【日本史】GHQに焚書された書籍 (542レス)
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17: 2024/09/08(日)13:59:39.13 AAS
この配置は家康の在世中にも、またその後にも、数度の遷代があったけれども、その大綱においては変じることなく、中世以来おいおい発達しきった封建制度は、これによって中央集権的に、秩序組織の完全なものとなった。
ここにおいて内府(内大臣)家康は、慶長八年(二二六三)二月右大臣征夷大将軍に任じられ、淳和奨学両院の別当、源氏の長者となり、幕府を江戸に開き、天下の政治をすべるに至った。
家康は将軍職を子秀忠に譲ったのは慶長十年であるから、将軍職にあることは足かけ三年であったけれども、退職後駿府にあってなお大事を決定し、薨去したのは元和二年(二二七六)であるから、秀忠の在職年限は足かけ十九年中、初めの十二年間は家康によって事件が解決していたものとして見てよい。従って慶長十九年の大阪夏の陣も、皆家康において責任を認めるのである。
また元和元年豊臣氏が滅亡すると共に、江戸幕府の基を固めようとするために、貞永式目などにならって、武家・公家などの諸法度を出したのも家康に功過を帰するのである。
40: 2024/09/12(木)12:09:57.13 AAS
山田長政というのは駿河の人、初め台湾当時の高砂(高山国・タカサゴ)へ渡り、それからシャムに行った。当時シャム国王の弟が簒奪をくわだてて国が乱れるや、長政は日本町の壮丁を率いてこれを鎮定した。功により長政は六昆王(リゴール王)に封じられ、国王の婿となり、その後累進して太子の傳(かしづき)となり、国政に預かった。
長政は遠くシャムにいて故郷忘れじ難く、国王に勧めて、元和七年その使節を遣わし、土産を秀忠に奉らせ、長政もその臣、伊藤久太夫を使って書を老中土井利勝に呈し、土産物を贈った。
また寛永三年本邦の商人がシャムに至った時この人に託して、自分の戦艦の額を浅間神社(今は静岡市にあり)に捧げてその冥護を祈った。原本は消失したが模本は残っている。
寛永五年に至り国王が死ぬや、長政ならびに老臣カウハンに遺命して幼主を補佐させたが、寛永十年長政はカウハンに毒殺されて終わった。大正四年には従四位を贈られている。
また濱田弥兵衛は、長崎の貿易商末次平蔵の配下の船長で、しばしば台湾貿易に従来していた。慶長九年の頃オランダ人がここを占領してからは、ここを出入りする船に関税を徴収するなどし、次第にその統治権を確立しようとした。それなのに日本はオランダ人に先んじて、ここに在留するのを理由として、国税などは拒絶していたところ、寛永四年ノイツが総督となるや、弥兵衛の船に対して強固な態度をもって臨んだ。
弥兵衛は大いに怒り、帰ってこれを幕府に訴える。ノイツも幕府に来て台湾占領の顛末を述べ、日本船の台湾渡航を禁じようとすることを請願したが、幕府はこれを拒絶した。
こうして翌五年弥兵衛が再び台湾に至るや、弥兵衛を抑留し武器一切を没収した。ここにおいて弥兵衛は詭計を案じてノイツに面会し、ノイツの胸に剣を突きつけ、その人が没収したものを帰させ、損害の全部を賠償させて帰った。このとき幕府も憤慨して対蘭貿易を禁止しようとしたので、オランダはノイツを日本に引き渡して貿易を元のようにした。ノイツは日本で禁固したが後に釈放した。
こうして我が国人の勢いをかの地で振るい、威を海外に輝かせた者も少なくなかった。
※壮丁=成人男子
400年前の関西でもニッポンジンでなくニホンジンと言っていたのかな?
