【日本史】GHQに焚書された書籍 (534レス)
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332: 10/14(月)14:07 AAS
ディズニー落ち目で日本のアニメも狙ってる。
金の匂いがすると飛んで来る。
333: ブログ転載 10/14(月)18:52 AAS
p218(五)洋風の輸入と国粋の保存
明治十年頃までは旧習一洗・現状打破の時代、十年頃から二十年頃までは自由民権・西洋心酔の時代であった。
政府において最も極端な保守思想家であった岩倉具視が逝去した翌月、すなわち十六年八月に伊藤博文が憲法調査を終えて欧州から帰朝した。その新知識を発揮し、新統治を行おうとするに当たって、主として模範としたのはドイツにおける政治組織の美であった。「かやつも、こやつも、ドイツでなければ夜が明けない」とまで悪口を言われる程であった。その主義ではじめて内閣制度をつくり、伊藤第一次内閣が出来たのは、明治十八年十二月であったが、この内閣が手をつけた条約改正問題を解決するためには、極端な欧化政策をとるのがよいということになって、外相井上馨は日本の家屋・衣服・飲食を欧米化し、日本人種改良まで唱えるに至り、鹿鳴館(今日の華族会館)において、長夜の宴を開き、欧風舞踏や、滑稽な仮装会に浮き身をやつした。外国使臣徒は、永田町の首相官邸で催された仮装舞踏会に参列して、当年の奇兵隊長に扮した山縣や、安宅の弁慶に扮した渋沢、ヴェニスの貴族に成り済ました伊藤、田舎武士に扮した大山などの仮装を見たものである。
思想界では中江兆民が「一年有半」において「民権これは至極の道理である。自由平等これは大義である。これら理義に反する者はついにこの罰を受けぬということはできない」といった。彼はフランス学者で、ルソーの心酔者であった。キリスト教思想の新島襄は海老名弾正・小崎弘道・浮田和民・市原盛宏・徳富猪一郎・宮川経輝・金森通倫など有為の人物を輩出したときである。加藤弘之はまたイギリスのポップスの思想とダーウィンの思想を結びつけて進化論を唱え、多く欧米における思想が入り込み、一般に洋風駿々として輸入される時代であった。
334: ブログ転載 10/14(月)18:57 AAS
p220
この風潮に対して、明治十一年一月、早くも藤井惟勉は明治新論を公にし「祭祀は孝を明らかにし、祖先につかえ、神明に通じるゆえんである」と論じ、十二年八月、吉岡徳明は「開化本論」を著して、物質文明を斥けて精神文明を説き、同年十月田中知邦は「大日本国教の要旨」を出して報本反始の道徳を高調し、十二月田中義廉は「古事記玄義」、同年神邑忠起は「通俗愛国問答」、十四年十月佐藤茂一は「日本憲法論」、千家尊福は「大道要義」十五年十一月岩崎実也は「国教一般」十六年八月三木整は「皇国政教論」、同年九月水原完梁は「古学通弁」、をそれぞれ著して、固有の思想を力説したが、明治十九年十二月には、西村茂樹が帝国大学において三日間に渡って「日本道徳論」という公開講演を行って一大衝動を世人に与えた。
その後西村は「日本弘道会」を率いて大いに旧道徳の吹聴を行い、これと互いに並んで三宅雄二郎・志賀重昴・杉浦重剛・井上円了などを中心とする政教社が起こり、機関雑誌「日本人」および「日本新聞」によって大いに国粋保存の思想を強調した。二十二年頃は最もその活躍した時である。こうして二十年頃から二十七、八年頃にかけて国粋保存時代があらわれる。二十一年には山岡鉄太郎などの「日本国教大道社」が起こり、機関誌「大道叢誌」が発行され、二十三年には惟神学舎の「隨在天神(カンナガラ)」二十五年に「神道」それぞれが発行され、二十二年の憲法発布、二十三年教育勅語の煥発に相応しい世態が出現したのである。
