[過去ログ] 配当金・株主優待スレッド 525 [無断転載禁止]©2ch.net (231レス)
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1(1): 2016/02/19(金)06:50 ID:PIrRvXBA(1/2) AAS
AA省
212: 2016/05/18(水)17:02 ID:4uTcWgUe(123/142) AAS
を見た。鬢びんが乱れて、襟の後うしろの辺あたりが垢あかで少し汚よごれていた。御米はただ、
「寒いせいなんでしょう」と答えて、すぐ西側に付いている。一間いっけんの戸棚とだなを明けた。下に
は古い創きずだらけの箪笥たんすがあって、上には支那鞄しなかばんと柳行李やなぎごりが二つ三つ載の
っていた。
「こんなもの、どうしたって片づけようがないわね」
「だからそのままにしておくさ」
小六のここへ引移って来るのは、こう云う点から見て、夫婦のいずれにも、多少迷惑であった。だから
来ると云って約束しておきながら、今だに来ない小六に対しては、別段の催促もしなかった。一日延びれ
ば延びただけ窮屈が逃げたような気がどこかでした。小六にもちょうどそれと同じ憚はばかりがあったの
で、いられる限かぎりは下宿にいる方が便利だと胸をきめたものか、つい一日一日と引越を前さきへ送っ
省37
213: 2016/05/18(水)17:02 ID:4uTcWgUe(124/142) AAS
ゅうとぐらいの親しみはあると信じているようなものの、こんな場合になると、つい実際以上にも気を回
して、自分だけが小六の来ない唯一ゆいいつの原因のように考えられるのであった。
「そりゃ下宿からこんな所へ移るのは好かあないだろうよ。ちょうどこっちが迷惑を感ずる通り、向うで
も窮屈を感ずる訳だから。おれだって、小六が来ないとすれば、今のうち思い切って外套マントを作るだ
けの勇気があるんだけれども」
宗助は男だけに思い切ってこう云ってしまった。けれどもこれだけでは御米の心を尽していなかった。
御米は返事もせずに、しばらく黙っていたが、細い腮あごを襟えりの中へ埋うめたまま、上眼うわめを使
って、
「小六さんは、まだ私の事を悪にくんでいらっしゃるでしょうか」と聞き出した。宗助が東京へ来た当座
は、時々これに類似の質問を御米から受けて、その都度つど慰めるのにだいぶ骨の折れた事もあったが、
省37
214: 2016/05/18(水)17:03 ID:4uTcWgUe(125/142) AAS
た。ただ一返いっぺん
「これでもいい絵なんでしょうかね」と聞いた事があった。その時宗助は始めて抱一の名を御米に説明し
て聞かした。しかしそれは自分が昔むかし父から聞いた覚おぼえのある、朧気おぼろげな記憶を好加減い
いかげんに繰り返すに過ぎなかった。実際の画えの価値や、また抱一についての詳しい歴史などに至ると
宗助にもその実じつはなはだ覚束おぼつかなかったのである。
ところがそれが偶然御米のために妙な行為の動機を構成かたちづくる原因となった。過去一週間夫と自
分の間に起った会話に、ふとこの知識を結びつけて考え得た彼女はちょっと微笑ほほえんだ。この日雨が
上って、日脚ひあしがさっと茶の間の障子しょうじに射した時、御米は不断着の上へ、妙な色の肩掛とも
、襟巻えりまきともつかない織物を纏まとって外へ出た。通りを二丁目ほど来て、それを電車の方角へ曲
って真直まっすぐに来ると、乾物かんぶつ屋と麺麭パン屋の間に、古道具を売っているかなり大きな店が
省37
215: 2016/05/18(水)17:03 ID:4uTcWgUe(126/142) AAS
。話を聞いたとき彼はむしろ御米の機敏な才覚に驚ろかされた。同時にはたしてそれだけの必要があるか
を疑った。御米の思おもわくを聞いて見ると、ここで十円足らずの金が入はいれば、宗助の穿はく新らし
い靴を誂あつらえた上、銘仙めいせんの一反ぐらいは買えると云うのである。宗助はそれもそうだと思っ
た。けれども親から伝わった抱一の屏風びょうぶを一方に置いて、片方に新らしい靴及び新らしい銘仙め
いせんを並べて考えて見ると、この二つを交換する事がいかにも突飛とっぴでかつ滑稽こっけいであった
。
「売るなら売っていいがね。どうせ家うちに在あったって邪魔になるばかりだから。けれどもおれはまだ
靴は買わないでも済むよ。この間中みたように、降り続けに降られると困るが、もう天気も好くなったか
