【日本史】GHQに焚書された書籍 (519レス)
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494: ブログ転載 11/18(月)21:44 AAS
p325
この時、日・英・米三国において、香港をも加えた太平洋方面における要塞及び海軍根拠地に関して、現状維持を行うことを約束した。ただしこの制限は、ハワイ諸島・濠洲・ニュージーランド・日本本土をなす諸島(千島・小笠原・奄美大島・琉球・台湾・澎湖島は現状維持)米国・カナダには適用されない規定である。
また日・英・米・仏間に四国条約をも締結した。これは太平洋方面におけるその島嶼である属地及び領地に関する各自の権利を互いに尊重すること、もし争議発生の場合は四国会議に委託することを定めたもので、有効期限は十年である。この条約が結ばれたので、日英同盟は自然消滅の形となった。
日英同盟は明治三十八年攻守同盟となったことは前に述べたが、四十四年七月に、英国が米国と仲裁裁判条約すなわち両国間に紛争が生じた場合は、万国仲裁裁判によって決定する条約を結ぶために、将来英国が第三国と仲裁裁判条約を結ぶときは、第三国に対して、日英同盟は有効でないことと改めたのである。
しかし日英同盟のような有力な同盟は、第三国をして快くなく思わせ、例えば米国はそれであったので、英国内でも議論があり、また国際連盟規約によって日英同盟は有効ではないと論じる者もいたが、今この四国条約によって、日英同盟はついに消滅した。