こうして旧来の事物を尊重する風が生じて来て、能楽は復興し謡曲も行われ、芝山内に能楽堂が出来るようになった。
芝居の方も欧化傾向に動かされて、明治十九年八月朝野の名士によって演劇改良会ができ、西洋劇のように写実的にさせることが相応しいと論じたこともあるので、だいぶん変わったものも出てきたが、この頃歌舞伎劇に九代目市川團十郎・尾上菊五郎のような名優があらわれて、改良運動をも斟酌して一際目立って一頭角をあらわしたので、團菊中心の演劇時代をあらわして来た。
※報本反始(もとにむくいはじめにかえる)=天地や祖先などの恩に報いること。人が天地や祖先など、存在の根本に感謝し報い、発生のはじめに思いを致すこと。
335: ブログ転載 10/14(月)22:52 AAS
p221 学習参考
(1)挿絵解説
「狩野芳崖の書」は東京美術学校所蔵のもので、慈母観音の絵である。芳崖は独特の墨画山水を造出したが、彼の特色は人物画特に鬼神の図である。彼は西洋画法を加味し、着色の美に注意した。その芸術は新奇なものであった。この意味からすれば、慈母観音よりも、むしろ平家蟹のような不動明王において、彼の真面目を見ることが出来るだろう。
慈母観音の画想は、彼が妙義山金洞峰を見て出来たというから、この山は妙義山と見てもよい。
「橋本雅邦の画」は東京美術学校所蔵のもので、「白雪紅葉」という画題である。明治二十三年上野における第三回内国勧業博覧会に出したもので五十六歳の時の作、彼は芳崖と共に狩野雅信について学んだのであるが、和漢の古画に洋画の長所をも酌み、別に自己の立場をつくった人である。いわば復古的新意をもった人で、山水においてすぐれていた。
雅邦の真の味は、芳崖に引きずられて、強いて新奇を画幅の上に求めた時ではなくて、芳崖と伍する以前か、または明治三十一年東京美術学校引退以後において見られるという。この意味からすれば、ここに出ている画以上によい画があるかもしれない。
これら二つの絵によって、日本画の価値が認められてきたことを喜ばねばならないが、同時に日本画も次第に洋画を取り入れていくことに注意した方がよい。こうしてついには日本画とか洋画とかいえない境地に進むかもしれない。
ただ惜しいことにはこれらの芸術品から色彩をぬいだことである。教科書はやはり奮発して改良せねば駄目だと思う。
336: 10/15(火)00:20 AAS
p222(2)指導要領
私は国史学習者の指導においては、まず何よりも形式環境や事物環境の整理をすべきことを力説している。これは教育の本質にも、歴史の本質にも合致することなのである。
環境を整理するのには、教科書に出ているものはなるべくそれを使うようにして、教科書に出ていないものを準備した方がよい。例えば貨幣の各種類とか、当時の文献とか、芳崖や雅邦がかいた他の絵画とかを準備した方がよいけれども、しかし教科書挿絵のように彩色を抜いた不完全なものでは仕方がないから、これは彩色のあるものを準備してその欠を補った方がよい。
この教材の筋道は、洋文明摂取が盛んであった世の中が、やがてまた自己の姿にかえって、固有文明を思いだし、その二つの相関的変遷の中に、文化の発展があったということである。
「その文化がどの方向に発展すればよいのか」ということは常に指導意識から離してはならない点である。
そこには「現代批評」ということも出て来るし、「将来の覚悟」も生じてくる。
337: 10/15(火)20:16 AAS
p223 第五十 条約改正と法典の編纂
学習目的
明治三十二年改正条約が実施されるに至った次第と、その頃の法典編纂の進捗についてわからせ、内地外交上の顕著な発展を認知感得させるのである。
学習事項
(一)条約改正に努む
省2
338: 10/15(火)20:24 AAS