ら」
「だってまた降ると困るわ」
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216: 2016/05/18(水)17:03 ID:4uTcWgUe(127/142) AAS
が、ついぞ行った事もなければ、向うからも来た試ためしがない。したがって夫婦の本多さんに関する知
識は極きわめて乏しかった。ただ息子が一人あって、それが朝鮮の統監府とうかんふとかで、立派な役人
になっているから、月々その方の仕送しおくりで、気楽に暮らして行かれるのだと云う事だけを、出入で
いりの商人のあるものから耳にした。
「御爺さんはやっぱり植木を弄いじっているかい」
「だんだん寒くなったから、もうやめたんでしょう。縁の下に植木鉢がたくさん並んでるわ」
話はそれから前の家うちを離れて、家主やぬしの方へ移った。これは、本多とはまるで反対で、夫婦か
ら見ると、この上もない賑にぎやかそうな家庭に思われた。この頃は庭が荒れているので、大勢の小供が
崖がけの上へ出て騒ぐ事はなくなったが、ピヤノの音は毎晩のようにする。折々は下女か何ぞの、台所の
方で高笑をする声さえ、宗助の茶の間まで響いて来た。
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217: 2016/05/18(水)17:03 ID:4uTcWgUe(128/142) AAS
。そうしてようやく眼を眠った。今度は好い具合に、眼蓋まぶたのあたりに気を遣つかわないで済むよう
に覚えて、しばらくするうちに、うとうととした。
するとまたふと眼が開あいた。何だかずしんと枕元で響いたような心持がする。耳を枕から離して考え
ると、それはある大きな重いものが、裏の崖から自分達の寝ている座敷の縁の外へ転がり落ちたとしか思
われなかった。しかし今眼が覚さめるすぐ前に起った出来事で、けっして夢の続じゃないと考えた時、御
米は急に気味を悪くした。そうして傍に寝ている夫の夜具の袖そでを引いて、今度は真面目まじめに宗助
を起し始めた。
宗助はそれまで全くよく寝ていたが、急に眼が覚さめると、御米が、
「あなたちょっと起きて下さい」と揺ゆすっていたので、半分は夢中に、
「おい、好し」とすぐ蒲団ふとんの上へ起き直った。御米は小声で先刻さっきからの様子を話した。
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218: 2016/05/18(水)17:03 ID:4uTcWgUe(129/142) AAS
枯草が、妙に摺すり剥むけて、赤土の肌を生々なまなましく露出した様子に、宗助はちょっと驚ろかされ
た。それから一直線に降おりて、ちょうど自分の立っている縁鼻えんばなの土が、霜柱を摧くだいたよう
に荒れていた。宗助は大きな犬でも上から転がり落ちたのじゃなかろうかと思った。しかし犬にしてはい
くら大きいにしても、余り勢が烈し過ぎると思った。
宗助は玄関から下駄を提さげて来て、すぐ庭へ下りた。縁の先へ便所が折れ曲って突き出しているので
、いとど狭い崖下が、裏へ抜ける半間ほどの所はなおさら狭苦しくなっていた。御米は掃除屋そうじやが
来るたびに、この曲り角を気にしては、
「あすこがもう少し広いといいけれども」と危険あぶながるので、よく宗助から笑われた事があった。
そこを通り抜けると、真直まっすぐに台所まで細い路が付いている。元は枯枝の交った杉垣があって、
隣の庭の仕切りになっていたが、この間家主が手を入れた時、穴だらけの杉葉を奇麗きれいに取り払って
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219: 2016/05/18(水)17:04 ID:4uTcWgUe(130/142) AAS
「この間拵こしらえた旦那様の外套マントでも取られようものなら、それこそ騒ぎでございましたね。御
宅おうちでなくって坂井さんだったから、本当に結構でございます」と真面目まじめに悦よろこびの言葉
を述べたので、宗助も御米も少し挨拶あいさつに窮きゅうした。
食事を済ましても、出勤の時刻にはまだだいぶ間があった。坂井では定めて騒いでるだろうと云うので
、文庫は宗助が自分で持って行ってやる事にした。蒔絵まきえではあるが、ただ黒地に亀甲形きっこうが
たを金きんで置いただけの事で、別に大して金目の物とも思えなかった。御米は唐桟とうざんの風呂敷ふ
