【日本史】GHQに焚書された書籍 (536レス)
上下前次1-新
241: 10/05(土)00:47 AAS
もし東京から都が移動したら東京は以前のように寂れた草っぱらになるのだろうか。
京都のように観光資源があるわけでもなく…
鎌倉みたいな古都になるのもよさそう。
242: 10/05(土)10:10 AAS
p169(五)新政府の官制
この間に中央政府の官制はしばしば改まったが、明治二年七月八日に、王政復古の精神により大宝の古制に倣って、官制を定めなさる。二官には神祇・太政、六省には民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務があり、太政官には左右大臣・大納言・参議の官をおき、各省には卿をおき、その他の制度例えば大学校(文部事務包含)弾正台をおくとか、位階を二十等に定めるとか、公卿・諸候を華族とし、その家臣を士族とし、その他を平士として穢多非人の呼称を廃止されるとかして、新制はやや整い始めた。
(六)版籍奉還
しかし地方の制度は今だ備わず、朝廷は以前に、幕府および幕臣の領地を接収し、これに朝廷の直轄地を加えて府・県として治めた。この時府となったのは、京都・奈良・大阪・度会(伊勢)・甲府・東京・新潟・長崎・五館(渡島)の九個で、いずれも旧幕時代に重なる直轄領であったところである。県となったのは堺以下二十箇所で、府には知府事、県には知県事をおいた。
しかし広大な諸藩の領地は、なおもとのままで、その藩主を知藩事としておいた。だから全国統一の政を行うことができないだけか、朝廷の歳入も少なくて到底多大な国費を支えるのに足りない。
そこでこの府・県・藩の三治一致の制を実現せねばならないと、往々その議論があったものと見える。
参議木戸孝允は多いに思うところがあり、何とかして諸藩に命じてその土地(版)人民(籍)を奉還するという形式を取りたいものと考え、大久保利通と謀って各々その藩主にすすめた。長門藩主毛利敬親・薩摩藩主島津忠義はこれに従い、土佐では板垣退助・後藤象二郎がこれを主唱して藩主山内豊範の同意を得、肥前では大木喬任・大隈重信によって藩主鍋島直大が加担するところとなった。ついに二年正月二十三日、四藩主連署上表して版籍を奉還するつもりのことを願う。
※弾正台=監察・治安維持を業務とした官庁
243: 10/05(土)12:03 AAS
p170
その文の中には「そもそも臣などが居る所は、すなわち天子の地・臣などを養い治める所は天子の民である。どうして私有できるだろうか。今謹んでその版籍を接収してこれを上る」とある。おおよそこの四藩は当時最も有力な大藩であった。木戸・大久保らはまた世論をつくろうとして、盛んに諸藩の間を遊説したので、諸藩は競って四藩に倣い、御聴許の月日は藩によって相違しているが、六月十七日から六月二十五日に亘る間に大抵行われた。六月二十四日には上書の上聞に達していない藩に対して、速やかに奉還致すようにとの御沙汰があった。事が全部落着したのは、六月二十五日で、しばらく元の藩主を知藩事に任じて藩内の政務をとらせ、家禄として現石の十分の一をお与えになり、こうして政令が一途に出る御代とはなった。
(七)廃藩置県
ところが府・藩・県の支配する土地は大小不問で、かつ互いに入り乱れ、施政上で不便は少なくなかった。特に藩にあっては藩主は以前と同様の権力を有し、主従関係の私情により公平な処置ができない状態を去ることができず、まま政治の統一を妨げたので、これは早晩名実ともに新政を布(し)かねばならないことであった。従って廃藩置県の気運は次第に起こって来た。木戸孝允はこれを見て、大久保利通・西郷隆盛らどもと、その実行に力を尽くし、これが断行をくわだて、薩長・土三藩の兵約一万を徴兵して万一に備え、そうしてから明治四年七月十四日、廃藩置県の詔は発せられた。こうして全国二百藩以上を廃止して、東京・大阪・京都の三府と三百一県となし、次いで同年十一月には三府七十二県となし、郡・村・町をおき、二十九年には郡の分合廃置を行った。
これを治めるには新たに人材を選んで、府知事・県令を任命し、封建制度は根本的に崩れて、維新の大業ははじめて完全になった。
244: 10/05(土)14:07 AAS
p171 学習参考
