[過去ログ] 朝鮮人が嫌いな人いますか?★10 (1002レス)
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173: 2022/09/20(火)09:17 ID:oNOYk5Rc(7/36) AAS
繊維製品では生糸と麻で、高級絹織物やビロード、金糸、銀糸も輸入され、さらにアジアを原産地とする宝石、珊瑚、真珠、陶磁器ももたらされた。
これに対して、ヨーロッパが輸出できた商品はささやかで、
羊毛、皮革、蜜蝋(蜂蜜の巣を加熱、圧搾して採集した蝋で、蝋燭や光沢材などに利用する)といった程度の物しかなかった。

従ってヨーロッパの貿易は慢性的な赤字となり、貿易業者として幅を利かせていたアラブ商人の懐に大量の金・銀が消えていった。
しかし、ヨーロッパの上流階級の人たちのオリエント商品への渇望は、
飽くことを知らなかったので、何世紀もの間、オリエントへの輸出のために、ヨーロッパ人奴隷が用意された。

「奴隷(スレイブ)」は語源的に「スラブ人」と同じである。
ポーランドからボルガ河畔に沿って、ウラル山脈に至るロシアの平原で、ヨーロッパの奴隷狩りたちによって、スラブ人の男女が捕らえられた。

この事実が世界史の本から消え去り、ウヤムヤにできた理由は、ヨーロッパの白人奴隷が、アラブ人やペルシャ人と混血すると薄まって、
二世代も経てばほとんど分からなくなってしまったからであろう。
省9
174: 2022/09/20(火)09:18 ID:oNOYk5Rc(8/36) AAS
どのくらいの数の黒人が連れてこられたのであろうか。
イギリスのジェイムズ・ウィリアムスンの試算では、1645年、バルバドスには1万1200人の白人小農と5680人の黒人奴隷がいたが、
1667年になると、745人の大農園主対8万2023人の奴隷に変化した。

この22年間に、小農による耕作が消滅し、大土地所有による大規模な砂糖きび栽培が多くの黒人奴隷を使って始められたのである。
18世紀にかけて、バルバドスの他ジャマイカやセント・キッツ島など
イギリスが進出したカリブ海の島々に送られた黒人奴隷の数は、200万人以上に及ぶものと推測される。

16~19世紀にアメリカ大陸に運ばれたアフリカ奴隷の総数は、ブラジル向けが365万人、スペイン領南米・カリブ海が155万人、
フランス領カリブ海が160万人、オランダ領カリブ海が50万人、北米向けが40万人などと推測される
(増田義郎著『物語ラテン・アメリカの歴史』に所載のPhilip Curtinによる)

初期の段階では主にオランダ船が奴隷貿易に携わっていたが、やがてイギリスが乗り出してきて、
省8
175: 2022/09/20(火)09:19 ID:oNOYk5Rc(9/36) AAS
奴隷は財産であるから、農園主たちは彼らは長持ちさせて、できるだけ使おうとしたので、ある程度の待遇を与え、それなりの面倒を見た。
悲惨だったのは、不在地主の農園の奴隷たちであった。
不在地主は本国に住み、自分の農園を現地の弁護士や農園主に任せた。

通常、彼らは生産物による収入の6%を報酬として受けたが、実務は監督者を雇って、これにやらせたので、
雇われた監督者は持ち主の財産と収益をくすねることに専念し、自分の所有物ではない奴隷たちを牛馬の如く酷使した。
白人たちは奴隷の反抗や蜂起を恐れていたので、ちょっとした過失や不服従も厳しく罰せられた。

バルバドスでは、1シリング以上の盗みは死罪と決まっていた。
1736年にアンティグア島で白人謀殺の企みが発覚したとき、6人の奴隷が絞首刑、5人が車裂き、77人が火刑に処せられた。
イギリス政府がようやく奴隷制度を廃止したのは1833年のことで、この時には2千万ポンドもの賠償金が支払われた。
奴隷制度廃止で不利益を蒙ったど奴隷のオーナーや奴隷商人たちが手厚い賠償金を受け取ったのである。
176: 2022/09/20(火)09:21 ID:oNOYk5Rc(10/36) AAS
《独立へのプロセス》
19世紀に入ると、中南米のスペイン・ポルトガル領の各植民地は次々に独立した。
スペイン領アメリカの各地は、キューバとプエルトリコを除いて、すべて1828年までに独立した。
ポルトガル領ブラジルの場合は、1822年にブラジル帝国として独立し、1889年に共和制に移行した。

