【日本史】GHQに焚書された書籍 (536レス)
上下前次1-新
148(1): 09/26(木)12:48 AAS
外人の掌で転がされる日本
宣教師は維新後大学を創設したり、明治政府のお雇い外国人になる。
フルベッキは明治政府顧問だったが、現代でも菅の顧問は欧米人のデービッド・アトキンソンがやっていた。12億かけた日光東照宮の修復を数年でカビさせボロボロ剥げにした小西美術工藝社の社長
「江戸幕府に対抗した叛逆者の中で私が一番のつわものだった」とグラバーが堂々公言しても誰も気にしない。
外部リンク[html]:museum.kirinholdings.com
宣教師チャニング・ウィリアムズ
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
「この頃の長崎では龍馬や荘村をはじめとする幕末の志士たちが多く活動した。ウィリアムズ、フルベッキが当初暮らした崇福寺と志士たちも利用した料亭花月のある丸山、志士たちのスポンサーであったとされる大浦慶の邸宅、ウィリアムズ、フルベッキがその後暮らした東山手居留地、志士たちに艦艇や銃器を提供販売し、亀山社中とも取引を行ったトーマス・グラバーのグラバー商会やグラバー邸は、程近くにあり、海外の情報を得て学びたい志士たちと、外国人たちのコミュニティが出来上がっていた。大浦慶と手を組み製茶貿易で成功し、土佐藩が頼りにしたウィリアム・オルトが経営するオルト商会やオルトの邸宅も近くにあった。東山手居留地の英国聖公会会堂は、長崎に駐在する欧米の外国人たちが集い礼拝する場所であった。教会管理人の一人をグラバーが務めた[52]。日本のその後の動きを決める、話し合いがこの長崎のコミュニティでなされたと言ってよい。」
149: 09/26(木)13:13 AAS
島津斉彬は島津重豪にかわいがられていて一緒にシーボルトに会ったことのある蘭癖大名。
お由羅騒動で斉彬と後継者争いをしていた久光は蘭学よりは国学だったから生麦事件になったのか?
150: 09/26(木)14:14 AAS
斉彬に仕えていた西郷は久光とは反りが合わなかったし、久光は廃藩置県では大久保西郷に騙されて城を明け渡す前に盛大に花火を打ち上げさせて憂さ晴らしした。
151: 09/26(木)15:36 AAS
p124
薩摩の島津斉彬も海防に注意し、大砲を鋳るとか、火薬の製造法を改めるとか、琉球警備用として大船をつくるとかした。ペリーが来た時には昌兵丸という船を幕府に献じたものである。
佐賀の鍋島直正は斎正といった人で、オランダ人から銃隊操練のことなどを学び、長崎海口に砲台を設け、大砲を鋳て、西洋学術を応用して造船とか化学などの技術を興した。
これら辺防に心を用いた名藩主も昔は遊情文弱の弊害を正すという手段として武備を進め、今は実際の必要からこれを修めるようになり、国内の大勢将に一変しようとしている。
学習参考
(1)挿絵解説
「伊能忠敬諸地方を測量す」は安芸の宮尾氏所蔵のもので、安芸国加茂郡阿賀の地を測量するところ、山は灰ヶ峰である。山を越せば呉である。綱や梵天などを使って盛んに活動している。測量具の不完全なこと、交通不便なこと、その他の事情から推察して、忠敬の偉業に敬意を表させたい。同時に測量などの趣味も養われるように思う。
「高島四郎太夫武蔵野で練兵を試みる」は、当時この練兵に加わった荒木千洲のかいたもので、今男爵有坂勉氏の所蔵となっている。天保十二年五月九日武蔵徳丸ヶ原で行われた練兵である。徳丸ヶ原とは、今の東京市板橋区赤塚町の北部荒川(隅田川上流)の右岸だという。
この図は次々に行われた三つの場面が一つになってあらわされている。第一に行われたのは一番手前右方の大砲が発射されたことである。的は左方にあるのだが見えない。その幔幕内左から三人目が秋帆である。第二に行われたのは長崎人近藤雄蔵が馬に乗り出て短銃で的をうった。中央馬上の勇ましい姿がそれである。第三に行われたのは、その向こうの光景で隊が二つで野砲が三門、こちらの隊の半分は秋帆が率いる一番こちらにいる。あとの半分を指揮しているのは副長市川熊男である。あちらの隊の手前半分の隊長は高島浅五郎(秋帆子)で中央大砲の左側にいるし、向こう半分は副長野口善太夫が指揮し、その隊の中央にいる。図の一番向こうには幕府の重臣や諸大名がいる仮屋があって、その後ろには多くの長槍がおいてある。群衆もたくさん見に来ている。