(七)支那及びロシアの革命

こうして世界外交の中心はだんだん東洋方面に移って来たのに、我が国の隣邦の秩序はすこぶる乱れている。
支那は光緒十八年(明治二五)すでに広東人孫文(逸仙はその人の号)興中会を創立して革命の機関とし、満洲族の清朝を倒して漢人の天下を起こそうとし、以来着々としてその根を張っていた。光緒三十四年(明治四一)十月二十一日光緒帝は崩御し、翌日西太后がまた崩御するや、遺詔して醇親王(光緒帝の弟)の長子溥儀を立てて嗣帝とし、醇親王を摂政であるとさせた。溥儀が立って宣統と改元、宴統帝方に三歳、政事一に皇親に決定し、宣統三年(明治四四)の内閣では十三大臣中その九人までを満族とした。また当時支那は我が国が日露戦争に勝ったのは、立憲によるものとし、これに倣おうという声が盛んであったので、内閣は宣統四年に憲法を発布し、五年に国会を開設することを約束したが、その誠意は乏しかった。また当時の清国政府は、赤貧洗うが如し状態であったから、鉄道国有を断行した。
495: ブログ転載 11/19(火)11:52 AAS
p326
これらのことが多くの反対者を出し、革命党は兵を起こして武昌を占領し、次第に漢口・漢陽を陥落させた。これを辛亥革命という。この革命に応じる者が続出したので、宣統帝は明治四十五年二月十二日ついに退位される。清朝は太祖から十二世二百九十七年にして滅亡した。
ここにおいて中華民国が起こり、共和制体となり、同年(大正元年)袁世凱は臨時大総統に推され、翌民国二年(大正二年)には国会の選挙によって袁は正式に大総統となり、したがって支那共和国も正式に成立し、列国はまたこれを承認した。袁はだんだん皇帝とあろうとして失敗し、大正五年六月病死し、黎元洪が大総統となる。この時張勲は一時宣統帝を腹位させた。時は大正六年七月であったが、同月たちまち失敗して、民国は依然成立し、国璋が大総統となり、六年八月徐世昌がこれに代わり、十一年五月黎元洪が大総統となり、十二年十月曹??がこれに代わり、同十二年十一月段祺瑞が臨時執政となって昭和元年四月退職、昭和二年六月張作霖が大元帥となった。
さてこの時から以前、大正六年九月、広東において孫文が推されて大元帥になり、大正十年四月孫文は大総統となったから、南北政府と両国会が対立して争うこととなった。孫文は大正十四年三月北京で死んだが、孫文の三民主義すなわち民族・民生・民権を標榜し、その手段としては軍政・訓政・憲政によるといって、人民の共鳴を得た南方の総司令蒋介石は、軍を揚子流域江に進めてますます勢いを得て、ついに昭和二年四月南京に国民政府を成立させ、この時から北方軍閥を討伐すれば軍政期を終えるものとしていた。
さて、北方の張作霖の勢いはだんだん利がなくて、北方を去って泰天にかえろうとする途中、昭和三年六月急に死んで、その子、張学良は同年十二月国民政府に服従することとなった。この時から以後、民国は南京を首府として蒋介石を首席とする国民政府によって統治されるようになった。この統治は中国国民党という孫文のつくった一党のみを認めるので、一党専制の統治であり、現在は訓政期だというが、実際は蒋介石一派の独裁で、政権の争奪が暗々に行われ、今日は民族主義と国家主義と資本主義と共産主義というように国内は雑然として収拾はまた困難である。国民政府の統一といっても、二十二省の江蘇・淅江二省の政府といってよい。
496: ブログ転載 11/19(火)13:37 AAS
p327
一方には赤族または赤匪といっている共産党及び共産軍がその勢いは猛威を極めているし、その他閻錫山がいて玉祥がいて広東・広西に別勢力があり、満洲には新興国が生まれている。その外交は常軌を脱し、列国環視の内にあって醜態を暴露し、隣邦日本の迷惑はこの上もない有り様である。対支那外交は我が国今後の最大関心事となっている。
ロシア帝国が建国の基を築いたのは、我が国の清和天皇の貞観四年(皇紀一五二二)で、モスクワ大公イワン四世が初めてロシアの皇帝と称し、東はシベリア経営の端を開き、西はカスピ海までを侵略して国勢は盛んであったが、死後内紛が起こり、ミカエルロマノフがこれを鎮定して皇帝の位に登った。これは後水尾天皇の慶長十八年(皇紀二二七三)であった。ロマノフ朝はここに起こったのであるが、ピョートル大帝というのはミカエルロマノフの孫である。
ニコラス二世の頃には、ヨーロッパの他の国家では、トルコを除いてことごとく立憲政治を行っているのに、ロシアだけは君主専制の政治を行って、人民によって政治を興らせる近代的傾向を無視していたから、早くから反帝思想が起こっていたが、政府はこれに対して、あくまで高圧的な態度を執った。ちょうどその時日露戦争が勃発して、敗報がしきりに至るに及び、政府の無能を攻撃する声が高くなり、憲法の発布・国会の開設を要求することがしきりであったから、明治三十八年十月、ついに詔勅を下して立憲政体とする旨を公布した。
ここにおいて自由主義者は次第に増長して、翌年四月の第一回国会には政府に迫って民主的憲法を要求するに至り、議会は解散となって内紛がうち続くうちに、世界大戦となり、連合国に加わったロシアが、西方国境において戦いは敗れ、物資ははなはだ欠乏して困窮するに至ったので、大正六年三月ついに革命が起こってロマノフ朝がたおれ、ケレンスキーの仮政府が立ったが、十一月過激派の首領レーニン・トロツキーなどはついに仮政府をたおして、社会主義のソビエト政府を立て、ニコラス二世をシベリアに流し、次いでこれをころし、連合国に背いて同盟国側と休戦し、翌年にブレストリトウスクで単独講和を結んだ。
497: ブログ転載 11/19(火)14:07 AAS
p329
ロシアはこの時から全世界の過激化をはかり、国内には反過激派もいて動揺は常ではなく、先の述べたチェコ=スロバキアは捕虜としてシベリアに移されるし、ドイツの勢力が次第にロシアに入り込んで来たので、我が国は一つはチェコの救援、一つは反過激派のオムスク政府を助けて過激派を防止すること、一つはドイツ勢力が東に次第に伝わり広まることを阻止すべく、時の寺内内閣が大正七年八月二日シベリア出兵を宣言したのであった。我が国の出兵に対して過激派は大いに憤慨し、大正八年ニコライエフスク(尼港)において、石田領事他同胞七百名を文字通りに虐殺した。ここにおいて我が国はさらにシベリアに増兵して北樺太及び対岸のサガレン州を保障占領した。シベリア駐兵は実に四年間であった。
498: ブログ転載 11/19(火)14:16 AAS
>>439
トロツキーはウクライナ南部のユダヤ系の富農に生まれる。
外部リンク:ja.m.wikipedia.org

