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138: 2024/06/14(金)04:54 ID:+sLCpRey2(1/15) AAS
  中立のリアル・・・・・・・50

 フランスでは第一次世界大戦後にフランス社会党から多数派がフランス共産党として
分離し、コミンテルン支部として活動した。この両者は、社会主義政党でありながらも
、路線をめぐって激しく対立している。特に1928年にはスターリンとコミンテルンは、
「社会ファシズム論」をかかげ、「社会民主主義」路線は資本主義ブルジョワ達の政治
権力に協力するファシズムの一形態にすぎない。と批判した。「社会民主主義」は暴力
革命を否定して、議会制民主主義の枠内での 政権獲得による社会改良を目指す路線と
してあった。しかし、産党はそれらとの、階級的な戦いを強めることを、社会共産党に
指示したため、ますます激しくなった。選挙にて、レオン=ブルム内閣だった。ブルム
ははじめは文学者として出発した政治家だった。ジョレスと知り合ってフランス社会党
省15
139: 2024/06/14(金)04:54 ID:+sLCpRey2(2/15) AAS
  中立のリアル・・・・・・・51

 隣国フランスの、この共和制や議会民主主義の流れが、頑なにブルボン王朝スペイン
にやって来る。フランコ体制の前の内閣は、ブルボン王朝支配の末裔である。現代では
「主権国家」と呼ばれる国家で、言い換えれば、主権と領土が明確になっている国家で
独立国家であるが、かつて中世時代には、領土は関係なく神聖国家と言う仕様だった。
中世ヨーロッパの時代は、国家は存在した、国王や皇帝の力は強くなく、それ以上に、
教皇や権威のある他国の王や、地方にも実力をもった諸侯がいた。王の権力の届かない
そういう領土と言うものと、国家の法制の効く部分とは、必ずしも一致しなかったのだ
。こうした中世の領首王に比べ、圧倒的な権力を誇った王政を「絶対王政」、または、
絶対主義といい、主権国家を築き上げる事が理想となった。カルロス1世は、1516年に
省11
140: 2024/06/14(金)04:55 ID:+sLCpRey2(3/15) AAS
  中立のリアル・・・・・・・52

 当時のフランスは、ヴァロワ王朝、即ちヴァロワ家のもとで、既に国家統一を成し遂
げて、治世が施されて平和だった。しかし、そのフランスにも、大きな脅威となる存在
になったのが、隣のハプスブルク家であった。ハプスブルク家は神聖ローマ帝国の支配
地(ドイツ)の皇帝を輩出し、さらにフランス付近のネーデルランドなどの領土も獲得
していた。フランスにとっては目の上のタンコブである。そこでフランスはイタリアの
占有に入った。その頃に、イタリアは大きく経済発展していた。その為政治分裂抗争を
繰り返している状態となった。イタリアの高い経済力に目をつけて1494年、フランスの
国王シャルル8世は、イタリアに侵攻。しかしこれは、教皇や神聖ローマ皇帝らが同盟
を結び対抗し大きく失敗する。広い意味でのイタリア戦争はこの1494年から始まった。
省16
141: 2024/06/14(金)04:55 ID:+sLCpRey2(4/15) AAS
  中立のリアル・・・・・・・53

 さて、このスペインは、いち早く、現代の様な主権国家となって、皇帝の元に、中央
集権化されていったので、国王の手足となる官僚と、徴税や地方行政、常備軍が揃い、
情報判断と責任が、国王の元に決定されたのであった。こうなると、国内は整備されて
国外にその敵を見出すのは常であった。1538年にオスマン帝国に戦いを挑んで行くが、
敗れてしまう。プレヴェザー海戦である。スペイン、ヴェネツィア、ローマ教皇の連合
艦隊は、簡単に オスマン帝国に敗れてしまいました。その結果、地中海の制海権が、
オスマン帝国にもっていかれてしまう。1538年、オスマン帝国のスレイマン1世は
、オスマン帝国海軍が一番強い時代だった。、スペイン(カルロス1世=神聖ローマ帝
国カール5世)・ローマ教皇・ヴェネツィア共和国の、連合海軍を破り地中海の制海権
省10
142: 2024/06/14(金)04:56 ID:+sLCpRey2(5/15) AAS
  中立のリアル・・・・・・・54