時代は次第に現在に近くなっている。
152: 09/26(木)15:53 AAS
p126(2)指導要領
次第に教材が複雑になってくる。この複雑を克服して、一元的に自己の進路を見つけさせるところに教育効果がある。したがってこれらの教材は歴史性豊かなものだと思わなければならない。
第一には外国の事情を日本と比較して大体のことを取り扱う。
第二には外国が修好通商を求めることの是非批判をさせる。
第三には外国の侵略策に対する批判をさせる。
第四には国内における尊皇思想を批判させる。
第五には国内における鎖国主義を批判させる。
第六には国内における国防について批判させる。
第七には国内における尊皇攘夷を当時の情勢と今日の立場から批判させる。
水戸斉昭にしても最後のところは開国でなければならないと考えていたというから、この時代としてはどうであるべきかを十分に考えさせ、今日の抽象論としては、自主的に国際生活をすることがよいと言える。自主的に国際生活をするには、尊皇を中心とし、国防を必要とし、そうして国際生活に貢献することが必要である。
省1
153: 09/26(木)16:37 AAS
p127 第四十三 洋学の発達と開港の始末
学習目的
鎖国祖法が行われつつある間に洋学が発達して来た次第。洋学者が先んじて開港論を主張したため、国内には攘夷論あり開国論ありという時、早くも海外からの関係が切迫して来て、幕府がやむなく開港するに至った事情を認識し、国家と国際の関係に併せて当代文化の発展にも触れさせたい。
学習事項
(一)洋学の発達
省3
154: 09/26(木)17:48 AAS
p129
ついで将軍吉宗は彼の地の天文学を憧憬して、ついに洋書の禁を解くことにしたのが享保五年で、その年儒臣、青木昆陽(敦書)を長崎に遣わせてオランダ語を学ばせた。この時に覚えたオランダ語は僅かに数百語に過ぎなかったが、しかしこの時から洋学を修める者が次第に現れて来たことは吉宗の功でもあるが、また昆陽の功績が大であるのを思わなければならない。
昆陽の門人に前野良沢という人がいる。豊前中津の藩医であったが、長崎に遊んでオランダ語を学び、またオランダ書の解剖書ターフル・アナトミカを買い求め、これによって実地の解剖を試み、友人である若狭小浜の藩医杉田玄白等と共にこの書の翻訳にかかり、四年間の苦心を経て、稿を改めること十一回、家治の時安永八年ついに完成し「解体新書」と名づけて出版した。
これは確かに新学の礎石を置いたともいうべきものであった。良沢がオランダ学に志したのは四十七歳の時で、この時昆陽の門に入り、のち長崎に遊ぶという途中太宰府に詣り誓って曰く「今奮然と蘭学に志し、その奥を極めようとすることを期す。またちっとも名利を求め、利を射るという策ではない。ただ神明よ、幸いにこれを推し量れ」と。従って解体新書が完成するに及んでも自分の名前を載せなかったという。
また大槻玄沢は磐水と号した人。一の関の藩医の家に生まれ、のち江戸に出て玄白・良沢二翁に学をうけ、玄白と良沢の一字づつをとって玄沢と号した。解体新書が完成して十五年後、天明八年に「蘭学階梯」二巻を著した。この書はオランダ語の発音・綴字法などを示し、初学にとってはすこぶる便利有益なものであった。玄沢の著書は多かったが、中でも「重訂解体新書」は有名である。
今日の医学でも解体新書や重訂解体新書から来た言葉がかなりに多い。神経とか腱とか言うのは皆これである。
玄沢はオランダ正月をした人であるが、これは挿絵解説に譲る。
※オランダ正月は、禁教によってクリスマスを祝えないオランダ商館のオランダ人が、代わりにオランダ冬至として開催、または日本の正月祝いをまねてグレゴリオ歴1月1日に、日本の役人や通訳を招いて催した祝宴。キリスト教を信仰しないユダヤ人もクリスマスは祝わないので、8日後の元旦をキリストの割礼日として祝う。生後8日目の男児をユダヤ人として認める割礼という儀式がある。
