[過去ログ] 【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践17 (1002レス)
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699: 桃太郎 2019/08/15(木)11:38 ID:Fs2XT/6k(4/12) AAS
<水野 弘元>
日本のパーリ語仏教(原始仏教)の研究者、僧侶。駒澤大学総長を務めた。
同大名誉教授、東京大学文学部教授。文学博士(東京大学)、インドナーランダ大学名誉文学博士。

◆シリーズ(笑 
大乗と小乗の違い<一部抜粋>

ここでは水野弘元博士が、いわゆるアビダルマ仏教と初期大乗仏教との相違点として六つを挙げる。

@まず第一に、

小乗部派仏教が「阿羅漢」になることを目的とした声聞思想(声聞乗)であったのに対し、
大乗仏教は「菩薩」の修行・実践によって成仏をめざす菩薩思想(菩薩乗)であった
省9
700
(2): 2019/08/15(木)11:39 ID:Fs2XT/6k(5/12) AAS
「菩薩」

ナーガールジュナ(竜樹)の作とされる『大智度論』には、次のようにあります。
「菩薩の心は、自らを利し他を利するが故に、一切衆生を度するが故に、一切の法の実性を知るが故に、
阿耨多羅三藐三菩提の道を行ずるが故に、一切賢聖のために称讃せられるが故に、是れを菩提薩捶と名づく」

『大智度論』には、また菩薩の資格について次のように書かれている。
「大誓願あり、心動かす可からず、精進して退かず。是の三事を以て、名づけて菩提薩捶となす」
 すなわち、一切衆生を救おうとする大願と、不動の決意と、勇猛精進の三条件がそろって、初めて大乗の菩薩といわれること。

簡単に言うと、阿羅漢よりも遙かに高い境涯といえるね。

−−−−−−−−−−
省14
701: 2019/08/15(木)11:42 ID:Fs2XT/6k(6/12) AAS
水野博士の挙げる B第三の違いは、

アビダルマ仏教が自己一人の完成のために修養努力する自利主義(小乗)であったのに対して、
初期大乗教徒は一切衆生を救済し、社会全体を浄化向上せしめる利他主義(大乗)であった、とするものです。

「小乗」というのは、大乗教徒がアビダルマ仏教を指して呼んだものだけれども、その呼び方に両者の違いが的確に表現されている。
部派仏教の側は「大乗非仏説」論を展開して対抗したけれども、もはや大乗興起の潮流を押しとどめることはできなかった。

やがて部派仏教側の僧侶も、続々と大乗教団に投じて、そこに一種のなだれ現象が生じた。

−−−−−−−−−−−−−−
C第四点として、
省8
702: 2019/08/15(木)11:42 ID:Fs2XT/6k(7/12) AAS
D第五は

前者が理論的(小乗)であったのに対し、後者は実践的(大乗)であった、としています。

釈迦の開いた仏教というものは、理論や学問として出発したのではない。

当時の思想界にあって、釈迦はバラモン階級が理論のための理論、学問のための学問になりさがっでいたのを批判して、
それを超克するために民衆のなかに入っていった。

ところがアビダルマ仏教は、釈迦が批判したバラモン階級と同じように理論的になり、民衆教化の実践活動を忘れてしまった。
省12
703: 桃太郎 2019/08/15(木)11:45 ID:Fs2XT/6k(8/12) AAS
最後に

この時代に原始仏教にはない新しい傾向として、釈迦が前世に菩薩であった時代の修行過程を描いた「ジャータカ」(本生譚)や、
仏弟子や敬度な信者に関する物語である「アヴアダーナ」が、盛んに作られている。

ということは、僧院にこもってアビダルマ研究に専念する僧侶とは別に、仏教の物語を一般民衆に語り伝える比丘がいたのではないか、とされているわけです。

ちょうどそのころは、バラモン勢力からの影響もあって、部派仏教の教団は経典のサンスクリット化を進めていたわけですが、これは釈迦が生前に禁じていたことです。

つまり釈迦は、仏法が特権階級の専有物ではなく、広く一般大衆にも開かれたものであるとして、各地の巡行にあたっても、
平易なプラークリット(俗語)で語りかけた。
省1
704: 2019/08/15(木)13:57 ID:g5jNfyHb(1/2) AAS
比丘集団のなかには、禅定波羅蜜の修行を積んでいる菩薩も沢山まじってると思いますけどね。
わたしは人より上だ、というような慢心があるうちは、まだまだ菩薩道はほど遠いんじゃないでしょうか。
705
(1): 2019/08/15(木)13:59 ID:g5jNfyHb(2/2) AAS
モモなんとかさんの仏教観は非常に観念的で、実体験に基づくものが感じられない。
706
(1): 2019/08/15(木)14:38 ID:vbIb+KWS(1/6) AAS

>>697 桃太郎 ID:Fs2XT/6k師匠へ
>名称・形態

たとえば
ウパニシャッドとかの
名称・形態

 − これに対しての −

スッタニパータ 872
名称と形態とに依って感官による接触が起る
(無明に依存している.欲求.我執という縁起の)
省12
707: 2019/08/15(木)14:39 ID:A7fqwK2w(1) AAS
桃さんは預流、一来、不還、阿羅漢の何処にいるの?
708: 2019/08/15(木)15:05 ID:vbIb+KWS(2/6) AAS