 この敗戦で、1556年にカルロス1世は、政界から引退し、弟であるフェルディナント
に神聖ローマ帝国の皇帝を、息子のフェリペ2世にスペイン王位を譲った。この判断は
的確で、カルロス1世の息子の、フェリペ2世の時代は、スペインは大西洋に出て行き
、最盛期を迎えるのだが、実はその前に1571年にはレパントの海戦で、スペイン、ロー
マ教皇、ヴェネツィアが、再度オスマン帝国に挑んで、勝ってしまう。父親カルロスが
成し得なかったオスマン帝国撃破と言う快挙を成し遂げたのだ。スペインでは、レコン
キスタで、征服されキリスト教に改宗した元イスラム教徒(モリスコ)が、この頃に増
えて、スペイン南部のグラナダで反乱を起こした。反乱軍が、オスマン帝国に援軍を求
めたことで、スペインはオスマン帝国との対決を決意。キプロス陥落を知った ローマ
省11
143: 2024/06/14(金)04:57 ID:+sLCpRey2(6/15) AAS
  中立のリアル・・・・・・・55

 午後1時過ぎ、中央部の戦いで、司令官アリ・パシャが戦死し、総司令官の戦死で、
浮足立ったオスマン帝国軍は、敗走を始めた。これを見て、ほぼ無傷だった、ウルグ・
アリの艦隊も、戦場を離脱し、戦いは連合艦隊の勝利に終わりました。この戦いでは、
勝者・敗者とも多くの犠牲を出した。連合艦隊の、戦死者は7000名以上、雄間艦隊も、
5000名以上が戦死したとされる。つまり大砲が飛ぶ以上に弓矢や槍・鉄砲が主役だった
と言う事になる。指揮官クラスでは、連合艦隊ではヴェネツィア海軍のバルバリーゴが
戦死。オスマン帝国側は、総司令官のアリ・パシャが戦死、シロッコことマホメッド・
シャルークは捕虜となって3日後に死亡。レパントの海戦での敗北は、それまで快進撃
を続けてきたオスマン帝国軍にとって初めての大敗北となった。これまでオスマン帝国
省12
144: 2024/06/14(金)09:58 ID:+sLCpRey2(7/15) AAS
  中立のリアル・・・・・・・56

 しかし、この勝利は、ヨーロッパ社会での、スペインとローマ教皇庁に大きな称賛と
輝かしい未来と権威をもたらした。即ち、かれらのスペイン艦隊に「神に護られた無敵
艦隊。」とか、彼の領土は「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれたのであった。1580年には、
空位だったポルトガルの王位を継承。そのことで、ポルトガルの植民地の支配権も継承
することとなり、南イタリア、ブラジルなどの中南米、フィリピンなどのアジアなど、
スペインは世界最大の版図を持つことになった。スペインは、地球の裏側にまで領土を
持っていたので、彼の領土はどこかしら太陽の光を浴びているということで「太陽の沈
まぬ帝国」と呼ばれたのだ。しかし、それから10年も経たないうちにスペインの没落は
始まっていく。そのきっかけが イギリスとの戦争に敗北したことやネーデルラント(
省11
145: 2024/06/14(金)09:59 ID:+sLCpRey2(8/15) AAS
  中立のリアル・・・・・・・57

