[過去ログ] アイヌの歴史 Part8 (1002レス)
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50(2): 2021/05/21(金)19:31 ID:0(50/1000) AAS
>>48-49
動画リンク[YouTube]
現在、国内ではアイヌの民族問題を生み出して、日本を分断しようという動きがあります。
既に、北海道を先住民族であるアイヌによる独立国家にしようという主張さえ存在しているのです。
この工作活動は、日本人に広く定着している、次のような漠然とした先入観、贖罪意識に付け込んだものなのでしょう。
1 アイヌは北海道にもっとも復くから住んでいた民族である。
2 そして、北海道はアイヌのみが住んでいた土地である。
3 その土地に、和人たちは後から足を踏み入れた。
省6
51(3): 2021/05/21(金)19:41 ID:0(51/1000) AAS
>>49
北海道のアイヌ語地名は、元のアイヌ語の発音を、あくまでも「似た発音の平仮名」へと変換したうえで、その平仮名にさらに漢字を当てたものに過ぎません。例えば、
ルシュプキ→るすつ→留寿都…というように。
これでは、仮に本州の地名がアイヌ語由来だとしても、現在の漢字の読みから「元になったアイヌ語の発音」を推定することは不可能ではないでしょうか?
しかもその発音は、どういう物だったか全く不明の、存在していたかどうかも判らない、「古代アイヌ語」の発音なのです。
我々が知る、江戸時代以降の近世アイヌ語ではないのです。
別な例も挙げましょう。
北海道の「豊似川」は、「トヨイペツ」が起源です。
「豊似岳」は、「トエニヌプリ」。
「豊平」は「トイピラペット」。
省13
52(3): 2021/05/21(金)19:45 ID:0(52/1000) AAS
>>51
この件については、次に表示する地図によって、明確な結論を出せるような気がします。
明治時代に作られた地図です。
どうでしょうか。
北海道の大半の地名は漢字が割り当てられておらず、カタカナ表記なのです。
それに対して、東北は……
ご覧の通り、例外なく漢字表記です。
省4
53(2): 2021/05/21(金)20:40 ID:0(53/1000) AAS
>>52
東北のアイヌ語地名は漢字が割り当てられることが多いが、そりゃ長年歴史があって記述しにくいからそうなっているだけ。
例えば十和田湖の南に「来満峠」という地名があるが、これは北海道に「ライマン」という地名があって、「人が多く死んだ地」
や「踏破するのに難儀する地」という意味の土地だ。江戸時代からアイヌ語説が語られている。
「もやさん(茂谷山、靄山、母谷山)」という山が東北から北海道のあちこちにあり、これは平野に続く孤立峰を指す。
「たっこもり(達子森)」というのも孤立峰で、これはアイヌ語で「タプコプ」に相当する。
「さんない(山内、珊内)」は東北、北海道に共通してあり、これは洪水があると水があふれてくる地形を指す。
とりあえず「〜ない」とか、「〜べつ」の地名がものすごく東北地方に多いのが決定打になり、東北地方のアイヌ語地名があった
という説は認められている。山田秀三による東北地方の地名の調査、検証の働きが大きい。
54(2): 2021/05/21(金)23:34 ID:0(54/1000) AAS
24 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2021/05/21(金) 18:57:01.82 0
日本「オラァ!ここは俺の土地だ!土人は虐殺!」 蝦夷「やめて…助けて…助けて……」←東北ゲット
25 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2021/05/21(金) 22:47:18.43 0
蝦夷を土人とか行ってる人間はどういう人間か?
半島人じゃないのか?
