【日本史】GHQに焚書された書籍 (542レス)
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401: ブログ転載 2024/11/01(金)16:04 AAS
これによって吾が輩が疑うことには、その名前書きならびに印ともに、 皇帝の自手ではない。しかしながら、強いてこれを偽物とするのもまた証拠がない。かつまた外国人が西海道〔※九州地方〕にいる時、御老中と応接したのもただ三度であると言っている。

今まで外国人の仕方は大君〔※将軍〕に実に国君の名号を保たせ、かつ実権を握らせようとした。ではあるが、ついに成功の期はない。大君〔※将軍〕の威権は影で、その名号は虚である。
その一、二を挙げて言うならば、以前リチャルゾンが殺戮を被るという時、現に犯人がありながら、これを裁判所に呼び出すという権はなく、理非を問わず償金を取られた。
現在の事を言えば、五ヶ月以前から大師団を率いて進発しながら謀叛人の長州を征するという力なし。
日本の政事者は皆支那をもって手本とするゆえに、大事に臨み事を誤ることが多い。ではあるが、日本役人中には人品卑しからず、勇敢で少年の意気を保っている者が往々にいる。
今の時に当たり、もし太閤秀吉のような英雄があり、将軍の職にあり、その先祖のように智勇を兼備し、三港が開けた後、好機会を見失わないという見識があって、厚く外国と交際したならば、莫大な人命を損なわず、あるいは数多の金銀などを費やさず日ならずして、 皇帝の掣肘を免れ、自ら独立の国君となるだろう事は、手を返すかのようであろう。
大阪について通商が始まるならば、横浜の交易は衰えるだろうか。いや、これは後日詳説するつもりだ。
十一月二十一日訳成
鈴木唯一 訳
省3
402: 2024/11/01(金)16:07 AAS
孝明帝に切腹勧めるとか…
水戸学って、尊皇なんだよね?w
403: 2024/11/01(金)18:17 AAS
慶応元年九月十六日に外国船が兵庫港に侵入した兵庫開港要求事件の三日後には、薩長はすでに開港の約束をイギリス人と結ぼうとしてた。
薩長同盟が慶応二年一月。
404: ブログ転載 2024/11/02(土)11:26 AAS
p207
九月十九日、フランス国公使は書を閣老に贈って開港の必要を説明し、かつ薩長はすでに開港の約束をイギリス人と結ぼうとするという書状を告げる

〔御飛脚前探索筋が申し上げる御家老達などの控え帳〕

御城から里内持ち帰り
フランス国から内々に差し出します書翰
口頭で伝達

一、この度某各様方〔※閣老〕に御面談を得て相談すべきところの大事件につき、我が隊の支配頭「カション」と申す者に、先にその内容の意味を逐一申し上げますよう申し付けました。ついては、同人〔※カション〕演述中に万一話しもらすことなどもあるに違いないかと配慮し、別紙の通り、すなわち文書で差し上げます。御熟覧の上、しかるべき御意見をきっとお聞かせてくださいませ。以上。

慶応元丑年九月
フランス全権 ミンストル
御老中様
省5
405
(1): ブログ転載 2024/11/02(土)12:45 AAS
そもそも国民を哀憐する事は、もっぱら君主の務めといえども、しかしながら
天子から預かり先祖から受け嗣ぐところの天下泰平を乱すのは、〔乱す長州にとって将軍の〕仁心はかえって不仁となるに違いない。つらつらただ今の日本形勢を考えるのにもはや、
天子の 叡慮を定め、次には非義である謀叛がある。貴国〔※日本〕の泰平に災いする者は他ではない、この二つの事柄にあるだろうからだ。どうしてかというと、始めから政府は
天子から国政を委任されたことであるから、世界の異変を見て時宜に従うゆえに、各国と交易を取り結んだのである。もともと条約を取り結ぶ事は日本においても
天子及び諸侯方も政府と同意ならない時は、かえって不慮の擾乱を醸すに違いない。すでに政府○(「に」落ちか)に背いて内乱を行う逆徒を、日本政府におかれては速やかに鎮静、まさに行き届かないならば、各国からその逆徒を撃とうと議定した。そうすると、その期に及んで貴政府〔※日本〕からどれほど制しなさっても、従うはずはない。
とりわけイギリス政府の処置を考えると、交易をもっぱらとし、自己の利益のみを第一とし、次第に疑念を生じ、あの心、 大君〔※将軍〕は最早誠意が無く、もっぱら鎖港のお考えであろうと思っている所に、薩州長州の大名がイギリスにひそかに使者を遣わせ、いつとなく二ヶ国において開港致すつもりだとの意向を顕しますゆえに、かえって諸大名と外国と睦まじく交際するところ、ドイツ政府のみ鎖港の志があると、イギリスの政府は深く疑っております。
右の事実は貴政府〔※日本〕においてもいまだ疑いなさるだろうか。右は某篤と見定めるところがあって、こう申しますゆえに、イギリス公使はこれらの疑念を晴らすつもりのために上阪して、右の実否を自ら弁明致すつもりの考えでありますので、過ぎさった月に某は熱海において山口駿河守栗本瀬兵衛を使って、大君殿下〔※将軍〕はいずれにも武威を振るいなさるようと閣老衆まで申し上げておきます。その頃イギリスの公使がしきりに上阪しようとするのを延日に致し、または前に述べるように、大名のその言葉に(この辺り本のまま)不都合であるに違いない。

