◆三島由紀夫の遺訓◆ (511レス)
上下前次1-新
97: 2011/02/10(木)11:54 ID:C3oYkN/f(4/6) AAS
桜田門外の変は、徳川幕府の権威失墜の一大転機であつた。十八列士のうち、ただ一人の薩摩藩士としてこれに
加はり、自ら井伊大老の首級をあげ、重傷を負うて自刃した有村次左衛門は、そのとき二十三歳だつた。(中略)
維新の若者といへば、もちろん中にはクヅもゐたらうが、純潔無比、おのれの信ずる行動には命を賭け、国家変革の
情熱に燃えた日本人らしい日本人といふイメージがうかぶ。かれらはまづ日本人であつた。そこへ行くと、
国家変革の情熱には燃えてゐるかもしれないが、全学連の諸君は、まつたく日本人らしく思はれない。かれらの
言葉づかひは、全然大和言葉ではない。又、あのタオルの覆面姿には、青年のいさぎよさは何も感じられず、
コソ泥か、よく言つても、大掃除の手つだひにゆくやうである。あんなものをカッコイイと思つてゐる青年は、
すでに日本人らしい美意識を失つてゐる。いはゆる「解放区」の中は、紙屑だらけで、不潔をきはめ、神州清潔の民は
とてもあんな解放区に住めたものではないから、きつと外国人を住まはせるための地域を解放区といふのであらう。
三島由紀夫「維新の若者」より
98: 2011/02/10(木)16:58 ID:C3oYkN/f(5/6) AAS
剣を失へば詩は詩ではなくなり、詩を失へば剣は剣でなくなる……こんな簡単なことに、明治以降の日本人は、
その文明開化病のおかげで、久しく気づかなかつた。大正以降の西欧的教養主義がこの病気に拍車をかけ、さらに
戦後の偽善的な平和主義は、文化のもつとも本質的なものを暗示するこの考へ方を、異端の思想として抹殺するに
いたつたのである。(中略)
以前から、終戦時における大東塾の集団自決が、一体何を意味するかといふことは、私の念頭を離れなかつた。
神風連は攻撃であり、大東塾は身をつつしんだ自決である。しかしこの二つの事件の背景の相違を考へると、
いづれも同じ重さを持ち、同じ思想の根から生れ、日本人の心性にもつとも深く根ざし、同じ文化の本質的な問題に
触れた行動であることが理解されたのであつた。
影山氏の「日本民族派の運動」を読む人は、かういふ氏の思想の根を知ることによつて、さらに興趣を増すことと
思はれる。
省1
99: 2011/02/10(木)17:00 ID:C3oYkN/f(6/6) AAS
氏はおそろしいほど実証的であり、歴史を正す一念において、博引旁証、及ばざるところがない。忘れつぽい
日本人から見ると、その点、却つて日本人離れがしてゐる。実に皮肉なことだが、神風連の事件そのものが、
純潔に自分の思想を守つて抵抗するといふ徹底性の点で、却つて西欧人に理解されやすい要素を含んでゐると
思はれるのと、このことは照応してゐる。西欧化した日本人が、西欧から学ばなかつた唯一のものこそ、
思想に対するこのやうな西欧人の態度なのである。(中略)
又、思想的立場を異にする花田清輝氏などに対しても、本書は公正な態度で、さはやかな記述をしてをり、その点、
思想上の敵に対して卑劣な悪罵の限りをつくす一部の左翼人の著書とは対蹠的である。(中略)
昭和の文学史は、あまりに多くのイデオロギッシュな歪曲や、眼界のせまい文壇人の文壇意識などによつて
毒されてきた。今後昭和の戦前戦中の文学について語る者は、必ず本書に目をとほすことなしには、公正な目を
養ふことができないであらう、と私は信ずる。
省1
100: 2011/02/11(金)00:41 ID:rtFjOVzm(1/16) AAS
戦後、文化の問題の偏頗な扱ひは、久しく私の疑惑を培つて来た。戦争について書かれた作品で、文学作品として
後世に伝へられる資格を得たものは、悉く文学者の作品である。餅は餅屋であるから、もちろん文章は巧い。
