5世紀頃までの国境と守備軍事的長ヒナモリ Part1.1 (761レス)
上下前次1-新
97: 02/18(日)23:07 AAS
7.1.3 「大型水煙土器は製鉄用土器炉である」(百瀬高子氏説)
? 小型炉製鉄実験の普及に長年携わっていた横井時貞氏(愛知工業大学名誉教授)に
「土器炉は可能か」と質問した。「土器でも丈が 60cm 位、壁の厚みが 2〜3cm の
土器を作れば製鉄が可能だ」との回答を得た。
? 縄文中期の諏訪に繁栄した土器模様を水煙土器、新潟の同時代の火炎土器と呼ぶ。
縄文中期の大型水煙土器の厚みは 2〜3cm、丈は大きな物で 40〜70cm である。
土器炉としての条件にぴたりと当てはまる。
? 「戦時中に使われた諏訪鉄山の鉄鉱石は褐鉄鉱(高師小僧)という。
鉄質は悪いが農工具には加工出来、使用が可能だ」という情報を得た。
? 縄文土器の焼成温度は 800 度以上の温度を半日位(最低 3〜4 時間)
省3
98: 02/18(日)23:08 AAS
7.1.4 褐鉄鉱使用、土器炉による製鉄実験成功 (百瀬高子氏の実験報告)
褐鉄鉱原料、土器炉による製鉄実験 成功 平成 10 年 10 月末日
? 弥生土器風甕を製作 器高 45cm 厚み 2.5cm
? 胴の中間より少し下に直径 2cm ほど穴を開けて、穴は送風口とした。
? 使用原料 褐鉄鉱の粉末
? 溶融実験 木炭と共に加熱し 6 時間微風を送風した。(縄文時代は息で送風と推定)
? 製鉄炉中の推定温度は低温の 400 度前後と記録している。
? 実験結果 6 時間ほどの短時間作業だった。
半熔解の多量の鉄滓の中に大豆大ほどの真黒な鉄粒が出来ていた。
製鉄実験に成功した。
99: 02/18(日)23:09 AAS
? 百瀬高子氏の所見
3 日 3 晩この作業をすれば、そして溶媒にカルシュウムを使えば、
もっと扱い易い鉄槐が農具や工具わ作るほどの量が出来ただろう。
そしてその鉄塊を熟し、軟らかい内に叩けば鍛造の薙鎌や鉄鐸や斧が出来上がる。
縄文土器を炉として充分製鉄は可能だ。いや縄文中期土器の多くは
小規模製鉄炉として製作され、 土器炉として使用されていた事が実証できた思いだ。
土器炉は乾燥や厚みに少しでもムラがあると長時間の加熱温度には耐えられない。
実験で使用した土器も針金で補強して漸く炉として耐えていたが、
6 時間も内部を加熱しているとあちこちにひび割れが入り、
火を止める頃には崩折れてしまいそうな状態だった。
省3
100: 02/18(日)23:11 AAS
戦前に浜で鉄作ったと爺さん世代の人が言ってたの思い出したが
何言ってるんだこの爺さんはと、
案外鉄って少量なら簡単に作れるんだと最近分かって来た
縄文時代の勾玉や玦状(けつじょう)耳飾りなどには、
5mm ほどの円形穴が奇麗に開いてて
この話は納得行くな、
縄文時代に鉄工具は有ったんだよ、
木造建築のホゾ穴が奇麗に彫られてたのも納得。
101: 02/18(日)23:13 AAS
●浙南石棚墓群(浙江省温州地市瑞安)
1993年に浙江省温州地市30を超える石棚墓が発掘され、春秋時代の器物が多数出土した。
石棚墓とは日本でいう支石墓のことである。これは、紀元前1700年〜紀元前256年頃に
かけて江南地方で営まれた墓制で、石棚墓の下には甕棺も埋葬されている。
その形状や葬送様式などから、
九州北部や朝鮮半島南部に展開する支石墓のルーツかとも考えられる。
紀元前1500年頃になると遼東半島から吉林省南部地域にも出現するが、これは、
支石を箱形に並べた上に高くびえる形で天井石を載せたもので、テーブル式と呼ばれる。
一方、朝鮮半島南部に支石墓が出現するのは紀元前500年頃からで、
数個の支石の上に長方形に近い天井石を載せたもので、碁盤式と呼ばれている。
省6
102: 02/18(日)23:31 AAS
浙江省地方の石棚墓が九州西北部から半島南部へから考察して
これは海洋民、越人の東越の話と一致する(秦代の越絶書)