オーストリア=ハンガリー帝国と日本の不平等条約に成果を挙げ、オーストリア=ハンガリー帝国の男爵となったシーボルトの息子は、後に井上馨の顧問となったおやとい外国人って、明治政府もグルなんじゃないのか。>>80
アレクサンダー・フォン・シーボルト
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
339: 10/15(火)21:45 AAS
p225
これらの条約の改正は容易な業ではなく、維新以来の宿題であったが、明治四年に岩倉具視らを欧米に派遣したのも、実は翌五年七月四日以後は条約改正をなし得るはずであったから、その一年前に各国と意見を交換して、来年東京で改正談判を開こうとしたのであるが、最初に訪れた米国で、もはや物にならず、よって条約改正の交渉は打ち切って、ただ諸外国の事情を見、兼ねて親睦を加えることを目的として巡遊してきたわけである。
その後政府は絶えず熱心に、その改正をはかったもので、明治十年には外務卿寺島宗則が関税方面の改正を米国に同意させたが、これは他の一国も同様の条約を結ばない限り有効にならないのであって、時に英国はこれに反対していたから何の効果もでなかった。そのうちに英国人ハルトレーが阿片の密輸をやったのを、我が国の税官吏が見つけて、訴訟となった時、横浜の英国領事館が、ハルトレーの無罪と判決したので、我が国の官民は一斉に起こって、治外法権の撤廃を要求したので寺島は辞職した。
十二年九月には井上馨が外務卿となり、それより条約改正に努力したが、条約改正の中に、我が国の裁判所に外国人を用いることがあったので、これも国民の反対にあって失敗に終わった。
十八年十二月に伊藤第一内閣が成立するや、井上馨は続いて外務大臣となり、我が国を欧化することによって条約改正に成功しようとし、一方では十九年五月一日より、改正案を十二国の公使に示して外務省と会議を重ねること二十九回、二十年四月二十日ようやく全部を議決し、今度は成功しそうにあったが、極端な欧化政策は国民の義憤を買ったので、伊藤総理、山縣内相などが互いに謀り、二十年十二月十九日保安条例を発布して即日実施し、政府に反対する志士当人五百七十名は、ことごとく皇城三里の外に駆逐するという暴挙を敢行した。しかし井上は外相の地位を去り、せっかくの改正案も流れてしまった。
340: ブログ8 10/15(火)22:14 AAS
p226
井上に代わって大隈重信が外務大臣となったは二十一年二月であったが、大隈は国別談判をなし、ほぼ成功しかかった際、ロンドンタイムスによってその改正案が我が国人の知るところとなり、その案には外国人を我が国の裁判に加えさせることや、土地の所有を外国人に許すことなどがあったので、また反対が起こり、二十二年十月二十四日、大隈が内閣会議を終えて外務省へ入ろうとする時、福岡玄洋社の徒、来島恒喜が爆裂弾を馬車に投じ、大隈は片足を失い、内閣総辞職となって、改正案も流れてしまった。
(二)法典はおいおい編纂される
条約改正が容易に決しなかったのは、国内の法典がいまだ備わらず、我が国情が諸外国によく知られなかったためである。
維新のはじめ、政府は地方によって、それぞれ異なった法制を統一しようとして、まず、明治三年十二月に、大宝の古律を基礎とし、明清の律令をも参酌して、「新律綱領」を作製した。
明治五年には刑務省弾正台を廃止して司法省を置き、明治六年に時の司法卿江藤新平は、仏国の法律を参考して刑律の改正を始めた。この時まではまだ拷問の道具などもきまっていたので、天皇は特に詔して、法を定めるには寛恕を旨とさせなさったので、聖旨を奉体して、努めて刑罰は軽いに従うこととし、「改定律令」三百十八条を作った。
さらに西洋の法律を参考として、たびたび改定し、十五年一月に至って刑法並に治罪法が実施された。
