[過去ログ] 六月の花嫁を語ろう  Part5 (770レス)
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395: 2014/08/21(木)05:28 ID:2r2rQsbs0(1/10) AAS
とは其の体何物ぞや、答う十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり、問う若爾れば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云わる可きか、答う勿論なり経に云く「所謂諸法・乃至・本末
究竟等」云云、妙楽大師釈して云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界・十界は必ず身土」と云云、天台云く「十如十界三千の諸法は今経の正体なるの
み」云云、南岳大師云く「云何なるを名けて妙法蓮華経と為すや答う妙とは衆生妙なるが故に法とは即ち是れ衆生法なるが故に」云云、又天台釈して云く「衆
生法妙」と云云。問う一切衆生の当体即妙法の全体ならば地獄乃至九界の業因業果も皆是れ妙法の体なるや、答う法性の妙理に染浄の二法有り染法は熏じて迷と成り浄法は
熏じて悟と成る悟は即ち仏界なり迷は即ち衆生なり、此の迷悟の二法二なりと雖も然も法性真如の一理なり、譬えば水精の玉の日輪に向えば火を取り月輪に向えば
水を取る玉の体一なれども縁に随て其の功同じからざるが如し、真如の妙理も亦復是くの如し一妙真如の理なりと雖も悪縁に遇えば迷と成り善縁に遇えば悟
と成る悟は即ち法性なり迷は即ち無明なり、譬えば人夢に種種の善悪の業を見・夢覚めて後に
396: 2014/08/21(木)05:29 ID:2r2rQsbs0(2/10) AAS
之を思えば我が一心に見る所の夢なるが如し、一心は法性真如
の一理なり夢の善悪は迷悟の無明法性なり、是くの如く意得れば悪迷の無明を捨て善悟の法性を本と為す可きなり、大円覚修多羅了義経に云く「一切諸の衆生の
無始の幻無明は皆諸の如来の円覚の心従り建立す」云云、天台大師の止観に云く「無明癡惑・本是れ法性なり癡迷を以ての故に法性変じて無明と作る」云云、妙楽
大師の釈に云く「理性体無し全く無明に依る無明体無し全く法性に依る」云云、無明は所断の迷・法性は所証の理なり何ぞ体一なりと云うやと云える不審をば此等の文義を以て意
得可きなり、大論九十五の夢の譬・天台一家の玉の譬誠に面白く思うなり、正く無明法性其の体一なりと云う証拠は法華経に云く「是の法は法位に住して世間の相常住なり」云云、大論に云く「
明と無明と異無く別無し是くの如く知るをば是を中道と名く」云云、但真如の妙理に染浄の二法有りと云う事・証文之れ多しと雖も華厳経に云く「心仏及衆生是三無差別」の文と法華経の諸法実相の文とには過ぐ
可からざるなり南岳大師の云く「心体に染浄の二法を具足して而も異相無く一味平等なり」云云、又明鏡の譬真実に一二なり委くは
397: 2014/08/21(木)18:25 ID:2r2rQsbs0(3/10) AAS
大乗止観の釈の如し又能き釈には籤の六に云く「三千理に在れば同じく無明と名け三千果成すれば咸く常楽と称す三千改むること無ければ無明即明・三千並に常なれば倶体倶用なり」文、此の釈分明なり。
問う一切衆生皆悉く妙法蓮華経の当体ならば我等が如き愚癡闇鈍の凡夫も即ち妙法の当体なりや、答う当世の諸人之れ多しと雖も二人を出でず謂ゆる権教の人・実教の人なり而も権教方便の念仏等を信ずる人は妙法蓮
華の当体と云わる可からず実教の法華経を信ずる人は即ち当体の蓮華・真如の妙体是なり涅槃経に云く「一切衆生大乗を信ずる故に大乗の衆生と名く」文、南岳大師の四安楽行に云く「大強精進経に云く衆生と如来と同共一
法身にして清浄妙無比なるを妙法華経と称す」文、又云く「法華経を修行するは此の一心一学に衆果普く備わる一時に具足して次第入に非ず亦蓮華の一華に衆果を一時に具足するが如し是を一乗の衆生の義と名く
」文、又云く「二乗声聞及び鈍根の菩薩は方便道の中の次第修学なり利根の菩薩は正直に方便を捨て次第行を修せず若し法華三昧を証すれば衆果悉く具足す是を一乗の衆生と名く」文、南岳の釈の意は次第行の三字を
ば当世の学者は別教なりと料簡す
398: 2014/08/21(木)18:26 ID:2r2rQsbs0(4/10) AAS
、然るに此の釈の意は法華の因果具足の道に対して方便道を次第行と云う故に爾前の円・爾前の諸大乗経並びに頓漸大小の諸経なり・証拠は無量義経に云く「次に方等十二
部経・摩訶般若・華厳海空を説いて菩薩の歴劫修行を宣説す」文、利根の菩薩は正直に方便を捨てて次第行を修せず若し法華経を証する時は衆果悉く具足す
