【日本史】GHQに焚書された書籍 (533レス)
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74
(1): 09/14(土)06:42 AAS
p62(五)洋書の輸入途絶える

幕府はまた、寛永七年以来洋書の輸入をも禁じている。このためにキリスト教関係だけではなく天文・地理・歴数など、西洋学術に関する書籍の入る道が全く途絶え、国民は西洋の文明に遠ざかるようになった。
しかしオランダの船が長崎に来るや、その船長(当時外国船の船長を甲比丹(カピタン)といった)が江戸に赴き、将軍に謁見して欧州の大勢を報告した。オランダの使節は初めは毎年江戸に赴いたが、後には五年に一度となった。ただオランダ聞書というものは毎年幕府に奉った。
これらによって、ほそぼそながら外国文明の一部を輸入し、世界の事情の一端をも知ることができたことを考えなければならない。

(六)海外発展の気勢くじく

こうして我が国は戦国時代以来、海外に雄飛しようとした国民の進取の気象は大いにくじけ、ひいては我が国運の発展を害し、世界の進歩におくれたことは事実であろうが、一方では鎖国によって国内の統一を固くし、二百年にわたる太平を保ち、その間に土地を開き、産業を発達させ、学問技術を進め、教育を普及させ、日本的成長をなし、我が国民の実力を養うことができたとも見られるようである。

※オランダ商館長=カピタン
省4
175
(1): 09/29(日)01:17 AAS
オランダ商館長クルティウスからの別段風説書でペリー来航を予告しオランダとの条約交渉を拒否ったのは海岸防禦御用掛のWikipediaに書いてあったの消されてなかった見つけた。>>74

「嘉永5年(1852年)、長崎に着任したオランダ商館長ドンケル・クルチウスは、別段風説書によりマシュー・ペリー率いるアメリカ東インド艦隊の来航を予告し、かつ砲艦外交に屈して開国するよりはオランダと平和的に通商条約を結ぶことを提案した。阿部は当時海防掛であった、松平近直、石河政平、川路聖謨、竹内保徳等に諮問したが、条約交渉には応じるべきではないとの回答を得ている。
嘉永6年(1853年)6月、オランダから予告されていた通り、フィルモア大統領の親書を携えたペリー艦隊が浦賀沖に来航(黒船来航)して浦賀奉行戸田氏栄らを通じて日本の開国と条約の締結を求めてきた。ペリー来航当時、時の将軍徳川家慶は死の床にあり、国家の一大事に際して執政をとるなど適わない状態であった。幕府は一旦は親書を受け取り、実際の交渉は翌年に行うという条件でペリーを退去させた。
阿部は川路聖謨と松平近直以外の海防掛を順次外し、幕臣から堀利煕、岩瀬忠震、永井尚志、大久保忠寛を抜擢した。この人事により、海防掛は諮問機関から行政機関へと変貌し、また開国の準備が整った。幕臣からは水野忠徳、土岐頼旨(再任)、筒井政憲、井上清直等も海防掛に任官している。韮山代官であった江川英龍も加わった。」

海岸防禦御用掛
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
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