二十三年十月には治罪法を廃止して刑事訴訟法、次いで民事訴訟法・行政裁判法・裁判所構成法など年をおって編纂され、立憲政体は確立するし、我が国の真価もだんだん列国に認められたので、条約改正の談判も、前日のような困難は少なくなった。
341: 10/16(水)15:07 AAS
p227(三)改正条約実施される
二十二年十二月山縣内閣が成立するや、青井周蔵が入って外務大臣となり、条約改正に努力し、ほぼ仕上がろうとしていた時に、二十四年松方内閣が成立して週日を出ない五月一日、近江大津において巡査津田三蔵がちょうど来遊中のロシア国皇太子ニコラス親王に傷つけたいわゆる大津事件(湖南事件)が突発し、我が国の上下は挙げて事の重大であるのを震撼し、政府のあわてふためきは勿論、長くも明治大帝の御心を悩ませなさったことは御一方ではなく、天子の乗り物を大津に進めさせられ、御親らロシア国御世継ぎを御見舞わせなさり、滋賀県知事沖守固は免職となり、内相西郷従道・外相青木周蔵の二人辞職するに及んで、これまた条約改正は中止となった。
そのうち明治二十五年四月には、明治天皇が「朕は即位以来内治百般の事、ほぼ、その緒につくも、外政はいまだ挙がらないものがある。思うに条約改正は、中興の鴻業に伴って起こり、国権の大本に関係する。朕は我が臣民と共に条約改正の成局を望むのは切である」との内詔を下された。
松方内閣はこの内詔に奉行の暇なくして退き、次いで二十五年八月伊藤第二次内閣成立し、陸奥宗光は外務大臣となるや、聖恩が凱切であるのに感激して事に当たり、陸奥は青木周蔵の案を基礎として、条約改正の成案を得、まず英国に同意させ、二十七年七月十六日調印が終わった。日清開戦は八月一日に宣戦の詔勅が下っているから、その直前に条約改正が成功したのである。戦争中ではあったが、十一月二十二日に米国がまた同意して調印し、この時から戦争の勝利に我が国の実力は認められ、各国との談判は急激に進行し、三十年十二月五日オーストリア=ハンガリー帝国との改正条約締結を最終に、維新以来難渋を極めた条約改正の事業も、完全に局を結ぶに至った。陸奥は一方では日清戦争を処理し、一方ではこの難事業を解決したという、裁判利刀のような人で属僚はこれを剃刀大臣と言っていたが、二十九年五月三十一日職を辞めて、三十年八月二十日ついに薨じた。享年四十五。
※鴻業=帝王の業
342: 10/16(水)15:18 AAS
イギリスの内閣総理大臣ジスレリーユダヤ人でカミソリ宰相と呼ばれたマネ?
2chスレ:history2
343: 10/16(水)16:06 AAS
p228
改正条約は明治三十二年から実施されることとなり、国民多年の希望はここに達せられ、治外法権は除かれ、外国人も内地に雑居して、我が国の法権を受けるに至り、ただ税権の方は全く回復されてはいなかった。すなわち英・独・仏に限って、我が国から輸出するものの国税率はその国が決定し、我が国に輸入されるものの税率はこれら輸出国の協定を要することとなっていた。この規定は明治四十四年までの期限となっていたから、この年四月英国と関税の双務協定すなわち両締約国相互に税率を協定する約款を議定し、その他の国と同様に協定は成立し、四十四年七月より完全に対等な条約が実施されるに至った。
ちなみに我が国も、真に一人前の国となったのは、明治も末年になったことを思えば、まことに我が国も若い国であり、新興の国である。発展をなお将来に待たねばならない。
(四)諸種の法典が備わる
改正条約が実施された頃、諸種の法典もまた施行された。政府はかねて、我が国古来の習慣を基礎とし、さらに西洋の法制を参酌して、民事及び商事に関する法規を編纂していたが、いよいよ民法は三十一年七月から、商法は翌年六月から実施されることとなった。また時勢が進むと共に、刑法の改正も行われて、四十一年十月から実施され、法典はいよいよ備わって、大いに社会の発達を助けた。