155: 09/26(木)20:55 AAS
p129
この頃の新学つまり洋学は、医学の研究を目的とする者も多かったが、中には平賀源内のような人もいた。源内は讃岐高松藩の足軽の子、吉宗が洋書の禁を弛めて九年目の享保十四年に生まれ、才智非凡という人で、博物学がその人の本領であったが、ほとんどあらゆる新学に通じ、特にエレキテル(電気)を使ったので有名である。
自ら発電機を作り、家具什器の新案は百種より少し多いという。
また彼は長崎から数々の洋品を取り寄せて研究した。その頃渡来したものには、晴雨計・寒暖計・震雷計・写真機などがある。
さて海防の論が盛んになるにともなって兵学を研究する者も次第に出てきた。江川太郎左衛門・高島秋帆・佐久間象山などがそれである。
また、ロシア・イギリスの艦隊が来るに及び、両国語の必要が起こり、文化六年幕府は長崎通詞に両国語の兼修を命じ、北アメリカに漂流した中浜万次郎も幕府に召されて、だんだんこれらの言語研究が発達した。
(二)開港説出る
攘夷論の盛んな時に当たって洋学者の中では、一つは世界の大勢から、一つは我が国の兵力不足の点から鎖国政策の不利を説き、開港の意見を発表する者も少なくなかった。例えば渡辺崋山・高野長英はこれである。
たまたま天保九年に至り、オランダ人が風説書を上り「イギリス船モリソン号日本の漂民を乗せて浦賀に来て通商を願おうとする」という情報を告げた。この時幕府は有無に及ばずこれをも打ち払おうとしたのであった。時に渡辺崋山は慎機論を作ってその不可を論じ、高野長英は戊戌夢物語を著してその無謀を論じた。
崋山は三河田原藩の士、通称を登といった。画を学び儒学を究め、のち高野長英と交わって尚歯会を起こした。この会は蘭学を応用して政治・経済の実利を興そうとするのであった。崋山の慎機論は容易に世に発表されなかったが、江戸町奉行鳥井忠耀は深く蘭学を憎み、蘭学者の徒が無人島の開拓を名として外国人と交通を企てているということを聞き、急に捕らえて獄に下した。
省1
156: 09/26(木)21:28 AAS
>>81
高野長英はシーボルトの弟子
レポート提出させてシーボルトは日本文化を労せず手にする
外部リンク[html]:www.ndl.go.jp
「本書『日本』はシーボルトの日本研究の集大成。日本の地理、歴史、言語、宗教、美術、政治、経済など諸分野について、シーボルト自身による調査・収集資料と、日欧の既存の資料をまとめたもの。高野長英ら門人たちが提出したオランダ語論文も生かされている。ドイツ語で書かれ、一部はオランダ語、フランス語等に翻訳された。初版は1832年から1851年にかけて分冊形式で刊行され、その後も印刷されながら公刊されなかった部分がある。当館所蔵本には欠あり。」
渡辺崋山は尚歯会に出入りして高野長英らと海防の研究をする。
シーボルト親子については>>80-82
親父は地図泥棒で息子は開国後の不平等条約締結に奔走した。
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
「アレクサンダー・ゲオルク・グスタフ・フォン・シーボルトは、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男で、幕末に在日英国公使館の通訳を務めた後、明治政府にお雇い外国人として40年間雇用された。不平等条約の最たるものとして知られる日墺修好通商航海条約協力の功によりオーストリア=ハンガリー帝国の男爵となった」
157: 09/26(木)23:01 AAS
通商条約の起草も手がけたシーボルト父はただの医者ではなく開国を見据えて来日していたし、それはティチングが話していた田沼の開国計画失敗と関連があるのだろう。
開国に必要な条約締結は息子が完成させた。
日本を開国させたいシーボルトは弟子の高野長英たち日本人蘭学者にも開国論を吹き込んでいたと思う。だから真っ先に蘭学者が開国論をぶち上げた。
