[過去ログ] 文学部 邪馬台国畿内説 (742レス)
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99
(1): 2021/04/04(日)13:48 ID:GfZRJjlt(1/2) AAS
ID:/eV8B+Vcは、
「だが、マツラは壱岐の南端から1000里で、近すぎる呼子や、八方位で東南になってしまう唐津も当てはまらず、
本当は、マツラの渡海地点は、長崎県松浦市西部の御厨港付近なのだから、
そこから、500里東南陸行の伊都國は、伊万里市になるよ。」
を慌てずに、よく読めば良いよ。
マツラの港=長崎県松浦市西部の御厨港付近
伊都國(イツ)=伊万里の津
500里東南陸行=御厨港付近から伊万里までの東南方向への行程。
100
(1): 2021/04/04(日)13:57 ID:GfZRJjlt(2/2) AAS
厳密には、魏志倭人伝には、壱岐からマツラへの方向は示されてはいないが、
南北市糴なので、壱岐は、南方向にも市糴相手があるな。
101: 2021/04/04(日)14:01 ID:/eV8B+Vc(4/5) AAS
>>99
ま、伊都国を伊万里とするのは良いとして、
その後の東南100里奴国と、東行100里不彌国はどうなるのかな?  それを心配してやってるんだが・・・、
102: 2021/04/04(日)15:08 ID:MMPlVI5b(1/5) AAS
日本史板に書き込むための、無駄になってしまった努力のために、IDが、変わった可能性があるが、
僕達の元のIDは、GfZRJjltです。
ID:/eV8B+Vcに対して、意見を発表します。
「到は、中心に到る。
至は、境界に至る。
故に、伊都の中心から100里で、南東に至ったのは、あくまで、伊都と奴国の境界の関所です。
その関所または伊都の中心から、東100里には、伊都とフヤの境界の関所があった。」
という可能性があるな。
そして、伊都と奴国の境界の関所は、有明海と伊万里湾の分水嶺の何処かの峠にあった可能性があるな。
103: 2021/04/04(日)15:18 ID:MMPlVI5b(2/5) AAS
補足します。。
狗邪への行程は、中心地へ。。。到。
狗奴からの行程も、中心地から。
対馬、壱岐、への行程は、島北部の上陸地点。
対馬、壱岐からの行程は、上陸地点とは逆の島南側の出発地点から。
マツラ國への行程は、上陸地点。
マツラ國からの行程は、上陸地点から。
伊都國へは、中心地へ。。。到。
104
(2): 2021/04/04(日)15:21 ID:MMPlVI5b(3/5) AAS
ただし、魏志倭人伝の作者が、他の文章で「到」と「至」を使い分けていたかは、まだ、研究していないよ。
105: 2021/04/04(日)15:27 ID:MMPlVI5b(4/5) AAS
至=範囲。
106
(4): 2021/04/04(日)18:00 ID:MMPlVI5b(5/5) AAS
中心地とは、官がいた、政治の中心地点。
107: 2021/04/04(日)18:26 ID:/eV8B+Vc(5/5) AAS
>>104
その通りだ。
考古の前に、まず文学部的な研究によって、三国志の「至」と「到」にどのような使い分けがあるか、深く研究すべきなのではないだろうか。
そしてその研究成果に基づいて、系統的な考古学的な発掘研究が行われるべきだと考える。
108
(1): 2021/04/05(月)07:53 ID:1qiqCufA(1/6) AAS
古代はいざ知らず、近〜現代においては、三国志・東夷倭人伝という文学的作品あっての倭国・邪馬台国・女王国・卑弥呼である。
則ち現状は、文学部的根拠(証拠)100%の状態にあり、他方の考古学的根拠(証拠)は、いまだ0%である。
(どこかに3世紀の墓と小枝と桃核が発掘されたから、これは卑弥呼所縁のブツだと言ってみても、それは発掘者の「個人的な感想」に過ぎない)
つまり今は、伝えられる文学部的根拠史料(東夷倭人伝、魏略、廣志等)を、文学部的に一層深く研究することが先決なのではないであろうか・・・。
109: 2021/04/05(月)08:08 ID:MEYICA9c(1/5) AAS
>>108
>三国志・東夷倭人伝という文学的作品あっての倭国・邪馬台国・女王国・卑弥呼である。
>他方の考古学的根拠(証拠)は、いまだ0%である。