55: 2021/05/22(土)03:34 ID:0(55/1000) AAS
>>50-54
津軽のイヨマンテ
>青森・秋田・岩手には、今日でも和井内(わいない)、生保内(おぼない)、今別(いまべつ)など、
>おびただしいアイヌ語地名がある。奥戸(オコッペ=興部)、シレトコ、シラヌカなどよく知られた北海道の地名と同じものもある。
>東北アイヌの境遇は、18世紀になると変化する。藩財政の窮乏化に伴って、アイヌの内地人化、
>農民化の施策がとられるようになった。東北アイヌは、急速に和人化し、民族的特徴を失っていった。
>三厩宇鉄村を旅した京都の医師、橘南谿は、当時の風俗を「東遊記」に遺している。
>「当地は6、70年前まではエゾ村であったが、今は風俗が変わって日本人の通りになっている。
>しかし近所の村とは縁組をせず、顔立ちも異なって眉が一文字につながっている女子などもいる。
>毎年 近くの今別村の寺に集まり『蝦夷踊り』を行っている」と述べており
省3
56(1): 2021/05/22(土)03:35 ID:0(56/1000) AAS
>>50-54
外ケ浜の?村――津軽の蝦夷部落
津軽海峡には、むかし点々と?村があった。?は「狄」のつくりを犬に替えて作字したものである。
名高いのは三厩村の宇鉄である。その東どなりの今別村、石崎村、宇田などにもアイヌ系の人々が住んでいた。
西どなりには竜飛村の兵路というアイヌの漁民の集落があった。
宝暦五年(1755)の「津軽外之浜後潟組伏御改覚」では?村八カ村で二百三十四人のアイヌがいたと記されている。
?村の人たちは外向きの和人名のほかにアイヌ本来の名前ももっていた。
万五郎犬とか万五郎逢犬とか、和人名の下に「犬」もしくは「逢犬」をつけているものはアイヌ系であるという印である。
宝暦年間(1751-1764)に津軽落の政策によって和人同様の扱いを受けるようになり、
その名の下に「犬」の文字をつけて差別していた取り扱いが撤廃された。
省9
57(1): 2021/05/22(土)03:36 ID:0(57/1000) AAS
>>48-49
アイヌ語地名は、ほとんどがその土地の地形にもとづいてつけられるので、遠く離れた土地でも、同じような特徴をもつ地形であれば同じ地名が付けられるのである。
たとえば、「涸れた・小さい・川」という意味のアイヌ語であるサッ・ピ・ナイにもとづく地名が北海道では浦臼町に札比内があるかと思えば、東北でも岩手県遠野市に佐比内がある、という具合である。
アイヌ語地名の研究家である山田秀三氏の調査によれば、アイヌ語地名では、−ナイがもっとも多く、ついで−ベツ(ペッ)、−ウシ、−オマ・オマイなどの語尾をもつ地名が多いという。
山田氏は、すでに1957年刊行の『東北と北海道のアイヌ語地名考』で、綿密な現地踏査をふまえた東北地方のアイヌ語地名の研究成果を刊行していたが、その後、1974年の「アイヌ語族の居住範囲」で、アイヌ語地名の南限を具体的に述べている。
それによれば、東北地方を「あるところまで南下すると、その線で突然がたんと段をつくっているようにアイヌ語系地名が急減している」とし、具体的には「奥羽山脈の東側では、仙台のすぐ北になる大崎平野...がアイヌ地名の濃い土地の南限になっている」。
省4
58: 2021/05/22(土)03:37 ID:0(58/1000) AAS
>>48-49
興味深いのは、この山田氏の見出したアイヌ語地名地帯の南限線に対して、間もなく考古学者からも、別の角度からその存在を裏づけるような意見が出されたことである。
それは伊東信雄氏である。氏は東北大学の最終講義で、岩手県の角塚古墳を除けば、中期古墳も後期古墳も「鳴瀬川、江合川の流域から最上川流域を結ぶ線以南」にしかなく、「ここに古墳時代から一本の線がひかれる」といい、しかも「この線が、奈良時代の牡鹿柵、新田、玉造、色麻などの諸柵と秋田移転以前の出羽柵を結ぶ線」に一致することを指摘している。