158: 09/26(木)23:57 AAS
p131
長英は陸中胆沢郡水沢藩主、伊達候の典医高野玄斎の養子で、蘭学を修め、江戸で医を開業し、蘭書の翻訳に従事していた。長英は崋山などと共に尚歯会を起こして、時事を談論したが、時の人はこれを蛮社と言っていた。無人島事件では獄に下ろされたが、関係がなかった。しかし彼の戊戌夢物語は早く世に流布され、幕府の忌諱にふれ、天保十年終身の禁固に処されて伝馬町の獄に下ろされた。弘化二年獄舎に火事が起こった。当時の法によれば、出火の際は三日を期限として囚徒を放つことを例としたから、長英も出たが、そのまま都下に潜伏し、顔面を硝石で焼いて容貌を変え東西に流浪し、再び江戸に下り名を偽って蘭学を講義し医を生業としたが、嘉永三年幕吏に囲まれ一人を斬り、一人を傷つけて自殺した。時に四十七であった。
(三)外国船打払の令をゆるめる
イギリス船が来るに違いないとの風説はあったが、ついに来なかった。それは天保八年に米船が一隻浦賀に来て追われ、鹿児島に至れば、ここでも追われ、空しく帰ったことがあるが、これが漂流民七名をもってやって来たイギリス船モリソン号だったのである。従って風説は事の後で起こっていたことになる。
しかし天保十一年には隣邦清国が阿片戦争といって英国と事を構え、寧波が陥落し和を結んだ報告などが伝わったので、水野忠邦が改革を行うのに当たり、外船が難破に逢って漂着した者には薪水食料を与えることなく、一円に打ち払うのは当を得ていないと言うので、天保十三年七月には「異国船を見受けますならば、得と様子を明らかにし、食料薪水が乏しく帰帆が難しく成る様子でありますならば、望みの品を相応に与え、帰帆致さなければならない旨を申し諭し、もっとも上陸はしてはいけないのであります」というような令を下した。これがいわゆる天保令の緩和である。
159: 09/27(金)13:24 AAS
p132
忠邦改令ののち三年、弘化元年オランダは国書及び宝物を持って長崎に来て、将軍家治の時天明二年<皇紀二四四二-西紀一七八二>イギリスのワットが蒸気機関を改良して成功し、家斉の時文化四年(皇紀二四六七-西紀一八〇七)フルトンが汽船を発明し、遠い国々へも自由に往来することができる、とうてい鎖国が行われない事情をねんごろに忠告した。
しかし幕府はなお「好意の程は感謝するが、祖宗歴世の法はたやすく変えることもできない」と答えてこれに従わず、いよいよ海防を厳にすることとした。
(四)アメリカ合衆国及びロシアの使節来朝す
その後、英・米・仏などの外国船の出没はいよいよ頻繁を加え、海防攘夷の論はいよいよ盛んとなり、幕府は嘉永三年五月に、奇説を唱え人心を動かすような言論を慎まなければならないと命令している。
それにもかかわらず弘仁元年と四年とに開国の事を忠告したオランダ人は弘化五年三度英・米諸国に通商の許可を迫ろうとするたくらみがある事を報告し、同五年八月にはカピタンからも国王の意を伝えて「アメリカから近々使者に命じて通商互市を願うところがあるはずだ。もしこれを拒むならば必ず騒乱を生じるだろう」と告げ、また別に、米国が欧州に放った「日本に命じて鎖国の法を解かせよ」との通牒も上がった。果たして孝明天皇の嘉永六年米使ペリーの来朝となって来た。
米国が日本の開国を促そうとする理由はおおよそ二つの重大な理由があった。その一は米国が西紀一八八四年つまり弘化元年に米清条約を締結したので、その途中において石炭補給などの必要が起こった事で、他の一つは太平洋方面の捕鯨が発達したために避難港が欲しかったことである。
ここにおいて米国政府は弘化三年提督ビットルを我が国に派遣したが、拒むところとなり、次いで漂民受領のために長崎に来ていたグリン中佐が帰国するや、盛んに日本開国の説を唱え、かつ兵力を動かせば容易に成功するはずの事を論じた。
※カピタン=オランダ商館長
160(1): 09/27(金)15:44 AAS
p133
ここにおいて嘉永五年メキシコ戦争に驍名を馳せたペリー提督に十二隻から成る大艦隊を授け、武力の後援により日本を強要してその目的を達成させようとした。