(1)挿絵解説
「天皇は神々に王事を誓いなさる」絵は佐藤範雄著「憲法自治の大精神」という書物の中の絵によったものである。明治元年三月十四日、明治天皇が紫宸殿においでになり、五事の宣誓をしなさる光景である。図の左の方に祭壇が見え、その前に天皇御礼拝御座所、臣下礼拝座所があり、天皇は衣冠束帯でおでましにおありになり、後方には聖賢障子も見える。これには漢唐の名士三十二人がえがかれている。この時は総裁有栖川宮熾仁親王は御東征不在であるから、副総裁三条実美が天皇に代わって御告文を読み、輔弼は岩倉具視・中山忠能であったから、天皇の御側近くにいるのはこの中の人であろう。
「天皇東京に行幸しなさる」絵は一葉斎国輝画の錦絵によっている。明治二年三月二十八日東京御到着、天皇が賢所を奉じて東京城に向かわせなさる有り様、風輦の前には御羽車とその御雨皮が見え、遥か遠くに江戸城もあらわれている。橋は京橋で、三条輔相・中山議定・中御門経之・池田慶徳らが扈従した。
(2)指導要領
「明治維新の前と後とはどんなに違っているか」「明治維新の精神は何か」というようなことを中心問題として学習を進めるのがよい。
こうして明治維新における国家的発展を会得させ、そこに流れている国家的大精神を味わい、またそれに付随して、神に対する宗教的な気分や、我が国民道徳が顕現しているところなどを、よく考察させて、日本精神を無理せずゆっくり養い育てなければならない。国体的根源をここで見直させるのである。
245: 10/05(土)14:24 AAS
p173
明治維新史もだんだん歴史的研究の範囲内に入ってきたので、これの研究は近時なかなか盛んである。維新の成因についても色々な研究があらわれている。
其の一は王政復古の精神が上下に燃えたからというもの
其の二は諸雄藩の政治的革新思想の凝固によるとするもの
其の三は主として下級士族内の優秀な人材の運動とするもの
其の四は外力に対抗して発した国民的勃興運動と見るもの
其の五は封建制度の財政行き詰まりの打開と見るもの
其の六は資本家的生産関係の支配に向かっての社会変革と見るもの
いずれにしても賢聖文武の明治天皇の御出現を第一とし、これら諸種の原因があることも十分に理解させ、学習者に奮発心を起こさせなければならない。
程近い時の歴史になって来たのであるから、古老の談話などを聴収するとか、各種直接的な環境を使うとかして、なるべく歴史性豊富な取り扱いをなし、現在と関係させることも多いから、この点を忘れてはならない。
246: 10/05(土)16:23 AAS
p174 第四十六 辺境の開発 隣国との修好
学習目的
明治維新が成功し内地がだんだん整頓するにつれ、北海道拓殖の業は進み、千島樺太交換のことは決し、台湾事件を経て支那と修好し、琉球問題も解決し、江華島事件を経て朝鮮と修好し、こうして我が南北の辺境は整理開発され、隣邦とは次第に親密の度合いを加えるに至った次第をわからせ、国家的発展を中心として認知感得をさせる。
学習事項
(1)北海道の開拓
省2
247: 10/05(土)18:00 AAS
p175(2)千島樺太を交換す
千島と樺太を交換するに至った順序はおおよそ次の通りである。
(1)嘉永六年ロシアのプーチャチンが長崎に来た時、千島の択捉以南を我が国、北をロシア領、樺太は他日委員を出して境界確定をするまでは雑居地ということにした。
(2)ロシア人はますます樺太の南部を侵し、安政六年にはロシアのシベリア総督ムラビエフが、自ら軍艦を率いて品川に来て、樺太全部が露領であると主張した。
(3)幕府は文久二年外国奉行竹内保徳、同松平康直を露都に遣わせ、北緯五十度をもって、境界としようと主張し、明くる年八月委員を出して実地踏査の上決定しようと約束して帰る。
(4)明くる年八月我が国は国事多端のため、約束した委員を遣わせることが出来なかったので、露委員は空しく帰った。
(5)慶応二年に至って、幕府は函館奉行小出秀実を遣わせて以前の交渉を繰り返したが、今度はロシアが相手にしなかった。
(6)明治五年外務卿福島種臣が露国代理大使ビュッオフと談判して、「樺太の五十度以北を二百万円にて買収したし」と交渉したが、彼はかえって「樺太全部が露領である」と主張した。当時黒田清隆は、北海道拓殖のことに力を尽くしていたが、樺太について実地で検(しら)べた結果、清隆は書を上って、樺太の地は極寒で小石が多く痩せた土地、利益は少ない、ここを開拓するという費用をつかって、むしろ北海道拓殖に尽くすことが勝っていることを論じた。