文学的な深みもあり、普遍的な説得力もある。しかし、いかんせん、その個人的な戦争体験は限られてをり、
戦闘に参加する前から文筆の人であつた者の目に映じた戦争は、どんなに公平を期しても、そこに自ら視点の
限定がある。いかなる大戦争といへども、個々人にとつては個人的体験であることは当然だが、同時に、そこには、
純戦闘員による戦争の真髄が逸せられてゐたことは否めない。
誤解のないやうに願ひたいが、私は、文学者の書いた戦記が、体験のひろがりと切実さを欠いてゐる、と非難して
ゐるのではない。ただ、あの戦争に関する記録乃至創作を、純文学的評価だけで品隲することは、実は、もつと
大きな見地からは、非文学的、ひいては非文化的行為ではないか、といふ疑問を呈したのである。
三島由紀夫「『戦塵録』について」より
101: 2011/02/11(金)00:43 ID:rtFjOVzm(2/16) AAS
その好例がこの「戦塵録」である。これがいはゆる文学作品を狙つた記録でもなければ、文学的素養ゆたかな人の
作物でもないことは、一読すでに明らかである。しかしここに描かれてゐるのは、大きな一つの文化及び文化様式の
終末の悲劇なのである。
わけても貴重なのは、筆者が戦闘機乗りとしての純戦闘員であり、戦争の最先端の感情と行為を体験し、又、
一人の若者であつて、純情な恋愛とその愛別離苦を身にしみて味はひ、且つ、戦争の終末とその終末に殉じた人たちの
最期に立会つたといふことである。行為者にして記録者であること、青春の人にして終末の立会人であつたこと、
……このやうな相矛盾する使命をこの人に課したのは、おそらく歴史のもつとも生粋のものを後世に伝へようと
はかられた神意であるにちがひない。
今にして思へば、私は、戦後文化の復興者であらうと自負した人たちの近くにゐすぎた。そこにゐたのは、必ずしも
私の責任ではないが、そこにゐて感じた反撥の数々は、却つて私をして文化と歴史の本質について目をひらかせて
省2
102: 2011/02/11(金)00:46 ID:rtFjOVzm(3/16) AAS
すなはち、昭和二十年八月、身を以て、日本文化の伝統的様式を発揚し、日本の純にして純なる文化の終末を体現し、
そこに後世に伝へるべき真の創造を行つたのは、いはゆる文化人ではなくて、「戦塵録」に登場する、若い
戦士だつたのであり、自刃して行つた矜り高い武人たちだつたのである。戦後の文化人は、そこにもつとも重要な
文化の問題がひそむことを理解せずに、浅墓な新生へ向つて雀躍したのである。残念ながら、私もその一人で
あつたと云はねばならない。「戦塵録」の著者ならびにその戦友たちは、若き日を、戦ひ、死に直面し、
絶対的なものについて思惟し、しかも活々と談笑し、冗談を飛ばし、喧嘩をし、異国の美女に心を惹かれ、
明日をも知れぬ恋を体験し、……そのやうに十分に生きた上で、ひとりひとり、いさぎよく散つてゆく。冒頭の
人名の上に引かれた赤線は、かれらの名を抹消するのではなく、かれらの名を不朽のものにするのである。
三島由紀夫「『戦塵録』について」より
103: 2011/02/11(金)00:47 ID:rtFjOVzm(4/16) AAS
そして、選局逼迫の只中にも句会を催ほし、死に臨んでは辞世を作る。日々日本刀の手入は怠りなく、そこには、
日本人に対する日本文化の「型」が与へた最後の完璧な強制とその達成があつた。もちろんかれらは、強制されて
句を作り辞世を詠んだわけではない。しかし文化の本質とは、その文化内の成員に対して、水や空気のやうに、
生存の必須の条件として作用して、それが絶たれたときは死ぬときであるから、無意識のうちに、不断に強制力を
及ぼす処のものである。それこそは文化であり、このやうな文化を理解しなくなつたところに、戦後の似而非文化は
出発したのである。戦士たちの死の作法そのものが文化であるやうな文化の、最高度の発揚とその終末を、