ペリー提督はいまだ必ずしも日本に向かって禍心を包蔵するものではなかったが、いかにもやむを得ないので兵力に訴えてもその目的を致すつもりの決心であった。言い換えればその使命は平和的であったが徹頭徹尾平和的ではなかった。当初から喧嘩腰ではなかったが、時と場合とによっては、そうすることも辞せない覚悟であった。
十二隻の艦隊ではあったが、実際我が国に姿を現したのは前後九隻で、最初に浦賀に来たのは四隻であった。
ミシシッピー号は旗艦である。一千七百トン・三本帆柱・外輪汽船・速力七、八ノット・石炭を1週間分積載することができるもの、順風の時には帆を利用して石炭を倹約する。
サスケハナ号は途中旗艦とした外輪汽船、プリマウス号は帆船で浦賀に来た時はミシシッピーにひかれてきた。サラトガ号はやはり帆船でサスケハナにひかれて来た。時は嘉永六年六月三日午後五時頃であった。
ペリー提督は米国の強烈な希望を背負って来た。大統領フィルモアを始め、国務長官・海軍長官その他内閣諸長官は多大な希望をこの遠征隊に託していた。
だから当時の日本人が彼ペリー提督の来航を見て慌てて狼狽、これを敵視し、これを仇敵視したのは間違った見解であり観察でもあったが、だからといって後の人がペリーを日本の恩人視するのも見当違いである。
ともあれ幕府も大いに驚き、老中阿部正弘は浦賀奉行戸田氏栄及び井戸弘道に命じて浦賀の西北九里が浜で応接させ、通商のことについては明くる年オランダのカピタンを使って報告させよと言ってペリーをかえらせようとした。
ペリーは日本が二百年来の旧習を打破するには、その評議のために多少の日数を要さなければならないことを思い、まずは幕府に進呈すべき贈り物を搭載した運送船の未着と、支那長髪族の乱に伴い、同地在留の米人を保護する必要もあったので、彼は来春また来るつもりのことを約束して、六月十二日浦賀を去った。去るにのぞんで、幕府の制止をしりぞけ、強いて艦隊を率い、深く江戸湾に侵入するなど、態度はすでに日本を圧するという様子があった。
161: 09/27(金)18:05 AAS
石炭や捕鯨の善良な開国要求理由は建前で、日本の金銀を狙った商売と布教が開国の目的だったと思う…
亜米一(あめいち)のウォルシュ商会のウォルシュはフルベッキと共に日本に来て、ハリスに頼まれて長崎領事館長を兼任しているので仲間内で分担して商売や布教してた。
「2 アメリカ・プロテスタント諸教会による拡大宣教活動
幕末の軍事・政治(外交)・キリスト教伝道の三位一体の展開は,「ペリー提督の軍事による日本の開国,アメリカ総領事ハリスの外交による日米通商の開始,ヘボン(長老派)・フルベッキ(オランダ改革派)等による知識の開窓」として要約できるであろう。
ペリーの日本開国の動機は,日本との通商,難破した捕鯨船員の扱いの改善,カリフォルニア・チャイナ間の太平洋航路の寄港地等である。しかしながら,これまで主目的については研究者間で意見の相違があったが,近年では,「明白な神意(Manifest Destiny)」の信念も有力な考え
方になっている(三谷(2003)。すなわち,アメリカは,19世紀中葉のオレゴン紛争の解決,テキサス併合,カリフォルニア編入等により,太平洋に長大な海岸線をもつ国家となった。
アメリカの急速な領土の拡大・膨張は,「明白な神意」の結果であり,さらに,太平洋を越えチャ
イナに進む信念にもなったのである。日本は,チャイナへの道の経由地(とくに石炭補給地)であった。ペリー自身も,アメリカ聖公会(監督派教会)に属し,「信仰厚く,航海中も毎日聖書を読むのを欠かさず,日本開国の命をもって,日本宣教の門戸を開く機会となる光栄ある使命」として受け取っていたのである。」(続く)
162: 09/27(金)18:06 AAS
「これにより,「宣教の拡大活動」,すなわち,医療・英語教育・社会教育を通じて,居留地に出入りする日本人とキリスト教との関わりができるのである。この視点から,ハリスは,上海の聖公会宣教師に対して
「日本宣教の将来の成功は派遣される初代宣教師の性行,態度,人格によるものである。・・・学校を興し,英語を教え,貧民に施療することなどが有益である。従って日米通商条約は貿易の開始ばかりでなく,キリスト教の開教第一歩である」
