【無名】東京の武将たち【知りたい】 [無断転載禁止]©2ch.net (806レス)
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347: 2017/11/30(木)11:34 ID:9frVxLvp(1/16) AAS
武蔵千葉氏と下総千葉氏に関して
とりあえず関東を原点からみると
(本当は将門、頼朝、前北条も地続きだと思う)
鎌倉幕府を経て室町幕府初代の足利尊氏直義兄弟後ずっとくすぶっていた
中央と関東の争いからはじまる
もともと鎌倉足利と関東管領上杉は足利兄弟派閥の違いで、ねじれていた
これは尊氏の子足利基氏が尊氏死後に尊氏の思惑と異なり
直義の意向(鎌倉府の独立性)を引き継いだためだという
(直義派の上杉氏を関東管領に復帰させた、だが皮肉なことに上杉は中央寄りになる)
そして鎌倉足利持氏のときに、上杉の権力拡大を疎み上杉禅秀を虐げ、
省9
348: 2017/11/30(木)11:35 ID:9frVxLvp(2/16) AAS
その後持氏は将軍義持猶子だったため(一説)義持の死後に将軍の野望をもってしまう
そして新しい将軍義教を軽んじた、これにより中央よりの憲実とも対立してしまう
これで中央&上杉vs鎌倉はいよいよ後戻りできなくなる
状況の悪化により持氏は上杉憲実に中央との仲裁を依頼し、
憲実も助力するが持氏は将軍義教によって自害においやられる
憲実は弟清方に託して出家、結城合戦の後
(結城氏が中央に逆らい持氏の遺児を擁立をしようとした戦)
自らの子も出家させ完全に関東管領を弟に回した。
景仲は両戦いを上杉家宰長尾忠政の下で功績あげ、
清方から指名され山内上杉家の家宰を手に入れる
省3
349: 2017/11/30(木)11:35 ID:9frVxLvp(3/16) AAS
憲忠(景仲よって擁立)は成氏を補佐しようとしたが景仲は成氏派の結城氏などと対立した
景仲は強硬に出て扇谷上杉家宰で婿の太田資清とともに江ノ島合戦を起こす
(資清は憲忠義父の扇谷上杉家宰で景仲の婿)
だが景仲は敗北し所領家宰職没収、憲忠の鎌倉の追放と復帰へて
一度は丸く収まったものの成氏は憲忠と家宰職長尾実景憲景父子を謀殺してしまう
少しズレるが大石憲儀も反成氏派で処分をうけていることから
景仲、太田資清と近い存在だったことがうかがえる
憲忠暗殺の報せを聞いた景仲は憲忠の弟房顕を関東管領に迎え入れると共に
成氏を討伐する事を決め、家宰職に復帰した
分倍河原の戦いにて惨敗してしまったが、成氏も報告を受けて中央から派遣された
省9
350: 2017/11/30(木)11:35 ID:9frVxLvp(4/16) AAS
1454年 成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺
千葉胤将死去
古河に公方が移る
武田信長と里見義実が上総、安房に現る
可能性としてこの頃土岐為頼の先祖も現れたか!?
(武田信長は下総前は相模西部を所領していた説あり)
1455年 成氏によって扇谷上杉顕房、武蔵国守護代大石憲儀が戦死
後の武蔵千葉氏vs馬加&原胤房
東常縁が千葉氏の内紛を収めるため下総に下向
酒井定隆も東常縁と一緒に下向したとも
省13
351: 2017/11/30(木)11:35 ID:9frVxLvp(5/16) AAS
まず、武蔵千葉氏は下総に戻れなかった、
だけれども東常縁は1469年に息子縁数を残し帰国とあるので
下総で古河公方の勢力が強い中でも残っているのである
ではどこにいたのか、自分は古河勢が巻き返し図った際、匝瑳郡まで逃れたことから
今の東総地区にいたと思われる
さらに上記の武田、里見は成氏に呼ばれたとあるが、
堀越公方政知は成氏方の諸将を懐柔することに努めたことや、
東常縁がそのまま存在していることから、実は武田、里見、酒井、土岐氏は
中央側の東常縁と成氏側とをいききしたりなど、
定説通りには動いてなかったのかもしれない
省9
352: 2017/11/30(木)11:37 ID:9frVxLvp(6/16) AAS
さて時を同じくして下総では馬加氏の庶長子と思われる岩橋輔胤が原氏の所領を
受け継いでいた、だがそれ以外は不明である
ちなみに胤将は父胤直の異母兄弟とする説がある、妄想だが年齢的に子がいてもおかしくない
つまり岩橋輔胤の子とされる孝胤は実は胤将の子ではないか
東常縁もいてまだ下総自体不安定の中で不自然に岩橋氏が千葉氏を乗っ取るというのに
引っかかりがある、そしてこの時期の情報はほぼない
だとすると可能性はかぎりなく低いが考えてしまう
胤将は馬加と同じく成氏派で、父又は兄の胤直の出家に伴い当主になったが、
胤将死後今度はまた上杉派の胤直が口をだしてくると
謀反を起こし、その子息を擁立というのがありうるし、後世の千葉氏の動きとも
省17
353: 2017/11/30(木)11:38 ID:9frVxLvp(7/16) AAS
1466年 上杉房顕死去
フィクサー景仲が越後国守護上杉房定の子に継がせるよう遺言で残していたらしく、
上杉顕定が関東管領に就任
1467年 応仁の乱が起こる
今川義忠が応仁の乱のため上洛し、伊勢早雲の姉妹と婚姻をする
扇谷上杉持朝が死去、息子の上杉政真が継ぐ
宇田川清勝討ち死に
1468年 東常縁の美濃の所領を奪われる