「戦塵録」ほど、みごとに活々と語つてゐる本はなく、その点でいはゆる文学作品をはるかに凌駕してゐる。
では果して、日本文化は滅びたのか? 私は、ここには、反時代的なその「型」の復活の衝撃によつてのみ、
蘇生の可能性をのこしてゐる、とだけ言つて置かう。
三島由紀夫「『戦塵録』について」より
104: 2011/02/11(金)00:49 ID:rtFjOVzm(5/16) AAS
「戦塵録」は、もとより意図して、文化の発揚と終末を語つたものではない。それは伝来の規律正しい簡潔な
「軍隊の文体」で語られた記録であり、すべてが「型」の文体であるから、そこには人間心理の発見などといふ
ものではない。戦闘状況は巨細に述べられるが、強ひて迫力を加へようとした抒述はない。(中略)
平凡な抒述であるだけに却つて深い真実に迫つてゐる。戦闘の場面と、これら恋愛の場面と、最後の自決の場面が、
「戦塵録」の三つのクライマックスであることは明らかである。
私はその上に、ただ一行、いつまでも心に残る個所をあげておきたい。それは私がそのやうな青空を同じ時期に
日本でも見てゐるからであり、又、今を去る数年前、同じ青空を、現地カンボジアで見てゐるからでもある。
昭和二十年六月二十五日、死を決した著者は、スコールのあくる日の大空、「手を伸せば指の先が藍色に染って
しまひそうな」ほど鮮やかに澄んだ熱帯の空を眺めて、次のやうな一行の感想を心に抱くのである。
「此の大空、果てしない碧空にこそ凡ての真理を包蔵して居るのではなからうか」
省1
105: 2011/02/11(金)12:09 ID:rtFjOVzm(6/16) AAS
行動といふものはそれ自体の独特の論理を持つてゐる。したがつて、行動は一度始まり出すと、その論理が終るまで
やむことがない。これはあたかもぜんまいを巻ききつたおもちやが、そのぜんまいがゆるみきるまで無限に同じ運動を
繰り返すのに似てゐると言へよう。知識人にとつては、行動のこのやうな論理がこはいのである。
目的のない行動はあり得ないから、目的のない思考、あるひは目的のない感覚に生きてゐる人たちは行動といふものを
忌みきらひ、これをおそれて身をよける。思想や論理がある目的を持つて動き出すときには、最終的にはことばや
言論ではなくて、肉体行動に帰着しなければならないことは当然なのである。
人生の時間や、また何百時間に及ぶ訓練の時間は人々の目に触れることがない。行動は一瞬に火花のやうに
炸裂しながら、長い人生を要約するふしぎな力を持つてゐる。であるから、時間がかからないといふことによつて
行動を軽蔑することはできない。
三島由紀夫「行動学入門」より
106: 2011/02/11(金)12:10 ID:rtFjOVzm(7/16) AAS
体を動かしてゐるときには、われわれの体自体が全体なのである。したがつて、自分の体以外の全体といふものは
その目に映らない。どんなにチームワークのとれた団体競技であつても、その一人一人のプレーヤーの行動は、
いつも全体の見地から行なはれてゐるわけではない。われわれは全体が見えないで、自分の命じられ、指定された
行動の中で全力を尽くすときに、肉体行動としての最高のレベルに達することができる。しかし、その場合にも
少なくとも集団行動であれば、全体を見透かす目がなければならない。ところが、人間が全体を見透かすのは
目だけであつて、体全体ではないのである。
ここに一つの矛盾が起きてくる。われわれは、行動しようとすると自分の体を動かす。しかし、その行動を有効にし、
目的に向かつて進めようとすれば、かつ幾つかの力を集めて、集団的な力を発揮させようとすれば、どうしても
その全体を統制する行動者にならなければならない。しかし、全体を統制する行動者になることは、無限に自分から
肉体的行動の余地を少なくしていくことなのである。
省1
