戦国時代の始まり?享徳の乱について (740レス)
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12: 02/18(日)21:49 AAS
足利義教
「鎌倉府が反乱した。鎮圧して来い」
小笠原、斯波
「了解しました」
足利義政
「鎌倉府が反乱した。鎮圧して来い」
小笠原、斯波
「嫌です」
13(2): 02/19(月)00:41 AAS
>>11
すぐ思い付く所では簗田、野田、一色、真里谷、そして議論の余地はあるが里見と云った辺りが一貫して御所方。
千葉は「人」に主体を置くと乱終盤の内訌から管領方に転じたと云えるが、「家」主体では御所方であり続けた。
むしろ最後は御所が千葉を切り捨てたわけだが。
14: 02/19(月)00:47 AAS
>>13
訂正。
× 乱終盤
〇 乱序盤
15(2): 02/19(月)01:03 AAS
千葉は和平には反対し続けたから御所とも手切れとなったという認識でいいか?
16(1): 02/19(月)01:03 AAS
千葉は和平には反対し続けたから御所とも手切れとなったという認識でいいか?
17: 02/19(月)01:54 AAS
>>15
だと思う。
それ以外の考察は見たことがない。
政治目的達成の為に党派中枢が敵と妥協しつつ味方の尖鋭分子を切り捨てる事例は古今東西珍しくないわけで…。
18(1): 02/20(火)16:46 AAS
幕府の力や権威が嘉吉の乱で義教が暗殺されてから落ちていたのだろうか
いくら動乱が各地の家にあったからと言っても
永享の乱では北欧の南部氏の出陣の形跡まであるのに
従ったのは越後の上杉と今川ぐらいとかなあ
19: 02/20(火)22:08 AAS
>>18
端的に云うと「それどころじゃねえんだよ後にしてくれよ」ってことだろう。
災害飢饉年表など調べてみるとよく解るんじゃないか。
「動乱が各地の家にあった」ことの、更にその根本原因がより深刻化していたからだと推測される。
時代は>>3に書いた惨状が標準仕様で在地はただ生きて行くことさえ困難な状況だった。
その上にヤレ永享ノ乱だソレ結城合戦だと駆り出されてヒトモノカネを搾り取られた大名群の各領国が荒廃を極めたことは想像に難くない。
それを早急に何とかしなきゃ大名権力体そのものが斃れる。
斃れても幕府が喰わせてくれる訳じゃ無いのに性懲りも無くまた動員とは正に「死ね」と云うに等しい。
ヤイこらヨシマサ黙って聞いてりゃ巫山戯た御託ばっかり並べやがってシゲウジだかゲジゲジだか知らねえがそんなに気に入らねえなら手前ェが行きゃァがれこちとら関東なんぞで遊んでられるほど暇なお兄ィさんたぁお兄ィさんが違うんでぃ篦棒メと、
関係者は尻を捲って啖呵の一つも切りたかったことだろう。
省1
20(1): 02/22(木)15:08 AAS
越後上杉家の越山はこの時代からあった
21(2): 02/22(木)21:45 AAS
>>20
慥かにそれはそうなんだが。
享徳ノ乱で越山していたのは真正の越後上杉房定とその子定昌で、
永禄以後に越山したのは同じく越後上杉房定の子房能を弑殺した越後府内長尾為景の子である景虎だ。
とは云え景虎は山内上杉家督を継承したわけで、
しかし当時の山内上杉はまたしても越後上杉房定の子である顕定の入嗣によって実質的に越後上杉になっていた。
この殊更にわざとらしく錯綜した経緯にはクロフツの『樽』や鮎川哲也の『黒いトランク』の如き巧妙なトリックの存在が匂う。
うむ、何だかよく分からない。
省1
22(1): 02/23(金)04:13 AAS
初期の上杉勢の敗勢を覆して、講和の仲介となった上杉房定と
中盤古賀公方を圧倒して古賀を一時でも占領した長尾景信はもっと注目されるべき
太田道灌は長尾景春の乱鎮圧では目立ったが享徳の乱ではあくまで景信らの配下