1469年 東常縁は息子を下総に残し、京都へ上洛し所領を返還される
1470年 現千葉県市川市で原左衛門次郎蓮教
省13
354: 2017/11/30(木)11:40 ID:9frVxLvp(8/16) AAS
1472年 古河城を成氏方が取り戻す
五十子で上杉方と成氏方が激突
1473年 上杉政真、長尾景信が死去、扇谷は嫡子がいなかったため
資清など老臣の評定により、政真おじの定正が継ぐ
長尾は上杉顕定の指示で息子の景春ではなく、景信弟の忠景に継がせる
ここで景春の乱につながる、景春は従兄弟の道灌をたったが、道灌は拒否したものの
色々提言したが聞き入れてはもらえなかった、さらにその行動を父資清に𠮟咤された
1476年 今川義忠討ち死に
伊勢早雲が調停のため幕府から遣わされる
道灌が犬懸上杉の血が入る小鹿範満を擁立すべく出向く
省15
355: 2017/11/30(木)11:42 ID:9frVxLvp(9/16) AAS
1478年 成氏が和議を打診
公方と上杉氏との和睦が成立
1479年 臼井城包囲
和議に反対の豊島氏を滅ぼし、鉢形城から景春も追い出し、顕定の居城とした
さらに反対派の孝胤のもとへ太田資忠と自胤とともに攻め込んだ、
境根原合戦経て孝胤を下総から追い出した
この時臼井俊胤が城主の臼井城を攻めた太田資忠が討ち死にした
自胤は城代を置き、武蔵国へ帰国した
ただこのとき海上備中守、武田上総介、武田参河入道が下り、
武蔵石浜へ移った武田入道は、金龍山浅草寺を再建し、ふたたび上総に戻ったらしい
省21
356(1): 2017/11/30(木)12:21 ID:9frVxLvp(10/16) AAS
最後に千学集抜粋は災害で多くが失われ、
千葉大系図は邦胤の子重胤が校訂したとされてるみたいだから
鎌倉大草紙も途中で作者が変わったとないとか
割となんでもあり…とはいかないか
本当に不思議な情報があって妄想がすごいことになる
やっぱひどいか
357: 2017/11/30(木)12:24 ID:9frVxLvp(11/16) AAS
1489年 江戸城代の曾我祐重が苦悩手紙を定正に出す
1490年 臼井幸胤死去、再び義理のおじの俊胤が家督を継ぐ
1491年 支配が伊豆1国のみなってしまった堀越公方の足利政知が病死
1493年 武蔵千葉自胤死去
北条早雲が伊豆に侵攻し堀越公方から所領を奪う
北条早雲は定正と手を組んでたいわれる
1494年 扇谷重臣の三浦時高と大森氏頼が死去、両家とも内紛状態へ
定正が落馬で死去
上杉朝昌の子で伯父上杉定正の養子となった上杉朝良が継ぐ
太田資康が扇谷上杉家へ復帰
省8
358: 2017/11/30(木)12:28 ID:9frVxLvp(12/16) AAS
そして時代は遡って…
定説では道灌の下総侵攻後、孝胤は下総にもどり巻き返し下総を抑えた
ここからは完全に壊れた妄想だけど、
本当に数か月落ちなかった臼井城が落ちるだろうか
これより後の時代でも上杉謙信が落とせなかった城だから
戻ってきてさぁ落としましたは不自然に感じる
それにせっかく下総に戻ったのに帰るのもなんか違う
和議で討伐流れなわけだし
それはおもうに兄の子にゆずったから
まず、守胤=持胤で、持胤が勝胤に改名で孝胤の養子に入る
省1
359: 2017/11/30(木)12:32 ID:9frVxLvp(13/16) AAS
持胤の伝承で孝胤、勝胤、持胤が山内と扇谷の間で争いがはじまると
山内に味方したが、家臣の原胤隆と木内氏に味方しようとしたために
孝胤が持胤を原胤隆へ送り寝返りさせようとしたとある
持胤=守胤としたとき、時期的に道灌暗殺後であるから
両千葉氏が山内に転じても問題ない、守胤=勝胤でない場合は
両千葉氏は真逆の立場をとるだろう、ただそうすると道灌の盟友は
いくつかの武家が扇谷から離れたときに律儀にのこることなる
残念なことに武蔵千葉氏に関して道灌死後全く資料がない
さらにこのころ葛西城の大石石見守が円城寺氏に殺害されたのは
家臣団の中に扇谷派がいたのかもしれない
省5
360(1): 2017/11/30(木)12:37 ID:9frVxLvp(14/16) AAS
そして子供は昌胤と良胤、良胤は自胤死後に武蔵千葉氏を継ぐ
これでだいぶあとに出てくる胤富の子の邦胤と双子の良胤を消化できる
良胤は親北条氏と言われる、つまり早い段階で
武蔵千葉氏は北条氏に下ったとも見える
これによりまた下総と分かれた
これからがもっとひどいが良胤の子の胤利と昌胤の子言われる利胤は同一人物で、
実は武蔵千葉氏が父自胤死後、家中の実権を掌握した良胤は胤利の正室に
北条氏綱の娘をもらっており
武蔵千葉氏が千葉殿になったのではないか
川越城の戦いに参加したのも実は武蔵千葉氏ではないか
省9
361: 2017/11/30(木)12:38 ID:9frVxLvp(15/16) AAS
最後に千学集抜粋は災害で多くが失われ、
千葉大系図は邦胤の子重胤が校訂したとされてるみたいだから
鎌倉大草紙も途中で作者が変わったとないとか
割となんでもあり…とはいかないか
本当に不思議な情報があって妄想がすごいことになる
やっぱひどいか
362: 2017/11/30(木)12:39 ID:9frVxLvp(16/16) AAS
>>356
あー間違えた
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