しかし独立運動を担ったのは原住民ではなく、多くの場合、現地で生まれ育った白人たちであった。
現地生まれのスペイン人はクリオーヨと呼ばれ、彼らは血筋としては本国人と変わりない白人でありながら、
本国生まれとは差別され、本国からの渡来人の下位に置かれるという状態が長年にわたり続けられてきた。

中南米の革命運動は、本質的にクリオーヨの本国に対する反逆だったのである。
クリオーヨのイニシアチブによって始まった運動も、それが社会革命的な色彩を帯びて原住民の処遇に目を向けるようになると、
直ちにクリオーヨの大部分はこれから背を向け、本国政府の植民地統治機構を形成する保守勢力と手を結んで、
省12
177: 2022/09/20(火)09:22 ID:oNOYk5Rc(11/36) AAS
そこでクリオーヨたちが発表した独立宣言案には、もはや本国でナポレオンに退位させられた
フェルナンド7世への忠誠を誓うことなど問題外とし、今こそスペインの軛から脱して独立することを唱え、
また民衆の代表者による議会をつくり、その中には「インディオたちにも議席を与えてその権利を保障すべきである」という、
当時としては極めて革命的な内容を盛り込んで宣言案であった。

一般のクリオーヨの目から見れば、たいへん危険な思想を孕んだこの革命運動は疑いの目で見られたので、
その支持を得ることができず、結局はペルーのリマから送られてきた軍隊によって粉砕されてしまったのである。
この例に見られるように、独立に向けた運動に携わったのは常にクリオーヨたちであった。

従って独立達成後、政治の表舞台に立ったのはクリオーヨの大土地所有者や大商人たちであり、
追い出された本国生まれのスペイン人に代わって、彼らが政治の舵取りを握った。
ところがそこではメスティソや原住民はすっかり置き去りにされてしまう形となり、あくまで白人主導で事が進められた。
省8
178: 2022/09/20(火)09:22 ID:oNOYk5Rc(12/36) AAS
当時の中南米各国はまだ都市化が進んでおらず、リマやブエノスアイレスのような首都でもたかだか数万人程度の人口に過ぎなかったので、
このような都市を武力で制圧して、地方の小ボスを手なずけてしまえば、勝手放題の政治を行うことはたやすかった。
19世紀を通じて、中南米の政変とはカウディーヨの政権を別のカウディーヨが私兵を使って転覆させて乗っ取ることを意味した。
これが革命と称される茶番の実態だったのである。

19世紀前半の典型的なカウディーヨは、アルゼンチンのマヌエル・デ・ロサスであった。
彼はまずブエノスアイレスを押さえ、地方のカウディーヨを手なずけて盟約を結び、反抗者は残忍なやり方で徹底的に弾圧し、
最終的にはアルゼンチンの独裁者となって1852年まで君臨した。

その過程で、彼は白人植民者の進出を後押しするために現地人の狩猟民を「掃討」する作戦を指揮し、
原住民の命などには全く価値も認めず、手当たり次第に虐殺するのが常であった。
1833年の作戦では6千人の原住民を殺した。
省5
179: 2022/09/20(火)09:23 ID:oNOYk5Rc(13/36) AAS
■植民地残酷物語 白人優越意識を解き明かす■(著)山口洋一  カナリアコミュニケーションズ2015年7月31日発売

◇(2)イギリス領インド帝国◇
イギリスがそのお家芸とも言える「分割統治」(divide and rule)の手法を駆使して、
狡猾な統治を行った典型的なケースとして知られるインドにおいては、どのような植民地経営が行われたのであろうか。

イギリスが産業革命に成功し、巨大な植民地帝国を築き上げ、
繁栄を誇り得たのも、実はイギリスがインドの富を奪い、
インドの民衆を極貧に陥れ、彼らを犠牲にして初めて可能となったのである。

現にイギリス東インド会社はインドの富を暴力的に収奪し、イギリス産業革命の物質的基盤を構築していった。

インドが抱えてきた貧困をはじめとする困難な諸問題は、2世紀に及んだイギリスの植民地支配と収奪の結果生じ、増幅されてきた。
インドの経済は荒廃し、民衆の生活は悪化の一途を辿った。
省9
180: 2022/09/20(火)09:24 ID:oNOYk5Rc(14/36) AAS
《植民地化推進の経緯》
イギリスのインド進出は、1600年にエリザベス女王の勅許状を下賜された東インド会社が1612年に西海岸のスラートに
最初の商館を開設したことをもって始まった。
それ以降、会社はどんどんとその地盤を拡大強化して行った。

