅びたのか? 私は、ここには、反時代的なその「型」の復活の衝撃によつてのみ、
蘇生の可能性をのこしてゐる、とだけ言つて置かう。

三島由紀夫「『戦塵録』について」より
104: 2011/02/11(金)00:49 ID:rtFjOVzm(5/16) AAS
「戦塵録」は、もとより意図して、文化の発揚と終末を語つたものではない。それは伝来の規律正しい簡潔な
「軍隊の文体」で語られた記録であり、すべてが「型」の文体であるから、そこには人間心理の発見などといふ
ものではない。戦闘状況は巨細に述べられるが、強ひて迫力を加へようとした抒述はない。(中略)
平凡な抒述であるだけに却つて深い真実に迫つてゐる。戦闘の場面と、これら恋愛の場面と、最後の自決の場面が、
「戦塵録」の三つのクライマックスであることは明らかである。
私はその上に、ただ一行、いつまでも心に残る個所をあげておきたい。それは私がそのやうな青空を同じ時期に
日本でも見てゐるからであり、又、今を去る数年前、同じ青空を、現地カンボジアで見てゐるからでもある。
昭和二十年六月二十五日、死を決した著者は、スコールのあくる日の大空、「手を伸せば指の先が藍色に染って
しまひそうな」ほど鮮やかに澄んだ熱帯の空を眺めて、次のやうな一行の感想を心に抱くのである。
「此の大空、果てしない碧空にこそ凡ての真理を包蔵して居るのではなからうか」
省1
105: 2011/02/11(金)12:09 ID:rtFjOVzm(6/16) AAS
行動といふものはそれ自体の独特の論理を持つてゐる。したがつて、行動は一度始まり出すと、その論理が終るまで
やむことがない。これはあたかもぜんまいを巻ききつたおもちやが、そのぜんまいがゆるみきるまで無限に同じ運動を
繰り返すのに似てゐると言へよう。知識人にとつては、行動のこのやうな論理がこはいのである。

目的のない行動はあり得ないから、目的のない思考、あるひは目的のない感覚に生きてゐる人たちは行動といふものを
忌みきらひ、これをおそれて身をよける。思想や論理がある目的を持つて動き出すときには、最終的にはことばや
言論ではなくて、肉体行動に帰着しなければならないことは当然なのである。

人生の時間や、また何百時間に及ぶ訓練の時間は人々の目に触れることがない。行動は一瞬に火花のやうに
炸裂しながら、長い人生を要約するふしぎな力を持つてゐる。であるから、時間がかからないといふことによつて
行動を軽蔑することはできない。

三島由紀夫「行動学入門」より
106: 2011/02/11(金)12:10 ID:rtFjOVzm(7/16) AAS
体を動かしてゐるときには、われわれの体自体が全体なのである。したがつて、自分の体以外の全体といふものは
その目に映らない。どんなにチームワークのとれた団体競技であつても、その一人一人のプレーヤーの行動は、
いつも全体の見地から行なはれてゐるわけではない。われわれは全体が見えないで、自分の命じられ、指定された
行動の中で全力を尽くすときに、肉体行動としての最高のレベルに達することができる。しかし、その場合にも
少なくとも集団行動であれば、全体を見透かす目がなければならない。ところが、人間が全体を見透かすのは
目だけであつて、体全体ではないのである。

ここに一つの矛盾が起きてくる。われわれは、行動しようとすると自分の体を動かす。しかし、その行動を有効にし、
目的に向かつて進めようとすれば、かつ幾つかの力を集めて、集団的な力を発揮させようとすれば、どうしても
その全体を統制する行動者にならなければならない。しかし、全体を統制する行動者になることは、無限に自分から
肉体的行動の余地を少なくしていくことなのである。
省1
107: 2011/02/11(金)12:11 ID:rtFjOVzm(8/16) AAS
真に有効な行動とは、自分の一身を犠牲にして、最も極端な効果をねらつたテロリズム以外にはなくなるであらう。
ところが死の向う側にわれわれは自分の個人の効果といふものを、あるひは個人の利得といふものを考へることは
できないのであるから、政治的効果といふものは初めから超個人的なところに求められなければならない。
超個人的な効果をねらつて個人が自己犠牲を払ふといふところにしか、政治的効果がないとすれば、それ以前の
すべての効果は無効にすぎない。
しかしまたそこには逆説が成り立つので、われわれは全く無効だと覚悟した行動にしか真の政治的有効性といふものを
発見しないのかもしれない。

