【無名】東京の武将たち【知りたい】 [無断転載禁止]©2ch.net (786レス)
上下前次1-新
抽出解除 必死チェッカー(本家) (べ) レス栞 あぼーん
625: 2021/10/27(水)18:45 ID:V5BO+mN3(1/12) AAS
道灌死後の考察
少し長くなってしまうけど荒らしではないのでご了承願いたい。根拠は乏しいが仮定論や物語に近いなにかを
垂れ流したい。少しでもおもしろいと思っていただければ幸いです。
まず注目するのは長徳寺の移転。(1488年道灌死後1年後に吉良成高(頼高?政忠?)により)
これは吉良成高が防衛上の観点からということで南に危機感を抱いたことからと見ることができる。
ひとつその前に私見としてなぜ吉良氏は経済的ゆとりがあるのかという点だ。それは世田谷と言う土地ではないだろうか。
多摩川を利用した流通、品川湊、そして神奈川港(鶴見湊か?)の3つを利用できたからではないか。一つ無理やりかも
しれないが、もしかしたら江戸氏が先の時代で大福長者と呼ばれた理由も一族の六郷氏からの恩恵を受けたからかもしれない。
また六郷殿(行方氏であれば)もそういう背景を持って他の者より位が高いのかもしれない。さて、南への危惧だが
この神奈川港を上田政忠(子に政盛?)が15世紀後半に支配下に置いた。道灌死後において扇谷への不信感があるなか、
省14
626: 2021/10/27(水)18:45 ID:V5BO+mN3(2/12) AAS
少し道灌の話に戻る。道灌は死去直前まで下総への遠征をしている。隅田川に長橋を三本もかけ、そこそこの大軍を下総に渡らしている。
これは自分が思うに渡ること自体には問題がなかった、つまりもっと奥地に向かうことを意識しているのではないかと思う。
つまりそこまでは安定していたと感じる。先の79年の戦いで落ちたとも言われる臼井城。(この時資康とも交流があった梅花無尽蔵の
万里集九は自胤に扇を献上している。)その79年では千田胤仲を城代に置いたとしたい、すぐに臼井俊胤が取り戻し胤仲は千葉まで後退したが、
83年の都鄙合体によって千葉盛胤が臼井氏を引き継いだ。つまり奥地とは佐倉やさらにその東総を想像している。道灌が安定して
侵攻したということにおいて、まず道灌は強い信念として下総を攻めきることにしているわけではない、それでも都鄙合体後に侵攻するのは
当然にできることだからではないだろうか。おそらく真里谷氏、海上氏、また上総東氏、それと扇谷上杉に与してるものが動くと
認識しているからではないだろうか。実際松戸本土寺過去帳から道灌が攻めているのにもかかわらず原氏などの討死が79年から1500年代まで
見えなくなる。これは下総の中部までは安定していたと見れるではないか。また円城寺道頓が30余年に過ぎて(1489〜93年頃)
下総に戻っていること、義明支配期の船橋市に銘が残っていることが継続して下総千葉氏に領土が渡っていないことを裏付けてるように見える。
省17
627: 2021/10/27(水)18:46 ID:V5BO+mN3(3/12) AAS
さて94年の戦いの途中で定正が死去し一度両軍が和睦した中、反定正派も扇谷に帰参したみられる。(資康は江戸城に戻るとはいかず
おそらく武蔵千葉氏の元に身を寄せたと思われる。)またこの時先の大森氏は扇谷に戻らずに今川氏に付いたのではないだろうか、
そして95年以降今川の命によって早雲(今川)の与力になったのではないか。(小田原城に招く城主は大森氏)そして吉良成高だが史料にはないが
相模上田氏から神奈川港を取り戻したのではないだろうか。理由としては政盛がその後北条方として挙兵すること、1505年に山内が奪ったとあるが
詳細が不明な所で、相模真田城に移り早雲の与力になったことと見ることもできるだろう。そして扇谷の中ではこの頃より主家に領土の近い武蔵上田氏が