 こうした行為を取り締まるために、勿論スペインは、大西洋方面の艦隊を強化した。
そして、オランダ独立戦争で、スペインに敵対していたイングランドへの攻撃を企てた
。1588年、スペインは併合した ポルトガルの首都リスボンに大艦隊を集結させます。
その大艦隊は、無敵艦隊(アルマダ)と呼ばれました。その後、無敵艦隊はイングラン
ド海軍と海戦に向かい、戦闘となりました。此の時にイギリスには、海軍は政府でなく
王立海軍、つまり、国王が私的に作った、アメリカに渡る為に、海洋を行く数隻の船で
しかなかった。この大航海の最初の頃に、大きくオスマン軍と戦った事で、帆船も軍艦
として大きく発達していた。キャラック奴隷帆船である。キャラック船は、遠洋航海を
前提に開発されたヨーロッパでは 初の船種であり、大西洋の高波でも船体の安定を保
省13
146: 2024/06/14(金)09:59 ID:+sLCpRey2(9/15) AAS
  中立のリアル・・・・・・・58

 キャラック船の登場は、当時の大型造船技術において、ひとつの技術的到達点を示し
、完成された帆船ともいえるが、決して万能というわけではなく、必ずしもキャラック
船を用いるのが出来ない場所も多くあった。即ち、海流があったり、浅瀬においては、
船底が深い分、影響が大きく適切で場合があって、輸送の他に、上陸という他目的とい
うものも、一方で存在した。当初、スペイン人やポルトガル人の探検家はキャラック船
を用いて、西アフリカ海岸や大西洋へと漕ぎ出していったが、キャラックのように巨大
では、重装備を誇る大型船には、航行の精度を保つという点において、要する人員数に
おいても、労力の点でも負担が大きかった。未知の海域での調査という目的に必ずしも
向いているものではなかったのだ。そこでまもなく、探検家たちは 100トン前後の、軽
省10
147: 2024/06/14(金)13:08 ID:+sLCpRey2(10/15) AAS
  中立のリアル・・・・・・・59

 スペインは、イギリスがオランダ独立戦争を支援し、さらに私掠船が度々スペインの
貿易船を襲撃して海賊行為を行うことに手を焼いていた。そこでフェリペ2世は、海軍
派遣を決意、本国スペインにおいては、「最高の祝福を受けた大いなる艦隊」「至福の
艦隊」とされ、他国からは無敵艦隊(アルマダ)と言われて恐れらていたスペイン海軍
をイギリスに派遣し、イギリスを制圧することに乗りだした。英国議会は、いち早く、
この情報を得ていて議会は紛糾した。1588年5月、メディナ・シドニア公率いる約130隻
のスペイン無敵艦隊がリスボンを出発した。無敵艦隊は7月初頭にグラヴリンヌ沖に、
ついて、大きな船団を整える為に、整列し一夜をまった。しかし、この6月期に英国は
とんでもない男に、英国の命運を預けた、私掠船の親玉、海賊のドレークである。無敵
省11
148: 2024/06/14(金)15:54 ID:+sLCpRey2(11/15) AAS
  中立のリアル・・・・・・・60

 スペインが大型帆船を主力としていた事に対し、イギリスは小型帆船のガレオン船に
よる機動力で、ほぼほぼ、優位に立ったといわれている。更にその他に「火をつけた船
を敵のド真ん中に突撃させる。」というまさに奇想天外な外道な戦法も使っていました
。砲弾は、近い小舟には、撃てない。更に隊列を敷き、並んだ船では、停泊すれば波の
力で、同じ方向を向くのは解っていた、望遠鏡や双眼鏡を片手に、充分に隊員に、船の
弱点をレクチャーし、潮目に合わせて、火をつけ、火薬の自爆や、砲弾の同士討ちを、
目論んでの戦法を仕掛けたのである。更にスペイン艦隊は、長旅の疲れで、そうそうに
隊員達や、船団のやり取りはスムーズでは無かったのだ。良くて手旗信号ぐらいしか、
連絡出来無い時代の闘いであって、海や風や潮目や船を知り尽くした海賊相手に海戦は
省15
149: 2024/06/14(金)16:01 ID:+sLCpRey2(12/15) AAS
  中立のリアル・・・・・・・61

