【日本史】GHQに焚書された書籍 (532レス)
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(1): 09/15(日)11:53:19.49 AAS
シーボルトは日本研究の第一人者とあるけれど、シーボルトが居ながらにして日本研究ができたのは、日本人の弟子にオランダ語で日本文化のレポートを提出をさせていたからで、この日本人の善意?を利用して情報を集める手法は現代でも受け継がれていて、5chでもくだらない雑談ニュース記事のスレで本音を出させてまだ家計に余裕ありそうだからと増税の目安になったり、大喜利とか言ってアイデア出させてパクっていったりしてると思う。
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(1): 09/20(金)20:32:42.49 AAS
このような間に天明四年意如は佐野政言(トキ)に城中で刺され、意次はなおも威権をほしいままにしていたが、天明六年八月退けられ、将軍家治は騎射の催しに臨むとか、絵をもてあそぶとかして日をくらし、在職二十七年、天明六年九月ついに薨じる。

※便侫=口先は巧みだが心に誠実さのないこと。

田沼意如
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
「父子ともに現役の幕閣であったため、意次と別居するために田沼家中屋敷または下屋敷へ移ったが、新たな屋敷を構えたのは暗殺の直前であった。江戸市民の間では、佐野を賞賛して田沼政治に対する批判が高まり、幕閣においても松平定信ら反田沼派が台頭することとなった。江戸に意知を嘲笑う落首が溢れている中、オランダ商館長イサーク・ティチングは「鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰れたきつけて 佐野に斬らせた」という落首を世界に伝え、「田沼意知の暗殺は幕府内の勢力争いから始まったものであり、井の中の蛙ぞろいの幕府首脳の中、田沼意知ただ一人が日本の将来を考えていた。彼の死により、近い将来起こるはずであった開国の道は、今や完全に閉ざされたのである」と書き残した。」
フリーメーソンのオランダ商館長イサーク・ティチング>>67
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(1): 09/23(月)13:32:45.49 AAS
ふみ分けよ をわきまえると訳してあるのが多いが、文(ふみ)を区別するという意味と思う。
国文と漢文を区別して理解していく
履歴の履は履(ふ)むという意味で人の踏んで来た道これから踏みゆく道

わきまえるの意味も似ていて
1 物事の違いを見分ける。弁別する。区別する。
2 物事の道理をよく知っている。心得ている。
3 つぐなう。弁償する。
169: 09/28(土)08:02:00.49 AAS
キリスト教布教が再開したことで、近代日本史板のフリーメーソンスレに書いたような、渡辺悌治の本の話に繋がっていく。
渡辺は東北大学神学科に在籍して、キリスト教が日本の農家に米食をやめパン食にするよう布教するのを見たり、戦前戦時中スパイとなって日本軍を諜報・作戦失敗させていたのもキリスト教やフリーメーソンだったと。
190: 09/29(日)20:02:17.49 AAS
幕末の志士はネトウヨに似てると個人的に考えるのは、いいかげんな噂でも扇動にされて攻撃的になるところ。
全くの想像だけど、井伊直弼ではなく蘭癖大名の堀田正睦が老中のままだったら、志士たちに攘夷の扇動をする者がなく大人しくしてたと思う。
しかし堀田が失脚し、井伊を引きずり下ろすために志士を煽って井伊や信正を亡き者にしようとした誰かがいたのかもしれない。
煽り役はちょうど現代のテレビ局に当たる。
これまでも海部総理、森元、麻生、菅直人、安倍など引きずり下ろしたい人間がいたら猛烈にバッシングして民衆を扇動しその地位から引きずり落とす。
今までの総理で何が気に食わなかったかまではわからんけど、テレビのバッシングの激しさは異常。
255: 10/05(土)23:47:16.49 AAS
アイヌの骨の返還を迫ったら偽物渡してきたらしい…北朝鮮か
英米公使が普通に内政に口だしてるのはなんなんだ。しかし現在の方が政府はアメリカ追従でひどいかも。
356: ブログ転載 10/18(金)21:58:46.49 AAS
p241
さらに事件の発端を起こし、政局を悪く言い、治平の回復を遅滞させ、もって民政の疾苦を醸し、国運の進展をはばむことは、真に我が意ではない。
今において大局に顧み、度量大きく、もって事を処するとしても、帝国の光栄と威厳とには毀損する所があるのを見ない。
百僚臣庶、それらはよく朕の意を体現し、深く時勢の局を見て、些細なことでも慎重に行い、切り殺すことを諌め、邦家の大計を誤ることがないのを期せよ。