台頭し始めたのではと思う。また扇谷も今川によっていたのではと思う。構図としては幕府VS公方の形から今川扇谷VS山内古河公方に変わったのだと感じる。
公方は一応の所幕府から許された身であり、先に記述したように今川は上杉本家の力を抑えようと試みてるのであろう。そして96年に資康や大森氏の離反や
反定正派帰参を見た山内が相模真田城を攻める。(景春も反山内として参戦)だが景春の子景英と顕定勝利し、敗戦した今川勢と救援に来た扇谷勢は
小田原城に集まる。(伊勢弥二郎、大森藤頼、上田政忠/扇谷朝昌、三浦義同、太田六郎など)さらに今川扇谷勢は敗戦し、大森氏からは山内に
移った顕定と、おそらく真田城に逃げてその後早雲に組み込まれた定頼に分かれたようだ。小田原城はすぐ復帰したように思われる。
省15
628: 2021/10/27(水)18:47 ID:V5BO+mN3(4/12) AAS
あー長さをやらかした……申し訳ない
629: 2021/10/27(水)19:54 ID:V5BO+mN3(5/12) AAS
各地回復が成された1501年の今川早雲は三河の方を注視している。1502年足利政氏は下総の争いに関与する為か
下総千葉氏を手中に置くためか佐倉市小篠塚に陣を張りここから3年間下総千葉氏と対立する。
この時期原胤隆と小見木内氏が扇谷に下っており、両家の和義後に原胤隆は下総千葉氏に帰参し木内胤治は上総で討たれた。
先の永正の乱の前にまず1504年立河原の戦いが起きる。山内顕定ははじめ川越城を攻める(勝胤も参戦)
その後、白子(和光)に陣を張り武蔵千葉氏を攻める。今川早雲軍が吉良氏と合流し川崎市に着陣、それに合わせて
山内政氏軍が立河原に構える(このことから現西東京都は山内側としていることが分かる)
この時顕定は甲斐武田に対して家臣大森顕定に書状をだしている。山内顕定政氏勝胤軍が大敗、各々領地へ引き上げるが
越後上杉勢が加勢をし、顕定は川越城を攻め、越後勢は八王子最南部で長井氏が守る椚田城、今川勢の上田政忠の真田城も落城、
武蔵国と相模国を分断した。その際杉並に中田加賀守が入ったと思われる。おそらくそれが由縁で中野で太田氏の家督を継いでいた
太田六郎が殺害される。戦いにおいては家宰の曾我佑重によって和睦の申し入れと共に成立した。
省19
630(2): 2021/10/27(水)19:54 ID:V5BO+mN3(6/12) AAS
1509年に早雲が江戸城を攻める。ここが起点で今川氏から早雲が離れたとすることが多いが、関係性が途切れていないことから
まだ今川氏に与してると存ずる、ではなぜ急に早雲は江戸城を攻めたのか。一つ提示したい仮定論は今川氏は永正の錯乱の後
義稙派に変わった、関東の支配に介入するため扇谷上杉の当主を朝良から建長寺の僧で庶兄東永、そして吉良頼貞(頼康)を
古河公方に挿げ替えようとしたんだと思っている。まず東永においてが1、早雲が相模において寺社勢力に対して懐柔行動を
とったのではないかとする点で建長寺の東永との接点を生んだ(そういう意味では義明とも面識があったのでは)
2、道灌家臣の宇田川長清の子宇田川清勝は資康に従ったか扇谷から離れ山内で戦死した。だが、その子勝元は氏綱の
江戸城修築に従事している。そしてその宇田川氏に仏僧の東永が養子いりしている。裏切った家臣筋に養子に入り、
その義兄弟が江戸城に関わると言うのはなにかしらあったと見れるんではないか。もし裏切った宇田川氏が江戸城に
戻っていたとすれば、それは今川氏の思惑で江戸への引き入れ役にされ、史実に残らなかったのは失敗し代わりに恩恵を多少受けて
歴史から消えたのではないか。3、結局同じ相模いた七沢朝昌の子朝寧の子朝興が詳細不明で当主に据えられている。
省20
632: 2021/10/27(水)20:23 ID:V5BO+mN3(7/12) AAS
>>631
そこは申し訳ない、宗瑞と書くか迷って、今はまだ早雲のイメージの付加価値を意識してしまっている。