やがてこの会社は、会社とはいえ堅固な要塞を築き、近代的な兵器を備え、
多数のインド人傭兵を擁する強大な貿易軍団となっていった。

イギリスが彼ら一流の「分割統治」の手法を駆使して、狡猾に植民地支配を進めるやり方は、
植民地化にとりかかる当初の段階から如何なく発揮された。

イギリスがインドに触手を伸ばそうとした頃のこの国はムガール帝国末期のことであった。
この帝国はインドの西からやってきて、16世紀前半に支配を確立したイスラム教を奉じる国家である。
省13
181: 2022/09/20(火)09:24 ID:oNOYk5Rc(15/36) AAS
設立当初の東インド会社は、東洋の物産をヨーロッパに輸入して利益を上げる商業活動からスタートした。
しかし、やがてそのための資金をインド自体で手に入れる方策を編み出した。

つまり会社が商業活動のみならず、政治的支配者としての主権をインドに持ち込み、
インド人から税金を取り立てることを始めたのである。
まさに東インド会社の商活動からイギリスの植民地統治に向けたプロセス初動への脱皮である。

その後イギリスとインドの関係を決定的に変える第一歩となったのは1757年のプラッシーの戦いであった。
もともとベンガルはムガール帝国の一州であったが、帝国末期には事実上地方権力として独立した存在となっていた。

かねてからベンガル地方への進出を狙っていた東インド会社は、
フランスの攻撃に備えるという名目で、カルカッタの要塞を強化しようとした。

これに異を唱えた太守は会社と衝突し、フランスに援助を求め、1757年6月23日にプラッシーの野にイギリス側と対峙した。
省7
182: 2022/09/20(火)09:25 ID:oNOYk5Rc(16/36) AAS
地主階級には法外な税を課して、彼らの多くを支払不能にさせ、土地を競売に付して彼らを破滅に陥れた。
また「失権政策」と称して、太守に嫡出子のない場合には養子が後継者になることを認めず、
その領地を東インド会社が合併するという理不尽な手段もとられた。

ムガール皇帝と東インド会社との関係の推移にも、イギリス流の悪巧みが見られた。
プラッシーの戦いでの勝利後、ベンガル統治を始めた東インド会社には、
それまでベンガルの地方政権が持っていた微税権をムガール帝国から与えられた。
形の上では、東インド会社はムガール皇帝の臣下となり、事実上はベンガル州の支配者となった。

つまり会社は正面切って皇帝に戦いを挑んだのではなく、
いわば事実上の統治を皇帝から認められたに過ぎないという体裁をとったのである。

本来イギリス国王の臣下である東インド会社にとって、これは当初における全くの便法に過ぎなかった。
省4
183: 2022/09/20(火)09:26 ID:oNOYk5Rc(17/36) AAS
《セポイの反乱の鎮圧により植民地化は完結》
ムガール帝国が完全に崩壊したのは、1857年に起きたセポイの反乱の時であった。
最後の皇帝バハドゥル・シャー二世は1837年、62歳の時に即位した。
その後在位20年を経過し、反乱が起こった時には82歳の高齢であった。

セポイとは東インド会社に雇われた傭兵のことである。
原語をより正確に表記するならば「シパーヒー」であるが、日本では一般に「セポイ」の反乱で知られているので、
ここでは「セポイ」という呼称を用いる。

彼らは東インド会社に雇われはじめてから、既に100年経っていた。
当時東インド会社の傭兵は大きく分けてベンガル軍、ボンベイ軍、マドラス軍の三軍から構成されていた。
インドの全軍合わせると23万8千人だったが、その内20万人が傭兵であり、ヨーロッパ人は僅か3万8千人に過ぎなかった。
省14
184: 2022/09/20(火)09:27 ID:oNOYk5Rc(18/36) AAS
当初、簡単に鎮圧できると考えていたイギリス側は次第に反乱の大きさに驚き、事態の深刻さに気付いた。

彼らは反乱の鎮圧に手を焼き、多大の犠牲者を出したが、最新兵器で優るイギリス軍は援軍の加勢も得て、
なんとかこの事態に対処することができた。
9月19日、4月持ちこたえたデリーの抵抗は遂に終焉を迎え、デリーは落城した。

反乱に立ち上がった愛国者たちは一斉に捕らえられ、その多くは処刑された。
降伏した皇帝は裁判にかけられた上で、ラングーン(現ヤンゴン)に流刑となり、1862年、この流刑地で87歳の生涯を閉じた。

