【日本史】GHQに焚書された書籍 (532レス)
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124: 09/22(日)23:25:30.10 AAS
p106
こうして幕府は表で朝廷を尊崇して、内で朝廷を畏れ申し上げ、陰で朝廷の御権勢を抑制申し上げ、幕政を維持し発展させようとしたあとが歴然としている。
慶長五年関ケ原の役後、奥平昌信に命じて京都の制法を掌(と)らせたところ京都御所司代にはじまり、翌年板倉勝重がこの職に任じられ、以来、京都所司代は禁闕守衛・官用弁理・京都町奉行や奈良・伏見町奉行の管理・訴訟聴断・社寺総掌と中々の重役で慶長三年まで続いた。この職は鎌倉幕府の京都守護、北条氏の六波羅探題にも相当するものであった。
また大阪役ののちすぐに元和元年七月十七日禁中並公家中御法度を作り、
一、天子の諸芸能の事第一は御学問である
を始めとして全部で十七条あるが、これによって朝廷の御事に干渉し申し上げることも少なくなかった。
徳川氏はまた藤原氏の例にならい、皇室の外戚となって幕府の基を固めようとし、元和六年秀忠の第七女和子(東福門院)を後水尾天皇の中宮といたし申し上げ、後に興子内親王が御誕生遊ばされ、寛政六年わずかに七歳になる興子内親王は即位しなさり、これを第百九代明正天皇と申す。
我が国では推古天皇をもって女帝の始めとし、その時から皇極(斉明)持統・元明・元正・孝謙(称徳)天皇が立ちなさったが、奈良時代から久しく絶えていた女帝の例がここにまた開かれ、明正天皇の後では後桜町天皇が女帝として立たせられた。この間第百八代後水尾天皇は、幕府の専横を憤りなさることがあり、次いで第百十代後光明天皇は大いに幕府をおさえて皇威を張ろうとしなさったが、御志成らずして、御在位わずかに十二年、御宝寿は実に二十二の御壮齢をもって崩じなさってからは、幕府はもはや憚るところもなくなった。
145: 09/25(水)19:06:01.10 AAS
p121
そのうちに文化八年ロシア艦ジャナ号で、海軍小佐ゴローニンが、測量のために利尻島へ寄港するや、ゴローニンを始めとして八人を捕縛した。ここにおいて軍艦は去って国後島に至り、洋上で我が国の商船を掠め、船主高田屋嘉兵衛など数人を捕らえてカムチャッカに行った。この時高田屋嘉兵衛の沈勇に、副艦長のリコルドも非常に感じていたので、嘉兵衛の周旋は功を奏し、文化十年ゴローニンと嘉兵衛を交換し、かつロシアに謝罪書を書かせて、両国の葛藤を解くことができた。
文化五年英国の水師提督ドルリーが率いたフェートン号は、オランダ商船捕獲の目的をもって長崎港内に入り、オランダ人二名を捕らえて艦内に囚禁し、かつオランダ商会を襲って暴掠をほしいままにした。
当時ヨーロッパではナポレオン一世の全盛時代で、オランダはその属邦となっていた。イギリスはフランスの敵国であり、また東洋ではイギリスがオランダの貿易と競争をしていたからこの挙に出たのである。
この時書を長崎奉行松平康英に贈って薪水食料の供給を求め、もしこれに応じない時には市中を砲撃すると威嚇したので、康英は大いに憤り、佐賀藩の兵を徴兵したが、兵力不足でどうともすることができず、彼の要求を入れるべきを余儀なくされた。まもなく付近の藩兵が到着したけれども、英艦が去った後で間に合わなかったから、康英は自ら責を引き、割腹して罪を謝した。
この後も英船はたびたび来て、文化五年浦賀に二回、七年五月には常陸大津浜に上陸掠奪、次いで薩州宝島にも上陸掠奪、国民の感情は著しく高潮し、取るに足りない英国の一捕鯨船の出没にも、兵を派遣して沿岸を警固するようになってきた。ここにおいて攘夷論がだんだん起こり、幕府も「このうえ何様の狼藉を仕出すのだろうかも推測し難く」と考え「打ち払いますならば退散致すはずでございますのが当然」くらいの程度で、ついに仁孝天皇の文政八年二月十八日外国船打払令を頒布するに至った。
254: 10/05(土)22:58:04.10 AAS
盗人気質なのかも
外部リンク[html]:j.people.com.cn
「持ち主に返還を!」 大英博物館収蔵の中国文化財は2万3千点
人民網日本語版 2023年08月30日16:21