この後の文章も出来上がっていてそちらも早雲になってはいるが、ものすごい拘りかと言われればそうでもないことは
ご理解お願いしたい。
633: 2021/10/27(水)20:31 ID:V5BO+mN3(8/12) AAS
足利氏の跡目争いとして4流挙げたい。まず政氏旧体制派、顕実(憲房に敗れ、死去)、顕実を介して関東安定を望ん総社長尾氏、
岩槻太田氏と支援する成田氏、高基から派兵要請に従ったか不明の勝胤、庁南武田氏、徐々に下総千葉氏に組み込まれた酒井氏、
高基新体制派、北東関東勢、吉良頼貞維新派、今川氏、早雲、行方氏、江戸氏など相模勢、そして4流目が旧体制派新体制派の両方との
関係を持ちながらまた両方から勢いを削ぎたい義明派、憲房、足利長尾氏、横瀬氏、三浦氏、千葉憲胤、渋江氏など西関東勢と
真里谷氏里見氏上総安房勢。いくつか理由を述べる。憲房は表立っては高基と連携を取っているが、次の当主の高基の子
憲寛(高基の子)時代には義明と手を結ぶ。これはおそらく家内に元々その傾向がないと成り立たないと見える。
憲寛は反旗を上げた叔父に味方し父とも戦わねばならないからだ。憲房からすれば実際は妻の兄弟の子たちの方に強いパイプが
あったのだろう。もしかしたら千葉憲胤の母は旧定正派時に憲房から守胤に嫁いだのかもしれない。そして扇谷おいても
朝興が同盟の声を上げれるのはその地盤があったからと見る。中でも真里谷氏は海を渡り相模や武蔵に往来していたという話がある。
そんな中で鶴岡八幡宮別当だった義明とつながりを持ったのかもしれない。ただ擁立という形ではなく政氏の後を継ぐように
省14
634(1): 2021/10/27(水)20:47 ID:V5BO+mN3(9/12) AAS
私は13年〜16年の間が伊勢氏(後北条氏)の独立期だと見たい。三浦氏は滅んでおらず、今川氏の目論見の関東平定にも
半端な時期ではあるが、吉良頼貞を掲げても関東への影響的入部が果たせないという事で新たな基軸を持つため独立を
意識したのではないか。または今川氏より格がある吉良氏との血縁関係を持てたことでか、主家の今川氏も三河吉良氏を
抑えるところまできて、新たに甲斐武田氏との争いも起りそうな混乱の中でタイミング、独立への風向きが良くそれを
果たすことができたのかもしれない。1536年には氏親の子が冷泉為和ともに早雲の子氏綱のもとへ赴いている。
その間はどういう関係か見えないが同盟関係だったと見る。ただし今川氏の方が赴くということで同盟再開の意図が
あったのかもしれない。
1516年数年間の抗争の末、三浦氏を滅ぼす。この際扇谷が救援に向かうが早雲軍は城攻めと迎撃に分かれ戦った。
三浦義同は辞世の句を詠み切腹したと伝わる。先の戦いには救援に向かったであろう真里谷氏はこの戦は参戦しなかったと
思われる。翌年までの間で早雲と共闘したとされるからだ。その理由としてこの時期真里谷氏は信勝から代替わりしている事に
省25
635: 2021/10/27(水)21:02 ID:V5BO+mN3(10/12) AAS
1519年氏綱は早雲の政策を継承し真里谷氏に手を貸し房総に渡る。これはおそらく高基が原胤隆の弟とされる朝胤に胤隆の病状を
聞いている書状があるので、戦局を伺ったものと見える。当主はおそらく原胤清で牛尾と関連のある庶子で名古谷庄にいた思われる。
通説で多いのは高城氏や仁戸名氏であるが高城氏もまだ台頭しておらず(滅亡とも記された)、仁戸名氏も別の一族でのちの時代に
胤清の一族に移ることから、この時点で西総であった可能性は低いと存ずる。この年高基が真里谷氏の椎津城を攻撃しているので、
ここでは下総相馬氏と原胤清朝胤が攻めてきたのに対して救援にでたとする。では義明と氏綱と扇谷関係はどうするか、すでに争いの
火種がありなぜこのような関係が成り立つか。すでに記したように跡継ぎに関して扇谷真里谷里見氏共々に北条氏からの介入がされ