デリーの反乱は4か月しかもたなかったが、全国に広がった蜂起はこの後1年以上続き、
これを完全に終息させるには、イギリス軍はさらなる奮戦を強いられたのであった。
この反乱を契機にイギリスは、インド全土に覇権を確立し、イギリス領インド帝国として名実ともに植民地化した。

1858年には、イギリスは東インド会社を解散して、
省7
185: 2022/09/20(火)09:27 ID:oNOYk5Rc(19/36) AAS
《自治への願望 》
1914年7月、第一次世界大戦の幕が切って落とされ、翌8月にイギリスも参戦した。
これに対して、インド各派の指導者は戦争に突入したイギリスとの協力を表明した。
この協力表明の思惑としては、イギリス帝国主義に協力することによって、
なんとかインドの自治の扉を開きたいという狙いにあったのは言うまでもない。

戦争協力は、まず兵力の動員という形をとり、大戦全期間を通じ、動員数は167万9千人に達した。
その内3分の2以上に当たる127万人は徴募による半ば強制的な動員であった。
そしてインド兵の犠牲者は15万人を上回る(戦死及び行方不明者7万2千人、負傷者7万9千人)膨大な数に及んだ。

これに加え、戦争の長期化に伴い、インドには莫大な軍需物資や資源の供出が求められ、財政的にも大きな負担を強いられた。
その結果、民衆は物価高騰、重税、低賃金に呻吟させられた。
省7
186: 2022/09/20(火)09:28 ID:oNOYk5Rc(20/36) AAS
こうしてイギリスは、世界大戦のさ中、形式的であれインドに自治を約束し、民族運動の動きを一時、せきとめることに成功した。
しかしイギリスに協力するのは民族自決のための戦いであると考え、勝利の暁には恩恵を受けるものと信じていたインド人の期待は、
1918年の晩秋に大戦の砲火が止むと、完全に裏切られた。

イギリスは公約を果たすと称して、1919年にインド統治法を制定した。

この法律は立法・行政の面で、はじめて州に一定の権限を許容したが、
支配権に関わる事項はすべてイギリスが掌握し続けることとなっており、
一種の懐柔策に過ぎないまやかしの自治制度を内容とするものであった。

加えて、戦時特別立法であったインド防衛法に代わる措置として、
戦後、ローラット法(Rowlatt Acts)という徹底した弾圧法を制定した。

この法律は裁判なしに投獄できるという治安維持法だったのである。
省2
187: 2022/09/20(火)09:29 ID:oNOYk5Rc(21/36) AAS
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(3)ミャンマー
嘗てはビルマと呼び慣わされてきたミャンマーは、中国とインドという二つの大国に隣接していながら
独立を保ってきた国であり、古来独立自尊の気概溢れる国柄を誇ってきた。
それだけにイギリスはこの国を征服して、植民地として支配するのは、ひと筋縄では行かず、大いに手を焼いた。

三次にわたる英緬戦争(1824年~26年、1852年~53年、1885年)を経てイギリス側も多大な犠牲を払った上で、
1885年にようやくミャンマー全土を支配下に置くことができた。

しかしイギリスはミャンマーを植民地にするや、直ちにミャンマー人の激しい抵抗を受けた。
ミャンマーの多くの愛国者は、敗戦と植民地化という事態を唯々諾々と受け入れることを拒否し、
ゲリラ戦によってイギリス占領軍と戦うために立ち上がった。
省9
188: 2022/09/20(火)09:30 ID:oNOYk5Rc(22/36) AAS
《分割統治で押さえこまれたビルマ族》
独立自尊の気概をもつビルマ族の抵抗は、この国を植民地化する過程でも、全土を支配した後においても、
イギリス人の脅威になっていたので、イギリスの統治者はビルマ族を他の民族と区別して痛めつけることにより、押さえつけようとした。
イギリス人のお家芸である「分割統治政策」(policy of divide and rule)の手法を駆使したのである。

ミャンマーは人口の69%を占めるビルマ族の他にカレン族、カチン族、チン族など多くの少数民族を抱えている。
イギリスはこの状況に着目し、少数民族を優遇して、ビルマ族を押さえこむやり方を用いたのである。

現地行政官はもとより、郵便局員や巡査といった下級官吏や兵士にはインド人や非ビルマ少数民族を充て、
多数民族であるビルマ族は最下層に押さえつけられて虐げられた。
ビルマ族は百姓とドックヤードの肉体労働者にしかなれないようにしたのである。

