【日本史】GHQに焚書された書籍 (532レス)
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126: 09/23(月)12:25:02.01 AAS
p108
尊皇の大義を説いた者に山崎闇斎がいる。闇斎は京都の人で元和四年から天和二年までいた人で、はじめ妙心寺にいたが、後に土佐の谷時中に朱子学を学び、別に吉川惟足に吉田派の神道秘伝を受け、別に垂加流の神道を唱えた。その尊重するものはいわゆる神道五分書、日本書紀神代の巻であるから、尊皇愛国の精神を鼓舞することが多かった。闇斎は江戸で教授したこともあり、会津の保科正之に仕えたことがある。門下ないし学統を受けた者の中からは、尊皇論者が続出するという有り様であった。
竹内式部や山懸大貳なども闇斎の学を奉じる人々であった。式部は越後の人で、京都に出て徳大寺家に仕え、闇斎の高弟玉木葦斎について、垂加流の神道を学び、兵学武術にも通じ、浅見絅斎の靖献遺言や栗山潜峰の保建大記の説をとって大義名分論を唱え、皇室の衰運を回復して幕府を抑制しようとすることを述べた。
公卿が聴聞する者は多く、門弟は七、八百人もいた。その人の学説は第百六代桃園天皇の天聴に達するに至ったが、すぐに幕府に忌まれて追放され、関係した公卿十五人以上も罰せられた。これが宝暦九年で、将軍家重の時である。あとまた八丈島に流され、船中病になって、途中三宅島で没した。年五十六であった。
山懸大貳は甲斐の人で、闇斎の高弟三宅尚斎の門人加加美桜塢に学び、大義を明らかにし、兵学・儒学・天文地理・有職故実などの諸学に通じ、最も兵学に通じていた。宝暦六年江戸八丁堀で弟子に教えるのに従い学ぶ者は数百人もいた。柳子新論を著して皇室が衰えたのを嘆き、激しく幕府を攻撃した。
藤井右門は越中の人、大貳に推服して、京都から来て大貳の家に寓居するとき、大貳の説を受け継いで述べ、甲府及び江戸の攻撃法を説いたので、大貳は斬られ、右門は獄門に処せられた。時に大貳は四十二、右門は四十八、明和三年将軍家治の世であった。
131: 09/23(月)21:37:59.01 AAS
p111
本居宣長は伊勢松坂の人。享保十五年七十二歳で没した。真淵の門人で鈴の屋と号し、深く古史・古文をきわめ、明和元年(家治の時)に古事記を説明するという稿を起こし、三十五年の長年月を費やして、寛政十年六十九歳に至って古事記伝四十八巻(内三巻目録)を大成し、彼の没後二十二年の文政五年に至ってようやく全部の刊成は成った。宣長の著書はこの他に数多いが、明和八年彼が四十八歳の時には有名な「直昆霊(ナオヒノミタマ)」を著している。その一節に曰く
神の御心のままに安国(ヤスクニ)と平穏に統治なさっている大御国であったので、古の大御代には、道ということも言挙(コトア)げも全くなかった
と言っている。つまり我が国の天皇は神そのままの天皇であらせられ、治(シ)らす御精神つまり仁愛を垂れなさったもので、そこには言挙げの必要はなくて、道自ら定まるというように、自然の大道が組織化していることを述べて、我が国体の基礎の強固な所以を明示している。実に宣長によって国学は大成したといってもよい。
輝き出す この日の本の光から
朝鮮支那も春を知るだろう ー宣長ー
宣長の門人は四十以上の国にわたり、門人帳には四百八十八人の名がのっているが、没後の門人を加えると四百九十人になる。平田篤胤のような者は没後門人の一人である。
省2
414: 11/03(日)17:47:07.01 AAS
>>1
以上>>361-『肥後藩国事資料巻六』転載終わり
>>4
以下『高等小学国史新指導書』の続き
第五十二 北清事変と日英同盟
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