一語一語は慈父母の赤子におけるかのように、ただ恐懼の他はない。この時から我が国の臥薪嘗胆の外交時代がはじまるのであった。

(3)台湾の経営 以前に我が国の海軍が威海衛を陥落させ、次いで伊東司令官は支那南部の制海権を得ようとし、陸海混成支隊の比志島大佐を率いて、二十八年三月二十六日澎湖島を占領したが、いくばくもなく休戦の約束となり、講和が成立して、台湾全島及び澎湖島が我が国の所有に帰したので、我が国は海軍大将樺山資紀を台湾総督に任じて進発させたが、この時台湾では台湾巡撫唐景?ッ以下、割譲を憤慨される者は甚だ多く。景?ッを台湾民主総統に推して独立国であると称し、景?ッはもっぱら北部の防備に任じ、軍部総統劉永福は南部の防備につとめていたので、近衛師団長北白川宮能久親王が台湾征伐の命令を奉じられたので、樺山は親王の軍と琉球において合併し、共に進んで五月二十九日台湾三貂景角に上陸、六月三日基隆を占領して景?ッを厦門に追い、台北を収めてここに総督府を置いた。
我が軍はさらに南進、台南の劉永福の本拠をつこうとするや、台湾総督陸軍中将高島鞆之助は台湾の南端から上陸して台南を挟撃した。永福は密かに厦門へ逃れ去ったので、十月二十二日我が軍は台南に入った。ここにおいて台湾全島ことごとく平定し、完全に我が国の統治の下に置かれる事となったのである。親王はここの疫病を得て、左右は切に帰国保養を勧告したが聞き入れないで、軍を進められ十月二十八日台南において薨じなさった。
台湾はこの時から次第に皇化に俗し、産業も興って、文化もだんだん開いて行き、三十一年陸軍中将児玉源太郎が台湾総督となり、後藤新平がその下で民政長官となってもっぱら力を島民の懐柔に尽くし、治績は大に挙がり、土匪の乱もほとんど一掃され、財政のようなものもほとんど独立して、次第に国庫の補助を減じるに至った。
486: ブログ転載 11/18(月)12:57:28.49 AAS
p318
(5)戦時の外交

戦争中大正六年九月四日、英・仏・露三国は、ロンドン宣言の名によって同盟条約を帰結した。

第一項 フランス国・ロシア国及びイギリス国政府は、現戦争中は単独で講和してはならないことを相互に約束する。
第二項 右三国政府は講和条件を議する場合において、いずれの同盟国もあらかじめ他の同盟国の同意を経ないで講和条件を要求してはならないことを約束する。

こういう意味の条約であった。当時駐仏大使石井菊次郎は是非この条約宣言に加わっておかなければならないと、我が国の政府に申し越した。時の外相加藤高明は、日英同盟があるから、それは二重の手間ではないかと同意しなかったが、そのうちに石井子爵が外務大臣となってかえるようになった。石井子爵は時の総理大隈重信の了解を得て、フランス国を立つときに英仏当局と面議して、ロンドン宣言に加入の内意を伝えてかえり、後についにこれに加入したので四国同盟が成立し、これにイタリアが加入して五国同盟となった。やがてロシア国が革命のために、これを抜けて、米国が加入し、「主要連合国」の名で平和会議に華々しい活動をするに至った。

(三)平和条約を結ぶ
省3
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