是を一乗の衆生と名くるなり・此等の文の意を案ずるに三乗・五乗・七方便・九法界・四味三教・一切の凡聖等をば大乗の衆生妙法蓮華の当体とは名く可からざるなり、設い仏なりと雖も権教の仏をば仏界の名言を付く可からず権教の三身は未
だ無常を免れざる故に何に況や其の余の界界の名言をや、故に正・像二千年の国王・大臣よりも末法の非人は尊貴なりと釈するも此の意なり、南岳釈して云く「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にし
て異り有ること無し」、是の故に法華経に云く「父母所生清浄常眼耳鼻舌身意亦復如是」文、又云く「問うて云く仏・何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為や、答えて云く大強精進経の中に衆生と
如来と同じく共に一法身にして清浄妙無比なるを妙法蓮華経と称す」文、他経に有りと雖も下文顕れ已れば通じて
399: 2014/08/21(木)18:27 ID:2r2rQsbs0(5/10) AAS
引用することを得るなり、大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり法華経に同共して信ずる者は妙経の体なり不同共の念仏者等は既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり、所詮妙法
蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり、正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・
即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり、能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能な
り敢て之を疑う可からず之を疑う可からず、問う天台大師・妙法蓮華の当体譬喩の二義を釈し給えり爾れば其の当体譬喩の蓮華の様は如何、答う譬喩の蓮華とは施開廃の三釈委く之を見るべし、当体蓮華の
釈は玄義第七に云く「蓮華は譬えに非ず当体に名を得・類せば劫初に万物名無し聖人理を観じて準則して名を作るが如し」文、又云く「今蓮華の称は是れ喩を仮るに非ず乃ち是れ法華の法門なり法華の法門は清浄にして因
果微妙なれば此の法門を名けて蓮華と為す即ち是れ法華三昧の当体の
400: 2014/08/21(木)21:59 ID:2r2rQsbs0(6/10) AAS
名にして譬喩に非ざるなり」又云く「問う蓮華定めて是れ法華三昧の蓮華なりや定めて是れ華草の蓮華なりや、答う定めて是れ法蓮華なり法蓮華解し難し故に草花を喩と為す利根は名
に即して理を解し譬喩を仮らず但法華の解を作す中下は未だ悟らず譬を須いて乃ち知る易解の蓮華を以て難解の蓮華に喩う、故に三周の説法有つて上中下根に逗う上根に約すれば是れ
法の名・中下に約すれば是れ譬の名なり三根合論し雙べて法譬を標す是くの如く解する者は誰とか諍うことを為さんや」云云、此の釈の意は至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・
因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり、聖人此の法を
師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり、故に伝教大師云く「一心の妙法蓮華とは因華・果台・倶時に増長す三周各各当体譬
喩有り、総じて一経に皆当体譬喩あり別して七譬・三平等・十無上の法門有りて皆当体蓮華有るなり、此の理を詮ずる教を名けて妙法蓮華経と為す」云云、妙楽大師の云く「須く七
401: 2014/08/21(木)22:00 ID:2r2rQsbs0(7/10) AAS
譬を以て各蓮華権実の義に対すべし○何者蓮華は只是れ為実施権・開権顕実・七譬皆然なり」文、又劫初に華草有り聖人理を見て号して蓮華と名く此の華草・因果倶時なること妙法
蓮華に似たり故に此の華草同じく蓮華と名くるなり水中に生ずる赤蓮華・白蓮華等の蓮華是なり、譬喩の蓮華とは此の華草の蓮華なり此の華草を以て難解の妙法蓮華を顕す天台大師の妙法は解し難し譬を仮りて顕れ易しと釈するは是の意なり。
問う劫初より已来何人か当体の蓮華を証得せしや、答う釈尊五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して世世番番に成道を唱え能証所証の本理を顕し給えり、今日又・中天竺摩訶