ろしきを出してそれを包くるんだ。風呂敷が少し小さいので、四隅よすみを対むこう同志繋つないで、真
中にこま結びを二つ拵こしらえた。宗助がそれを提さげたところは、まるで進物の菓子折のようであった
。
座敷で見ればすぐ崖の上だが、表から廻ると、通りを半町ばかり来て、坂を上のぼって、また半町ほど
省37
220: 2016/05/18(水)17:04 ID:4uTcWgUe(131/142) AAS
るので、廊下伝いに主人の書斎へ来て、そこで仕事をしていると、この間生れた末の男の子が、乳を呑の
む時刻が来たものか、眼を覚さまして泣き出したため、賊は書斎の戸を開けて庭へ逃げたらしい。
「平常いつものように犬がいると好かったんですがね。あいにく病気なので、四五日前病院へ入れてしま
ったもんですから」と主人は残念がった。宗助も、
「それは惜しい事でした」と答えた。すると主人はその犬の種ブリードやら血統やら、時々猟かりに連れ
て行く事や、いろいろな事を話し始めた。
「猟りょうは好ですから。もっとも近来は神経痛で少し休んでいますが。何しろ秋口から冬へ掛けて鴫し
ぎなぞを打ちに行くと、どうしても腰から下は田の中へ浸つかって、二時間も三時間も暮らさなければな
らないんですから、全く身体からだには好くないようです」
主人は時間に制限のない人と見えて、宗助が、なるほどとか、そうですか、とか云っていると、いつま
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221: 2016/05/18(水)17:04 ID:4uTcWgUe(132/142) AAS
かった記憶さえあるのに、今じゃこのくらいな仕事よりほかにする能力のないものと、強いて周囲から諦
あきらめさせられたような気がして、縁側の寒いのがなおのこと癪しゃくに触った。
それで嫂あによめには快よい返事さえ碌ろくにしなかった。そうして頭の中で、自分の下宿にいた法科
大学生が、ちょっと散歩に出るついでに、資生堂へ寄って、三つ入りの石鹸シャボンと歯磨を買うのにさ
え、五円近くの金を払う華奢かしゃを思い浮べた。するとどうしても自分一人が、こんな窮境に陥おちい
るべき理由がないように感ぜられた。それから、こんな生活状態に甘んじて一生を送る兄夫婦がいかにも
憫然ふびんに見えた。彼らは障子を張る美濃紙みのがみを買うのにさえ気兼きがねをしやしまいかと思わ
れるほど、小六から見ると、消極的な暮し方をしていた。
「こんな紙じゃ、またすぐ破けますね」と云いながら、小六は巻いた小口を一尺ほど日に透すかして、二
三度力任せに鳴らした。
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222: 2016/05/18(水)17:04 ID:4uTcWgUe(133/142) AAS
も言葉少なに食事を済ました。
午後は手が慣なれたせいか、朝に比べると仕事が少し果取はかどった。しかし二人の気分は飯前よりも
かえって縁遠くなった。ことに寒い天気が二人の頭に応こたえた。起きた時は、日を載のせた空がしだい
に遠退とおのいて行くかと思われるほどに、好く晴れていたが、それが真蒼まっさおに色づく頃から急に
雲が出て、暗い中で粉雪こゆきでも醸かもしているように、日の目を密封した。二人は交かわる交がわる
火鉢に手を翳かざした。
「兄さんは来年になると月給が上がるんでしょう」
ふと小六がこんな問を御米にかけた。御米はその時畳の上の紙片かみぎれを取って、糊に汚よごれた手
を拭いていたが、全く思も寄らないという顔をした。
「どうして」
省35
223: 2016/05/18(水)17:04 ID:4uTcWgUe(134/142) AAS
ないと思ったのに、髭を生やしているのと、自分なぞに対しても、存外丁寧ていねいな言葉を使うのが、
御米には少し案外であった。
「あなた、坂井さんはやっぱり髭を生やしていてよ」と宗助が帰ったとき、御米はわざわざ注意した。
それから二日ばかりして、坂井の名刺を添えた立派な菓子折を持って、下女が礼に来たが、せんだって
はいろいろ御世話になりまして、ありがとう存じます、いずれ主人が自身に伺うはずでございますがと云
いおいて、帰って行った。
その晩宗助は到来の菓子折の葢ふたを開けて、唐饅頭とうまんじゅうを頬張ほおばりながら、