と書簡を送っているのである。
日米修好通商条約が調印された2か月後の9月,長崎に碇泊中のアメリカ商船ミネソタ号に,日
本来航時のペリー艦隊の首席通訳官をつとめたS.W.ウィリアムズ,上海・水兵館付き司祭の「ア
メリカ聖公会(監督派教会)」のE.W.サイル,アメリカ海軍(ポーハタン号)従軍牧師の「オラ
ンダ改革派」のH.C.ウッドが集まり,日本宣教問題を論じた結果,3人の連署で,アメリカ聖公会,アメリカ長老教会,アメリカのオランダ改革派教会の外国伝道局に対して宣教師の日本への派遣要請するに至った。S.W.ウィリアムズは,「アメリカン・ボード」から清国に派遣された宣教師(日本漂流民を乗せたモリソン号乗船や通訳として2度にわたるペリー艦隊乗船の経験をもつ宣教師)であったが,本来は,「長老派」の宣教師であった(すでに述べたように,長老派やオランダ改革派は,アメリカン・ボードに加わりながら,1830年代初めに,それぞれの外国伝道局も設置しているのである)。
これに応じて,アメリカ聖公会は,1859年5月に清国派遣宣教師J.リギンスを,さらに,6月に
は清国派遣宣教師C.M. ウィリアムズを長崎に送った19)。この1859年は,アメリカ聖公会にとっては,10年来の懸案事項(イギリス聖公会との間の清国ミッションの管轄権)も,イギリス国教会(聖公会)が浙江省,アメリカ聖公会が江蘇(上海を含む)で決着した年でもあった。同年10月には,長老派のヘボンが宣教医として夫人とともに横浜に到着し,11月には,オランダ改革派のブラウン夫妻とシモンズ夫妻が横浜に,新婚のフルベッキ夫妻が長崎に到着した。 (続く)
163: 09/27(金)18:06 AAS
Cary(1909)の評価では,彼らは「日本におけるプロテスタント宣教師団の活動開始の栄誉を担う6名の宣教師」であった。さらに,翌1860年4月にはアメリカバブテスト自由伝道協会からゴーブル夫妻も横浜に到着する。中国では,外交で列強を制したイギリスがキリスト教宣教でも主導権を握ったが,このように日本では,対日外交で主導権を握るアメリカが宣教をもリードした
のである。」
富田鐵之助「幕末維新のアメリカ留学と富田鐵之助―「海舟日記」に見る「忘れられた元日銀總裁」富田鐵之助(5)―」『東北学院大学経済学論集』第186号、東北学院大学学術研究会、2016年3月、1-91頁、ISSN1880-3431。
164(1): 09/27(金)21:33 AAS
p135
(五)和親条約を結ぶ
こうして外交のことは事態がすこぶる重大となったで、ペリーが来るや、幕府は京都所司代に命じて、直ちに朝廷に奏上させ、次いで国書を訳してこれを諸藩に示し、大名有司に意見を述べさせたが、攘夷開港いづれとも定まらず、この時から世の中は、もの騒がしくなって来た。たまたま将軍家慶は六月二十二日薨じ、七月に家定が将軍となるも、幕府はいまだ対外の方針を示すことができなかった。
この月ロシアのプーチャンチンがまた来て、軍艦四隻を率いて長崎で通商その他の要求をして、半年もいたが目的を達せずして帰った。
幕府はこの時「ぶらかし策」をとって嘉永六年十月オランダのカピタンに命じて、米国へ「将軍の喪中であるから返答は延期する」と通達させた。
また来年までと言ったのであるから、米国まで行ってくるとすればここ数年は安心だと考えていた。
それなのに去ったペリーは六月二十日琉球那覇に到着し、八月一日香港に向かって去った。彼は香港・マカオの間の港湾に集合していると、フランス国軍艦やロシア国軍艦が東航するのが目に入った。これは確かに日本に向かうものに違いないと確信し、せっかくの苦心も他国に先んじられては不利益だと思って、一挙日本に向かって再航した。そのために安政元年正月十六日には早くも浦賀近海小柴冲に入った。始め軍艦七隻を率いていたが、次いで二隻が来て、同月下旬神奈川冲に進み、すこぶる強固な態度をとった。