イギリスがアジアやアフリカの各地に有した植民地の中で、最も過酷な統治が行われたのがビルマであると言われるが、
省5
189: 2022/09/20(火)09:31 ID:oNOYk5Rc(23/36) AAS
他方、仏教徒にとっての神聖な場所である寺院に履物を履いたまま立ち入るのは
ビルマ人の間では許されないことであったが、イギリス人はずかずかと土足でここに踏み入った。

その後1930年にラングーン大学卒業生が作った「われわれのビルマ協会」(Do-Bama Asi-ayon)は、
やがてアウン・サンやウ・ヌーやネ・ウィンも加わって、独立を明確な目標に掲げた政治団体に成長して行ったが、
この団体は一般に「タキン党」の名で知られるようになった。
「タキン」とはビルマ語で「主人」を意味する。

これはイギリス人の仕打ちに屈辱感を抱いた党員たちが、「ビルマ人こそビルマのタキン」
という誇りをこめて、自らを「タキン」と称したことに由来している。

このように徹底した「分割統治政策」が行われた結果、1948年に達成した独立直後の時期でさえラングーン(現ヤンゴン)
での日常生活には、ビルマ語だけしか話さない者は不便を感じたという不都合な状況に置かれていた。
省2
190: 2022/09/20(火)09:32 ID:oNOYk5Rc(24/36) AAS
《徹底した搾取》
植民地にされて以降、この国の経済は統計上の数値で見る限り、目覚ましい発展を遂げた。
しかしその実態を見るとイギリス人たちが利益を収奪したのであり、ミャンマーの人たちが潤うことはほとんどなかった。

植民統治下のミャンマーの経済発展は自給自足経済から輸出経済への転換によるものであり、
主要輸出品である米の生産地であるミャンマー南部の開発に負うところが大きかった。

貿易構造は、主力産品である米と石油を中心とした一時産品を輸出し、完成消費財を輸入するという典型的な植民地貿易のパターンを示していた。
輸出品目は米、石油に次いで、チーク材をはじめとする原木、鉱産物(鉛、亜鉛、銅、タングステンなど)が上位を占め、
輸入消費財の中では衣料品が輸入総額の半分以上から3分2近くにのぼり、次いで食料品が多かった。

ミャンマーの輸出は年々増大し、貿易収支は常にミャンマー側の大幅黒字であった。
しかしながら貿易で得られた利益はミャンマー人にではなく、イギリスの会社にもたらされ、
省6
191: 2022/09/20(火)09:36 ID:oNOYk5Rc(25/36) AAS
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第五章 海外での日本の統治

2・朝鮮の統治
朝鮮の統治も台湾の場合と同様、欧米による搾取一本鎗とは全く異なり、朝鮮を近代化して発展させることに主眼が置かれた。

◇(1)日清戦争から韓国併合まで◇
日清戦争に先立つ時期、朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮は、清朝中国に付き従う冊封体制を堅持し、鎖国状態にあった。
いち早く近代化を進めた日本は、西洋列強と足並みを揃えて、こうした鎖国状態が続くことを容認せず、李氏朝鮮に開国を迫った。
その結果、日本は江華島事件(注)を契機に、日朝修好条規を締結してこの国を開国させ、列強諸国も同様の条約を朝鮮と結んだ。

(注)1875(明治八)年9月20日、漢城(現ソウル)の
北西岸に位置する江華島付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件。
省13
192: 2022/09/20(火)09:37 ID:oNOYk5Rc(26/36) AAS
そして日本は反乱終息後も改革勢力からの駐兵要求があったので、日本軍の駐留を続けた。
しかも清国も軍の駐留を続行し、この状態は1894年(明治27年)、日清戦争の勃発に繋がることとなった。

この戦争に勝利した日本は、清国との間に下関条約を締結し、朝鮮が自主独立国であることを認めさせることにより、
日本の権益の障害となる朝鮮半島への清国の影響力を排除することに成功した。

日清戦争直後の朝鮮では、日本を後ろ盾とする改革派の勢いが強まったものの、
その後日本が西洋列強による三国干渉に屈したことで、
朝鮮王室は列強同士の相互牽制による独立維持を目指し、ロシアに接近した。

そうなると日本は黙って見過ごす訳には行かなくなり、日露戦争の勃発を招き、
これに勝利した日本による朝鮮の保護化が強行されることとなった。

1905年11月の第二次日韓協約の締結により、大韓帝国の外交権がほぼ日本に帰すこととなり、事実上この国は日本の保護国となった。
省6
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