344: 10/16(水)16:43 AAS
p229 学習参考
(1)挿絵解説
「列国の公使と条約改正を議す」の絵は、聖徳記念絵画館画題考証図の内五姓田芳柳氏筆に拠ったもの。外務大臣井上馨が、明治十九年五月一日から翌年四月二十日までに十二国の公使と外務省で会し、前後二十九回の会議をした。改正条約も議決したのであるが、総理伊藤博文、外務井上馨の極端な欧化政策が国民の反感をかい、井上外務が退いたので、改正案は流れたのであった。
この図の会議には十四名いる。正面にいるのが井上外務大臣、その左が伊藤総理、他は十二国公使のように思われる。
(2)指導要領
当時における我が国の実力と外国の実力を比較して学習する。その間に我が国が、負けじ魂を発揮して、外交に内治に努力していく先人の態度を十分に味あわせる。
現在に投影している法律や条約を学習環境にもたせて、それの史的研究に遡れば、この教材の学習となるわけである。
345: 10/16(水)21:41 AAS
p230 第五十一 朝鮮の事変と明治二十七、八年戦役
学習目的
隣国朝鮮との事変から、ひいては明治二十七、八年戦役に至る次第と事実を学習させ、我が国の国家的発展について会得させ、併せて国家と国際の生活、文化と戦争などについて適切な考察を行わせる。
学習事項
(一)明治十五年朝鮮京城の変
省3
346: ブログ転載 10/16(水)21:44 AAS
p232
この時はすでに大院君が政権を握り、清国の袁世凱や丁汝昌がこれを助けて兵を朝鮮に出していたが、ここにおいて兵を構えることの不利を察した清国は、大院君を伴って自国に去った。
そこで我が国は国王に謁して要求を提示し、三日以内に回答を求めたが、期日に至るも答えはなかったので、公使の一行は京城を去って済物浦に至った。するとかの全権大臣李祐元など後を追って来て、はじめて談判を開き、朝鮮は償金五十五万円を支払い、日本公使館には一大隊の守兵を置くことなど六款を約束させた。時は八月三十日、これが済物浦条約で、この事件を明治十五年朝鮮京城の変という。
347: ブログ転載 10/17(木)18:45 AAS
p232(二)明治十七年朝鮮京城の変
すぐに朴泳孝は謝罪の使いとして金玉均などと共に来朝した。我が国は竹添進一郎を公使として朝鮮に駐在させた。朴・金などは我が国の制度・文物を視察して帰り、同士と相談して国政を改め、我が国にたよって独立を揺るぎなくしようとした。これを独立党という。我が国はまた済物浦条約で得た償金中四十万円を返して、国政改革の費用に充てさせた。
独立党に反対して、保守を喜び、大国清につかえようとする閔族その他がいる。これを事大党という。清国は袁世凱に大軍をつけて、京城に入って事大党を助けさせた。
おりしも清国は仏国と事を構え、朝鮮を顧みる暇がないのを見て、独立党の朴泳孝・金玉均・徐光範・洪英植など少壮気鋭の徒が、明治十七年十二月四日京城郵便局開設の祝宴を幸(さきわ)い、保守派の高官泳翊を傷つけさせ、ただちに進んで王宮に迫り、閔族の権臣数人を殺し、翌朝大政維新を布告し朴・金などは新政府の大臣として、政権は完全に独立党に帰した。このとき朝鮮王の要請により我が国の竹添公使は兵百人以上で王宮を守る。
ここにおいて閔族はただちに清国に依頼した。よって袁世凱は兵二千を率いて王宮に迫ったので、我が国の公使は兵を率いて公使館に帰ろうとして、途上清韓の兵と衝突し殺傷されるものも多く、公使館に入ったが糧食が乏しいため、七日公使館を去り、翌日仁川に達した。この間に公使館は清・韓二国の兵に焼かれた。変報は十三日に至って日本に達したので、我が国は外務卿井上馨を特命全権大使に任じ、海軍大輔樺山資紀・陸軍中将高島鞆之助に命じて二大隊の兵を率いて、全権大使を護衛し、朝鮮に赴いて国王に謁見し、談判して京城条約五事を約束させた。その主な事は、十一万円の償金を支払うこと、公使館建築費二万円を弁償することであった。