さらに伊東氏は、この線から北では後北C式や北大式などの北海道系の土器が出土することにも注意をうながし、「東北南部ではすでに大古墳の造営のはじまっていたこの時期に、東北北部では古墳の造営はなく、北海道的な文化が存在したのである」という、現在の研究につながる重要な発言をしている。
東北北部から北海道系の続縄文土器が出土することは、今日では常識になっているが、伊東氏が久原コレクションの注口土器に青森県三戸郡目時出土と書かれた札が付けられているのを見つけたときには、「北海道のものとそっくりなので、あるいは札のつけちがいかと半信半疑であった」と述懐している。
伊東氏は、「この北海道的な土器の出土する地域が、アイヌ語の地名ののこっている地方であることは注意せらるべきである」として、山田氏のアイヌ語地名の研究を引き合いに出し、「アイヌ語地名の濃厚に分布する範囲は宮城山形両県の北部から北で、前述の北海道的な土器の分布範囲とほぼ一致する」ことを指摘する。
省2
59: 2021/05/22(土)14:00 ID:0(59/1000) AAS
東北文化とアイヌは、離して考えられることが多いからな。
例えば、奥州藤原氏の藤原3代のミイラだけど、色々な人がこれは樺太アイヌの風習だと言っているのに、長谷部言人はネズミが食べてミイラは自然発生したとする意見をいったら、それが広がっているカンジ。長谷部ぐらいの有力者で彼がアイヌと関係が無いと言ったから、喜々としてそれを広げている。まあ、骨格やかみ合わせ、指紋は日本人的なんだけどね。
60(1): 2021/05/23(日)01:08 ID:0(60/1000) AAS
>>56
↑
こいつ日本語も読めないバカ
>ただし厳密にいえば、北海道に面した青森県北部にはアイヌ語由来と思われる地名がいくつか存在します。
>しかし、北海道のアイヌはこの地域までは活動範囲を広げていたので、これは決して不自然なことではありません。
61: 2021/05/23(日)01:17 ID:0(61/1000) AAS
蝦夷語だろう
62(2): 2021/05/23(日)08:04 ID:0(62/1000) AAS
>>57
コピペじゃなくて自分の言葉で語れよガ☆イ★ジ
「内」や「別」なら高句麗語(とされる日本語そっくりの地名)でも川に関連する地名として
それも朝鮮語に対応する語彙が存在しているぞ
内 naiはそのまま朝鮮固有語で川のことだ
別 pyelはpyerangという形で河岸の崖の事を指す
不思議だよな?
東北北海道と朝鮮に共通する地名語彙が存在してるなんて
63(1): 2021/05/23(日)08:33 ID:0(63/1000) AAS
>>60
>>62
喜田貞吉の結論ははっきりしている。 エミシは縄文時代からの列島の住人で、こんにちのアイヌと血脈を通じている。
DNAなど知らないまま、この結論をみちびきだした論理はつぎのようなものである。
>津軽の外が浜に近い頃まで残っていた蝦夷と、今の北海道のアイヌとが、
>同一系統の民族であったことには、いろいろの証拠があります。
>そしてこの外が浜の蝦夷と、歴史時代に奥羽地方に活躍していた蝦夷とが、
>また同一民族の引続きであったことも、十分これを連絡すべき事実があるのであります。
64(1): 2021/05/23(日)08:50 ID:0(64/1000) AAS
>>63
キミ他のスレも荒らしたでしょ?
だめなんだよ🥰
大体江戸時代の青森アイヌと奈良時代の蝦夷に連続性が確認されてないでしょ
平安・鎌倉・室町・安土桃山時代を通して徐々にアイヌ(笑)が消えて行ったなら記録されてないとおかしいのに
そういうのはない
だから江戸時代の青森県アイヌは北海道から南下してきたと考えた方が合理的だよね
だいたいアイヌ語って沙流を中心とした周圏論的な分布なんでしょ?