浙江省地方の石棚墓、江蘇省、山東半島、遼東半島、朝鮮半島西部、九州北西部、
何れの石棚墓、支石墓、にも副葬品としては銅剣、石剣、土器、矢じり、などが主で
高価な黒陶、三足土器や鼎など王侯貴族などの墓にあるような一級品は無く、
生前使ってた生活具、狩猟具が多い、船団や村長クラスの海洋民の文化だったのではと。
渤海、黄海、東シナ海、を回遊しながら交易、海運業、をしてた海人たち
やはり、稲作のルートは江南からか遼東から朝鮮半島南部へとか?。
103: 02/18(日)23:33 AAS
近年、韓国嶺南地方北部の達城坪村里では弥生時代早期(夜臼式)の壺棺が出土し(図 13)
交流範囲が以前よりも北上することがわかった。壺棺の周囲に丸い河原石を敷きつめる
事例は、埋設の向きが逆であるが、唐津の大友遺跡でもみられ、類似する。
大友遺跡を営んでいた人々も支石墓の段階では従来の貝輪であるが、
石棺墓の段階では南海産貝輪を着装するようになり、より交流の範囲が広がっている。
西北九州や唐津地域における支石墓の導入こそが新たな交易者としての海民形成の
端緒であると考えられるならば、日本史における意味は決して小さくないだろう。
104: 02/18(日)23:34 AAS
大友遺跡は東松浦半島北端、玄界灘に面した海岸部に所在する遺跡である。
弥生時代早期にあたる夜臼式期に造られた支石墓の下部構造は石を土坑の壁沿いに
めぐらせる「石囲いの土坑」であり、北部九州の支石墓のなかでも朝鮮半島の様相に近い。
そして、これら最初期の支石墓を取り囲むように形成された支石墓の下部構造は
土坑に変化する。弥生時代前期にあたる板付?式併行期になると、
初期に形成された支石墓群とは別の場所に、土坑墓群が認められ、弥生時代前期中葉から
後葉の伯玄式・金海式の段階には単独の甕棺墓が営まれるようになる。
甕棺墓は、下甕に上甕を覆い被せたような埋置形態のものや、
単純に甕を倒置させたものもある。副葬品として、南海産のオオツタノハ製腕輪や、
ゴホウラ製腕輪など多様な貝輪や、玉類などが出土した。
105: 02/18(日)23:36 AAS
碁盤式支石墓、これが朝鮮半島南部の全域に登場するのは、
紀元前500年頃で、日本ではすでに弥生時代になっている。
確かに世界の支石墓の大半が朝鮮半島に爆発的に生まれて集中した。
しかし九州北部海岸部の支石墓は半島に先立って縄文時代晩期に隆盛を始めているので、
海を西から順にやってきたかと見え、日本への派生は中国遼東半島とほぼ同時期か、
あるいは早かった可能性が非常に高い。その派生地は江南、長江河口部である。
ということは半島の支石墓は逆に、遼東と玄界灘沿岸日本の双方からの伝播だった
のかも知れない。どっちにせよ倭人のしたことであろう。
海洋民が先に選んだのは、どうやら半島沿岸ではなかったようだ。
これは水耕稲作の日本への先の伝播を後押しする考古学的発見である。
省3
106(1): 02/18(日)23:41 AAS
「O1b2」相関図
外部リンク:contents.jobcatalog.yahoo.co.jp
中国型( 漢民族 )=「O1b2a1a2b(F940)」湖北省 3.7% 湖南省 2.9% 邯鄲市2.05%
韓国型( 韓民族 )=「O1b2a1a2a(L682)」 (旧 xO-47z)
日本型(大和民族) =「O1b2a1a1 (CTS713) (旧 47z) 」
中国型( 漢民族 )=「O1b2a1a2b(F940)」(O2-65.9%)
韓国型:旧47z=4.0%、 xO-47z=33.3%(O2-40.0%)
日本型:旧47z=25.1%、xO-47z=8.4%(O2-16.7%)
107: 02/18(日)23:48 AAS
O1b2a1a2(中国・韓国共通先祖)→O1b2a1a2a(L682)(韓国型)北回りルート満州へ
↑ →ーーーーーーーーーーーー→O1b2a1a2b(F940)(中国型)湖南省、湖北省、
↑
O1b2a1a (F1204,F3356,K10)(三者共通祖先、長江中流域か?)