107: 2011/02/11(金)12:11 ID:rtFjOVzm(8/16) AAS
真に有効な行動とは、自分の一身を犠牲にして、最も極端な効果をねらつたテロリズム以外にはなくなるであらう。
ところが死の向う側にわれわれは自分の個人の効果といふものを、あるひは個人の利得といふものを考へることは
できないのであるから、政治的効果といふものは初めから超個人的なところに求められなければならない。
超個人的な効果をねらつて個人が自己犠牲を払ふといふところにしか、政治的効果がないとすれば、それ以前の
すべての効果は無効にすぎない。
しかしまたそこには逆説が成り立つので、われわれは全く無効だと覚悟した行動にしか真の政治的有効性といふものを
発見しないのかもしれない。
無効性に徹することによつてはじめて有効性が生じるといふところに、純粋行動の本質があり、そこに正義運動の
反政治性があり、「政治」との真の断絶があるべきだ、と私は考へる。
三島由紀夫「行動学入門」より
108: 2011/02/11(金)12:14 ID:rtFjOVzm(9/16) AAS
待機は、行動における「機」といふものと深くつながつてゐる。機とは煮詰まることであり、最高の有効性を
発揮することであり、そこにこそほんたうの姿が形をあらはす。賭けとは全身全霊の行為であるが、百万円持つて
ゐた人間が、百万円を賭け切るときにしか、賭けの真価はあらはれない。なしくづしに賭けていつたのでは、
賭けではない。その全身をかけに賭けた瞬間のためには、機が熟し、行動と意志とが最高度にまで煮詰められ
なければならない。そこまでいくと行動とは、ほとんど忍耐の別語である。
長い待機の時間はことばではないのである。行動とことばとの乖離が行動を失敗させるやうに、ただことばや観念で
待機に耐へようとする人間は必ず失敗する。坐禅がその間の消息をよく説明してゐるが、面壁して何時間でも坐つて
ゐなければならぬといふ、あの精神状態には、生き、動かうとする人間の行動を徹底的に押しつぶして、そこに
人生の真理に到達する精神的なバネを、たわみ込んでいくといふ発明がみられる。行動がことばでないと同様に、
待機もことばではない。それはただ濃密な平板な、人生で最も苦しい時間なのである。
省1
109: 2011/02/11(金)13:17 ID:rtFjOVzm(10/16) AAS
アメリカ的な戦術は敵の可能行動を幾つかに分析して、消去法によつてその可能行動を絞つて、それに向かつて
こちらの作戦を立てるといふことが綿密に行なはれてゐる。しかしかういふ合理的な作戦といへども、相手が
自分と同じ頭脳を持ち、論理構造を持つてゐるところで初めて成り立つもので、敵が宇宙人であるかあるひは
ベトコンのやうに、アメリカ人とまるきり違つた生活感情と論理構造を持つてゐる人間が相手のときは往々にして
失敗する。
計画は百パーセントを規制するものでもなく、行動の百パーセントの成功を保証するものでもないが、その
何十パーセントかを可能の範疇の中に組み入れる。人は行動の型を持つてゐる。(中略)相手方の行動のパターンを
収集するのは情報の働きである。
ソウル市内の北鮮スパイがいかにして露見するかを聞いたが、実につまらないことでたびたび捕まつてゐる。
一例がタバコである。(中略)北鮮スパイはまづタバコの値段を聞くところで足がつく。またタバコの値段をよく
省2
110: 2011/02/11(金)13:18 ID:rtFjOVzm(11/16) AAS
行動とは、自分のうちの力が一定の軌跡を描いて目的へ突進する姿であるから、それはあたかも疾走する鹿が
いかに美しくても、鹿自体には何ら美が感じられないのと同じである。およそ美しいものには自分の美しさを
感じる暇がないといふのがほんたうのところであらう。自分の美しさが決して感じられない状況においてだけ、