レーニンの母であるマリア・アレクサンドロヴナ・ブランクは裕福なドイツ・スウェーデン系の母と、ユダヤ系ロシア人の父との間に生まれ、彼女の父はキリスト教に改宗し、医師として働いていた。
外部リンク:ja.m.wikipedia.org

しかし、ユダヤ人は母がユダヤ人でないとユダヤ人になれないし、医師の祖父はキリスト教に改宗しているのでユダヤ人ではありません。誰が何と言おうがユダヤ人ではありません。
499: ブログ転載 11/19(火)15:46 AAS
p329
(八)日本支那の親善と日露の修好

このような四隣の情勢のうちに、我が国は友邦の好を重んじて、国交を修めるという方針をとって進んだ。
先に日独戦争が開始されるや、大正四年五月二十五日我が国は支那共和国と交渉を重ねていわゆる日支条約を結んだ。支那では袁世凱の総統時代になる。この条約では「支那国政府は、ドイツ国が山東省に関して有する一切の権利譲与などの処分につき、日本政府と協定する一切の事項を承認することを約束する」などを定めた。提出した条約案は五項二十一ヶ条である。後に至って支那はこの条約を屈辱的外交であると憤慨し、国恥記念日などを定める。しかし堂々と条約は成立しているのであるから、我が国は英・仏・伊に交渉して、大戦後は膠州湾及び山東省の利権を一度は日本に譲渡し、しかる後日支条約によってこれを処置すべきことを約束した。
やがてヴェルサイユ平和会議が開催されるや、支那は大正六年八月十四日国璋の総統時代に、ドイツに対して戦宣を布告しているから、この時において日支条約は無効である。したがって膠州湾及び山東省は一時でも日本に譲る必要はない。いわんやこの条約は支那が日本に脅威されてやむなく結んだものであるからと、頑強に日本に反対したが、いずれも理由にはならないので、日本の主張は通った。しかし支那代表は山東問題を保留し、全然講和条約の調印を拒否した。
こうして未解決のまま残っていた山東問題は、大正十年(徐世昌総統時代)ワシントン会議において再び上った。この時我が国は、多大な犠牲を払って獲得した山東における一切の権利を、ほとんど無条件で支那に還付し、ここに両国の交誼は復旧し、互いに携えて東洋文化の開発に当たろうとつとめた。
またロシアの秩序が整うにしたがって、我が国は次第にシベリア地方から徴兵し、この時から大正十年の大連会議、十一年の長春会議、十二年の東京会議などを経て、北京における芳沢謙吉・カラハンの会見となり、六十数回の会議を重ねて、ついに日露間の条約は結ばれ、調印されたのは大正十四年一月二十日であった。この条約では

一、 樺太における石油・石炭の採掘利権を日本に与えること
一、沿海州一帯の漁業権を日本に与えること

その他を定めて、両国の国交は回復されたのである。
500: ブログ転載 11/19(火)18:52 AAS
p331
学習参考

(1)挿絵解説

「皇太子英国ロンドン市の歓迎会に望みなさる」絵は御写真によったもので、大正十年五月ロンドン市のギルドホールすなわち公会堂で、皇太子がロンドン市の歓迎会におのぞみなされた時の光景である。殿下は御椅子を立ちなさり、演壇の端までお進みになり、片手脇に御帽子をはさみ、片手には答辞を持ちなさる。この時から会衆に御演説になるのであるが、その御態度は実に立派なものであったともれうかがう。殿下の後に椅子に寄ってロンドン市長夫妻がいる。右方前列に御椅子にかけなさる四人の右から、コンノート殿下、ヨーク殿下、閑院宮殿下、英国皇太子殿下であり、ロンドン市長の左に起立するのは駐英大使林権助男、その後ろが供奉長珍田伯、その後ろの右が奈良東宮武官長である。式場は荘厳なもので、日英親善の気分が濃厚なものであった。なお二荒芳徳・沢田節蔵著皇太子御外遊記によれば、当時の御模様がよくわかる。
「パリの講和会議」は当時の写真によったもの。大正七年十一月十一日休戦の条約が成立し、大正八年一月から二十七ヶ国の代表六十七名が、フランスのパリ西方ヴェルサイユに会し、大正八年六月二十八日講和条約は調印された。
この間総会議というものは、大正八年一月十八日に第一回を開き、その時から六回を開いただけで、あとは部分会議であった。この写真はその総会議中のものである。室はルイ十四世王宮内の時計の間で図の最も左に立っているのは米ウィルソン、その隣が英のロイドジョージ、ウィルソンと相対するのが仏のクレマンソー、その後方背の高いのが英外相バルフォア、図の中央より少し右手前に椅子に寄るのはイタリアのソンニノ、その向こうに椅子に寄ってこちらを見るのは我が国の西園寺公、その後に牧野全権、その隣に松井全権、ソンソニの前に立つのはイタリアのオルランド、ソンソニの右手前にカバンをもって立っているのはブオッシュ元帥である。
501: ブログ転載 11/19(火)18:52 AAS
p332
(2)指導要領