※仁心=深い愛情
※推参=招かれていないのに訪問すること??
406: 2024/11/02(土)15:37 AAS
>>405
「右は某がとくと見定めるところがあって」に変更
407: ブログ転載 2024/11/02(土)16:26 AAS
併せて右は、どんなに不都合であっても、その各国と兵端を開くならば、その上さらに災いであるに違いない。
また日本では発明した武器もいまだに少なく、西洋には大国があって、その大国の兵士は年々の戦場を経て、新たに発明した武器も多くあるから、日本政府がいまだ西洋に敵対する心がないのは必定の理であり、すでに条約書を取り交わした上は、みだりに〔条約を〕変えることは叶わない。
かつ鎖港するとしたら、それには武備はいまだ調わず、各国に使節を遣わせ、たびたび鎖港の談判に及ぶといっても、各国の政府はあえて承知しない。ともすれば戦争の他に、他の策略があるはずがない。よって右などを貴国〔※日本〕の泰平に災いする者と申す。
昨年も、毛利大膳は心の中の恨みを含んで外国船をみだりに撃脳した一件も、〔フランスは〕速やかにわずかな軍艦を差し向けて憤りを晴らそうと望むけれども、大君殿下〔※将軍〕は制止し難く、黙ったままではない。別の意見で軍艦を引き上げましょうか。
長防二国を攻撃するつもりのことは、始めから各国政府の厳命である。一方で、貴政府〔※日本〕の主旨に逆らわないため、各軍艦を引き上げて長防を撃つ事は止めた。
よって思うに、結局、外国条約の事柄については惑わないように、とくと日本の事情を説明して示しましたゆえ、イギリス公使は今日まで出帆を引き延ばしたけれども、もはや待ちかね、しきりに上阪するつもりのことを望む。
もし一人で致すつもりとしても推測し難いので、なおまたイギリス公使と会議をして、某の意見を説明したので、イギリス公使は某と同意して、何事も軽率な挙動が無いよう堅く約束して、すでに横浜を出帆しようとされるという日、阿部豊後守松平周防守様からの御書翰を手に入れた。
ついてはこの度某が推参したことは各様方と相談して、諸事速やかに決断致すつもりの事を望む。そうすればイギリス公使によって理不尽な挙動を致すまい。
各様方〔※老閣〕は格別のご配慮もあり、御尽力もなきにおいては、余儀なく、某もイギリス公使と同意して、すぐに京都までも推参致すつもりです。ついては、フランス公使が至極の実情をもって申し進める件は、万一条約の事柄について
408: ブログ転載 2024/11/02(土)20:53 AAS
もし天子が大君〔※将軍〕を(ママ)永く御同意されない場合には、進んで四公使は上京の上、前に進めて、
天子へ謁するつもりと公使ら多人数の意見はすでに決定した。始めから京都におかれては、条約許容ではいらっしゃらないので、自然と各国の疑心も解けなくて、ほとんどの交際は大いに親睦することができない。そのような時は、近頃新たに発明した武器及び、戦争の珍書・奇術も伝授するべきではない。そうすれば日本堅国強兵の策も行われない。貴国〔※日本〕が堅強しないならば、国は優れない。貴国〔※日本〕が貴ばないならば
天子及び政府も貴ばない、ついては大君〔※将軍〕が
天子を貴ぶことをしようとしなさるならば
天子はしばらく各国の条約に居合わせ、 勅許し、その上交際の親睦を結び合いますよう、貴政府〔※日本〕において御尽力は肝要であるのがよいです。
もう一度しばらく各国と親睦○(「し」落ちか)しなさるならば、多年を経ないで貴国〔※日本〕は実に堅強することができるはずだ。
もし極めて堅強となった後は、例えば、一、二の外国から異論を発して貴国〔※日本〕の人情に逆らう、もしくは貴国の境界を犯そうとする理不尽な処置を致す、その時期に及んで、大いに防御の力が満ちるならば、各国の人心は、その時に貴国の
天子を貴ぶに違いない。また、恐れるに違いない。
かつ貴国の形勢をじっくりと考えると、ある諸侯は不忠の働きがあって、表は鎖港の議論をはっきりと表し、かつ、
天子までも及び 奏聞の裏では開港の志を抱き、薩州・長州のように密かに英国へ使節を遣わせ、イギリス政府と熟談して、右二ヶ国の内海などに適した地を選び、一個の港を開くつもりのことの感情を顕した。
省2
409: 2024/11/02(土)21:48 AAS
長州征伐は諸外国が幕府にけしかけて実現した?
煽ったわりには実際に長州征伐の時にフランスに援軍を頼んだら断れた、という記事がこのスレにあった気がしたが見つからない。
410: 2024/11/03(日)00:40 AAS
>>205
小笠原壱岐守の小倉城の戦いはここにもあるけど、手紙では幕府優勢に見えるがボロ負けだったんだな。
411: ブログ転載 2024/11/03(日)11:46 AAS
p844
七月三十日、日本新聞は英国公使が征長に関し局外中立を布告した理由を報じる