「こんなものをくれるところをもって見ると、それほど吝けちでもないようだね。他ひとの家うちの子を
ブランコへ乗せてやらないって云うのは嘘だろう」と云った。御米も、
「きっと嘘よ」と坂井を弁護した。
省37
224: 2016/05/18(水)17:05 ID:4uTcWgUe(135/142) AAS
「なに書画どころか、まるで何も分らない奴です。あの店の様子を見ても分るじゃありませんか。骨董こ
っとうらしいものは一つも並んでいやしない。もとが紙屑屋かみくずやから出世してあれだけになったん
ですからね」
坂井は道具屋の素性すじょうをよく知っていた。出入でいりの八百屋の阿爺おやじの話によると、坂井
の家は旧幕の頃何とかの守かみと名乗ったもので、この界隈かいわいでは一番古い門閥家もんばつかなの
だそうである。瓦解がかいの際、駿府すんぷへ引き上げなかったんだとか、あるいは引き上げてまた出て
来たんだとか云う事も耳にしたようであるが、それは判然はっきり宗助の頭に残っていなかった。
「小さい内から悪戯いたずらものでね。あいつが餓鬼大将がきだいしょうになってよく喧嘩けんかをしに
行った事がありますよ」と坂井は御互の子供の時の事まで一口洩もらした。それがまたどうして崋山の贋
物にせものを売り込もうと巧たくんだのかと聞くと、坂井は笑って、こう説明した。――
省37
225: 2016/05/18(水)17:05 ID:4uTcWgUe(136/142) AAS
御米が座敷から帰って来るのを待って、兄弟は始めて茶碗に手を着けた。その時宗助はようやく今日役
所の帰りがけに、道具屋の前で坂井に逢った事と、坂井があの大きな眼鏡めがねを掛けている道具屋から
、抱一ほういつの屏風びょうぶを買ったと云う話をした。御米は、
「まあ」と云ったなり、しばらく宗助の顔を見ていた。
「じゃきっとあれよ。きっとあれに違ないわね」
小六は始めのうち何にも口を出さなかったが、だんだん兄夫婦の話を聞いているうちに、ほぼ関係が明
暸めいりょうになったので、
「全体いくらで売ったのです」と聞いた。御米は返事をする前にちょっと夫の顔を見た。
食事が終ると、小六はじきに六畳へ這入はいった。宗助はまた炬燵こたつへ帰った。しばらくして御米
も足を温ぬくめに来た。そうして次の土曜か日曜には坂井へ行って、一つ屏風を見て来たらいいだろうと
省37
226: 2016/05/18(水)17:05 ID:4uTcWgUe(137/142) AAS
「なるほど」と云った。
主人はやがて宗助の後へ回って来て、指でそこここを指さしながら、品評やら説明やらした。その中う
ちには、さすが御大名だけあって、好い絵の具を惜気おしげもなく使うのがこの画家の特色だから、色が
いかにもみごとであると云うような、宗助には耳新らしいけれども、普通一般に知れ渡った事もだいぶ交
っていた。
宗助は好い加減な頃を見計らって、丁寧ていねいに礼を述べて元の席に復した。主人も蒲団ふとんの上
に直った。そうして、今度は野路のじや空云々という題句やら書体やらについて語り出した。宗助から見
ると、主人は書にも俳句にも多くの興味を有もっていた。いつの間にこれほどの知識を頭の中へ貯たくわ
え得らるるかと思うくらい、すべてに心得のある男らしく思われた。宗助は己おのれを恥じて、なるべく
物数ものかずを云わないようにして、ただ向うの話だけに耳を借す事を力つとめた。
省35
227: 2016/05/18(水)17:05 ID:4uTcWgUe(138/142) AAS
き口気こうきであった。かつその多望な安之助の未来のなかには、同じく多望な自分の影が、含まれてい
るように、眼を輝やかした。その時宗助はいつもの調子で、むしろ穏やかに、弟の云う事を聞いていたが
、聞いてしまった後あとでも、別にこれという眼立った批評は加えなかった。実際こんな発明は、宗助か
ら見ると、本当のようでもあり、また嘘のようでもあり、いよいよそれが世間に行われるまでは、賛成も
反対もできかねたのである。
「じゃ鰹船かつおぶねの方はもう止したの」と、今まで黙っていた御米が、この時始めて口を出した。
「止したんじゃないんですが、あの方は費用が随分かかるので、いくら便利でも、そう誰も彼も拵こしら
える訳に行かないんだそうです」と小六が答えた。小六は幾分か安之助の利害を代表しているような口振
であった。それから三人の間に、しばらく談話が交換されたが、しまいに、