我が国が明治時代の連続として世界的舞台に立って、重きをなすに至った次第や事実を、少し詳細に取り扱った方がよいと思う。どうしてかというとこの教材は大正時代の代表的なものであり、明治の時代をうけて、今日に投影している重要な場面だからである。
「大正時代に入って、我が国がどの程度に世界的発展をしたか」ということが中心の問題になるであろう。
序を求めて外国史の取り扱いを加え、我が国と比較し、かつ我が国との関係に汲んでおく方がよい。
こうして我が国の国際的発展を認感させると共に、国家の前途はいよいよ複雑となり、責任も日に加わって行くことから、将来の覚悟を暗示しなければならない。
国際的国家の文化発展を展望しながら、この複雑な世局を切り拓いて進んでいこうとする国民の見識と意思とを養うのである。
地図も必要であるが、挿入地図は不完全であるから、地理の方と連絡して、条約国などをまとめておいた方がよい。
502: 11/20(水)11:12 AAS
>>490
大正天皇の病状を見ると認知症の症状が出たから摂政と交代なのか。

大正三年、発話障害、前屈姿勢
大正四年、階段の昇降で歩行介助
大正七年、発話障害の憎悪、軽度の記憶障害
大正八年、歩行障害
大正十年末、認知症

大正天皇の脳髄炎は鉛中毒が原因と言われていて、首から胸まで白粉を塗った乳母からの授乳で、乳児が白粉をなめることで起こるそうなので可哀想ではある。
503: ブログ転載 11/20(水)11:52 AAS
p333
第五十八 大正天皇の崩御 今上天皇の即位

学習目的

大正天皇崩御のことから天皇の御聖徳を偲び申し上げ、今上天皇の践祚並びに即位のことから国家的発展を認感させ、かねて聖旨によって将来国民の向かうべきところを会得させる。

学習事項

(一)大正天皇崩じなさる
省8
504: ブログ転載 11/20(水)12:57 AAS
p335
大正天皇は元来蒲柳〔※虚弱〕の御質をもって、松柏〔※節を守り変えない〕の御心をお抱きなさったもので、御降誕後、三週目を出ないうちに脳膜炎様の御疾患におかかりなさり、御幼年時代には重症の百日咳、腸チブス、胸膜炎を経過され、御践祚以来、格別に内外の政務は御多端、世界大戦など過重の御心を労しなさり、糖尿病の御傾向が出て、時々坐骨神経痛を発症なさり、摂政御任命の前後には御脳力減退して、御発語に御障害が出て、その後病勢は一進一退、そのうちに脳貧血様の御発作があり、大正十五年八月十日葉山に御転地遊ばされ、やがてまた気管支カタル御併発、十月二日内科の泰斗、稲田龍吉博士を宮内省御用掛に任じ、入澤侍医頭以下は詰め続け御診察申し上げ、全国民は赤誠を打ち明けて神仏に祈願し、御容体が発表される毎に一喜一憂、ひたすら御回復の日を待ったのであるが、大正九年三月三十日宮内省から御発病の発表があってから、ここに七年、十二月二十五日午前一時二十五分葉山の御用邸でついに神去りなさる。時にかしこくも四十八歳の御壮齢でいらっしゃった。国民の悲嘆は言わん方もなかった。