〔尊攘録新聞紙並びに夷情探索など〕

日本新聞第五十二号
西暦一千八百六十六年九月八日
我が国の慶応二年七月三十日

日本政府がドンバルトル船を買う価格が十八万元の理由である

○英国ミニストル〔※公使〕布告
この度長州征伐が始まりますにつけ、日本在留の英人は、一千八百六十五年三月九日の会議にて定めました規則中、左の箇条を厚く心得るべし。
省12
412: 2024/11/03(日)11:51 AAS
他国の戦争に参加したら罪人になるけどそれを隠して長州征伐を煽る壮大な後出し
413: 2024/11/03(日)14:53 AAS
何が怖いって薩長と欧米の都合のいいように歴史が隠蔽されているのを歴史学者も皆黙っている闇。
司馬遼太郎はそのカリスマ的作家性を存分に使ってプロパガンダを行った側の人間と思う。日本人は朝鮮半島から来たと力強くプロパガンダもしていたし。
荘村の手紙にも外国の船に乗って北京に密航した人の話があったから、龍馬の空白の三ヶ月間密航説は信憑性ありそう。
薩摩と長州が戦争吹っ掛けて幕府が払った賠償金はどこに行ったのか?と考えると、朝鮮が日本へ支払った賠償金が親日の朝鮮人に流れたように、幕府が払った賠償金はそのまま薩長へ流れたのではないかと予想。
414: 2024/11/03(日)17:47 AAS
>>1
以上>>361-『肥後藩国事資料巻六』転載終わり

>>4
以下『高等小学国史新指導書』の続き
第五十二 北清事変と日英同盟
415: 2024/11/04(月)08:04 AAS
p246 第五十二 北清事変と日英同盟

学習目的

北清事変の始めから終わりより、第一次日英同盟が締結される次第を学習し、我が国が東洋平和の中心であり、世界に重きをなすに至った国家的発展を主として、認知感得させたい。

学習事項

(一)諸外国は清国に利権を求める
省3
416: 2024/11/04(月)15:09 AAS
野心を包蔵しながら列強の意向を憚っていたロシア国は、これを視て、直ちに軍艦を派遣して旅順口を占領し、清国がドイツに許したと同じ条件で、旅順・大連の租借を要求した。英国はこれに抗議を申し込んだが、結局三十一年三月二十七日、期間二十五年で租借条約が成立した。
こうしてこれを放任する時は、ついに列国の清国分割という勢いに導かれるであろうとも見られたので、米国政府は清国の領土保全と門戸開放との必要であることを宣言し、三十二年九月には、英・露・独・仏及び我が国に同意を求めた。清国の内地を開放して列国通商の公市場とし、かつ清国の領土の保全を原則とする主意であったから、列国は直ちにこれを受け容れたが、北清事変勃発のために一の空文に帰してしまった。

(二)義和団の乱

だから清国民の間には、これら諸外国の圧迫を憤る者が多く、したがって排外の思潮が強く起こり広がるようにして巻き起こった。ちょうどその時、明治三十二年三月山東省の一角に、義和団または拳匪と称する一団が現れた。彼らはいずれも義和拳と称する一種の体術を備え、これがあれば弾丸も刀剣もその人の身体を傷つけることができないと言い、保清減洋を標榜して、キリスト教徒を虐殺し、教会堂を壊して勢いを逞しくした。翌三十三年四月から五月にかけては、直隷省においてあらゆる乱暴狼藉を加え、天津の外国人居留地を襲い、やがて官兵も加わって北京を囲み、ドイツ公使ケットレル及び我が国の公使館書記生杉山彬を殺害するに至った。
417: ブログ転載 2024/11/04(月)22:13 AAS
AA省
418: ブログ転載 2024/11/05(火)12:22 AAS
p250
(四)日英同盟

