【日本史】GHQに焚書された書籍 (532レス)
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(1): 09/13(金)13:09:17.04 AAS
p59(四)鎖国

島原の乱後、幕府は寛永十五年五月に、五百石積以上の大船の製造を禁じている。またこの年から制礼というものが始まった。

※原文漢文
一バテレン門徒は累年御禁制をなすといえども断絶は無い。
今度九州において悪逆をくわだて終わる。
これによってあまねく諸国はこれを相改める。
あの宗門はこれである。つまり訴え出る一門は、たとえ同宗であっても、その罪科を許される。
公儀から御褒美を下される事になっている旨、これを御命令なさる。
この内容を在国大名へ
老中奉書に従う
省11
58: 09/13(金)18:36:45.04 AAS
ブレスケンス事件
金銀島をもとめて漂着したオランダ船と幕府がもめた事件

「古来よりヨーロッパでは、金銀を豊富に産する「金島」・「銀島」の伝説があった。1635年(寛永12年)、平戸のオランダ商館の職員であったウィレム・フルステーヘン(後、商館長)は、オランダ領東インド総督のアントニオ・ヴァン・ディーメンに宛て、「日本の東方北緯37度半、海岸からおよそ380-390マイル」に金銀島があると聞いたと報告している。この金銀島の報告に基づき、後に2回の探検隊が派遣されることとなった。最初の探検は、1639年(寛永16年)にマチス・クアストとアベル・タスマンによってなされたが、金銀島は発見されなかった。」

オランダ商館は昔からスパイ
70: 09/13(金)20:56:20.04 AAS
1780 年にバタビアに短期間戻った後、ティッチングは出島でのオランダと日本の貿易で成功を収め、1781 年 8 月 12 日に長崎に戻った。[11] 1782 年には第四次英蘭戦争のためバタビアからのオランダ船の輸送がなく、この年は出島の商館とジャワとの連絡が途絶えた。この年、ティッチングは商館長の地位に留まり、日本の学者と親交を深め、日本の友人との関係を深め、日本の習慣や文化のあらゆる側面を研究した。また、この年はオランダ船が来なかったため、重要な貿易交渉が成立し、日本からオランダ商人への銅輸出量の増加について日本との大きな譲歩も果たした。

Titsingh stayed a total of three years and eight months in Japan before finally leaving Nagasaki at the end of November 1784 to return to Batavia, where he arrived on 3 January 1785.[13]
ティチングは合計3年8ヶ月間日本に滞在し、1784年11月末に長崎を離れ、1785年1月3日にバタビアに到着した。
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(1): 09/14(土)06:42:58.04 AAS
p62(五)洋書の輸入途絶える

幕府はまた、寛永七年以来洋書の輸入をも禁じている。このためにキリスト教関係だけではなく天文・地理・歴数など、西洋学術に関する書籍の入る道が全く途絶え、国民は西洋の文明に遠ざかるようになった。
しかしオランダの船が長崎に来るや、その船長(当時外国船の船長を甲比丹(カピタン)といった)が江戸に赴き、将軍に謁見して欧州の大勢を報告した。オランダの使節は初めは毎年江戸に赴いたが、後には五年に一度となった。ただオランダ聞書というものは毎年幕府に奉った。
これらによって、ほそぼそながら外国文明の一部を輸入し、世界の事情の一端をも知ることができたことを考えなければならない。

(六)海外発展の気勢くじく

こうして我が国は戦国時代以来、海外に雄飛しようとした国民の進取の気象は大いにくじけ、ひいては我が国運の発展を害し、世界の進歩におくれたことは事実であろうが、一方では鎖国によって国内の統一を固くし、二百年にわたる太平を保ち、その間に土地を開き、産業を発達させ、学問技術を進め、教育を普及させ、日本的成長をなし、我が国民の実力を養うことができたとも見られるようである。

※オランダ商館長=カピタン
省4
220: 10/02(水)20:28:55.04 AAS
p9(六)国内の統一

ところが信孝の兄信雄も、秀吉の勢いが盛んであるのを見て、徳川家康に頼って秀吉を除こうと謀る。家康はもとの恩義を重んじてこれに応じ天正十二年三月自ら兵を率いて尾張に入り、清州において信雄と会し、小牧山(東春日井郡小牧町)に陣した。秀吉も大軍を率いて大阪から来て、尾張の犬山城(丹羽郡犬山町)に入り、さらに楽田(ガクデン)を本営として家康と対峙した。
ところが両将は互いに自重して動かず、四月に入って秀吉の部将池田信輝は、間道から進んで家康の本国三河の岡崎を衝こうとしたが、家康は早くもこれを知って、自ら兵を率いてこれを追跡し、その背後をうったのでついに全軍の壊敗となり、池田信輝は討死した。この戦を長久手の戦いというのは会戦地の字名によるのである。
長久手で勝った家康は小幡に退き、小幡から小牧山に退いて陣した。秀吉はその神速に感じた位である。秀吉はまた楽田にいてこれと対峙するうち、家康の巧妙な外交策が功を奏し、四国の長宗我部元親・紀伊根来寺の僧徒・同雑賀の一揆・越中の佐々成政らは、ひそかに家康に応じて、大阪城の虚をつこうとしたので、十一月に至って秀吉はまた信雄・家康と和を結んで大阪へ還った。
秀吉はすぐに天正十三年三月の末から紀州へ向かい、根来寺の金堂伽藍はことごとく焼き尽くし、雑賀の一揆も平らげ、熊野も下し、かつその落人をかくまった高野山に交渉をはじめ、木食上人(応基)の懇請により、僅かに寺領を削り、武具差し出しの程度でこれを許してかえった。武具差し出しということは、余程深い意味をもっているわけで、後にこれが刀狩りにまで発展する。