はじめてると推測でき、朝興は代替わりとしての距離感、義明関しては真里谷氏、里見氏の親北条派によって成立してるのではないかと考える。
そしてこれから一定の期間北条氏は軍事行動に落ち着きを見せる。山内上杉氏にはいつの時期かは不明だが(1525年以前)に高基の子の憲寛が
養子に入る、それから岩槻城で過ごしていた政氏が再び公方方の久喜に戻る。このことから次に氏綱が動くまで関東は一時休戦だったと思われる。
さて義明と高基との争いの中で高基から下総千葉氏千葉介当てに書状がある。(いくたの争いの中で古河公方も敗戦を経験している。
省11
636: 2021/10/27(水)21:02 ID:V5BO+mN3(11/12) AAS
少しの間、関東の地は安息だったか少しの時間が空き1523年に氏綱は伊勢氏から北条氏に姓を変えた、後に幕府から左京大夫を授かる、
名実ともに後北条氏を確立させた。幕府とのつながりがあった氏族もたちも大いに驚愕したのではないだろうか。
1521年にまた幕府において将軍(義稙)が出奔しまた大きな争いを繰り広げているので、そこにもまたたくさんの思惑があったのかもしれない。
1524年早々1月に江戸太田氏の資高が氏綱に呼応してしまう。領土的な話で武蔵吉良氏まではこの仮定論では北条氏に属しているのは
既に記しているが、江戸から世田谷までの間はどうであっただろうか。品川は吉良氏に属していたのでないか、またこの時扇谷勢力が
すぐさまの飛び出て高輪原(港区)の戦いが起こる。この港区が吉良氏と太田氏の境だったのであったのであろうと思う。その高輪原の戦いで
扇谷を破るとそのまま江戸城を攻め落とした。またこの時板橋にて板橋氏が討ち取られたことから武蔵千葉氏の奮戦が窺える。
蕨城とその城主の渋川氏は氏綱に落ちてしまう、そこから近隣である赤塚城には言及はない、赤塚城はここでは落ちなかったとしたい。
朝興は川越城まで逃げ延びることになった。そして2月に今度は資家系太田氏の資頼が氏綱に通じてしまう。そして岩槻城を
攻め落とし城主の渋江右衛門大夫を討ち取る。ここで通説では解決できていない矛盾をこの仮定論では筋を通せる。
省20
637(1): 2021/10/27(水)21:12 ID:V5BO+mN3(12/12) AAS
先の戦いから山内扇谷連合は1526年の間でいくつかの武蔵国の城を取り戻す。この時先にも書いたが真里谷氏里見氏には
反北条派もおり、この時は連合に味方し蕨城や関戸城などを落とし、その勢いで鎌倉まで攻めて鶴岡八幡宮などを焼き討ちにするが、
北条の反撃の勝利で終わる。1527年には義明と親北条派が命を下したか真里谷氏里見氏と氏綱は停戦に入る。つまり義明の元、
武蔵千葉氏、真里谷氏、里見氏は情勢と政治によって北条との距離感を決定していることだと存ずる。
また原胤清に義明は忠誠を誓うように書状をだしていて胤清は従うと返事をしているが、高基とのつながりもあるため寝返りの動きも見せ、
それを密告され、対処しろという書状も残っている。これがこの時代の公方と武家たちの関係を如実に表しており、
1に公方は氏族たちに主家を挟まずやりとりをし全員が家臣という態度で接する、2に高基と義明の間で表向きは両人にいい顔するが
利と捉える方に時代時代で傾いていることが分かる。それが武蔵千葉氏が義明に下ったという根拠でもある。
1528年の上杉文書では高基と義明の対立の話がなされる、これもこの時代北条の躍進と公方の争いが主軸なのが表されている。
その中で1520年後半や30年代は高基の対立の義明派の真里谷氏里見氏の中で北条氏をどのように扱うかが主軸の年になっていて
省21
上下前次1-新書関写板覧索設栞歴
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル
ぬこの手 ぬこTOP 2.005s*