美がその本来の純粋な形をとるとも言へる。だからプラトンは「美はすばやい、早いものほど美しい」と言ふのである。
そしてまたゲーテがファウストの中で「美しいものよ、しばしとどまれ」と言つたやうに、瞬間に現象するものにしか
美がないといふことが言へる。
武士があらゆる芸能を蔑みながら、能楽だけをみとめたのは、能楽が一回の公演を原則として、そこへこめられる
精力が、それだけ実際の行動に近い一回性に基づいてゐる、といふところにあらう。二度と繰り返されぬところにしか
行動の美がないならば、それは花火と同じである。しかしこのはかない人生に、そもそも花火以上に永遠の瞬間を、
誰が持つことができようか。
省1
111: 2011/02/11(金)21:11 ID:rtFjOVzm(12/16) AAS
力はいつも数で評価され、戦力は数以外にはないと思はれてゐる。しかし、数が増すほど行動のヴォルテージが
下がり、数が減るほど行動のヴォルテージが上がつて、例へばテロ化する、といふ法則も亦厳然として在る。
ゲリラは多くは小さな集団であつて、その小さな集団では数はたいして意味をなさない。その数のかはりに
一人一人の能力と、おそるべき意志力と、その団結心が要求されるのである。ここで集団と団結心との問題が
きは立つたコントラストをなして浮かんでくる。
もし、鉄の団結を持つた大集団があれば、それは有効であり、人におそれられるであらう。(中略)しかしながら、
ほんたうの意味で強固な団結心に富んだ、巨大な集団といふものは考へられない。われわれは自分の手で小さな
集団でもつくつてみれば、小集団ほど団結心も高い筈であるのに、その実、いかに強固な団結心をつくるのが
むづかしいかといふことを、如実に味はふのである。
三島由紀夫「行動学入門」より
112: 2011/02/11(金)21:12 ID:rtFjOVzm(13/16) AAS
集団をつくれば、そこにおのづからその集団の目的に照らして、人間の差が歴然と出てくることを否定することは
できない。ごく簡単に言つても、十人の集団がゐれば一人が自然に指導者になるだらう。そして百人の集団のうち
十人が精鋭であれば、あと九十人は幾つかのニュアンスを持ちながら、ぐうたらの会員から、非常に熱心な会員までの
幾段階かに分けられてしまふ。キリストの弟子は十二人あつて、そのうちに一人ユダといふ裏切り者がゐたやうに、
集団は宿命的にさういふものを持つてゐるのである。
そして集団の濃淡は、一番濃い中心としての指導者から、周辺に広がるほど薄まつていき、その薄まつた極限まで
全部を含めた行動が集団行動となる点では、大衆社会の何千人、何万人のマス行動とも何ら変りはない。
一人一人が全く自発的な意志で、全能力をかけて、お互ひにまた同じやうな高さの能力を持ちながら団結すると
いふことは、実は口で言つてもやさしいことではない。
三島由紀夫「行動学入門」より
113: 2011/02/11(金)21:14 ID:rtFjOVzm(14/16) AAS
われわれは集団行動と一口に言ふけれども、そこに微妙なニュアンスの差があつて、最後の最後には、中心の個人の
決意にすべてがかかつてゐるといふことをみるのである。一種の非合理的な熱狂と陶酔の渦で大ぜいの人間を
巻き込みながら、一つの目的へ向かつて突き進めるには、その中核体が熔鉱炉の炎のやうに燃え盛つてゐなければ
ならないのである。革命的指導者とはそのやうなものであり、右からの革命でも、北一輝はそのやうなカリスマ的
性格の持ち主であつた。いはばカリスマ的性格とは、核融合を起させる一番最初の核のやうなものであつて、
彼が原動力であり、彼が炎の中心であるからこそ、火は燎原の炎のやうに周囲に広まつていくのである。そこで
われわれは集団行動といふことばにまぎらはされずに、一人の人間の意志が歴史を突き動かし、結局、大きな歴史も