(二)今上天皇践祚しなさる

天皇が御崩御なさるや、皇太子裕仁親王はただちに践祚し、大正十五年を改めて昭和元年としなさる。
昭和というのは「百姓昭明、万邦協和」ということからとったもので、ここにも新時代の理想がかがやかしくあらわれている。
天皇は昭和元年十二月二十七日東京に環幸おありになり、翌二十八日、宮中正殿に文武百官を召して朝見の儀を行いなさり勅語を下しなさる。勅語の中には

今や世局は正に会通の運に際し、人文はあたかも更張の時期にあたる。すなわち我が国の国是は、日に進むにあり、日に新たにするにあり、そうしてひろく内外の史に照らし合わせ、つまびらかに得失の跡にかんがみ、ひたすら進むやその序にしたがい、新たにするやその内を執る。これは深く心を用いなければならない所である。それは浮華をしりぞけ、質素をたっとび、模擬をいさめ、創造をはげみ、日進をもって会通の運に乗じ、日新をもって更張の時期を拓き、人心はこれに同じく、民風はこれにひろく、一視同仁の変化をのべ、永く四海同胞のよしみをあつくするつもりのこと。
505: ブログ転載 11/20(水)12:58 AAS
※会通=会合と変通。物が集まることと変化すること。
※更張=ゆるんだ琴の糸などを張りなおすこと。転じて、ゆるんでいた物事を引き締めて、盛んにすること。
※浮華=うわべははなやかだが実質・実体のないこと。
※一視同仁=すべてを平等に慈しみ差別しないこと
※四海=全国
506: ブログ転載 11/20(水)15:40 AAS
p336
ということが載っている。何たる堂々たる昭和初頭の御宣言であろう。ここは左翼も右翼も共に解消すべく、模擬をいさめ創造をはげみ、東西文化を融合して日本独自の文化をつくり、もって世界に貢献せねばならない。昭和新政のモットーはすでにかかげられたのである。

(三)大正天皇の御葬祭

昭和二年一月には先帝に大正天皇の御追号を差し上げ、翌月御大葬の儀を行いなさった。大正天皇神去りまして四十五日間は、神霊はなお殯宮におりましたが、昭和二年二月七日午前六時霊柩御発引、八時三十分新宿御苑前葬場殿にお入りなさり、午後十一時最後の御別れを惜しみなさり、八日午前零時五分霊柩車に移御、一時三十五分東浅川駅御着、これより参道十三町をお進みになり、武蔵南多摩郡横山村大字下長房龍ヶ谷戸の御料地を占って、閑院宮殿下御親筆の御陵誌を石室に向かって右側に奉置して、御盛土を行い奉る。多摩陵と申し、上円三段下方三段であること、伏見桃山陵と同じことである。

(四)今上天皇即位の大礼を挙げなさる

昭和二年十二月二十五日をもって、大正天皇の喪が終わったので、昭和三年十一月十日をもって、即位の大礼を京都の皇宮で挙げなさった。
この日は、京都皇宮春興殿に渡御奉安いらっしゃった賢所の大前で、午前八時三十分から両陛下はお進みなさり、天皇御告文を奏しなさり、親しく即位の事情を高祖天照皇大神に告げなさって、午前十時頃入御おありになる。この時内掌典は大前に捧げた御鈴を九十九度お御演奏申し上げるので、神鈴は神々しくさえて森厳極まりない御式であった。この点については挿絵開設においても述べる。
省1
507: ブログ転載 11/21(木)16:30 AAS
p337
午後は紫宸殿の儀で、諸役座につき、天皇高御座にのぼり、皇后は御帳台に着座しなさる。すぐに黒色の袍に黄金作りの太刀をはいだ内閣総理大臣田中義一はおもむろに両階を下り、右近の橘の南方を経て南階段下で貴人に奉仕し、北面して付き従って立つと、天皇はおそれ多くも立御しなさり、内大臣が捧げる勅語を御手におとりなさり、玉音朗らかに勅語を下しなさる。