十七年の変はこれでおさまったわけだが、しかしこの事変は、もともと清国にも関係することが多かったので、清国と相談して、他日の紛争を避けようとするために、宮内大臣伊藤博文を全権とし、農商務大臣西郷従道を副使とし、明治十八年二月二十八日横浜を出発して清国に向かい、三月十四日天津に到着し、清国の李鴻章・呉大徴と会見し、四月三日裁判をはじめて、次のような約款三項を議決して、四月十八日調印した。
348: ブログ転載 10/17(木)19:26 AAS
p234
1)従来両国から朝鮮に駐屯させている兵士を撤去すること。
(2)軍事教練のために両国から教官を派遣してはならない。
(3)将来事があって両国が兵を朝鮮に派遣しようとする時は、互いに公文書を出して通知しなければならないこと。
世にこれを天津条約というが、我が国の全権の一行は二十日に天津を出発し、二十八日に帰朝した。
(三)清国と戦を開く
(1)防穀令事件 天津条約が結ばれたにも関わらず、清国は袁世凱を朝鮮に駐在させて、朝鮮の政権に干渉し、威権政府を圧し、日本の権力を伸ばすことはできない有り様であった。従って朝鮮は我が国を侮り、明治二十二年九月咸鏡道において防穀令を出すに至った。咸鏡道の中、元山地方は米の産地であったから、我が国の移民は多く、年々その地方の米を内地に輸送して業を営む者が多かったが、この防穀令によって、営業は完全に止まり、損害は大なるものがあった。時の朝鮮公使近藤真鍬は談判して、翌年この令を解いたが、我が国の商人が蒙った十四万円の損害賠償金の要求に対しては言を左右にして応じず、公使を交迭して梶山鼎助が交渉して決まらず、二十六年一月大石正己が公使となって強硬談判を行い、結局十一万円を我が国に支払わさせて局を結んだ。
(2)金玉均暗殺事件 十七年の変によって朝鮮独立党の朴泳孝・金玉均は日本に亡命していたので、我が国ではこれを助けて独立の優れた成果を挙げさせようと計る者は多かったが、事大党の刺客李逸植が日本に来て、かねて日本にいた洪鐘宇を語らって同士とし、洪に命じて金玉均を上海の日本ホテルに誘い、短銃で金を倒させた。金の従者である日本人和田某が、金の死体をもって日本に帰ろうとしたのに、上海警察署はこれを拒み、金の死体と洪鐘宇を清艦成遠に乗せて朝鮮に送った。朝鮮は大いに喜び、洪鐘宇を重職に用い、金の死体を寸断し、全国各道にすてて頭と胴は楊革津のほとりに梟首し、大悪不道金玉均之屍と書して傍らに立札した。これによって日本人の清国に対する敵がい心はいよいよ増長した。
349: ブログ転載 10/17(木)21:35 AAS
p235
(3)東学党の乱 この頃朝鮮の国勢は振るわず、内政はますます乱れて、人民ははなはだこれに苦しんでいたので、不平の徒も少なくなかったが、明治二十七年四月、全羅道の古阜に暴徒が起こり、儒・仏・道三教の粋をあつめた者と称して民望をあつめ、政府の虐政を責め、閔族の好き勝手をならし、乱を起こしてその徒は万をもって数え、勢いは猖獗を極めたので、朝鮮政府は洪啓薫に命じて兵八百を率いて討たせたが、かえって破れて帰った。
こうして公州以南の地はことごとく東学党となったので、清国公使袁世凱は、朝鮮政府の関泳駿にすすめ、清兵をかりて征伐させることとした。袁は、当時我が国内が政府と議会と衝突を重ね、議会は解散また解散という有り様であったから、到底外国などに兵を出すことはできないだろうと考えたので、直隷総督李鴻章に出兵を促したのである。こうして明治二十六年六月八日、清兵二千が牙山に上陸した。