幕府は会見の場所を浦賀にするつもりであったが、彼は江戸の近海でなければならないことを主張して譲らず、今や彼は夜中江戸の半鐘が聞こえるところまでも進んだから、余儀なく会見場所を横浜に変更して、数度の交渉を重ねた結果、孝明天皇の御代、将軍家定、老中阿部伊勢守正弘の時、安政元年三月三日に至り、日米和親条約が締結された。世にこれを神奈川条約という。
これによって下田・函館の二港を開き、薪水食料を給することなど十二章を定めたが、ペリーはこの時から下田・函館を視察して、五月再び下田で条約付録を締結し、六月初旬帰途についた。次いでイギリス・ロシア・オランダとも略々同様の条約を結んだが、ロシアとはこの時国境の問題をも議定した。つまりロシア国とは千島を二分し、択捉以南は日本、ウルップ以北は露領ということにし、樺太は両国人の雑居地ということにして安政三年十二月二十一日日露和親条約と共に確定した。
165: 09/28(土)07:14 AAS
p136(六)攘夷開港の論定まらず
和親条約は結ばれたので、その条約の規定に従って、アメリカ合衆国の総領事タウンゼント・ハリスが下田に来たのは安政三年七月二十一日であったが、八月五日柿崎の玉泉寺に入って領事館とし、九月二十七日書を幕府に進呈し、出府して将軍家定に見え、通商条約を結ぶべき世界の大勢を説いた。よどみなく六時間に亘ったので、幕府もこれに動かされ、会議の上、通商条約及び貿易章程の案を議定したのが安政五年正月十二日であった。
この案で勅許を願ったが、国論はいまだ定まらないので、孝明天皇は深く国家の前途を憂えて容易に許しなさらず、それなのに幕府は勅許を得られるものと信じていたので、三月五日をもって調印するはずのことを、すでにハリスと約束してあったから、阿部伊勢守に次いで老中上座となり外交のことに当たった堀田備中守正睦自ら上洛して百万運動を試みたが、結局、朝廷では、三家以下列藩の会議をもってさらに具奏せよと命じなさった。天皇は幕府の施設について不安な宸憂があったため、事を誤らせないようにとの天子の裁断であったという。畏れ多いことである。
三月五日になっても堀田は帰らないので、ハリスは調印を迫ることがすこぶる急であった。堀田は四月五日京を発し、二十日江戸にかえった。
166: 09/28(土)07:16 AAS
堀田正睦も蘭癖大名
167: 09/28(土)07:36 AAS
p137(七)通商条約を結ぶ
この時から以前に、幕府では大老推任の議決をし、堀田備中守が帰府の後、僅かに二日、即座に井伊掃部頭直弼が徴用される。直弼は近江彦根の城主、提封三十五万石、諸大名の上首として世に関西旗頭と見られていた人。人物の上からみても幕府としては、非常時局面を処理するにはこれ以上の適任者がないと考えた。
井伊直弼が大老となるや、ハリスに対して調印三ヶ月の猶予を願い、七月をもって調印しようとした。
以前に安政三年、清国において広東の官吏が停泊していた英船アロー号に使役する支那人水夫を長髪族と疑い、船内に闖入して英国旗を倒し、水夫を捕縛していったというアロー号事件が起こり、英仏は同盟して清国を攻め、英仏は大勝して安政五年五月天津で和を講じ、その勢いをもって我が国に来て通商を迫ろうとする風聞があり、ハリスは時によると英仏に先を越されては一大事と考え、幕府に対して英仏が恐るべきことを説明して、七月を待たずに即時調印すべきを促すことはすこぶる入念であった。井伊直弼もよほど決断に苦しんだが、もはや猶予はならずと、ついに決意して、勅許を待たないで調印してしまった。これが安政五年六月十九日である。
この条約は十四条からなっていて、下田・函館の他に、神奈川・兵庫・長崎・新潟の四港を開き、また我が国に居留する外国人に信教の自由を与え、治外法権や関税の片務協定を認めたので、不利不面目の点が多く、これが明治に至って条約改正という外交上の癌となって現れてくる。
こうして米国との通商条約は調印され、次いで七月にはオランダ・ロシア・イギリスと、九月には仏と、ほぼ同様の条約を結んだので、世に五国条約ともいっている。
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