無効性に徹することによつてはじめて有効性が生じるといふところに、純粋行動の本質があり、そこに正義運動の
反政治性があり、「政治」との真の断絶があるべきだ、と私は考へる。

三島由紀夫「行動学入門」より
108: 2011/02/11(金)12:14 ID:rtFjOVzm(9/16) AAS
待機は、行動における「機」といふものと深くつながつてゐる。機とは煮詰まることであり、最高の有効性を
発揮することであり、そこにこそほんたうの姿が形をあらはす。賭けとは全身全霊の行為であるが、百万円持つて
ゐた人間が、百万円を賭け切るときにしか、賭けの真価はあらはれない。なしくづしに賭けていつたのでは、
賭けではない。その全身をかけに賭けた瞬間のためには、機が熟し、行動と意志とが最高度にまで煮詰められ
なければならない。そこまでいくと行動とは、ほとんど忍耐の別語である。

長い待機の時間はことばではないのである。行動とことばとの乖離が行動を失敗させるやうに、ただことばや観念で
待機に耐へようとする人間は必ず失敗する。坐禅がその間の消息をよく説明してゐるが、面壁して何時間でも坐つて
ゐなければならぬといふ、あの精神状態には、生き、動かうとする人間の行動を徹底的に押しつぶして、そこに
人生の真理に到達する精神的なバネを、たわみ込んでいくといふ発明がみられる。行動がことばでないと同様に、
待機もことばではない。それはただ濃密な平板な、人生で最も苦しい時間なのである。
省1
109: 2011/02/11(金)13:17 ID:rtFjOVzm(10/16) AAS
アメリカ的な戦術は敵の可能行動を幾つかに分析して、消去法によつてその可能行動を絞つて、それに向かつて
こちらの作戦を立てるといふことが綿密に行なはれてゐる。しかしかういふ合理的な作戦といへども、相手が
自分と同じ頭脳を持ち、論理構造を持つてゐるところで初めて成り立つもので、敵が宇宙人であるかあるひは
ベトコンのやうに、アメリカ人とまるきり違つた生活感情と論理構造を持つてゐる人間が相手のときは往々にして
失敗する。
計画は百パーセントを規制するものでもなく、行動の百パーセントの成功を保証するものでもないが、その
何十パーセントかを可能の範疇の中に組み入れる。人は行動の型を持つてゐる。(中略)相手方の行動のパターンを
収集するのは情報の働きである。

ソウル市内の北鮮スパイがいかにして露見するかを聞いたが、実につまらないことでたびたび捕まつてゐる。
一例がタバコである。(中略)北鮮スパイはまづタバコの値段を聞くところで足がつく。またタバコの値段をよく
省2
110: 2011/02/11(金)13:18 ID:rtFjOVzm(11/16) AAS
行動とは、自分のうちの力が一定の軌跡を描いて目的へ突進する姿であるから、それはあたかも疾走する鹿が
いかに美しくても、鹿自体には何ら美が感じられないのと同じである。およそ美しいものには自分の美しさを
感じる暇がないといふのがほんたうのところであらう。自分の美しさが決して感じられない状況においてだけ、
美がその本来の純粋な形をとるとも言へる。だからプラトンは「美はすばやい、早いものほど美しい」と言ふのである。
そしてまたゲーテがファウストの中で「美しいものよ、しばしとどまれ」と言つたやうに、瞬間に現象するものにしか
美がないといふことが言へる。

武士があらゆる芸能を蔑みながら、能楽だけをみとめたのは、能楽が一回の公演を原則として、そこへこめられる
精力が、それだけ実際の行動に近い一回性に基づいてゐる、といふところにあらう。二度と繰り返されぬところにしか
行動の美がないならば、それは花火と同じである。しかしこのはかない人生に、そもそも花火以上に永遠の瞬間を、
誰が持つことができようか。
省1
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