朕は思うに、我が国の高祖高宗はただ神の大道にしたがい、天皇の政治を施策し、万世不易の王業をはじめ、一系無限の永寿を伝え、それは朕の身におよんだ。朕は祖宗の威霊に頼り、つつしんで大統をうけ、うやうやしく神器を奉し、ここに即位の礼を行い、はっきりとなんじ国民に告げる。
高祖高宗は国を建て民に臨むや、国をもって家となし、民を視ることは子のようだ。歴代の天子は受け継いで、仁恕の化を下にあまねく、万民を率いて、敬忠のならわしを上に奉し、上下は真心を通わせ、君民は体を一つにする。これは我が国の国体の精華で、まさに天皇祖先が古今に臨んで維新の大きな計画を開き、内外に照らし合わせて立憲の遠謀を敷き、文を縦糸とし、武を横糸とし、希代の大業を建てる。先祖先朝の広大な計画の義務を受け継ぎ、中興の大功を押し広め、もって皇風を世界に言い聞かせる。朕は(人徳などが)少なく薄いことをもって、かたじけなく遺業をつぎ、祖宗の擁護と億兆の補佐とに頼り、もって天職を治め、堕落することなく、誤ることがないつもりのことを請い願う。
朕は、内はすなわち教化を醇厚にし、いよいよ民心が和会を致し、ますます国運の隆昌を進めるつもりのことを思い、外はすなわち国交を親善にし、永く世界の平和を保ち、あまねく人類の福祉を益するつもりのことを請い願う。なんじ国民その心を合わせ、力を合わせ、私を忘れ、公に奉し、そして朕の志を助けて完成し、朕に祖宗の残した言説の功績をあげて、もって祖宗神霊の降臨がこたえることを得させよ。

※仁恕=情け深く、思いやりがあること
508: ブログ転載 11/21(木)17:53 AAS
p338
総理大臣は続いて南階をのぼって南栄の上に立って寿詩を奏し申し上げ、終わって庭上の両万歳旗の中央に降り立って、高御座に立脚します天皇を拝し申し上げて、厳粛荘厳に「天皇陛下万歳」を唱え申し上げ、続いて「万歳」また「万歳」と三唱すれば、時はちょうど三時、参列議員はこれに和し、同時に全国津々浦々これを唱和し申し上げた。ドイツの大使は「日本の偉大な源泉を知った」と言ったが、この辺のことであろう。門外の儀仗兵は音色が遠くまで響きわたるラッパを演奏し、百一発の皇礼砲ひびく。山河の揺らぐ国民の歓喜、新日本建設の意気はあふれている。
それから十四日には大嘗祭を行いなさる。大嘗祭は、新帝が御代のはじめにおいて行いなさる新嘗祭で、天皇御みずから夜を徹して天神地祇をおまつりになった。純粋国風の神代ながらの御作法である。ついで十六・十七日は大饗の儀を行いなさった。これらの御儀式はすべて明治天皇が御定めになった登極令によるもので、この令による即位の大礼としては大二回目、しかし大礼経費の変遷をみるに、正親町天皇の御時は千石、仁孝天皇は二千八百石、孝明天皇は四千六百石、明治天皇は四万二千五百円、大正天皇は五百四十万円、今上天皇の場合は一千六百七十万円ということになっている。したがってこの御大礼はいずれも古今ならびなき盛儀であって、万民はいよいよ皇位の尊厳、国運の発展を認感して、日夜励精、聖慮に添い申し上げようと誓ったものである。

※南栄=南向きの軒、欄干
509: 11/21(木)19:45 AAS
>>321
明治時代は勧善懲悪・誇大妄想主義を排除して写実主義を推進したけれど、200年も経ってみれば勧善懲悪の話や妄想の話なんて腐るほどある。
坪内逍遙が必死に否定した勧善懲悪八犬伝はドラゴンボールに受け継がれて今では欧米人に人気あるらしいし。しかも大人が見てるとか。写実主義がんばれw
そもそもアメリカだってマーベルのヒーローものが人気あるのだから勧善懲悪やら誇大妄想でヒーローになっちゃうのやら否定するべきものじゃあない。
ドラゴンボールやマリオに熱狂する大人はやっぱ理解できないや。面白いとは思うけれど熱狂するほどではない。
子供の時は死ぬまでドラゴンボールが続いてほしいな〜と考えたりしたけどさ。
510
(2): ブログ転載 11/21(木)22:14 AAS
AA省
511: ブログ転載 11/21(木)22:19 AAS
AA省
512: 11/21(木)23:23 AAS
>>510
御親
513: 11/21(木)23:23 AAS
文字化けは「」
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