100: 2024/09/19(木)22:19:25.13 AAS
p86(五)勤倹尚武の道をすすむ
吉宗は何事も「権元様御定之通」を主義として勤倹をすすめ尚武をはげました。元禄以来の文弱の風を正そうとしたのである。吉宗は度々の発令でも微に入り細に穿って倹約をすすめた。料理のこと、衣服のこと、娯楽のこと、全て厳しく規定し、子供の遊ぶホウズキの売買を享保六年には止めたくらいである。当時の落書きに「お上はしまる、下はつまる、商売はとまる、町人はこまる」といったものがある。
従って吉宗自らも綿布を服し、草履履きで度々鷹狩りを催し、あるいは単騎奔馳縦横をもって武を修めることが相応しいのを示し、自ら砲術を学ぶなどしたので、群士は心を尽くし、力を励まし、馭槍・射銃・游水は急激に発展するに至った。
(六)裁判を公平に行わせる
吉宗は享保二年、大岡越前守を登用して江戸町奉行とし、享保六年には目安箱を評定所の前に置き、政事の得失、役人の不正、訴訟の延滞などを直訴させ、その後元文元年には大阪・駿府・甲府にも訴訟箱を置いた。
宝保二年四月には、寺社奉行牧野越中守・町奉行石河土佐守・勘定奉行水野対馬守などが、吉宗の主旨を奉じて公事(クジ)方御定書を制定した。その上巻には令八十一条、下巻には律百三条がある。世に御仕置百ヶ条とか、御定書百ヶ条と称すのは、この公事方御定書の下巻に名づけたものである。この百ヶ条(実は百三条)は従来の判決例を調査して成文律にしたもので、奉行の他は他見をゆるされず、公布を見なかったが、これによって司法制度は大いに改善され、戦国時代以来の残酷な刑罰も除かれ、裁判はあくまで公平に行われるようになり、これが明和四年の科条類典、寛政二年の寛政律などによって幕府刑法も次第に整備するようになったのである。
※勤倹尚武=よく働いて質素につとめ、武勇を尊び励むこと。▽「勤倹」は勤勉で倹約なこと。「尚」は尊ぶこと。武士たる者の生活態度として重んじられた考え方。
省1
218: 2024/10/02(水)14:12:07.13 AAS
瓢箪の留守に桔梗の花盛り ー本宮泰彦詠史狂歌集ー
※瓢箪=秀吉の馬じるし、桔梗=明智の家紋は水色桔梗
(四)秀吉は信長の遺業をつぐ
秀吉が高松城を水攻めにしているうちに、毛利の大軍は天正十年五月二十一日来援したが、どうともすることができない。そのうちに六月五日朝の本能寺凶変が秀吉に伝わったが、秀吉はこれを秘し、秀吉方には黒田孝高・毛利方には安国寺恵瓊という策士がいて、双方和議のことが相談されるに至った。和議の条件として宗治の自殺を秀吉が主張して譲らなかったので、宗治は身をもって士卒に代わろうとし、城から小舟を乗り出して六月四日敵の面前で自殺し、武士道の極致と礼賛された。ここにおいて和議は成り、五日ただちに軍をかえして光秀に向かおうとした。
そのうち織田氏凶変のことを耳にした毛利輝元は、この機を逸せず、秀吉を追撃しようとしたが、元春・隆景は約束を重んじてこれを諌止した。秀吉は後年長く、この時の毛利氏の態度を感謝したのであった。
秀吉はこの時から昼夜兼行、山崎の弔い合戦にいそいだ。途中で諸将を糾合し、十三日には大阪から進軍した織田信孝(信忠の弟)の勢いも加わり、秀吉方の勢い二万六千以上、それなのに光秀方は一万六千に過ぎず、この戦は光秀方は潰走し、光秀は逃れて坂本城へ走ろうとし、途中栗栖で土寇によって竹槍で刺された。光秀時に五十五。本能寺凶変を去る十一日、世に秀光の三日天下という。旬三公方とは十三日間と誤ったのである。秀吉はこの時から近江に入って一国を平定した。
こうして信長の諸将が逡巡して動かなかった間にあって、秀吉は独力で弔合戦の義戦に成功した。
※土寇=土民の暴動
※旬三公方(くぼう)=調べてもわからなかったが、上旬、中旬、下旬で、一旬は10日。10+3で旬三?
433: ブログ転載 2024/11/09(土)12:59:10.13 AAS
p267
この条約に対して、欧米列国の新聞は「日本の深慮に出た控え目さだ」とか「日本政治家の賢明に基づいた決断だ」とか言って褒め称えたが、国内の民衆はこの条約を十分ではないと考えて、日比谷に焼き討ち事件などの不祥事を惹起し、戒厳令をしくに至り、小村全権に対する批難もその極みに達したが、小村は終生この間の消息については弁明しないで世を去った。事実は、我が国に「内情の苦しみ」があったのである。「内情の苦しみ」とは要するに軍備上・経済上、これ以上の戦争が続かなかったということである。
(四)樺太及び租借地の経営
(1)樺太の経営
三十八年我が国の陸海軍は樺太を占領し、民政署を真岡に置き、後に大泊に移してこれを治めていたが、平和克復の後、北緯五十度以南の地を我が国に割譲することとなるや、三十九年六月、両国各委員を同島に派遣し、実地踏査を行い、境界線を定め、四個の大石標と十七個の小石標を立てて国境標とした。この事が終ったのは四十年十月であるが、この時より以前四月には、これまでの軍政を廃止して、新たにこれを内務省の所管に移し、樺太守備隊司令官楠瀬幸彦を民政長官に任じ、別に軍令部をおいて、民政長官がこれを兼任した。後四十一年にはこれを廃止して、樺太庁を豊原に置き、樺太長官に命じて政務を執らせた。本島の開拓には土地貸し付けの制を立てて、内地農民の移住を奨励したことはかつての北海道と同じことであった。
(2)関東州の経営
省1
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