↓
↓ 8000年前ころの突然変異。
O1b2a1a1(ほぼ日本人固有)東シナ海直行・南回りルート、朝鮮半島西南部
108: 02/18(日)23:59 AAS
O1b2a1a1(ほぼ日本人固有)東シナ海直行・南回りルート
韓国型O1b2a1a2a(L682)との混在が少なく、別の場所で住んでたと思われる
最近の言語学からの研究で、韓国型は満州南部、長白山周辺で
日本型は朝鮮半島中西部辺りの無文土器人が弥生人だろうと言われてる。
>彼らがBC1000年頃の九州北西部に南式碁盤型支石墓文化、熊本の断崖洞穴慕、
赤色漆が塗られた舟形木棺、浙江省杭州や武夷山九曲渓が有名で
長江流域の洞庭湖から鄱陽湖の間で百越一派の誕生地だろうといわれてる。
109: 02/19(月)00:02 AAS
日本国内に於けるハプログループO1b1の頻度、西日本を中心に3%ほどいる。
九州 3.8% (2/53)[16]
金沢市学生 3.7% (11/298)以上4.4% (13/298)以下[24]
東京(JPT) 3.6% (2/56)[43][2]
徳島 2.9% (2/70)[16]
徳島市学生 2.1% (8/388)以上3.6% (14/388)以下[24]
札幌市成人男性 1.9% (4/206)以上4.9% (10/206)以下[24]
110: 02/19(月)00:05 AAS
中国洞庭湖周辺の湖南、湖北辺りにはかなりO1b2が残ってるし
日本人の中にも台湾O1a1、東南アジアO1b1(旧O-M95)が地域により3%を超える。
Y-DNA O1b2
[87](2023) 17:29. 外部リンク:doi.org
北京市 1.4% (2/138)[87]、2.0% (1/51)[2]、4.3% (2/46)[22]
重慶市 1.0% (1/98)[93]、4.3% (1/23)[87]
湖北省 3.7% (1/27)[87]
湖南省 2.9% (4/137)[87]3.8% (2/52) 湖南省及び福建省[22]
中国全国[46]、1.2% (1/83) 寧夏回族自治区[87]、1.3% (1/76) 陝西省[87]、
1.5% (2/130) 山東省[91]、2.0% (1/50) 寧夏回族自治区呉忠市[87]、
省5
111: 02/19(月)00:08 AAS
スサノヲはアマテラスの疑いを解くために、宇気比(誓約)をしようといった。
二神は天の安河を挟んで誓約を行った。
まず、アマテラスがスサノヲの持っている十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取って
噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の三柱の女神(宗像三女神)が生まれた。
この三姉妹の女神は、アマテラスの神勅により海北道中(玄界灘)に降臨し、
宗像大社の沖津宮、中津宮、辺津宮、それぞれに祀られている。
多紀理毘売命 - 別名:奥津島比売命(おきつしまひめ)。沖津宮に祀られる。
多岐都比売命 - 中津宮に祀られる。
市寸島比売命 - 別名:狭依毘売命(さよりびめ)。辺津宮に祀られる。
112: 02/19(月)00:13 AAS
裏天皇=八咫烏=賀茂氏(宗像タゴリヒメの子孫)
裏伊勢=宗像大社
事代主も阿遅志貴高日子根命も、日本神話では大国主命の息子
アジシキタカヒコネは大国主と宗像三女神であるタキリビメとの間の子供であり、
同じ父母から鴨都波神社の祭神でもある下照姫も生まれています。
タキリビメ(タギリヒメとも)は、宗像三女神の一柱である。
古事記では多紀理毘売命、日本書紀では田心姫(タゴリヒメ)と表記される。
113: 02/19(月)00:16 AAS
では、どうして2600年もの長きに亘って王族・皇族として君臨できたのか、
時の権力者なら首を刎ねて今日から俺様が王だと宣言すれば万事済む話だが、
それが出来ない仕掛けが日本の歴史の中で構築されて来たのです。
ある氏族にとって天皇に抗する者はこの世から消えて貰うだけ。
彼らは古代版ディープステート「影の政府」なんです。
114: 02/19(月)00:23 AAS
「大國主神」こと「倭大物主」は「大御和乃?~奈備爾坐」
「倭大物主櫛厳玉命(やまとのおおものぬしくしみかたまのみこと)
『出雲国造神賀詞』では倭大物主櫛𤭖玉命)。
と御名を称へて大御和の神奈備に坐す」と記載されております。
「大三輪」ではなく「大御和」とあるのです。
ちなみに出雲大社は「スサノオ神」が祀られていることはご存知の通りです。
ここで書いておきたいのは「大国主神」は一代だけの神ではないということです。
「大国主」の系譜を挙げたように「大国主」はいわゆる役職名であり、
「国を司るトップ」のことを神格化してるのです。
では「倭大國魂」は「大物主」の和魂(平和な)とか荒魂(戦闘的な)とか言われており、
省1
115(1): 02/19(月)00:24 AAS
大国主神(おおくにぬしのかみ)は、日本神話に登場する神。
国津神の代表的な神で、国津神の主宰神とされる。「偉大な国の主人」の意。
大穴牟遅神(おおあなむぢ-)・大己貴命(おおなむち-)・於褒婀娜武智(おほあなむち-)
・大穴持命(おおあなもち-、『出雲国風土記』、『伊予国風土記』逸文での表記』)
・大汝命(おおなむち-、『播磨国風土記』での表記)・大名持神(おおなもち-)
・国作大己貴命(くにつくりおおなむち-) - 誕生後の名。
116: 02/19(月)00:25 AAS
葵祭(あおいまつり、正式には賀茂祭)は、
京都市の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で、
5月15日(陰暦四月の中の酉の日)に行なわれる例祭。
>この祭りは賀茂県主氏と朝廷の行事として行っていたのを
貴族たちが見物に訪れる、貴族の祭となった。
下鴨神社・祭神:賀茂建角身命(かもたてつぬみのみこと)→賀茂別雷神の祖父
上賀茂神社・祭神:賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)
どうして天皇の代理、勅使代と斎王の代理「斎王代」が唯一出向いて、
賀茂建角身命に挨拶回りをするのか、
本来なら賀茂県主氏が天皇に挨拶の行くのが筋のはず。
上下前次1-新書関写板覧索設栞歴
あと 645 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル
ぬこの手 ぬこTOP 0.009s