大英博物館のジョージ・オズボーン理事長は26日、同館の収蔵品のうち約2000点が「行方不明」であり、回収できたのはごく一部であることを明らかにした。同館で盗難事件がしばしば発生していることを受け、多くの国が自国から略奪した文化財を返還するよう同館に求めている。
中国のSNSでは28日、大英博物館に「中国の文化財の無償返還」を求める呼びかけが検索トレンド入りした。返還を求めているのは中国だけではない。ギリシャの政府関係者はパルテノン神殿の大理石像の返還を要求し、ナイジェリアも略奪された文化財の返還を呼びかけている。エチオピアは1868年の英国の軍事行動の際に同国北部のマグダラで略奪された十字架、武器、宝石、聖壇の扁額などの返還を求め、ガーナのアシャンティ族も黄金製品を返還するよう同館に働きかけている。
287: ブログ転載 10/10(木)19:51:49.10 AAS
※都督府=近衛師団の前身
※巡察使=地方監察官
※貢士=明治維新当初、諸藩主の推挙により藩論を代表して公議に参与した議事官
419: ブログ転載 11/05(火)15:36:41.10 AAS
p252
すぐに北清事変は局を結ぶも兵を撤退させず、密かに清国に迫ってこれを領有しようとし、ついに韓国を威圧して独立を危うくするという観があり、東亜の不運は甚だ急であった。
この時に当たり、英国は東洋に広大な領土インドを有し、しかも支那においては商業上莫大な利益を有していたから、清・韓両国の領土及び主権を保全尊重し、その門戸を開放させ、東洋の平和を保つことにおいては日英はその所見を同じくするところであったから、ついに日英同盟を締結するに至ったのである。
日清戦争の頃は、英国は、日本よりも清国の贔屓をしたものであったが、彼の国は日清戦争や北清事変によって、我が国力が信頼するに足るを知り、ついに自ら称して「光輝ある孤立」の歴史を捨てて、しかも黄色人種である我が国と同盟するようになった。
我が国の政界ではまた、ロシア国の東方経路が進行するや、日露協約か日英同盟か、親露か親英かの議論がやかましかった。伊藤・井上はむしろロシアと協約を結んで東洋の平和を確立した方がよいといい、桂・山縣は英国と結んでロシアを退けた方がよいといっていた。そのうち伊藤はロシア都を訪問することになった。英国はこれを見て、にわかに動き出し、積極的に交渉を始めだした。時は桂内閣であり、元老の支持があり、伊藤も反対しないようになったので、日英同盟は成立したわけである。
この同盟は明治三十五年一月三十日に調印され、日英両国のいずれかが、他国と交戦する場合、一国は厳正中立を守り、もし敵国に他国が加勢する場合には直ちに協同戦闘に当たるという日英防御同盟で、有効期間は五年であった。
この同盟は列強の注意をひいたことは言うまでもなく、独仏同盟が東洋にまで、その範囲を拡張して、新しい均勢を保とうとしたくらいであった。
やがて日露戦争に当たって、この同盟は、よく日仏の協同を食い止めて、我が国の地位に千鈞の重みを加えたことは争われない事実であった。
※千鈞=非常に重いこと。極めて価値が高いこと。
446: 11/11(月)19:56:10.10 AAS
アメリカと険悪になっていったのはお雇い外国人が退職していったことが関係あるのか…?
明治のお雇い外国人
外部リンク:kotobank.jp
デニソン Henry Willard Denison (1846―1914)
アメリカの外交官。1880年(明治13)外務省の万国公法副顧問となり外交政策全般を指導。おもに日清(にっしん)・日露戦争、朝鮮併合、日英通商条約改定などに関与。東京で死去。
スティーブンズ Durham White Stevens (1851/1852―1908)
アメリカの外交官。1883年(明治16)より在米日本公使館に勤務。1884〜1885年外務卿(きょう)秘書官となり対アメリカ政策に従事。1904年日本政府の要請で朝鮮の外交顧問に就任、対朝鮮政策を担当。朝鮮人の反感を買い、サンフランシスコで射殺された。
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