ロシア国は三十一年三月遼東半島における旅順・大連の地を清国から租借するに及んで、満州の経営に忙しく、しばらく鉾を韓国に収めて大いに我が国に譲り、翌月第二の協商は東京で成立した。

第一条
日露両帝国政府は韓国の主権及び完全な独立を確認し、かつ互いに、同国の内政上には総じて直接の干渉を行わないことを約束する。

第二条
将来において誤解を来すというところを避けようとするため、日露両帝国政府は韓国が日本国もしくはロシア国に対し、勧言及び助力を求めるときは、練兵教官もしくは財務顧問官の任命については、まず互いにその協商を遂げた上でなければ、何らの処置を行わないことを約定する。

第三条
ロシア帝国政府は韓国における日本の商業及び工業に関する企業が大いに発達させること、及び同国居留日本国臣民が多数なことを認めるのをもって、日韓両国間における商業上及び工業上の関係の発達を妨害してはならない。
省3
419: ブログ転載 2024/11/05(火)15:36 AAS
p252
すぐに北清事変は局を結ぶも兵を撤退させず、密かに清国に迫ってこれを領有しようとし、ついに韓国を威圧して独立を危うくするという観があり、東亜の不運は甚だ急であった。
この時に当たり、英国は東洋に広大な領土インドを有し、しかも支那においては商業上莫大な利益を有していたから、清・韓両国の領土及び主権を保全尊重し、その門戸を開放させ、東洋の平和を保つことにおいては日英はその所見を同じくするところであったから、ついに日英同盟を締結するに至ったのである。
日清戦争の頃は、英国は、日本よりも清国の贔屓をしたものであったが、彼の国は日清戦争や北清事変によって、我が国力が信頼するに足るを知り、ついに自ら称して「光輝ある孤立」の歴史を捨てて、しかも黄色人種である我が国と同盟するようになった。
我が国の政界ではまた、ロシア国の東方経路が進行するや、日露協約か日英同盟か、親露か親英かの議論がやかましかった。伊藤・井上はむしろロシアと協約を結んで東洋の平和を確立した方がよいといい、桂・山縣は英国と結んでロシアを退けた方がよいといっていた。そのうち伊藤はロシア都を訪問することになった。英国はこれを見て、にわかに動き出し、積極的に交渉を始めだした。時は桂内閣であり、元老の支持があり、伊藤も反対しないようになったので、日英同盟は成立したわけである。
この同盟は明治三十五年一月三十日に調印され、日英両国のいずれかが、他国と交戦する場合、一国は厳正中立を守り、もし敵国に他国が加勢する場合には直ちに協同戦闘に当たるという日英防御同盟で、有効期間は五年であった。
この同盟は列強の注意をひいたことは言うまでもなく、独仏同盟が東洋にまで、その範囲を拡張して、新しい均勢を保とうとしたくらいであった。
やがて日露戦争に当たって、この同盟は、よく日仏の協同を食い止めて、我が国の地位に千鈞の重みを加えたことは争われない事実であった。

※千鈞=非常に重いこと。極めて価値が高いこと。
420: ブログ転載 2024/11/05(火)18:47 AAS
p253 学習参考

(1)挿絵解説

「貴族院における日英同盟の発表」は聖徳記念絵画館画題考証五姓田芳柳筆に拠ったものである。明治三十五年一月三十日、日英同盟はイギリス京ロンドンで調印されたので、明治三十五年二月十二日、折しも開会中の第十六次帝国議会の貴族院において、内閣総理大臣桂太郎が発表している光景である。議長は近衛篤麿、議長席の後ろが玉座で、玉座の左右は、親王、国務大臣、その他の高官、手前は議員である。何分「名誉ある孤立」と称した英国と同盟したことであるから、桂総理が発表した時には、盛んな拍手が送られて、桂内閣はゆえに強固を加えたといわれている。ちなみに衆議院の方では外務大臣小村寿太郎が発表した。ちなみに英国では加藤高明公使の時代から、日英同盟の問題が次第に事実問題として取り扱われるのに至っていたが、明治三十二年四月林薫が加藤に代わって駐英公使となって以来、もっぱらこの事に全力を尽くし、ついに成功したものである。

(2)指導要領

欧米の東洋政策は何を目的として、どのように行われたかを明らかにし、かつそれを十分に批評する。
この東洋政策に対する、支那・朝鮮及び我が国の態度を明らかにして、それぞれ批評する。
かねてから支那・朝鮮と我が国との関係を明らかにし、我が国が東洋平和の中心に立っていたことに、よく注意させる。
こうして我が国の「発展」について十分認知感得させると共に、国家的発展と国際生活の関係を考察させる。
結局はインターナショナリズムを背景としたナショナリズムを展望させるのである。
この国際国家として発展させようとするには、内には文化の総合発展がなければならないことも心得させたい。
省3
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