【日本史】GHQに焚書された書籍 (542レス)
上下前次1-新
155: 2024/09/26(木)20:55 AAS
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この頃の新学つまり洋学は、医学の研究を目的とする者も多かったが、中には平賀源内のような人もいた。源内は讃岐高松藩の足軽の子、吉宗が洋書の禁を弛めて九年目の享保十四年に生まれ、才智非凡という人で、博物学がその人の本領であったが、ほとんどあらゆる新学に通じ、特にエレキテル(電気)を使ったので有名である。
自ら発電機を作り、家具什器の新案は百種より少し多いという。
また彼は長崎から数々の洋品を取り寄せて研究した。その頃渡来したものには、晴雨計・寒暖計・震雷計・写真機などがある。
さて海防の論が盛んになるにともなって兵学を研究する者も次第に出てきた。江川太郎左衛門・高島秋帆・佐久間象山などがそれである。
また、ロシア・イギリスの艦隊が来るに及び、両国語の必要が起こり、文化六年幕府は長崎通詞に両国語の兼修を命じ、北アメリカに漂流した中浜万次郎も幕府に召されて、だんだんこれらの言語研究が発達した。
(二)開港説出る
攘夷論の盛んな時に当たって洋学者の中では、一つは世界の大勢から、一つは我が国の兵力不足の点から鎖国政策の不利を説き、開港の意見を発表する者も少なくなかった。例えば渡辺崋山・高野長英はこれである。
たまたま天保九年に至り、オランダ人が風説書を上り「イギリス船モリソン号日本の漂民を乗せて浦賀に来て通商を願おうとする」という情報を告げた。この時幕府は有無に及ばずこれをも打ち払おうとしたのであった。時に渡辺崋山は慎機論を作ってその不可を論じ、高野長英は戊戌夢物語を著してその無謀を論じた。
崋山は三河田原藩の士、通称を登といった。画を学び儒学を究め、のち高野長英と交わって尚歯会を起こした。この会は蘭学を応用して政治・経済の実利を興そうとするのであった。崋山の慎機論は容易に世に発表されなかったが、江戸町奉行鳥井忠耀は深く蘭学を憎み、蘭学者の徒が無人島の開拓を名として外国人と交通を企てているということを聞き、急に捕らえて獄に下した。
省1
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