23(1): 02/23(金)20:59 AAS
>>13
桐生佐野氏は直臣なのに何故寝返ったの
24(1): 02/23(金)21:03 AAS
上条上杉とか能登畠山とか長尾臣下になっていったのは幸せだろうな
結城氏とかももはや家名の存続のみ願うようになっていった感がある
25: 02/23(金)21:31 AAS
>>22
戦争の表面的な経緯だけを追えばその見方も解らないではない。
しかし享徳ノ乱の構造的本質、即ち「権力構造の変革」に関して担った機能を考察すれば太田道灌家宰期扇谷権力体の画期性は疑いを容れない。
長尾景信は山内権力体の地域権力化についてはむしろ反動として機能したと思われる。
上杉房定や太田道灌と同列に論じられるものではないだろう。
26(2): 02/24(土)18:39 AAS
外部リンク:www.nicovideo.jp
この動画群 参考になる
27: 02/24(土)19:50 AAS
>>26
一本ざっと斜メに観てみたが…。
結局「誰某が〇〇の戦で何某に勝った負けた」レベルの話を羅列しているだけで、
そんなことは年表でも見れば書いてあるよとしか云えない。
何故その事案が発生したのか、結果として何が生まれたのか、
自然環条件・生産状況・社会関係・権力形態等と関連付けた構造的考察から本質を抽象する作業こそが肝要だろうに。
享徳ノ乱に始まる関東戦国前半期などはその恰好の題材なんだから、
折角一本20分以上ある動画を拵えるならそこまで踏み込んで頂きたかった。
28(1): 02/24(土)22:35 AAS
>>23
桐生佐野大炊助直綱のことなら、
一般には先に管領方に寝返った近隣の岩松等からの激しい攻勢に堪えかねて…と云う。
しかし私見では、
文正元年(1466)という時期からみて寛正大飢饉の余波としての事案ではないかと考えている。
もともと享徳ノ乱に於いては各氏の内訌に御所vs管領の大構造を引き込む事例が頻発するが、
論外の大飢饉を受けて各氏の所有する社会資源の総量が年々縮減する中、
宗家と庶流の紛争は「ゼロサムゲーム未満」、つまり縮むパイを取り合う陰惨熾烈の度合を高めて行ったと推測される。
この生物学的危機の前に「直臣」なる共同幻想は平時の重味を喪失していたことだろう。
省4
29: 02/25(日)01:45 AAS
しかし佐野も実に解りづらい。
桐生の動向とは別に文明三年(1471)には室町将軍足利義政の調略を受けて宗家も管領方に変わったようだ。
但しその当主の実名が解らない。
そして翌年には早くも御所方に出戻ったがその経緯が解らない。
この間の宗家と桐生の関係が解らない。
「佐野伯耆守盛綱」なる名前は認められるが乱勃発の頃の驍勇「佐野伯耆守」「佐野宮内少輔」との関係が解らない。
しかも実名が盛綱である当主は時代を変えて複数いるから余計に解らない。
しっかり理解している賢者の教えを請いたい所だ。
省1
30: 02/25(日)22:37 AAS
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江戸時代に改易された家だから系図もあんまり正確じゃないそうだな
移封や改易なしに室町から江戸時代にかけて存続できた大名って
下野だと大関や大田原ぐらいじゃないか
31: 02/27(火)00:35 AAS
黒田基樹氏によると享徳ノ乱から長享ノ乱に関わる時代の桐生佐野の当主は
直綱-重綱-助綱-直綱-重綱
一方、
同時代と見られる宗家佐野の当主は
盛綱-秀綱-泰綱-豊綱
…辺りのようだが盛綱の父或いは祖父に重綱があり、
江戸時代初期に直参旗本となった者に盛綱があると云う。
お前らやる気あんのかよ真面目にやれよと小一時間問い詰めたい。
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