【日本史】GHQに焚書された書籍 (534レス)
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39: 09/12(木)11:55:44.23 AAS
p50
(六)海外の日本人

近年黒板博士が実地踏査の結果を発表された。今それをも参考して、当時日本人の海外発展のあとを忍んでみようと思う。
江戸時代の初期御朱印船の渡航先のうち、今の仏領インドシナと思われる地名が四つある。安南・東京・交趾・釈知安それである。
東京は今のハノイで、フランスが東洋植民地の首府としていたところ、交趾は安南の中部以南であるが、釈知安は果たしてどこであるか説は多いが、やはり交趾の一部であろう。この交趾の一部には、最も早く開けた貿易港が二つある。その一つはツーロンで他の一つはフェイホである。
名古屋にある茶屋道晴交趾貿易図(挿絵)は日本船のツーロン入港の状態を書いているが、実地で踏査してみるといちいち符合する。
ツーロン港口に注いでいる河の上方、東南一里半の砂原に、木山・火山・土山・金山・水山と呼ぶ五つの嶺(茶屋の図には達磨座禅岩と記される)があり、合わせて五行山とも石山とも言っている。恐らくこれは昔から航海者の目標となったのであろう。五丘のうち水山が最も大きくて東端にあり、その中央部に華厳洞という洞窟があって、その上に阿弥陀の像が安置してあり、その厨子から一間(約1.82m)ばかりの岩壁が堅四尺横二尺くらいに創られており、そこに碑文を書いて、阿弥陀をつくったことが記され、その末尾に寄進者の名が載っている。
その中に「日本管平三郎字福耶」とか「日本管宗五郎字道真」というような日本人の名が十ばかりも見ることができる。
日本管とは日本人町・日本租界というような意味である。この時は寛永十七年である。
ツーロンと相並んでフェイホは当時日本人が自治制をしいていた所で、アダムスの日記によれば、当時広く日本語でニホンジンマチと呼ばれていた。今も日本橋、日本橋通りというのが残っているし、日本人の墳墓が数多い。
省1
295: 10/12(土)06:45:58.23 AAS
p203
明治二十二年二月十一日の紀元節の良い日柄をもって、いよいよ大日本帝国憲法は発布された。式場は新皇居(明治六年炎上後の新造営)の宮中正殿に設けられ、式場の装飾、内外使臣の参列、華麗にして荘厳、午前八時三十分陛下には古代の御服を召されて賢所に祭り、皇霊に告げなさって後、午前十時大元師の御軍服をお召しになられ、皇后陛下は錦地洋風の礼服をお召しなさり、侍従は剣璽・玉璽を捧げ、君が代奏楽中に正殿に臨み、王座におつきになり、すぐに三條内大臣が恭しく憲法発布の勅語を奉ると、天皇は玉音朗らかにこれをよみなさる。
勅が終わると伊藤枢密院議長は帝国憲法を捧げる。内閣総理大臣黒田清隆は次に御前に進み、御台の上に上ること一段、天皇は御自ら憲法を授けなさると、ひざまずいてこれを拝受した。この時百一発の祝砲が殿外にとどろき、演奏者は再び君が代を奏し、余韻が殿外に響く間に陛下は入御しなさった。
大日本帝国憲法というのは七章七十六条からなり、国家統治の根本的大法で、万世一系の天皇が帝国を統べなさることを明記し、わが国家の組織、帝国臣民の権利・義務の大綱を定めたもの、他国にあっては、多くは国民が君主に迫って、血によってその発布を見たものであるが、我が国においてはこれと異なり、天皇がひたすら国家の繁栄と臣民の幸福とを進めようとの大御心から、親しく聖断をもって定めなさったいわゆる欽定憲法であって、国民はその内容も知らず、ただ天皇を信じ奉ることだけがあって、発布に先だって御恩沢にうるおうのを楽しみ、上下歓呼の内に発布を見たものである。
何でも発布の前日から都会田舎いたるところ祝意を表す催しは、広大壮麗を極め、発布の翌日は東京府民の願いを受け容れ、両陛下は上野公園に臨行、府民にあまねく風輦>>223を拝させなさる。歓声は市中に溢れ、万歳の声が湧く通りであった。
312: 10/13(日)12:11:12.23 AAS
だから反日NHKが徳川が嫌いなのはアメリカの意向かなと思っている。
やっぱり蔦屋では田沼すごい!幕府アホという構図になるのか?
337: 10/15(火)20:16:52.23 AAS
p223 第五十 条約改正と法典の編纂

学習目的

明治三十二年改正条約が実施されるに至った次第と、その頃の法典編纂の進捗についてわからせ、内地外交上の顕著な発展を認知感得させるのである。

学習事項

(一)条約改正に努む
省2
513: 11/21(木)23:23:55.23 AAS
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