「やっぱり何をしたって、そう旨うまく行くもんじゃあるまいよ」と云った宗助の言葉と、
省36
228: 2016/05/18(水)17:06 ID:4uTcWgUe(139/142) AAS
はしないとも限らなかった。
「小六さん御酒好き」と御米が聞いた事があった。
「もう直じき御正月ね。あなた御雑煮おぞうにいくつ上がって」と聞いた事もあった。
そう云う場合が度重たびかさなるに連つれて、二人の間は少しずつ近寄る事ができた。しまいには、姉
さんちょっとここを縫って下さいと、小六の方から進んで、御米に物を頼むようになった。そうして御米
が絣かすりの羽織を受取って、袖口そでくちの綻ほころびを繕つくろっている間、小六は何にもせずにそ
こへ坐すわって、御米の手先を見つめていた。これが夫だと、いつまでも黙って針を動かすのが、御米の
例であったが、相手が小六の時には、そう投遣なげやりにできないのが、また御米の性質であった。だか
らそんな時には力めても話をした。話の題目で、ややともすると小六の口に宿りたがるものは、彼の未来
をどうしたら好かろうと云う心配であった。
省35
229: 2016/05/18(水)17:06 ID:4uTcWgUe(140/142) AAS
近頃はそれがだんだん落ちついて来て、宗助そうすけの気を揉もむ機会ばあいも、年に幾度と勘定かん
じょうができるくらい少なくなったから、宗助は役所の出入でいりに、御米はまた夫の留守の立居たちい
に、等しく安心して時間を過す事ができたのである。だからことしの秋が暮れて、薄い霜しもを渡る風が
、つらく肌を吹く時分になって、また少し心持が悪くなり出しても、御米はそれほど苦にもならなかった
。始のうちは宗助にさえ知らせなかった。宗助が見つけて、医者に掛かれと勧めても、容易に掛からなか
った。
そこへ小六ころくが引越して来た。宗助はその頃の御米を観察して、体質の状態やら、精神の模様やら
、夫おっとだけによく知っていたから、なるべくは、人数ひとかずを殖ふやして宅うちの中を混雑ごたつ
かせたくないとは思ったが、事情やむを得ないので、成るがままにしておくよりほかに、手段の講じよう
もなかった。ただ口の先で、なるべく安静にしていなくてはいけないと云う矛盾した助言は与えた。御米
省35
230: 2016/05/18(水)17:06 ID:4uTcWgUe(141/142) AAS
宗助は例刻に帰って来た。神田の通りで、門並かどなみ旗を立てて、もう暮の売出しを始めた事だの、
勧工場かんこうばで紅白の幕を張って楽隊に景気をつけさしている事だのを話した末、
「賑にぎやかだよ。ちょっと行って御覧。なに電車に乗って行けば訳はない」と勧めた。そうして自分は
寒さに腐蝕ふしょくされたように赤い顔をしていた。
御米はこう宗助から労いたわられた時、何だか自分の身体の悪い事を訴たえるに忍びない心持がした。
実際またそれほど苦しくもなかった。それでいつもの通り何気なにげない顔をして、夫に着物を着換えさ
したり、洋服を畳んだりして夜よに入いった。
ところが九時近くになって、突然宗助に向って、少し加減が悪いから先へ寝たいと云い出した。今まで
平生の通り機嫌よく話していただけに、宗助はこの言葉を聞いてちょっと驚ろいたが、大した事でもない
と云う御米の保証に、ようやく安心してすぐ休む支度をさせた。
省35
231: 2016/05/18(水)17:06 ID:4uTcWgUe(142/142) AAS
襖ふすまから顔を出した。その顔は酒気しゅきのまだ醒さめない赤い色を眼の縁ふちに帯びていた。部屋
の中を覗のぞき込んで、始めて吃驚びっくりした様子で、
「どうかなすったんですか」と酔よいが一時に去ったような表情をした。
宗助は清に命じた通りを、小六に繰り返して、早くしてくれと急せき立てた。小六は外套マントも脱ぬ
がずに、すぐ玄関へ取って返した。
「兄さん、医者まで行くのは急いでも時間が掛かりますから、坂井さんの電話を借りて、すぐ来るように
頼みましょう」
「ああ。そうしてくれ」と宗助は答えた。そうして小六の帰る間、清に何返なんべんとなく金盥の水を易
かえさしては、一生懸命に御米の肩を圧おしつけたり、揉もんだりしてみた。御米の苦しむのを、何もせ
ずにただ見ているに堪たえなかったから、こうして自分の気を紛まぎらしていたのである。
省37
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