阿波「邪馬臺国」の決定的考古学的根拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」    @阿波  
110
(1): 2021/04/05(月)09:36 ID:1qiqCufA(2/6) AAS
阿波は、ちょっかいを出すタイミングが素晴らしいな!? 
ここぞという時に出てくる。
古代史・文芸文学界もだが、吉本でも十分通用する。おそらく其山其道を進んでも、一流を極めたであろうな・・、
(なお東夷倭人伝で「其」と言えは、倭・倭地の意味であり、邪馬台国に限定されることではない)
111: 2021/04/05(月)10:06 ID:MEYICA9c(2/5) AAS
>>110
>(なお東夷倭人伝で「其」と言えは、倭・倭地の意味であり、邪馬台国に限定されることではない)

なお、九州は倭・倭地に含まれないので、悪しからず。  北部九州は倭国(阿波)への通り道に過ぎないから。   @阿波
112
(1): 2021/04/05(月)12:37 ID:1qiqCufA(3/6) AAS
対馬から、沖ノ島を経て福津/神湊に上陸し、
直方/田川を通って、豊前の中津・宇佐の海岸に達し、
そこから瀬戸内航路で淡路島やアワに至る道の大繁栄、つまり北部九州が、ただの通り道になった歴史は確かにあった。

但しそれは、4世紀に銅で財を成した秦氏(応神天皇)の時代から始まった「北部九州ただの通り道化時代」のことである。
つまり上の@数レスは、阿波が、4世紀の出来事を三世紀だったと誤って認知していることを、明瞭端的に物語るものであろう・・。
113: 2021/04/05(月)12:38 ID:fujezMSF(1) AAS
畿内説はオカルトです

画像リンク[png]:i.imgur.com
114
(1): 2021/04/05(月)12:50 ID:MEYICA9c(3/5) AAS
>>112
>但しそれは、4世紀に銅で財を成した秦氏(応神天皇)の時代から始まった「北部九州ただの通り道化時代」のことである。

そんなアホな。
倭国(阿波)は、弥生時代中期末から鉄器を作っていて、朝鮮半島→北部九州→倭国(阿波)の交易ルートが確立されているよ。   @阿波
115
(2): 2021/04/05(月)13:18 ID:1qiqCufA(4/6) AAS
>>114
細々と軟弱な弥生鉄をな・・、
九州には、三世紀に強力ハガネ鉄(鋼鉄)技術が入ってきた、それを独占していたのが邪馬台国勢力(肥前/肥後)
そして四世紀になると、こんどは秦氏の銅技術が栄え、そのせいで北部九州がただの通り道になり、淡路や阿波や大和がノシてきたというわけだ。
116: 2021/04/05(月)13:40 ID:MEYICA9c(4/5) AAS
>>115
>細々と軟弱な弥生鉄をな・・、

そんなアホな。
「阿波」では、鍛冶工房 SB 2037  弥生中期末   矢野遺跡 ?群
砂鉄が出土した鍛冶工房の直ぐ横から出土 ?aタイプの鍛冶炉が出土している

>九州には、三世紀に強力ハガネ鉄(鋼鉄)技術が入ってきた、それを独占していたのが邪馬台国勢力(肥前/肥後)

碌な鍛冶炉遺構や弥生集落遺跡、そして資源の無い、くそ田舎の九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。   @阿波  
117
(1): 2021/04/05(月)15:17 ID:1qiqCufA(5/6) AAS
四世紀のことを、三世紀だったー、と言い張るのは畿内説の伝統的な手口、
どうやらそれが、阿波にも蔓延してるようだな・・、
118: 2021/04/05(月)15:20 ID:MEYICA9c(5/5) AAS
>>117
>どうやらそれが、阿波にも蔓延してるようだな・・、

畿内説といっしょにすんな!  汚らわしい!   @阿波
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