[過去ログ] 【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)29【ダメ工作員】 (373レス)
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348: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/11(日)08:35 ID:MhMA6OGa0(55/80) AAS
de6.0では、携帯電話などで使われていた絵文字も追加され
たが、その中に「MOUNTFUJI」として富士山も含まれて
エムゾネいる。続けられている。これは「近江の土を掘り富士山を
作りその穴が琵琶湖になった」という伝説からである。富士山頂
の湧水を琵琶湖へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を
富士山頂へ注ぐことを「お水取り」という[82][83]。2
0エムゾネ14年には日本富士山協会と中華民国山岳協会との間で
、富士山と玉山の友好山提携が締結されている[84]。標高3
,952メートルの玉山は台湾の日本統治時代に新高山と呼ばれ
、日本の最高峰であった。その他[編集]他山の標高[編集]玉
省18
349: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/11(日)08:41 ID:MhMA6OGa0(56/80) AAS
在地No.所在地座標計測位置緯度経度A静岡県(富士宮市・富
士市・裾野市・御殿場市・小山町)山梨県(富士吉田市・身延町
・鳴沢村・富士エムゾネ河口湖町)県境未確定地富士山(山頂剣ヶ
峰)資産範囲及び緩衝地帯の範囲図資産と緩衝地帯の位置及び範
囲を示す図面、並びに資産近傍における法的保護区分を示す図面
は以下のとおりである。f)資産面積及び緩衝地帯の面積各構成
資産の面積及びそエムゾネの緩衝地帯の面積、資産の総面積及びそ
の緩衝地帯の総面積については、以下に記すとおりである。構成
資産面積:緩衝地帯面積:合計:No.構成資産の面積(ha)
緩衝地帯の面積(ha)合計説明a)資産の説明1)資産全体の
省18
350: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/11(日)08:47 ID:MhMA6OGa0(57/80) AAS
ーデ型の山容を形成しながら、山頂を中心として約15〜20k
m(最大約30km)の範囲に広がった。山麓には数多くの風穴
・溶岩樹型等の地形が見られ、エムゾネ溶岩流の末端部では富士山
の中腹以上への降水を起源とする豊富な湧水(日量約450〜6
80万t、現在最大の湧水は日量約100万tの柿田川)が見ら
れる。富士山北麓ではこれらの湧水や降水を起源とする湖沼が点
在している。上記のような自然的エムゾネ環境を持つ富士山は、
351: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/11(日)08:53 ID:MhMA6OGa0(58/80) AAS
来自然物、特に山岳に対する信仰の伝統を持っていた日本人に畏
敬の念を抱かせ、日本における様々な宗教の融合した信仰の対象
とされた。遥拝や山中での修行のみならず、神仏の在所と考えら
れた山頂への登山という宗教行為がエムゾネ一般化するとともに、
山体及び山麓周辺に神社などの宗教施設や風穴・湧水といった自
然物・自然現象を起源とする霊地・巡礼地が設けられ、登山のた
めの道や施設及びそれを支援する包括的なシステムが作られた。
標高約2500m付近の森林限界よりエムゾネ上方は富士講(富士
山信仰の集団の一つ)信者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域な
いし他界(死後世界)と考えられていた。北麓地域ではさらに、
省18
352: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/11(日)08:59 ID:MhMA6OGa0(59/80) AAS
呼び、富士山の範囲とみなす地域もあった。景観的には山体の傾
斜角の変化率が大きくなり「平野部」と「山体」の境界として認
識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの対象とされることが
多い範囲である。2)資産の構成推薦資産は、日本エムゾネ列島の
ほぼ中央に位置する富士山体と、周辺の浅間神社や御師住宅、霊
地・巡礼地である風穴・溶岩樹型・湖沼、芸術作品の視点場(又
は舞台)となった地点から構成される。富士山体の中には山頂信
仰遺跡や登山道などの重要な要素が含まれている。こエムゾネれら
の構成資産が一体となった推薦資産「富士山」は、山に対する固
有の文化的伝統を表す物証であり、山と人間との精神的な関係を
省18
353: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/11(日)09:06 ID:MhMA6OGa0(60/80) AAS
エムゾネ鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本栖湖や三保松
原は、何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地や富士山を描
く典型的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展
望地点である。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つであ
るエムゾネ「馬返」以上に該当する標高1500m以上の区域でも
あり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より
上方、富士山本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を1
0区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約320
0〜エムゾネ3375m)以上と、山頂に近づくほどより強い神聖
性を持つと認識されてきた。A富士山(富士山体)A1山頂信仰
省18
354: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/11(日)09:11 ID:MhMA6OGa0(61/80) AAS
浅間神社(後のエムゾネ富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には
北麓にも噴火を鎮めるための神社が祭祀された。11世紀後半の
噴火を最後に火山活動が休止期に入ると、富士山を舞台とする修
験の活動が活発化し始め、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨
士御室浅間神社へエムゾネと発展していった。登拝の大衆化に伴っ