我が国へは六月七日付をもって、いわゆる公文書を出して通知することをした。その中に「我が朝が保護する属邦旧例」の一句があったので我が国は、「帝国政府はいまだかつて朝鮮をもって、清国の属邦としたのを聞かない」と照復した。清国はなおも牙山に向かって兵を送る準備はできていたので、六月二日朝鮮出兵の御裁可を得て、四日大磯で病を養っていた大鳥公使を急行させ、十日出兵を清国に通じ、公使館・領事館・居留民を保護するため陸戦隊四十二人進発、次いで第五師団長陸軍中将野津道貫は混成旅団を編成し、陸軍少将大島義昌を出発させ、海軍も連合艦隊司令長官伊藤祐享が松島以下十隻で出勤、海陸共に仁川・京城あたり、勢威は優に清・韓二国を圧するというおもむきがあった。
大島公使は兵を率いて京城に入るや、閔は自ら責任を負って閉門し、清国は牙山に駐屯して進まず、東学党は両国の出兵に恐れて平定に帰した。
※猖獗(しょうけつ)=悪人や疫病などの悪いことや良くないものが強い勢いを持つこと。
350: 10/18(金)00:58 AAS
p236
(4)日・清・韓三国の交渉 ここにおいて清国は、東学党をすでに平らげる上は、日本の兵を撤回するのがよいことを求めた。我が国は禍根を絶つために、共に協力して朝鮮の弊制を改めるのがよいことを申し込んだが、清国は応じなかった。この上は我が国は独力で朝鮮内地の改革を行おうとし、六月二十八日に貴国は果たして独立国であるか否かを朝鮮に照合した。朝鮮はその答え方を支那に問い、日を経て三十日に至り、独立国であると答えてきた。大島公使は弾丸の中を交渉に従事し、七月二十四日に至って、当時親日傾向に転じていた大院君に政務を託し、大島公使を顧問として、諸政を改革して、清韓条約を破棄させ、日韓攻守同盟を結ばせた。
351: 10/18(金)00:59 AAS
p237
(5)日清開戦 清国もこの上は開戦と決し、すでに七月二十一日の前後にしきりに兵を発し、一方では牙山に送り、一方では義州に送り、漸次平壌から南方に進め、京城の我が兵を挟撃しようとした。
この時より以前、我が国もすでに決意し、七月十四日には清国駐在公使小村寿太郎が国交断絶のことを明らかにして、かの地を引き上げている。この時から我が国は戦を交えてよかったことは国際法に認めるところである。
戦はいよいよ七月二十五日豊島沖の海戦で始まった。二十九日には成歓の戦いに勝った。
八月一日宣戦の大詔が下り、九月十三日明治天皇が東京御発車、十五日広島大本営にお着き遊ばされる。
十月十五日には広島において第七回帝国議会が招集され、一億五千万円の軍費支出を満場一致で可決した。三ヶ月前までは衝突を重ねていた議会と政府が、ここに至って光風霽月、提携共同の実を示したのには、清国をはじめ、諸外国が驚いた一事であった。しかも老幼婦女に至るまで資を献じ、全く挙国一致して奉公の誠をいたそうと期したのである。
九月十六日には平壌占領、翌十七日には黄海の大海戦、二十八年二月十二日は威海衛において敵将丁汝昌は我が国の連合艦隊司令官伊藤祐享に降伏した。この間に第三・第五の両師団をもって編成された第一軍は山縣有朋が大将司令官となって、義州・九連城・鳳凰城・大東溝・大弧山・岫巌城・析木城・海城を攻略し、第一・二・六師団から編成された第二軍は大山巌大将司令官となり、金州城・大連湾・旅順を占領、一部に命じて威海衛に至らせ、海軍と共同してこれを陥れ、大部を率いて熊岳城・蓋平をやぶり、第一軍と連絡し、第一軍はさらに進んで牛荘・営口を屠り、二十八年三月九日田庄台を焼いて敵の本拠を奪った。第二軍はまた進んで田庄台に至る。
この時から第二期作戦に入って、太沽の砲台を陥れ、山海関を抜き、長駆して北京に入るはずであった。
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