じゃあ南側へも追いやられたのが青森のアイヌだ
65(1): 2021/05/23(日)08:54 ID:0(65/1000) AAS
動画リンク[YouTube]
この動画シリーズで解説してきたアイヌに関する情報をまとめてみましょう。
・元史によれば、モンゴル軍は樺太に住むアイヌと推定される部族を1264年から二回にわたって攻撃している。
・文献資料において初めて北海道アイヌの存在が確認されるのは13世紀からである。
・アイヌ文化の考古遺跡もまた、13世紀以降の物しか確認されていない。
・それ以前の北海道は擦文文化の時代であり、その前は続縄文時代であり、そのまた前は縄文時代である。これらは土器の違いで分類されている。
いずれも竪穴式住居に住んでおり、漆の文化を持っていた。これらの文化は北海道から東北部までまたがって分布しており、人の移動、交流もあったと推測されている。
・アイヌ文化は北海道限定で生まれた。アイヌは掘立柱建物に住んでおり、漆の文化は持っていなかった。
・アイヌの風習である「熊送り」は樺太〜アムール川周辺の諸部族と共通するものである。
・アイヌ文様は樺太〜アムール川周辺の諸部族のものと類似している。
省11
66(2): 2021/05/23(日)08:55 ID:0(66/1000) AAS
>>64
ジャポニック(日流語族)は日本列島より朝鮮半島で活動してた期間のほうが長いよ
無文土器時代の開始(1500BC)から、百済の滅亡(AD700)までが、朝鮮半島におけるジャポニックの活動期間
桓武天皇の代までは、寧ろ日本の東北地方が未踏の魔境扱い、半島南部のほうがよほど身近な場所だった
白村江の戦いで大敗した倭&百済連合は、その負けた腹いせに東北アイヌの蝦夷地を侵攻
装備で劣る蝦夷を叩き潰し(※初戦では負けた)、「ウリたち強いニダ〜!」とイメージの回復作戦に出た
「日本」という虚構の国号を設け、ボクの考えた新設定で日本書紀を編纂し、今日までウソの歴史を積み上げてきた
百済人編纂のラノベ神話にネトウヨは簡単に騙されるのだから実にチョロい
67: 2021/05/23(日)08:57 ID:0(67/1000) AAS
>>66
阿倍比羅夫の蝦夷征討は白村江の戦いより前だよ?
恥ずかしい子だね😊
68: 2021/05/23(日)08:57 ID:0(68/1000) AAS
動画リンク[YouTube]
この動画シリーズで解説してきたアイヌに関する情報をまとめてみましょう。
・元史によれば、モンゴル軍は樺太に住むアイヌと推定される部族を1264年から二回にわたって攻撃している。
・文献資料において初めて北海道アイヌの存在が確認されるのは13世紀からである。
・アイヌ文化の考古遺跡もまた、13世紀以降の物しか確認されていない。
・それ以前の北海道は擦文文化の時代であり、その前は続縄文時代であり、そのまた前は縄文時代である。これらは土器の違いで分類されている。
いずれも竪穴式住居に住んでおり、漆の文化を持っていた。これらの文化は北海道から東北部までまたがって分布しており、人の移動、交流もあったと推測されている。
・アイヌ文化は北海道限定で生まれた。アイヌは掘立柱建物に住んでおり、漆の文化は持っていなかった。
・アイヌの風習である「熊送り」は樺太〜アムール川周辺の諸部族と共通するものである。
・アイヌ文様は樺太〜アムール川周辺の諸部族のものと類似している。
省11
69(1): 2021/05/23(日)08:58 ID:0(69/1000) AAS
>>65
新羅(プレ韓国人)と蝦夷(プレアイヌ)は、記紀編纂時、依然としてヤマトと敵対関係にあったため、徹底的に卑しめて描写された
記紀は百済人(漢氏)によって編纂されたため、新羅に関する記述はとくに憎しみが込められている
ネトウヨが韓国人を憎悪するのは、百済人の古の記憶(白村江の敗戦)がDNAに刻み込まれているためだろう
蝦夷征伐の初戦では、夷王アテルイがヤマト侵略軍(倭・百済)に一泡吹かせるが
このときの蝦夷は、もしかしたら新羅から間接的なサポート(武器の供給など)を受けていたのかもしれない
アイヌ協会と在日コリアン団体がいまでも親密にしているのは、この系譜上にくるものだろう
まあ、簡潔に述べると、天皇の正体は扶余系・百済人であり、倭人の正体はムムン・コリアン(無文土器人)である
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