(7)朝廷は黒田の論議を受け入れて、明治七年八月、露国駐在大使榎本武揚に交渉させ、樺太全島を彼に譲り、千島全部を我に収め、占守海峡を国境とすることに決定し、多年の紛議ははじめて解けた。
248(1): 10/05(土)18:50 AAS
文久三年
3月: 将軍徳川家茂が上洛する。
同: 『青砥稿花紅彩画』(歌舞伎作品。白浪五人男、弁天娘女男白浪とも)河竹黙阿弥の代表作の一つ。江戸市村座で初演。
5月: 長州藩が下関で外国艦隊に砲撃を行う。姉小路公知暗殺(朔平門外の変)。
7月: 薩英戦争
8月: 天誅組の変。京都で八月十八日の政変が起こる。横浜の山手にイギリス軍、フランス軍が駐屯開始(英仏横浜駐屯軍)
9月: 井土ヶ谷事件
10月: 生野の変
姉小路公知は、破約攘夷派の中核として長洲土佐の志士から盟主と仰がれたが、薩摩藩とつながりが深い近衛(公武合体派)や、過激派長洲に反対する二条と対立していた。犯人は薩摩藩士が濃厚。
勝手な想像だけど、
省11
249: 10/05(土)19:41 AAS
薩長同盟
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
パークス
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
姉小路
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
250: 10/05(土)19:45 AAS
画像リンク[jpeg]:i.imgur.com
251: 10/05(土)22:17 AAS
欧米人の要求通りにしてあげるとめっちゃ褒められる
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
「大坂で徳川慶喜に謁見する。この時、慶喜はまだ勅許を得ていなかったが、期限どおり兵庫を開港することを確約した。パークスは、このときの慶喜の印象を「今まで会った日本人の中で最もすぐれた人物」と語り絶賛した。」
画像リンク[jpeg]:i.imgur.com
252: 10/05(土)22:22 AAS
いわれた通りのことをきちんと実行すると褒められてしまうのかも、こういうのも。
黒田元日銀総裁に瑞宝大綬章 桐花は大谷元最高裁長官―春の叙勲
時事通信 政治部2024年04月29日06時01分
外部リンク:www.jiji.com
253: 10/05(土)22:46 AAS
他に、パークスのWikipedia見ると、慶喜処分案や江戸無血開城に影響を与えた。
明治4年、岩倉具視らと会見し、薩摩藩など諸藩の政府への不満の増大やそれに対処するための御親兵設置・廃藩置県について話し合った。
など、維新に大きな影響を与えている。
そしてアイヌ墓地盗掘事件に関わってる。
アイヌ人の骨研究してどうするのエゲレスキモイ
「このような経緯から児玉作左衛門らは事件の背景について、イギリスの学者(おそらく進化論の擁護者であったT・H・ハックスリー)の要請のもと、イギリス政府がパークスにアイヌ人骨の入手を命じたと推測している。」
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
254: 10/05(土)22:58 AAS
盗人気質なのかも
外部リンク[html]:j.people.com.cn
「持ち主に返還を!」 大英博物館収蔵の中国文化財は2万3千点
人民網日本語版 2023年08月30日16:21
大英博物館のジョージ・オズボーン理事長は26日、同館の収蔵品のうち約2000点が「行方不明」であり、回収できたのはごく一部であることを明らかにした。同館で盗難事件がしばしば発生していることを受け、多くの国が自国から略奪した文化財を返還するよう同館に求めている。