一つの人間意志から生まれたといふところに注目しなければならない。カストロも、また、ゲバラも毛沢東も
一個人であつた。どんな変革も、個人の心の中に初めてともつた火から広がつていくものだといふことを知らねば
ならない。
省1
114: 2011/02/11(金)21:15 ID:rtFjOVzm(15/16) AAS
すべてのものに始めと終りがあるやうに、行動も一度幕を開けたらば幕を閉じなければならない。行動は、
たびたび繰り返したやうに、瞬時に終るものであるから、その正否の判断はなかなかつかない。歴史の中に
埋もれたまま、長い年月がたつても正当化されない行為はたくさんある。
行動はことばで表現できないからこそ行動なのであり、論じても論じても、論じ尽くせないからこそ行動なのである。
ことばでとらへた行動といふものは、煙のやうに消えていき、そこに何ら痕跡は残らず、また、行動の理論体系を
立てるといふこと自体が、行動家の目から見ればすでに滑稽である。
法はあくまで近代社会の約束であり、人間性は近代社会や法を越えてさらに深く、さらに広い。かつて太陽を浴びて
ゐたものが日蔭に追ひやられ、かつて英雄の行為として人々の称賛を博したものが、いまや近代ヒューマニズムの
見地から裁かれるやうになつた。
三島由紀夫「行動学入門」より
115: 2011/02/11(金)21:17 ID:rtFjOVzm(16/16) AAS
行動はともするとヒューマニズムを乗り越えるものであり、生命の危険ををかすものであり、したがつて、
近代ヒューマニズムがつくり上げた全体系と衝突するものである。
会社の社長室で一日に百二十本も電話をかけながら、ほかの商社と競争してゐる男がどうして行動的であらうか?
後進国へ行つて後進国の住民たちをだまし歩き、会社の収益を上げてほめられる男がどうして行動的であらうか?
現代、行動的と言はれる人間には、たいていそのやうな俗社会のかすがついてゐる。そして、この世俗の垢に
まみれた中で、人々は英雄類型が衰へ、死に、むざんな腐臭を放つていくのを見るのである。青年たちは、自分らが
かつて少年雑誌の劇画から学んだ英雄類型が、やがて自分が置かれるべき未来の社会の中でむざんな敗北と腐敗に
さらされていくのを、焦燥を持つて見守らなければならない。そして、英雄類型を滅ぼす社会全体に向かつて
否定を叫び、彼ら自身の小さな神を必死に守らうとするのである。
三島由紀夫「行動学入門」より
116: 2011/02/12(土)10:35 ID:vqfm1rbS(1/6) AAS
日本の軍備の制約下では、核兵器は保有を許されてゐないから、安保条約が当然必要になり、自民党のいはゆる
「核の傘の下」に入ることを余儀なくされてゐるわけである。全く現実的な見地でいへば、アメリカの強大な軍備に
守られてこそ、やうやく日本の自主防衛ですらも可能になるといふやうな情況にあることを否定することはできない。
しかし、果たしてこれをもつて日本人は満足するであらうか。ごく素朴な見方をしても、日本人は久しく、自衛隊が
果たして我々自身の軍隊であるかといふことに疑惑を表はしてきた。もし日本が代理戦争のやうなものに巻き
込まれて、自衛隊が出勤し、あるひは国連警察軍の名目の下に、アメリカが出勤するやうなことがあつた場合、
その自衛隊の最高指揮権は名目上、日本の総理大臣になつてゐるけれども、米軍との共同動作がどの段階でなされ、
且つ、その日本軍と米軍との戦略的な観点の相異がどこで調整されて、どこで最終的にコントロールされるかと
いふ問題になれば、人はそれをアメリカ大統領ではないかといふ疑惑を禁じることはできないのである。
三島由紀夫「自衛隊二分論」より
上下前次1-新書関写板覧索設栞歴
あと 395 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル
ぬこの手 ぬこTOP 0.009s