>>706の訂正
×解脱智見たかを目指さない人には…
○解脱智見とかを目指さない人には…
  _  _  _

信教の自由で
その人それぞれなので
世俗よりの法華経とかを貶めるつもりはないけど
とりあえず
外部リンク[htm]:www.horakuji.com
省10
709: 2019/08/15(木)16:18 ID:vbIb+KWS(3/6) AAS
>>700 桃太郎 ID:Fs2XT/6k師匠へ
>業報思想(小乗)は業報輪廻の苦を離れようとする

上座部とか
説一切有部とかの分析を取り入れるようになった
大乗の唯識とかの場合は

外部リンク:reigaku.jugem.jp
瑜伽師地論(ゆがしじろん)
人間がまさに死するときに
過去の輪廻に於いて長い間経験され蓄積された『我愛』が現起し
その力により促されて自己に愛着・執着し、無始無終に続いてきた
省20
710
(1): 2019/08/15(木)16:34 ID:MU1c70Ej(1/2) AAS
大乗経典の中には、阿羅漢は菩薩と変わることがない、
その気になればいつでも成仏できる、と書いてあるのがあるようなんだけど、
これについて桃太郎はどう思うんだろう。
この経典の解釈は間違いだと考えるんだろうか。
711: 2019/08/15(木)17:21 ID:MU1c70Ej(2/2) AAS
すいません、今確認したら間違ってました。
阿羅漢は如来と異なることがないということのようです。
阿羅漢未満の聖者は、それぞれ性質の異なる菩薩ということのようです。
涅槃経にこのように書いてあるとのこと。
712: 2019/08/15(木)17:39 ID:vbIb+KWS(4/6) AAS
 
自分の場合は
一応テラワダも肯定だけど.とりあえず

通常?一般的には?
外部リンク[html]:hobbytimes.jp
「もうお釈迦様は別格」との考えが生まれて
部派仏教においては僧侶の最高位とされました
お釈迦様は仏陀、悟りを開いた者と名が変わります
そして、「皆阿羅漢にはなれるけど、仏陀にはなれない」との考えに至るのです
何故お釈迦様だけが別扱いかと言えば、自力で解脱(最高級の悟り)に至った為
省10
713: 2019/08/15(木)18:16 ID:vbIb+KWS(5/6) AAS
 
>阿羅漢は如来と異なることがない

ご教示ありがとうおじゃります m(_ _)m

外部リンク:ja.wikipedia.org
釈迦の異名ともされる.如来十号
如来 − 無住処涅槃
応供 − 阿羅漢とも訳される
仏世尊 −
煩悩を滅し、無明を断尽し
自ら悟り、他者を悟らせる者
省1
714: 桃太郎 2019/08/15(木)22:03 ID:Fs2XT/6k(9/12) AAS
>>710

私は、どちらかと言うと

「悪業」の清算について

※手放して滅して逝くって簡単に言ってるけど(笑
※(今世の修行で)出来なかったらどうなるの?(笑 

という答えを聞きたかったのだが...。
省11
715
(1): 2019/08/15(木)22:27 ID:vbIb+KWS(6/6) AAS

>(今世の修行で)出来なかったらどうなるの?

外部リンク:ja.wikipedia.org
四向四果
預流
聖者の流れに入ることで
欲界の人と天の間を最大 7回生まれかわれば悟りを開くとされている
716
(1): 桃太郎 2019/08/15(木)23:01 ID:Fs2XT/6k(10/12) AAS
>>705

>モモなんとかさんの仏教観は非常に観念的で、実体験に基づくものが感じられない。

「モモなんとかさん」ってオイ!

ひどいよ。(爆笑

どこが観念的なんだよ!
観念的な宗教ならば、創価学会の日蓮仏法がこれほど世界的に発展することはないでしょう。
逆に実践的だし行動的です。
外部リンク[html]:www.sokanet.jp
省11
717: 桃太郎 2019/08/15(木)23:02 ID:Fs2XT/6k(11/12) AAS
だから、創価学会の方々は朝夕「南無妙法蓮華経」を唱え、社会の中でこの法を弘め(広宣流布)、世界の平和の為に貢献しているのです。
まさに水野博士の言う「自ら誓願して悪趣苦界に赴き、一切衆生の苦を我が身に受けようとする。」菩薩の振る舞いです。

ほら、ぜんぜん、観念的じゃないでしょう。
観念的な宗教は批判もされなければ、賞賛もされないのです。
世界の平和学者からも相手にされない。

正しい宗教、正しい思想哲学は必ず心ない批判を浴びる。これはもう世界の歴史をみれば仕方のないことです。
法華経にも末法に正法(法華経)を弘めることが如何に困難か「六難九易」の喩えで説かれてあります。

だから、大抵は「創価学会」という属性だけで、低レベルの批判を浴びる。
日蓮大聖人の時代もそうでした。大聖人ほど迫害にあった僧侶はいない。
釈尊在世もそうでした。(九横の大難)まさに不軽菩薩の如しです。
省6
718: 桃太郎 2019/08/15(木)23:14 ID:Fs2XT/6k(12/12) AAS
>>715

ふ〜ん。

じゃ「聖者の流れに入る 」って何をもって判断するの?

だれが判断するの?

パソコンでネットしている私や君のような人でも「聖者」になれるの?
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