て、須山浅間神社や富士浅間神社(須走浅間神社)8など、登山
口の起点にも浅間神社が建立されるようになる。なかでも、北
355: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/11(日)09:17 ID:MhMA6OGa0(62/80) AAS
本宮冨士浅間神社は、江戸を中心に流行した富士講によって大い
に利用された吉田口エムゾネ登山道の起点であったが、その北には
、富士講徒の案内し、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅が今
も残されている。B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3
村山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神社(須走浅間神社
)A6北口本宮冨士浅エムゾネ間神社B8御師住宅B6河口浅間神
社B7冨士御室浅間神社(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地・
巡礼地となった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀後半から
爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山に登る
だけでなく、いわばオプエムゾネショナル・ツアーのごとく周辺の
省18
356: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/11(日)09:24 ID:MhMA6OGa0(63/80) AAS
上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた
森林限界より上方、富士山本宮浅間エムゾネ大社の境内地とされた
八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに
異なり標高約3200〜3375m)以上と、山頂に近づくほど
より強い神聖性を持つと認識されてきた。八合目以上は、177
9年以降、富士山本宮浅間大社の境内エムゾネ地とされたが、この
理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と呼び宗教
的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰
に基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講信
者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼エムゾネ山」と呼ばれ、神
省18
357: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/11(日)09:31 ID:MhMA6OGa0(64/80) AAS
の宗教的施設は、12世紀中ごろ修行僧末代により建立された施
設(後の大日堂)が最初とされ、その後、経典(1エムゾネ2世紀
末〜13世紀前半と推定されるものが最古)・懸仏(1482年
の銘のあるものが最古)・仏像等(1302年の銘があるものが
最古)の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が行われた。また
、遅くとも17世紀には、大宮・村山口山頂部に大日エムゾネ堂(
現在は富士山本宮奥宮が所在)が、吉田・須走口山頂部に薬師堂
(現在の久須志神社)が造営された。1874年、山頂の仏教的
施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピークの名称
も変更され、寺院は神社に改変された。しかし、山頂部エムゾネに
省18
358: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/11(日)09:37 ID:MhMA6OGa0(65/80) AAS
を経由しない新道が建設されたため、大宮から現在の六合目(標
高2600m)までは登山道としての機能を失った。この区間は
一エムゾネ部除き登山道跡の推定は困難な状態である。現在は19
70年に標高2400m地点まで開通した自動車道を利用しての
登山が行われている。(推薦範囲は六合目以上である。)A3.
須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東
部にエムゾネ至る登山道である。その起源は明確ではないが、文
359: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/11(日)09:42 ID:MhMA6OGa0(66/80) AAS
資料の中で1486年にその存在が確認できる。登山道および山
頂部銀明水は須山浅間神社及びその所在地の須山村(現裾野市須
山)により管理されていた。また、登山道のいくつかの宗教施設
は村山エムゾネの修験者の行場(参拝所)としても使用された。道
者については詳しい研究が進んでいないが、1800年(御縁年
:富士山出現伝説に由来する60年に1回の記念の年)に約5,
400人、1840年代前半は年平均約1,700人、1860
年(御縁エムゾネ年)は約3,600人であった。1883年、須
山口二合八勺(標高2050m)に接続する御殿場口登山道が開
削され、1889年、東海道本線開通による御殿場口利便性の向
省18
360: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/11(日)09:48 ID:MhMA6OGa0(67/80) AAS
れた参詣の流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御縁年
に23,700人とピークを迎えた。1959年、バス道路の完
成により、新五合目(標高約2000m)以下の登山道の利用は
ほとんどなくなり、一エムゾネ部道としての確認ができない区間が
ある。(推薦範囲は現在も利用されている新五合目以上である。
)A5.吉田口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山
頂東部を目指す道である。15世紀には、富士山への登拝が、修
験者だけでなく、ごく一エムゾネ般の人々の間にも広まっていた。
吉田口は14世紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、
大勢の人々が登るための設備が整うようになった。16世紀から
省18
361: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/11(日)09:55 ID:MhMA6OGa0(68/80) AAS
その後、1561年に現在の東宮本殿、1594年に西宮本殿、
1615年には本殿が建立された。富士講とのつながりが強く、