中国のSNSでは28日、大英博物館に「中国の文化財の無償返還」を求める呼びかけが検索トレンド入りした。返還を求めているのは中国だけではない。ギリシャの政府関係者はパルテノン神殿の大理石像の返還を要求し、ナイジェリアも略奪された文化財の返還を呼びかけている。エチオピアは1868年の英国の軍事行動の際に同国北部のマグダラで略奪された十字架、武器、宝石、聖壇の扁額などの返還を求め、ガーナのアシャンティ族も黄金製品を返還するよう同館に働きかけている。
255: 10/05(土)23:47 AAS
アイヌの骨の返還を迫ったら偽物渡してきたらしい…北朝鮮か
英米公使が普通に内政に口だしてるのはなんなんだ。しかし現在の方が政府はアメリカ追従でひどいかも。
256: 10/05(土)23:47 AAS
p176(3)清国との通商と台湾事件
当時清国との国交はいまだ開けなかったので、明治三年六月外務権大丞柳原前光を遣わせて国書を送り、明治四年大蔵卿伊達宗城を全権として修好通商の条約を結び、明治六年三月九日批准交換を行った。この時より以前、明治四年十一月琉球人五十人以上が台湾に漂流した時に、土人がその大部分を殺した。
また六年三月に備中の人も台湾で未開人に遭難を受けたので、明治六年清国との修好通商条約批准に当たって副島種臣は台湾で土民の暴状を挙げて、台湾征伐を行っても差しつかえないかあるかを清国に質すと、清国は琉球人が殺されたからといって日本から干渉を受ける理由はなく、かつ台湾は化外の民であると言明した。
副島が帰ってから台湾征伐のことを願い出たが、その可否は容易に決せず当時政府において最も勢力のあった文部卿兼内務卿木戸孝允にしても、内地の急を説いてこれに反対した。しかし副島は熱心にこれを説いたので、ついに台湾征伐を決行することとなり、明治七年四月四日陸軍中将西郷従道を台湾事務都督とし、陸軍少将谷干城・海軍少将赤松則良を参軍とし、兵三千六百五十八人を率い、軍艦四隻に分乗して進発した。木戸孝允はなお反対し、英米公使も反対したので、政府は大いに困惑して、これを中止することとし、使者を長崎に派遣してこれを伝えたが、西郷従道は全ての責任を自分一人で負うからと言って、五月二日ついに長崎を出発した。
台湾に上陸してからは、多くは容易に降伏したが、牡丹社だけは頑強に抵抗したので、我が軍も大いに苦しんだ。これもやがて力尽きて軍門に降った。
ここに至って清国は使者を遣わせて我が軍の撤退を要求し、次いで福建巡撫沈葆貞は数千の兵を率いて来て、我が軍の撤退方を迫ったが西郷は頑として応じず、やむなく沈も引き上げてしまった。
257: 10/06(日)00:42 AAS
慶喜は肉好きで小松帯刀からもらった豚肉がおいしくてもっと欲しいと頼んで小松が肉を探し求めている手紙があった。
それで薩摩藩士からつけられたあだ名は、豚好きの一橋様で豚一って、慶喜をバカにしてそうなあだ名。
将軍になる前からみんな仲良し
258: 10/06(日)00:50 AAS
仲良しだから慶喜は死の処分を免れたのかと思ってしまうよ
259: 10/06(日)01:04 AAS
秀吉の軍神がついてるかのような連戦連勝の戦いぶりもすごいけど、やはり頭がいいのか。
聚楽弟の聚は集と同じ意味で、楽しいことを集める、皆を集めて楽しいことをやりたいっていう気持ちの強い人だったのか。
260: 10/06(日)02:06 AAS
p177
我が政府はここに大久保利通を清国に遣わして談判したが、彼の国は言葉を左右にして容易に決せず、利通は決然と去ろうとするや、時の駐清英公使ウェートが調停し、清国が日本の台湾征伐を義挙認めること、清銀五十万両を日本に納めること、清国が従わない原住民を自由にさせず以後航客に害を加えさせないことなどを約束し、利通はこの時から台湾に赴き、従道にこの事情を告げ、十一月帰朝した。従道の軍も十二月に東京へ凱旋した。この役は我が軍の戦死は十二人であったが、病死した者は五百六十一人もあり、財を失うこと七百八十万円であった。
琉球は江戸時代において支那と島津に対する両属政策をとっていたことは前に述べたが、明治四年廃藩置県の時には鹿児島県に属させ、台湾事件の後明治八年清国への進貢・封冊を受けることを禁じ、明治の年号を承らせ、十二年沖縄県を置いて治めることとした。
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