※雑賀衆=戦国期,紀伊国鷺森御坊によった本願寺門徒の集団。在地の国人層と農民からなるが,紀ノ川河口で水運に従事する者も多かった。根来衆と結んで鉄砲の技術にたけ,石山合戦では本願寺の中心兵力として織田信長軍に抗戦。しかし優勢な信長軍に降伏する勢力などがでて結束は徐々に崩れ,1585年(天正13)豊臣秀吉の紀州攻めをうけ壊滅した。
228: 10/03(木)18:51:54.04 AAS
p15
この時、枡も改められ、後三条天皇頃からの宣旨枡は五寸に五寸、深さ二寸五分であったが、今度の京枡は四寸九分に四寸九分、深さ二寸七分であって、巧みに三と七の倍数を取り入れた長東正家の考案には、後世の人が賛嘆している。
租税は二公一民といえば相当の重税であるが、秀吉は本税の他は課さなかったのと、石盛が寛大であったから百姓は喜んでいた。
秀吉の考えの中心をなすものは皇室を中心として秩序立てること、すなわち統一することであった。かの刀狩りというのもその精神の表現に他ならない。天正十三年高野山に武具差し出しを命じたことは前に述べたが、天正十六年においては条目を申し渡し、民間の武具一切私蔵を禁じ、領主以下の手にまとめて差し出させることとした。小田原征伐の後には出羽・奥羽にも刀狩りをした。差し出した武具は大仏鋳造に当てるのであった。百姓は百姓として農桑に専念し、僧侶はその本分につとめれば、防衛の方は武士がこれに当たり、現世はおろか来世までも大仏の功徳によって保護してやるというわけであった。つまり階級的復旧統一を志したものと見ることができる。ここにおいて上下ははじめて太平を楽しみ、各々その人の業に満足することができたのである。

石盛=田畑1段あたりの生産力。石高=石盛×面積。
448: 11/11(月)21:26:31.04 AAS
朝鮮人はアメリカ人も暗殺してたんだ
日本人はペリーを恩人とまで言って欧米崇拝していてるからアメリカ人はなめてるんだろうけど、朝鮮人は暗殺してくるからビビって日本を支配する手下にして優遇してるんだろうか
504: ブログ転載 11/20(水)12:57:50.04 AAS
p335
大正天皇は元来蒲柳〔※虚弱〕の御質をもって、松柏〔※節を守り変えない〕の御心をお抱きなさったもので、御降誕後、三週目を出ないうちに脳膜炎様の御疾患におかかりなさり、御幼年時代には重症の百日咳、腸チブス、胸膜炎を経過され、御践祚以来、格別に内外の政務は御多端、世界大戦など過重の御心を労しなさり、糖尿病の御傾向が出て、時々坐骨神経痛を発症なさり、摂政御任命の前後には御脳力減退して、御発語に御障害が出て、その後病勢は一進一退、そのうちに脳貧血様の御発作があり、大正十五年八月十日葉山に御転地遊ばされ、やがてまた気管支カタル御併発、十月二日内科の泰斗、稲田龍吉博士を宮内省御用掛に任じ、入澤侍医頭以下は詰め続け御診察申し上げ、全国民は赤誠を打ち明けて神仏に祈願し、御容体が発表される毎に一喜一憂、ひたすら御回復の日を待ったのであるが、大正九年三月三十日宮内省から御発病の発表があってから、ここに七年、十二月二十五日午前一時二十五分葉山の御用邸でついに神去りなさる。時にかしこくも四十八歳の御壮齢でいらっしゃった。国民の悲嘆は言わん方もなかった。

(二)今上天皇践祚しなさる

天皇が御崩御なさるや、皇太子裕仁親王はただちに践祚し、大正十五年を改めて昭和元年としなさる。
昭和というのは「百姓昭明、万邦協和」ということからとったもので、ここにも新時代の理想がかがやかしくあらわれている。
天皇は昭和元年十二月二十七日東京に環幸おありになり、翌二十八日、宮中正殿に文武百官を召して朝見の儀を行いなさり勅語を下しなさる。勅語の中には

今や世局は正に会通の運に際し、人文はあたかも更張の時期にあたる。すなわち我が国の国是は、日に進むにあり、日に新たにするにあり、そうしてひろく内外の史に照らし合わせ、つまびらかに得失の跡にかんがみ、ひたすら進むやその序にしたがい、新たにするやその内を執る。これは深く心を用いなければならない所である。それは浮華をしりぞけ、質素をたっとび、模擬をいさめ、創造をはげみ、日進をもって会通の運に乗じ、日新をもって更張の時期を拓き、人心はこれに同じく、民風はこれにひろく、一視同仁の変化をのべ、永く四海同胞のよしみをあつくするつもりのこと。
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