 第7代メディナ=シドニア公アロンソ・ペレス・デ・グスマン・イ・デ・スニガ=ソ
トマイヨール、いわゆる、スペイン・グスマン家の代7代当主は、スペイン王国の貴族
で軍人ではあった。無敵艦隊の総司令官の栄誉を授かったものの、散々な敗北だった。
ポルトガル王ジョアン4世の妃ルイサは、孫娘に当たる。ポルトガル王とも縁故でもあ
ったのだろう。ファン・カルロス・デ・グスマンの名は、国王カルロスの名を継ぐとい
う、縁戚である事を示している。(1555年没)先代第6代目メディナ=シドニア公フア
ン・アルフォンソ・ペレス・デ・グスマンの長男と、レオノール・マンリケ・デ・スニ
ガ・イ・ソトマイヨールの息子として、1550年に生まれている。1559年に祖父が死去す
ると、メディナ=シドニア公位を継承、ヨーロッパ有数の大富豪になったという。1565
省13
150: 2024/06/14(金)16:18 ID:+sLCpRey2(13/15) AAS
  中立のリアル・・・・・・・62

 アルマダの海戦以降も、海軍提督やアンダルシア知事などの官職を務めたが、1596年
にイングランド=オランダ連合艦隊がカディスを襲撃したときにも、対応出来ずに敗北
を喫し、フェリペ3世が スペイン王に即位した後の1606年にもジブラルタル近くで、
オランダに艦隊を壊滅させられた。これらの不名誉な戦果を受け、同時代の作家ミゲル
・デ・セルバンテスはメディア=シドニア公を風刺するソネット(十四行詩)を著して
いる。1565年にわずか4歳のアナを娶った時、1550年生まれなので6男で15歳なのだから
1615年に65歳で死去した。彼の人生は、正に国王の席に振り回される人生だったに違い
ない。周りの兄弟も身体が弱く、息子が産まれ、フアン・マヌエル・ペレス・デ・グス
マンとして爵位を継承したことは、せめてもの救いだったかもしれない。1640年には、
省15
151: 2024/06/14(金)16:19 ID:+sLCpRey2(14/15) AAS
  中立のリアル・・・・・・・63

 ポルトガルのオポルトで、ポルトガル王ジョアン1世の三男として、エンリケ王子は
生まれている。航海王子として大航海時代を開いた人だ。母はイギリスのランカスタ公
の娘で、幼い頃は宮廷で育てられた。と言われる。早くから騎士道物語や占星術に没頭
して星を読む技術を習得していた。当時の航海技術の一つの知識でもあって、騎士道の
物語では、騎士がドラゴンを倒してお姫様を救出するような冒険物語の性質を帯びて、
当時のイベリア半島で流行していた。1415年、ポルトガルがアフリカ北部のモロッコの
主要都市セウタを攻略し、陥落させた。これが、西洋世界の大航海時代の始まり、とさ
れている。エンリケ航海王子は、兄弟と共にこれに参加した。なぜ、ポルトガルがモロ
ッコ進出を始めたのか。主な理由として、ここでは2点挙げられる。第一の理由では、
省12
152: 2024/06/14(金)16:25 ID:+sLCpRey2(15/15) AAS
  中立のリアル・・・・・・・64

 同時に、1410年代に、新しいジョアン1世に不満を抱く貴族も多くいた。レコンキス
タで、やっとできた新領地である。イスラムもキリストもなく、武力の実力の世界が、
横たわっていた。ジョアン1世の主な敵が、フランスと敵対するスペイン王だったが、
これらの地方貴族達が、スペイン王に味方する恐れもあった。ジョアンは、これらの、
国内不満分子を、国内から遠ざける必要はあったものの、スペインには行かせたくなか
ったし、イギリスとの連携にも障害となっていた。そこで、別の戦地に送り込もうとし
た。このように、ジョアン1世が新たな王権を安定化させるために、対外拡張を選んだ
のであった。1411年に、スペインとの和平が成立した為、1415年に思い切って、セウタ
攻略に踏み切ったのである。第二の理由は、セウタ攻略がこのレコンキスタの延長線上
省14
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