1730年代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境
内の建造物群の修復工事が行われ、現エムゾネ在にみる境内の景観
の礎が形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の本殿に唐
破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰組をもって
支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本殿・西宮
本殿はともに桧皮葺・一間社流造であるエムゾネ。3本殿とも、各
部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して、それぞれ
の時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮冨士浅間神社
省18
362: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/11(日)10:00 ID:MhMA6OGa0(69/80) AAS
よって行われたが、長谷川角行の水行からいつの時代も変わらず
巡拝の対象として数えられたのが、後述の山中湖及び河口湖とこ
の3湖である。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆか
りが深い。12特に本栖湖は、日本の紙幣の図柄としエムゾネて何
度も使用された写真の撮影地点であり、重要な展望地点(vie
wpoint)である。富士山は、プロ・アマ問わず多くの写真
家に愛され、撮影されてきた。なかでも、生涯にわたり富士山
363: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/11(日)10:07 ID:MhMA6OGa0(70/80) AAS
追い続けた岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西エムゾネ岸
の峠道から撮影された「湖畔の春」という写真は有名である。こ
の写真は、1984年に採用された五千円札及び2004年に採
用された千円札の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広
がり一体の景観を構成している本栖湖からの展望は、「湖エムゾネ
畔の春」に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残してい
る。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下に名勝として
指定される予定。B1.富士山本宮浅間大社説明社記によれば8
06年に、富士山により近い遥拝所であった山宮浅間神社かエムゾ
ネら現在の地に移転されたことを起源とする神社で、古くから富
省18
364: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/11(日)10:14 ID:MhMA6OGa0(71/80) AAS
る説が有力である。なお湧玉池は、浅間大社内に所在する富士山
の湧水エムゾネを起源とする池である。16世紀前後、湧玉池は浅
間大社により道者が身を清める場と位置づけられたとされ、同時
期の絵図や旅行記でその様子が確認できる。この水垢離は192
0〜30年代まで行われた。現在でも湧水を聖なる水として利用
する人がエムゾネ多くいる。法的保護、修理・整備の経緯1907
年に本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定された。1
923〜26年に本殿・拝殿・楼門等の補修が行われた。192
9年の国宝保存法制定に伴い、本殿は国宝とされた。1933〜
34年に楼エムゾネ門の修理を行った。1936年に袖廊・廻廊を
省18
365: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/11(日)10:20 ID:MhMA6OGa0(72/80) AAS
して里へ降りるという解釈がある。この行事は1874年まで行
われていた。なお、「エムゾネ山宮御神幸」に使用される経路を御
神幸道という。道には1691年に置かれた距離を示す石碑が少
なくとも四箇所残っているが、正確な道筋は現在確認されていな
い。法的保護、修理・整備の経緯1985年に富士宮市の史跡に
指定される。文化財保護エムゾネ法の下に他の文化財とともに史跡
富士山として指定される予定。B3.村山浅間神社説明12世紀
前半から中ごろの修行僧末代の活動が創建の起源とされており、
1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設として興法寺
(富士山興法寺または村山エムゾネ興法寺)と呼ばれていた(資産
省18
366: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/11(日)10:26 ID:MhMA6OGa0(73/80) AAS
とともに史跡富士山として指定される予定。14B5.富士浅間
神社(須走浅間神社)説明社伝では8エムゾネ07年に社殿を造営
したとされ、須走口登山道の起点となった神社である。16世紀
には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部の散銭取得権の
一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火で崩壊し1718
年に再建された。この後もこの際の部材エムゾネを使用し、200
9年の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。神社には
367: (ワッチョイ 460c-i6Og) 2018/02/11(日)10:33 ID:MhMA6OGa0(74/80) AAS
士講道者が多く立ち寄り、20世紀前半を中心に登拝回数の達成
(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約80基造営した。法
的保護、修理・整備の経緯2006年に社エムゾネ殿が小山町の有
形文化財となる。2009年に本殿・参道の修理が行われた。文
化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定され
る予定。B6.河口浅間神社説明古くから富士山に関わる祭祀は
南麓の浅間神社が執り行っていたが、864エムゾネ〜866年に
北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも浅間神社が建てられるこ
ととなった。それが、富士山を望む河口湖の北岸にあり、溶岩の
届かなかった河口浅間神社である可能性が高い。浅間神社を中心
省18
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