陀国に出世して此の蓮華を顕わさんと欲すに機無く時無し故に一法の蓮華に於て三の草華を分別し三乗の権法を施し擬宜誘引せしこと四十余年なり、此の間は衆生の根性万差なれば種種の草華を施し設
けて終に妙法蓮華を施したまわざる故に、無量義経に云く「我先に道場菩提樹下乃至四十余年未だ真実を顕さず」文、法華経に至つて四味三教の方便の権教・小乗・種種の草華を捨てて唯一の妙法蓮華を説き三の華草
を開して一の妙法蓮華を顕す時、四味・三教の権人に初住の蓮華を授けしより始めて
402: 2014/08/21(木)23:22 ID:2r2rQsbs0(8/10) AAS
開近顕遠の蓮華に至つて二住・三住乃至十住・等覚・妙覚の極果の蓮華を得るなり。問う法華経は何れの品何れの文にか正しく当体譬喩の蓮華を説き分けたるや、答う若し三周の声聞に約し
て之を論ぜば方便の一品は皆是当体蓮華を説けるなり、譬喩品・化城喩品には譬喩蓮華を説きしなり、但方便品にも譬喩蓮華無きに非ず余品にも当体蓮華無きに非ざるなり、問う若し爾らば正く当体蓮
華を説きし文は何れぞや答う方便品の諸法実相の文是なり、問う何を以て此の文が当体蓮華なりと云う事を知ることを得るや、答う天台妙楽今の文を引て今経の体を釈せし故なり、又伝教大師釈し
て云く「問う法華経は何を以て体と為すや、答う諸法実相を以て体と為す」文、此の釈分明なり当世の学者此の釈を秘して名を顕さず然るに此の文の名を妙法蓮華と曰う義なり、又現証は宝塔品の三身是
れ現証なり、或は涌出の菩薩・竜女の即身成仏是なり、地涌の菩薩を現証と為す事は経文に如蓮華在水と云う故なり、菩薩の当体と聞たり竜女を証拠と為す事は霊鷲山に詣で千葉の蓮華の大いさ車輪の如くなるに
坐しと説きたまう故なり、又妙音・観音の三十三・四身なり是をば解釈には法華三昧
403: 2014/08/21(木)23:23 ID:2r2rQsbs0(9/10) AAS
の不思議・自在の業を証得するに非ざるよりは安ぞ能く此の三十三身を現ぜんと云云、或は「世間相常住」文、此等は皆当世の学者の勘文
なり、然りと雖も日蓮は方便品の文と神力品の如来一切所有之法等の文となり、此の文をば天台大師も之を引いて今経の五重玄を釈せしなり、殊更此の一文正しき証文なり。
問う次上に引く所の文証・現証・殊勝なり何ぞ神力の一文に執するや、答う此の一文は深意有る故に殊更に吉なり、問う其の深意如何、答う此の文は釈尊・本眷属地涌の菩薩に結要の五字
の当体を付属すと説きたまえる文なる故なり、久遠実成の釈迦如来は我が昔の所願の如き今は已に満足す、一切衆生を化して皆仏道に入ら令むとて御願已に満足し、如
来の滅後・後五百歳中・広宣流布の付属を説かんが為地涌の菩薩を召し出し本門の当体蓮華を要を以て付属し給える文なれば釈尊出世の本懐・道場所得
の秘法・末法の我等が現当二世を成就する当体蓮華の誠証は此の文なり、故に末法今時に於て如来の御使より外に当体蓮華の証文を知つて出す人都て有る可からざるな
り真実以て秘文なり真実以て大事なり真実以て尊きなり、南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経爾前の円
404: 2014/08/21(木)23:24 ID:2r2rQsbs0(10/10) AAS
の菩薩等の今経に大衆八万有つて具足の道を聞かんと欲す云云、是なり、問う当流の法門の意は諸宗の人来つて当体蓮華の証文を問わん時は法華経何れの文を
出す可きや、答う二十八品の始に妙法蓮華経と題す此の文を出す可きなり、問う何を以て品品の題目は当体蓮華なりと云う事を知ることを得るや、
故は天台大師今経の首題を釈する時・蓮華とは譬喩を挙ぐると云つて譬喩蓮華と釈し給える者をや、答う題目の蓮華は
当体譬喩を合説す天台の今の釈は譬喩の辺を釈する時の釈なり、玄文第一の本迹の六
は此の意なり同じく第七は当体の辺を釈するなり、故に天台は題目の蓮華を以て当体譬喩の両説を釈する故に失無し、問う何を以て題目の蓮華は当
体譬喩合説すと云う事を知ることを得んや、南岳大師も妙法蓮華経の五字を釈する時「妙とは衆生妙なるに故に法とは衆生法なる故に蓮華とは是れ譬喩を借るなり」文、南岳天
台の釈既に譬喩蓮華なりと釈し給う如何、答う南岳の釈も天台の釈の如し云云、但当体・譬喩合説すと云う事経文分明ならずと雖も南岳天台既に天親・竜樹の論に依て合説の意を判釈せ
り、所謂法華論に云く「妙法蓮華とは二種の義有り一には出水の義、乃至泥水
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